著者
金田 茂裕
出版者
東洋大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2007

本研究課題では,算数1年の減法の求残・求補・求差の場面理解,および,2年の乗法の被乗数と乗数に対する理解に焦点をあて,算数作問の認知過程とその難しさを明らかにした。さらに,算数の教科書に掲載されている作問課題の種類・特徴を明らかにし,算数作問の教育的効果として何が期待されているかを明らかにし,教材の種類・配列順序・新しい教材の開発・指導方法の教育実践のこれからのあり方を提案した。
著者
小池 辰典
出版者
東洋大学
巻号頁・発行日
2022-03-25

2021
著者
西山 茂
出版者
東洋大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1990

補助金交付期間に得られた研究成果の概要は、以下の通りである。(1)生野区にいる在日韓国・朝鮮人(以下、在日という)の葬儀の約90%が日本仏教寺院で行なわれているが、そうした寺は彼等にとって便宜的な葬儀の場以上の意味をもっていない。また、生野区の日本仏教寺院の82%が在日の葬儀を経験しているが、寺が葬儀を引き受ける動機の多くは経済的なものである。さらに、寺での在日の一般的な葬儀の形態は儒教式(韓国・朝鮮式)と仏教式(日本式)の折裏である。(2)生野区にいる在日の殆どは、町内会を通して自動的に神社の氏子となって神社への寄付もしているが、役員となって神社の意志決定に参画する機会は殆ど与えられていない。ただし、在日の多くは、初詣や祭りの時に神社に参拝するだけでなく、七五三や結婚式、さらには地鎮祭や上棟式のお祓いなどを神社に依頼したりもする。また、祭礼時の地車曳行や獅子舞いには在日の子弟が数多く参加し、それが大人になっても懐かしいふるさとの思い出となっているという。(3)生野区には比較的多くの在日信者を含む創価学会(推定で3300名前後)、崇教真光(推定で1000名前後)、天理教(140名)などの新宗教がある。これらの新宗教の在日信者の割合は、創価学会と崇教真光が約三分の一、天理教の場合は2.5%である。また、切宗教諸教団のなかでは比較的歴史の浅い新宗教のほうが在日の信者が多く、同一の新宗教教団のなかでは指導者が在日で信者のなかにも多くの在日があるような教会などに在日の信者が集中する傾向がある。
著者
鈴木 道也
出版者
東洋大学
雑誌
東洋大学文学部紀要. 史学科篇 (ISSN:03859495)
巻号頁・発行日
no.42, pp.192(39)-160(71), 2016
著者
宇都宮 京子 稲木 哲郎 北條 英勝 佐藤 壮広 横山 寿世理
出版者
東洋大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2004

本研究の目的は、「初詣をする」、「豆まきをする」など無宗教を自認する日本人によっても行われ、伝統的な宗教や慣習との関連で説明されてきた多くの行為を、「呪術」的要素と関係づけて説明するということであった。その際、この「呪術」的要素を前近代の残滓として扱うのではなく、「近代的思惟や近代諸学の視点(「世俗化」論や「呪術からの解放」論)においては看過されてきた諸問題を可視化させる装置」として位置づけたところに本研究の特徴がある。具体的手順としては、まず平成16年度は、沖縄において、民間巫者のユタの存在に注目しながら現代社会になお残っている呪術的要素の実態を主にインタビュー調査を通して確認した。次に平成17年度は、その結果得られた視点を生かしつつ、「呪術的なるもの」という概念を作成し、東京都23区在住者を対象に社会意識調査を行った(1200票配布、回収調査票数724票、回収率60.3%(サンプル数比))。平成18年度は、過去2年間の研究成果や調査データの理論的かつ実証的に分析・検討した。その結果、東京都23区調査の結果として以下のような諸見解を得た。まず、呪術的なものに親和性を示す人々は、伝統的なものを守るという保守的な面も持ち合わせるが、ただ因習に従って堪え忍ぶといった消極的で受け身的な傾向は弱く、むしろ、幸せと身の安全のためにはあらゆる知識や方法を活用する傾向が強い。また、「高齢者の方により呪術否定的な傾向が見られがちである」、「現状に満足している人ほど呪術肯定的である」、「男性よりも女性の方が呪術肯定的である」など、呪術的なものをめぐる人々の態度には、従来の人間観では説明できない一定の特徴があることが分かった。以上、このような諸傾向を説明するには、科学的=合理的=脱呪術的=自立した近代的人間という従来からの図式を超える新しい図式が必要であることが確認された。
著者
堀越 宏一
出版者
東洋大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

10世紀末から北フランスで建設が始まった初期の石造城砦を調査・研究の対象として、その生成の過程と、城が有していた社会機能を多角的に明らかにした。そこでは、古代ローマの建築様式の影響を受けて建てられた最初期の方形の天守塔が、城砦としての防衛機能を追求した結果、13世紀初頭までに、円筒形天守塔(「フィリップ式天守塔」)となり中世的頂点を迎えた。しかし、城の完成とその結果としての統治の安定の結果、円筒形天守塔に欠けていた居住性を求めて、統治のための公的空間である大広間と城主の居住空間は、城壁に内接する方形の館に移ることとなった。天守塔には、政治的象徴性だけが遺されることとなる。中世の城は、個々の城の軍事的機能と政治ないし統治機能の必要性に応じて、多様な形状を取ることになるのである。