著者
村岡 潔
出版者
佛教大学保健医療技術学部
雑誌
保健医療技術学部論集 (ISSN:18813259)
巻号頁・発行日
no.9, pp.13-22, 2015-03-01

本稿は,医学・医療の分野でよく用いられる「相関」と「因果」の観方について医学概論・医学哲学の立場からシリーズで考察する試論の第1 稿である.初回は特に,臨床の現場で医療者や患者・家族,あるいは一般市民の間の日常的言説に散見される通俗的因果論法の一つである「3 た論法」に焦点をあてて,相関と因果の観念concept から批判的検討を行なった. 第1 節では,相関と因果の観念について再確認しつつ,「因果」という観念のもたらす「相関」との乖離性や,因果性が従来の決定論的性向から近年で確率論的因果論に変遷しつつある点を指摘した.また,医学と自然科学との相違にも触れ,その違いは「原因」概念の有無によるものである点も強調した.第2 節では,第1 節を受けて,通俗的因果論で散見する「相関関係」即ち「因果関係」とみなしてしまうミスリーディングの陥穽について検討し,事象X から事象Y に至るメカニズムの明示が因果性の証明に重要であることを示唆した.第3 節では,「3た論法」のいくつかの事例の紹介とその因果論的問題点を指摘した.第4 節では,まとめとして「3 た論法」なる因果論の回避の方法を提示した.特にそのためには患者―医療者間の説明モデルの相違を調整する必要があることを示唆した.相関因果原因医学と科学た論法」
著者
土屋 貴志 中川 恵子 常石 敬一 西山 勝夫 村岡 潔 岡田 麗江
出版者
大阪市立大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2005

1.十五年戦争期の医学研究事例に関する歴史的研究石井機関における医学研究の解明に関しては、常石が3回の訪米調査(ワシントンDC周辺)、土屋・中川[末永]・西山・岡田・刈田らが3回の訪中調査(ハルビン、藩陽、北京、長春、大連、太原)を実施し、それぞれ研究成果を著書、雑誌論文、および学会発表として公表した。また、石井機関の紀要『陸軍軍医学校防疫研究報告』第2部(復刻版、不二出版刊)のすべての掲載論文について抄録を作成するプロジェクトを、刈田が幹事長、西山が事務局長、土屋・中川[末永]が幹事、岡田・村岡が会員である「15年戦争と日本の医学医療研究会」のプロジェクトとして、研究協力者と共に実施し、全論文810本の抄録を完成させた。満州医科大学に関する研究に関しては、中川[末永]を中心に資料を分析し、その成果を学会発表および講演、雑誌論文、著書として公表した。以上の研究により、石井機関および大学における当時の医学研究の詳細な実態および広がりを確認できた。2.医学研究倫理学の原理の探究土屋と村岡を中心に、土屋が主宰する「医療倫理学研究会」において毎週輪読会を行い、倫理学的原理の本質と事例に対する役割に関する邦文図書7冊、英文図書4冊、英文論文8本を精読した。土屋と村岡はその成果を学会発表および雑誌論文として公表した。以上により、事例および語りを中心とする倫理学研究法の意義、医学研究論理全体の見取り図、および医学研究に関する主要な倫理学的原理の1つであるベルモント原理の歴史的意義、を確認し、今日の日本における医学研究の倫理学的原理を確定するための展望を得ることができた。
著者
村岡 潔
出版者
佛教大学
雑誌
社会福祉学部論集 (ISSN:13493922)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.137-146, 2013-03-01

本稿は,筆者の造語である「隠謀学」についての最初のイントロダクションです。隠謀学は,この世の日常茶飯事に満ち溢れている数々の隠謀(プロット)を解読するための一種の論理学であり,行動科学であり,文化的解剖学(アナトミー)です。また,性善説で生きている人に対する性悪説の世界観からのツッコミであり,人生において駆け引き上手になるための手引きでもあります。例えば,「金儲けの話」「死ぬまで保障される保険」「骨董屋の店先の掘り出し物」「水子供養のための金の仏像」「健康食品」などのうまい話は,すべて隠謀の可能性を秘めているからです。むろん,隠謀学は,日常生活に隠された罠を見抜くためにこそあれ,逆に隠謀力を増進するためのものでもありません。本文では,事例を踏まえながら,隠謀主義の特徴である「錯覚化」「モデル化」「権威的錯覚化」「偶然化」などの作用について解説し,最後に簡単に脱隠謀化の処方箋を提示しました。
著者
村岡 潔
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.45-52, 2014-03-01

本稿は、イタリア語における2種類の2人称の使い分けの意味づけに関する文化人類学的試論です。その2種類とは、親称《tu》と敬称《Lei》で、語学テキストや文法書などでは前者の二人称は「君」と、後者の二人称は「あなた」と訳されています。そこには「君-あなた」という敬語が交わされる場が日本の場合と同じだと勘違いさせる危険性があるのです。つまり、私たちは、敬語と言えば、上下関係におかれた人間同士の間で使われる言葉で「尊敬語」と「謙譲語」の関係か、あるいは、普通の、あるいはゾンザイな言い方(「丁寧語」対「タメ語」)の関係かと思い込むであろうからです。このことは、日本語の上下関係を基軸とした垂直系の敬語法に対して、イタリア語の場合(欧米系の言語には多くみられる傾向がありますが)発話者と聞き手の間の文化社会的な距離の遠近に基づくプロクセミクス的な世界としての水平系の関係性という視点から見るべきものです。またそれは、We/They二分法という身内/他人の二分法にも対応しています。敬語法の水平性と垂直性の体系間は、それゆえに通訳不可能性とも解釈できます。しかし、筆者が大学のゼミで行っている垂直性の言語空間から水平性の言語空間にチャレンジするといった小規模な実験からは、日本語空間に慣れた学生も親称システムを模したやり方で、水平系にも変容可能な潜在能力を秘めていることが示唆されました。
著者
村岡 潔
出版者
佛教大学社会福祉学部
雑誌
社会福祉学部論集 (ISSN:13493922)
巻号頁・発行日
no.16, pp.65-77, 2020-03-01

本稿は、福祉や医療の現場おけるケアテイカーが、病気や障害に苦しむクライエントのライフスタイルを適切に理解し、効果的な援助を行なうための鍵となる有用な観念として、患者や障害者等のクライエントの私秘的言語とその世界および心身像の概念をとり上げる。徘徊など認知症の周辺症状(行動・心理症状)は、一見、無意味な困った行動とされてきたが、ケアテイカーが、その背景にあるクライエントの意味付けを探すことは、その内的意識に心を寄せることになる。第I節では、I・ハッキングの私秘的言語と公共的言語の観念を敷衍し、そこからクライエントにとって私秘的世界と公共的世界の違いを対比した。特に私秘的世界は、内言や内的意識とつながっており、クライエントの理解に不可欠な観念であることを示した。第II節では、C・ヘルマンに従いつつ、本稿での階層性(個的心身像、ミクロとマクロの社会的心身像)を持つクライエントの心身像を定義し、私秘的世界とのつながりについても言及した。第III節では、ケアテイカーが、クライエントの内言を探り、その私秘的世界を見ることに成功するならば、クライエントのライフスタイルをよりよく理解できる鍵となりえることを指摘し、こうしたケアテイカーのクライエントへのアプローチとして「異邦人的接遇」を紹介した。第IV節では、「夕暮れ症候群」など認知症のクライエントの抱える問題を具体的示しつつ、そこに含まれる私秘的世界への異邦人的接遇のあり方を示した。第V節では、自閉スペクトラム症の人からの「非定型発達者」も「定型発達者」も、その私秘的世界が異なっているとしても、その価値には差がないというステートメントを提示した。クライエントとケアテイカー私秘的世界と公共的世界心身像認知症異邦人的接遇
著者
村岡 潔
出版者
佛教大学福祉教育開発センター
雑誌
福祉教育開発センター紀要 (ISSN:13496646)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.57-69, 2018-03-31

本稿は、クライエントに対するケアテイカーのアプローチの仕方について、私秘的言語と公共的言語の側面から考察し、両者の出会いおいて、ケアテイカーが、患者や障害者であるクライエントを正常か異常かという先入観なしにアプローチするための方法論について考察した。第I節では、意思疎通における視覚障害や聴覚障害の機能についての解題を行ない、いわゆる健常者との異同の意味について言及した。第II節では、意思疎通に関して私秘的言語と公共的言語の対比を行ない、前者への配慮の必要性について述べた。第III節では、コミュニケーションにおける文化的レンズの機能について解説し、クライエントとの対応には異文化同士の出会いのような「異邦人的接遇」が不可欠だとした。第IV節ではクライエントの私秘的言語の特徴について事例をふまえて紹介した。第V節では、個々人の環境世界と心身像について分析し、クライエントの理解にはそれらへの配慮が必要であることを指摘した。最後に第VI節では《イルネス》と《ディジーズ》の二分法において《イルネス》に象徴される私秘的言語の中心にある「主観」の復権の重要性について指摘した。私秘的言語と公共的言語クライエントとケアテイカー異邦人的接遇環境世界とプライバシー空間イルネスとディジーズ
著者
村岡 潔
出版者
日本医学哲学・倫理学会
雑誌
医学哲学 医学倫理 (ISSN:02896427)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.166-178, 2001-10-20 (Released:2018-02-01)

We usually take it for granted that an event that some people fall ill has no connection with another event that the others can keep healthy, because we generally judge the matter from an atomistic or individualistic daily life standpoint. Many people believe that the main cause of illness is their bad lifestyle such as drinking, smoking or working too much so that the sick only have themselves to blame. This popular idea is called "victim-blaming ideology." However, from a macroscopic mass standpoint, we can find that healthy people are dependent upon the sick. That is, for people to be healthy there must be people who are sick instead of the healthy. This paper is an introduction to this paradoxical idea. First, I reconsidered the social function of the medical diagnosis of an illness and found it is to divide all the members of a society into two groups : one that is ill and the other that is not (that is., healthy). This means that the healthy cannot be healthy without the sick unfortunately being sick instead. This substitution is a kind of altruism. "Ri-tagyo", a Buddhist encouragement of altruism also supports this idea. Secondly, some epidemiological statistics also support this altruistic relationship. Finally, we concluded that sick people are neither useless nor a nuisance, but they play a great role in society because of their being-ill altruism. Healthy people, therefore, must show extreme kindness to those who are sick. This act of kindness may be an ethical origin of clinical medicine.
著者
村岡 潔
出版者
佛教大学
雑誌
社会福祉学部論集 (ISSN:13493922)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.89-104, 2007-03-01

本稿は,近代医学にとって人体実験がどのような機能を果たしているかについての考察である。「人体実験」という言葉は,日本の医学界の文脈では,一般に,忌避される傾向があり,代わりに「臨床試験」とか「治験」という耳になじみやすい言葉に置きかえられて流通している。これは,20世紀のナチス・ドイツや日本軍の七三一部隊の行なった非人道的人体実験との混同を避けるためと思われるが,近代医学が日進月歩すべきとする価値観に支えられている限り,医学研究でも日常臨床でも,人体実験,すなわち「人間を対象とする実験」は不可欠である。なぜなら,新たな医薬・治療法の開発において動物実験の結果を直ちに患者に応用することができないことからそれは自明であろう。この論考は,その視点に立って,主に,日常臨床における医師-患者関係というミクロの医療環境における医療行為に伴う一回性的体験実験の問題に焦点を当てたケース・スタディである。特に18世紀から19世紀の「英雄医学」や「大外科時代」の事例と,最近の出来事として慈恵大学青戸病院や埼玉医科大学医療センターにおける医療過誤の事例とを比較しながら,そこに通底する実験性の問題を分析した。また,C・ベルナールらの19世紀の人体実験に関する考察や事例から,近代医学の人体実験不可避性ならびに,そうした人体実験への意志の起源についても言及した。
著者
坂田 英治 梅田 悦生 大都 京子 金沢 致吉 村岡 潔
出版者
Japanese Society of Otorhinolaryngology-Head and neck surgery
雑誌
日本耳鼻咽喉科学会会報 (ISSN:00306622)
巻号頁・発行日
vol.81, no.7, pp.676-682, 1978-07-20 (Released:2008-03-19)
参考文献数
12
被引用文献数
1

Unter den Krankheitsfällen, die über Schwindel klagen, findet man nicht selten Prodromalsymptome schwerer Krankheiten oder Initialsymptome von Hirntumor usw.Neben der Schwindelbeschwerde, dem subjektven Symptom der Patienten, lassen sich auch die objektiven Symptome Spontan-und Provokations-Nystagmus feststellen. Hierhin liegt auch der Grund für die in den letzten Jahren die Forschung in Bezug auf Spontan-Nystagmus, über deren Bedeutung man sich mehr und meter hewusst geworden ist. Tatsache ist jedoch, dass vom pathophysiologischen Aspekt aus betrachtet uber Schwindel noch viel Dunkel herrscht.Wir haben deshalb aufgrund von Untersuchungen Genaueres über die Mechanismen, die beim Zuatandekommen von Spontan-und Provokations-Schwindel wirken, zu ergründen versucht, wobei wir erstere an einem Krankengut mit Morbus Ménière, akuten Labyrinthf unktionsausfall sowie Innenohrentzündungen, letztere bei Lageschwindel vom gut-bzw. bösartigen paroxysmalen Typ sowie bei Zervikalschwindel anstellten.Die Verfasser haben insbesondere Schuknechts mechanische Erklärung über den Lageschwindel vom gutartigen paroxysmalen Typ zum Anlass seiner Forschung, da er glaubte theseArt von Schwindel durch einen funktionelleren Mechanismus erklärbar machen zu können. Desweiteren hat der Autor die Zusaznmenhänge von "Bruns-Syndrom" und "akutem Unterwurmsyndrom" beim Lageschwindel vom bösartigen paroxysmalen Typ ereörtert und dabei betont, dass Storung im Vestibulariscerebellum die Hauptursache bei der Entstehung dieser Erkrankungen sind.

1 0 0 0 OA 健康と病理

著者
村岡 潔
出版者
日本保健医療社会学会
雑誌
保健医療社会学論集 (ISSN:13430203)
巻号頁・発行日
vol.28, no.2, pp.1-10, 2018-01-31 (Released:2019-02-26)
参考文献数
31

本稿は、近代医学における「健康と病理」/「正常と異常」をめぐる下記の諸観点・諸要素についての概説である。I)では19世紀の細菌学と特定病因論並びに自然治癒力について;II)では健康の定義の3つのあり方:健康=病気の不在、日々の生活で不自由のないことや身体内外全体でバランスがとれていること;III)心身相関の立場では、患者には人生に楽観的と悲観的の2タイプがあるが、前者の方に回復傾向が強いこと;IV)集団の連続性では平均から遠ざかるほど病気度が高いこと(切断点で健康か病気か分別);V)「未病」と「先制医療」バーチャルな医療戦略は予防医学の最高段階にあり、未来を先取りした病気(未病)に先手攻撃を仕掛けること;VI)余剰では、相関があっても因果関係はないこと;サイボーグ化とエンハンスメントの関係、並びに「言語の私秘性と公共性」をとりあげ、認知症の人が私秘的で内的な言葉の世界で生きている可能性について論じた。
著者
村岡 潔
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
佛教大学総合研究所共同研究成果報告論文集 = Supplement to the bulletin of the Research Institute of Bukkyo University (ISSN:21896607)
巻号頁・発行日
no.5, pp.75-84, 2017-03

本稿は,貧困と疾病に関して,医療社会学・医療人類学的な観点から論ずる試みである。I)では,貧困の諸概念を紹介し,医療サービスの欠如と平均寿命の低さや,貧困の文化という視点が貧困と疾病の関連を示唆と述べた。II)では,疾病と貧困のインターフェイス(両者を繋ぐ要素)として生活の状況という文化的因子に言及した。この疾病と貧困の改善の因子としては,生活の近代化(西欧化)であり衛生思想(まなざし)の変化であることや,外国人の仕事は人生の一部であり手段とみなす傾向があるのに対して,日本では,その手段が目的となっているという文化的慣習自体に貧困や過労死につながる要因があることを示した。III)では,病気にまつわる脱貧困についての課題を簡単に列挙した。公衆衛生学的なインフラ整備に加え,生活の現代化(再構築)を推進し,生命や衛生状態や食品と食品添加物に対するまなざしの変化が,貧困対策,ひいては健康対策を牽引し,それが脱貧困の第一歩となるものと結論した。貧困疾病貧困の文化カローシスローライフ
著者
村岡 潔
出版者
日本医学哲学・倫理学会
雑誌
医学哲学 医学倫理 (ISSN:02896427)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.52-58, 2015-09-30 (Released:2018-02-01)

Recently, a modern medical strategy has been proposed in Japan. It is called "Preemptive Medicine." This paper described the main features of "Preemptive Medicine" and its theoretical framework from the medical philosophy viewpoint. First, I examined a definition and concept of "Preemptive Medicine." This medical strategy presents a preemptive intervention for persons at risk to become ill in the near future. Risk prediction depends on presymptomatic tests like genetic testing that could reveal hereditary characteristics and other possible biomarkers. This predictive medical intervention prior to onset might be a new fashion in preventive medicine. Second, I reviewed the definition and characteristics of existing preventive medicine in comparison with those of "Preemptive Medicine." I then noted that "Preemptive Medicine" was the primary type of preventive medicine, so-called primary prevention. Third, I surveyed a typical single book on "Preemptive Medicine" in Japan edited by Hiroo Imura. It depicted the present state of and some problems for realization of the new approach. Fourth, I considered the meaning of intervention for "potential patients" or persons without illness at present but with some risk of becoming ill. They could be distressed over their predicted future disease. Furthermore, the efficacy of the prevention is not sufficiently proven from the viewpoint of Evidence Based Medicine. Finally, I concluded that the characteristics of "Preemptive Medicine" are, as follows: (1) "Preemptive Medicine" is a new form of preventive medicine; (2) its goal is personalized primary prevention; (3) it might have some psychological and social implications for harm to "potential patients"; and (4) it needs to show validity in early predictive intervention.
著者
村岡 潔
出版者
日本医学哲学・倫理学会
雑誌
医学哲学 医学倫理 (ISSN:02896427)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.107-114, 2005-10-26 (Released:2018-02-01)

Etiology is the study of the cause of disease or illness. The development of bacteriology in the 19th century saw the corresponding development of "specific etiology", which postulates that infectious diseases are caused by pathogenic organisms, such as the tubercle bacillus, that invade the human body and bring about a failure of homeostasis of the human being. Specific etiology has for two centuries been the central dogma of modern medicine used to explain the causality of numerous diseases, such as infectious diseases, cancers, and genetic diseases, by using models of a unique pathogenic agent, a bacteria or virus; a cancer cell; or an "abnormal" gene as the pathogen of the disease, respectively. The aim of this paper is to criticize the role of specific etiology by examining its social role and logical weaknesses, by examining the deterministic character of the etiology, and by comparing the "pathogen-carrier" ideology derived from the etiology with the pluralistic etiology of hygiene in the 19th century. This paper concludes that specific etiology can easily mislead medical professionals and lay people in that their understanding of "pathogen-carrier" ideology results in their perceiving infected persons as dirty and dangerous as the pathogenic organism itself, with the result that the infected persons are victimized and discriminated against.
著者
村岡 潔
出版者
日本医学哲学・倫理学会
雑誌
医学哲学 医学倫理 (ISSN:02896427)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.126-139, 2003-10-05 (Released:2018-02-01)

Anthropologists such as Kleinman 1 and Helman 2 have pointed out that any society, whether Western or non-Western, exhibits pluralistic health care (or medical) system. Within these societies there are many persons or individuals who offer the patient their own particular way of explaining, diagnosing, and treating ill health. In the pluralistic health care system, we can identify three sectors of heath care or medicine ; the popular sector, the folk sector, and the professional sector. In order to rethink the symmetry (or equality) in the doctor (or healer) -patient relationship in each sector, this paper compared the relationships found in the three sectors. A healer and a patient in the popular sector can be equal because they are able to share the same basic values of health care and their positions, therefore, are at anytime interchangeable. Both in the professional sector and in the folk sector, a doctor (or a healer) and his/her patient cannot be equal because their positions are not interchangeable due to the professional dominance and medicalization of everyday life, especially in the professional sector. In conclusion, a lay people's empowerment by releasing health care knowledge and skills from the professional dominance and by sharing them could bring about a change in the pluralistic health care system that equalizes the doctor-patient relationship to the healer-patient relationship in the popular sector.
著者
村岡 潔
出版者
日本医学哲学・倫理学会
雑誌
医学哲学 医学倫理 (ISSN:02896427)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.42-55, 1991-07-31 (Released:2018-02-01)

The aim of this paper is to interpret "medical fashions" as the nature of medical practice. They have a powerful effect on how we treat, whom we treat, what we treat and even the directions of medical science. In this paper, I discuss fashions in treatments, fashions in laboratory tests, fashions in diseases, fashions in surgery, and the relationship between 'medicalization and medical fashions'. I came to the conclusion that the role of "medical fashion" is not necessarily negative, but is essential to creative evolutions or changes in medicine, and that this model of "medical fashion" is very important and useful in understanding medicine as 'a variable system without an everlasting center'.
著者
村岡 潔
出版者
宗教哲学会
雑誌
宗教哲学研究 (ISSN:02897105)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.18-30, 2014-03-31 (Released:2019-08-08)

This paper shows 1) the ‘specific etiology’ (as the basic principle of contemporary medicine) divides people’s lives into two categories; ‘normal’/healthy or ‘abnormal’/ill or ‘disabled’; and 2) particularly by the very medicine those who are classified seriously ill or challenged(or ‘disabled’) have been usually stigmatized and treated as ‘carriers’ (with HIV, leprosy, ‘genetic disorders’, ‘psychiatric disorders’, persistent vegetative state or ‘brain dead’ state, or anything). Healthy people usually see them ‘futile or dangerous deviants’ against the world and discriminate against them. This way of thinking is sociologically called the ‘victim blaming ideology’, or a kind of ‘jiko-sekinin’ (self-responsibility) in Japanese that means any victim has his/her own cause of the state and therefore must be blamed first and only does self-help by him/herself.3) This paper, finally, presents a ‘thought experiment’ to demonstrate an antithesis beyond the ideology. It is an ‘altruistic victim theory’ derived from a ‘migawari-jizo’ or a Buddhist saint that acts as a substitute in other’s place in the ancient Buddhist sutra. In short, all victims sacrifice themselves by being ill or challenged in the healthy people’s place: they, thus, paradoxically help the healthy people. This way of victim’s life can be ‘altruism’. This theory of life is worth discussing further as a matter of bioethics: it gives us a hint considering back to its origins of human reciprocity or mutual aid.

1 0 0 0 健康と病理

著者
村岡 潔
出版者
日本保健医療社会学会
雑誌
保健医療社会学論集 (ISSN:13430203)
巻号頁・発行日
vol.28, no.2, pp.1-10, 2018

<p>本稿は、近代医学における「健康と病理」/「正常と異常」をめぐる下記の諸観点・諸要素についての概説である。I)では19世紀の細菌学と特定病因論並びに自然治癒力について;II)では健康の定義の3つのあり方:健康=病気の不在、日々の生活で不自由のないことや身体内外全体でバランスがとれていること;III)心身相関の立場では、患者には人生に楽観的と悲観的の2タイプがあるが、前者の方に回復傾向が強いこと;IV)集団の連続性では平均から遠ざかるほど病気度が高いこと(切断点で健康か病気か分別);V)「未病」と「先制医療」バーチャルな医療戦略は予防医学の最高段階にあり、未来を先取りした病気(未病)に先手攻撃を仕掛けること;VI)余剰では、相関があっても因果関係はないこと;サイボーグ化とエンハンスメントの関係、並びに「言語の私秘性と公共性」をとりあげ、認知症の人が私秘的で内的な言葉の世界で生きている可能性について論じた。</p>
著者
村岡 潔
出版者
佛教大学保健医療技術学部
雑誌
保健医療技術学部論集 (ISSN:18813259)
巻号頁・発行日
no.6, pp.1-10, 2012-03-01

サイボーグの定義医療サイボーグ化人工臓器ロボット化