著者
西郷 英樹
出版者
関西外国語大学
雑誌
関西外国語大学留学生別科日本語教育論集 (ISSN:24324574)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.89-114, 2011

終助詞「ね」及び「よ」は日本語教育の文法項目として広く認知されているが、その複合体である「よね」の日本語教科書での扱いは不十分で、改善の余地が大いにあると言える。本稿ではまず日本語教科書の中での「よね」の扱いに関する調査結果を報告し、後半で「よね」の意味機能が説明されない現状、言いかえれば、「よね」が文法項目として扱われない現状がどのような理由に起因しているのか思索した。
著者
丹下 和彦
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.87-99, 2012-03

小論はエウリピデスの悲劇『フェニキアの女たち』の作品論である。本篇の上演年代は不明であるが、作者晩年のものと見なされている。古代から人気作品として知られているが、それが作品の完成度と必ずしも一致しない。劇は冒頭から最後に至るまでテバイ攻防戦を巡る各場面が連続してパノラマ的に展開するが、それらを繋ぐ統一的なテーマが見つからない。同時上演の他の作品との関連から、息子たちに対するオイディプスの呪いをそのテーマに擬する説もあるが、小論はそれを採らない。また劇の初めと終わりに登場するアンティゴネ像に人間的成長を認めて、それを本篇の意義と捉える説も採らない。論者は、本篇は互いに内的関係に乏しい、そして統一的テーマに欠ける各場面のパノラマ的展開の劇であり、その展開の妙こそが人気の源であったとする。
著者
山森 靖人
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.121-138, 2015-03

1960年代、ウィチョール族(huichol)のシャーマンが描くサイケデリックな「抽象画」の芸術性が認知され、それと同調し、ウィチョール族民芸品の製作販売が始まる。現在、民芸品の製作販売は、彼らの重要な現金収入源となった印象を受ける。 しかし、Torres Contreras は、ウィチョール族の生産活動についての研究は少ないと指摘する(33)。彼らの民芸品についても、その概説やそこに表出された彼らの世界観を紹介・解説する著作は散見されるが、製作販売の現状に関する調査研究はほとんど行われていない。NahmadSittón による1970年代の状況に関する論考が見られるだけである(150-157)。 本稿では、現地調査により収集した情報に基づき、ウィチョール族の民芸品販売の現状を報告する。さらに、ウィチョール族にとって、現在の民芸品販売の「流行」がどのような意味をもつものであるのかを考察する。
著者
菊川 丞
出版者
関西外国語大学
雑誌
関西外国語大学研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
no.55, pp.p153-165, 1992-01
著者
相原 里美
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.93, pp.21-39, 2011-03

丁玲は、1941年に短編小説『夜』を発表した。この物語の舞台は、共産党の根拠地であった延安解放区の川口(チュアンコウ)という農村で、主人公は共産党の指導員になったばかりの何華明という農民の男である。その他、地主の娘清子チンズ、十二歳年上の妻、共産党女性幹部の侯桂英の三人の女性が登場する。物語は、二章構成で、何華明が牛の出産のために自宅に戻った一夜の出来事について描かれている。当時は抗日戦争の只中であり、共産党員である丁玲としては、創作活動を通して、抗日を声高に謳わなければならなかった。しかし、女性解放を目指す文学者としての丁玲は、人々の意識下に潜む旧態依然とした封建的意識を看過することはできなかった。本稿では、「覚醒」したばかりの何華明や三人の女性を通して描かれる、共産党員丁玲の女性解放や文学者としての思想的苦悶に迫りたい。
著者
丹下 和彦
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.97, pp.111-123, 2013-03

本篇は、古来作者以外の人間の手になる改竄の痕が著しいと見なされ、現代に至るまで多様なテクスト校訂の対象となっている。しかしディグル校訂のOCT版を底本とする本稿は底本の示すところを対象とする作品解釈を専らとし、テクスト校訂の問題には立ち入らない。 本篇には一貫した人物像を結べない登場人物が多い。とつぜん変心するメネラオス、曖昧な言動に終始するアキレウス、さらには直前まで死を厭う姿を見せながらとつぜん変心して犠牲死を受け入れるイピゲネイアがそれである。これは作者の人物造形力の弛緩と、その結果としての人物像の破綻であるとしか言いようがない。ただイピゲネイアの「決心」は、そうした人物像や劇の問題点を一挙に解消する力を持っており、またそれと同時に劇にエンターテインメント性を付与する役割を果たしている。
著者
王 峰
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.41-51, 2015-03

本文は現代中国語形容詞の「量の増減」を表すと言う功能をはじめとして、比較の基準や表量のレベルシステムの二つの方面の調査から、作者が「量の増減」を表すのは形容詞の重ね型の主要な功能ではないと結論した。コーパスの分析を通して、現代中国語単音節形容詞の重ね型AA式はカテゴリーの中の理想的なメンバーと密接に連係しているのを発見した。動作行為と関连する時、それは図式として存在する。このために、人々がその形式と関連する物事を理解する時、ゲシュタルト心理が発生する。この言語形式に対応するのはある認識上の繰り返しである。文末には、この形式の教授法について、少々の参考意見を述べてみた。
著者
相原里美
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.135-152, 2014-09

丁玲は1929年初めに短編小説『慶雲里の小部で』を発表した。この物語には、阿英という妓女の一日の生活や内面世界、妓楼での人間模様が詳細に描かれている。ここには、当時の妓女を主人公にした小説としては珍しく、女性の悲壮感や絶望感、あるいは娼妓制度への憤りなどが前面に描かれているわけではない。むしろ、阿英は妓楼での生活に満足しているかのようにさえ描かれている。その一方で、阿英は故郷の陳老三のことを思い出し、彼の元へ帰ることを何度も夢想するのだが、結局妓楼に残って妓女として働くことを選択する。本稿では、阿英を通して語られる女性の内面世界から、中国女性の近代的自我形成と性についての分析を試みたい。
著者
Fedorowicz Steven C.
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.55-70, 2013-09

This essay provides an" ethnography of ethnography" through investigating and advocating certain research methodologies referred to as "Gonzo Anthropology." Ethnography is viewed as a process entailing both actual research, especially participant observation, and discourse, i.e. some form of cultural representation. In this way the ethnographic process can be seen as a form of cultural performance; the ethnographer is an actor, director, recorder of events, writer, artist and audience all in one. These ideas will be explored through an analysis of the work ofHunter S. Thompson, the founder of gonzo methods. The application of performance theory will be illustrated through brief cultural descriptions of Hare Krishnas and deaf people in Japan. This essay is a product of years of study, application, consideration and reconsiderations ofethnographic research that aims to provide important, relevant and interestingdialogue for multiple and multivocal actors and audiences.
著者
山本 和子
出版者
関西外国語大学
雑誌
研究論集 (ISSN:03881067)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.57-75, 2008-03

蕭紅の後期の代表作とされる『胡蘭河伝』は1940年、香港で完成された。当時は日中戦争のさなかで、蕭紅の故郷東北は日本の占領下にあった。帰りたくとも帰れない状況のなか、蕭紅は遠く離れた故郷胡蘭での幼少期を振り返って、その「忘れがたい」光景を書き綴った。それが『胡蘭河伝』である。伝は物語の意。作品は全七章とエピローグから成り、各章はそれぞれ異なる物語で、短編としても十分に読み応えのあるものである。物語では、祖父と過ごした屈託ない日々のほのぼのとした情景が描かれる一方、因習や迷信に縛られた人々が元気な少女を死に追いやる残酷で哀しい情景も描かれている。作者は物語のなかで、愚昧な民衆が「無責任で無自覚な殺人集団」と化す深刻な問題を提起し、人間存在の不条理性を鮮明に描き出した。本稿では、『呼蘭河伝』の背景を探りながら、作者が意図したところ及び作品の魅力の所在に迫った。