著者
土屋 貴志 中川 恵子 常石 敬一 西山 勝夫 村岡 潔 岡田 麗江
出版者
大阪市立大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2005

1.十五年戦争期の医学研究事例に関する歴史的研究石井機関における医学研究の解明に関しては、常石が3回の訪米調査(ワシントンDC周辺)、土屋・中川[末永]・西山・岡田・刈田らが3回の訪中調査(ハルビン、藩陽、北京、長春、大連、太原)を実施し、それぞれ研究成果を著書、雑誌論文、および学会発表として公表した。また、石井機関の紀要『陸軍軍医学校防疫研究報告』第2部(復刻版、不二出版刊)のすべての掲載論文について抄録を作成するプロジェクトを、刈田が幹事長、西山が事務局長、土屋・中川[末永]が幹事、岡田・村岡が会員である「15年戦争と日本の医学医療研究会」のプロジェクトとして、研究協力者と共に実施し、全論文810本の抄録を完成させた。満州医科大学に関する研究に関しては、中川[末永]を中心に資料を分析し、その成果を学会発表および講演、雑誌論文、著書として公表した。以上の研究により、石井機関および大学における当時の医学研究の詳細な実態および広がりを確認できた。2.医学研究倫理学の原理の探究土屋と村岡を中心に、土屋が主宰する「医療倫理学研究会」において毎週輪読会を行い、倫理学的原理の本質と事例に対する役割に関する邦文図書7冊、英文図書4冊、英文論文8本を精読した。土屋と村岡はその成果を学会発表および雑誌論文として公表した。以上により、事例および語りを中心とする倫理学研究法の意義、医学研究論理全体の見取り図、および医学研究に関する主要な倫理学的原理の1つであるベルモント原理の歴史的意義、を確認し、今日の日本における医学研究の倫理学的原理を確定するための展望を得ることができた。

3 0 0 0 科学と社会

著者
長倉 三郎 高久 文麿 大島 泰郎 及川 昭文 常石 敬一 村上 陽一郎
出版者
(財)神奈川科学技術アカデミー
雑誌
創成的基礎研究費
巻号頁・発行日
2000

本研究は,平成8〜10年度に実施された文部科学省科学研究費補助金(創成的基礎研究費)「科学と社会-フィージビリティ・スタディー」に基づき,より具体的な調査研究を遂行するために企画,実施されたものである。具体的には,ほぼ月1回の頻度で開催した全体の班会議,研究テーマごとの分科会,アンケート調査,海外研究機関の実態調査,および報告書の作成などを行った。●全体班会議全体の班会議においては,「科学と社会」に関連したテーマで,1〜2名の分担者からの話題提供,学識者による講演を行い,それらに基づいて討議した。その内容は以下のようになる。「英国における科学と社会研究」松本三和夫(東京大学)「ヒトゲノム研究に関する基本原則」高久史麿(自治医科大学)「成立基盤から観る科学と社会」市川惇信(人事院)「私にとっての科学」小松左京(SF作家)「タスキーギ梅毒研究について」金森修(東京水産大学)「学校教育における科学教育と科学を教える教師の問題」木村捨雄(鳴門教育大学)●分科会次の4つの分科会に分かれ,それぞれのテーマについて調査研究を行った。(1)わが国における「科学と社会」研究の推進方策に関する調査研究・(2)力としての科学の知の発展と集積が人類社会に及ぼす影響(3)ゲノム科学革命の構造:その人間社会に及ぼす影響(4)矛盾容認社会における「科学と社会」(1)においては,(1)国内の大学などにおける「科学と社会」に関する教育・研究の実態を把握するためのアンケート調査,(2)米国大学における「社会と科学教育プログラム」の実態調査を行い,その結果を報告書としてまとめた。(2)においては,「知は力の基になる」という観点から,「科学とは何が」「知の持つ力とは何を意味するのか」「科学における光と影」「科学の将来」などについて討議し,その内容を報告書としてまとめた。(3)においては,「科学と社会」の今日的課題として「ゲノム問題」を取り上げ,「ゲノム科学革命の歴史的背景」「社会に直面する生命科学および科学者」「クローン問題」,および将来の課題としての「科学と社会センター構想」等について討議し,その内容を報告書としてまとめた。(4)においては,「科学という知の形式」「科学の知と無矛盾生」「矛盾に関する世界観」「矛盾否定社会における社会の維持と科学」「矛盾容認社会における知の形態と科学」などについて討議し,その内容を報告書としてまとめた。
著者
常石 敬一
出版者
神奈川大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1988

1988年度はアメリカ国立公文書館およびイギリスのパブリック・レコ-ド・オフィスにおいて収集した資料の分析、および旧日本軍の生物兵器部隊関係者の面接調査を主に行った。アメリカの資料によって、朝鮮戦争開始の数年前から、生物兵器の使用に積極的な集団が存在したことが明らかとなった。彼らはたとえ試験的であっても生物兵器を使用したい、すなわち屋外実験的なことだけでも是非行いたいと考えていたことが後づけられた。旧日本軍の生物兵器部隊関係者の面接調査においては、旧日本軍関係者に対するアメリカ占領軍の調査の状況を聞くことができ、それによってアメリカ側の関心が穀物・植物への生物・化学・毒素兵器の使用にあったことが推測できた。1989年度は、アメリカ国立公文書館において収集した資料の分析および旧日本軍の生物兵器部隊関係者の面接調査を主に行った。1989年夏に入手した資料を通じ、アメリカ軍が1944年から45年にかけて、報復のための化学兵器使用のシナリオを持っていたことが分かった。この時の準備状況を明確に把握することで、アメリカ軍がどんな準備の下で生物化学兵器を使用しようとするかが分かる。現在この時の準備状況と、アメリカ軍が朝鮮戦争時に生物兵器を使用したという非難前後の状況とを比較検討している。1947年のアメリカ軍の文書によれば、金沢で旧日本軍の人体実験標本を多数入手している。この真偽を確認するため、石井部隊から1944年に金沢医大に転任した医学者に関して面接調査を行い、確認した。
著者
常石 敬一
出版者
神奈川大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2001

本研究は旧日本陸軍における主に軍事秘密とされた研究の分析を通じて、陸軍科学研究所が発足した1921年から日本敗戦の1945年までの、科学技術研究の実態とその構造の解明を目的としている。2001年度から03年度までの3年間、主に生物兵器および化学兵器の研究開発の実態を中心にして資料収集および分析を行った。このうち化学兵器については、陸軍での生産が軌道に乗ると、民間に移して生産させるのが常であり、具体的な例としてはイペリット生産のためのエチレン製造技術が1930年代半ばには民間に移転されたし、さらにシアンの合成の技術も戦後、合成樹脂や合成繊維の製造に寄与しているといった事実が、軍の公文書や特許明細書によって確認できた。陸軍が民間に移転した技術は決して陸軍独自に全て開発したものではなく、諸外国から技術あるいは特許を導入し、それを日本国内で生産技術として実用化したものが中心だった。研究開始当初は軍と民との相互技術移転を想定していたが、軍の文書を見ている限りでは、軍から民への一方的な技術移転が大部分であった。これは戦後の官主導による研究開発組織である研究組合のプロトタイプと見ることが可能かもしれない。また文献調査上の成果としては、生物兵器開発については、その研究開発の中心だった陸軍軍医学校防疫研究室が発行していた「防疫研究報告第2部」について新たな発見があった。従来は本報告者が既に分析した約100部ほどしかその所在は不明であったが、1号から900号くらいまで刊行されていること、そのうちのほぼ800部についての所在確認を行うことができた。これは今後、分析を続けるが、旧日本軍内部のみならず、戦前の日本の医学研究のありようを明らかにする上で、重要な資料となることは間違いない。