著者
真田 久
出版者
日本マス・コミュニケーション学会
雑誌
マス・コミュニケーション研究 (ISSN:13411306)
巻号頁・発行日
vol.86, pp.63-80, 2015-01-31 (Released:2017-10-06)
参考文献数
19

This paper aims to shed light on the philosophy and activities of Jigoro Kano, the Japanese IOC member who oversaw the successful bid to hold the 1940 Olympic Games in Tokyo. Tokyo was chosen to host the twelfth Olympic Games at the 1936 IOC Session held in Berlin. At the time, Japan had withdrawn from the League of Nations and was becoming increasingly isolated from the rest of the world; in addition, it took nearly 20 days to travel from Europe to Japan, which would have been agonizing for European athletes. The reason why Kano's bid for the Olympic Games won despite such difficulties was because IOC members supported his view of the Tokyo Olympics, namely that the Olympics could lead to the creation of a truly global culture only if the Games were held in Asia. Jigoro Kano aimed to contribute to world peace through physical exercise, as shown in his 1922 declaration that physical and mental training were required as part of efforts to eliminate racial prejudices, to improve culture, and to achieve prosperity for all nations. However, for Tokyo's Olympic Committee members, the principal reasons for holding the Olympic Games in Tokyo were to contribute to improving physical conditions for the Japanese people guarding the home front as well as to publicize to the rest of the world the Japanese spirit of global unification represented by the Manchurian Incident. Their understanding differed greatly from Jigoro Kano's view of the Olympic Games.
著者
田原 淳子 真田 久 嵯峨 寿 近藤 良享 建石 真公子 舛本 直文 師岡 文男 來田 享子
出版者
国士舘大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

オリンピック競技大会を招致する上で、国際オリンピック委員会(IOC)から求められる諸条件と評価される点について最近の動向を明らかにした。さらに、日本における過去のオリンピックの招致活動をその後の状況を含めて検証し、問題点と評価される点を明らかにした。将来のオリンピック競技大会を招致、開催するにあたり、重視すべき観点は、環境・人権・教育の3 点に集約された。
著者
真田 久
出版者
筑波大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011

古代オリンピックで実施されていた吹奏競技と布告競技は芸術競技の範疇に入るものであり、その伝統を受け継いで、今日のオリンピックは文化プログラムを行うことがオリンピック憲章にて決められた。バルセロナ大会(1992)より、前大会終了後から4年間に及ぶ文化プログラムが行われ、カルチュラルオリンピアードと名付けられて今日まで継続されている。オリンピアードとは、大会開催年の1月から4年間を指すので、大会終了後も文化プログラムを続け、オリンピックレガシーとするべきである。日本から発信すべき文化プログラムとして、嘉納治五郎の理念、日本の和の心を伝えていくことは、文化交流や国際交流に貢献すると期待される。
著者
真田 久
出版者
一般社団法人 日本体育学会
雑誌
日本体育学会大会予稿集
巻号頁・発行日
vol.67, pp.19_2, 2016

<p> 今日のオリンピック・ムーブメント、パラリンピック・ムーブメントは、多様な価値を認め合い、融合・共生(インクルージョン)を図る、という潮流になっている。多様な価値を認めていくことは、必然的にそのムーブメントの質と量を変容させる。ネガティブ面では、競技大会の肥大化につながる。多様な価値を認めつつ、肥大化による経費の増加や質の低下をいかに防ぐということが今後のムーブメントの大きな課題となる。</p><p> ユーロセントリズムの強かったIOCで、多様性を主張したIOC委員は嘉納治五郎であった。1940年のオリンピックを東京で開催する理由として、オリンピックを欧米の文化にとどめるのではなく、真に世界の文化にしたいのなら、アジアで行うべきであると彼は主張した。嘉納は、女性の講道館入門を1893年に許可し、また留学生にも体育・スポーツを経験させるなど、早くから多様性を認めていった。また東京高等師範学校附属小学校の校長時代に特殊学級を設置し、体育に力を入れ、障害があっても社会の中で自立できる人間の形成を目指した。嘉納が多様性を認めていった背景には、実践知と科学的熟慮の裏付けがあった。この点に、ムーブメントしての多様性やインクルージョンを考えていくヒントを見出したい。</p>
著者
阿部 生雄 大熊 廣明 真田 久
出版者
筑波大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

本研究は、バレーボール、水泳、テニスなどの近代スポーツの日本的受容について明らかにすることを目的としたものである。本年度は特に、games(遊戯)、スポーツマンシップ、テニス、バレーボールの日本的受容について研究した。その結果、それぞれ次のことが明らかになった。西洋の遊戯(game)の日本的受容は,必ずしも受動的なものではなかった。数多くの西洋の遊戯(game)を積極的に導入し、子供の自然性と快活さを擁護し、児童のレクリエーション習慣(遊戯世界)の形成、遊戯の持つ健康上の効用と道徳的効用という教育的認識を早く摂取した。しかしそれは日本の「国民教育」の形成期におけるナショナリズム、日本の児童、学校教育の実態から西洋的遊戯を膾炙し、「加工」して受容しようとする姿勢の上になされたのであった。テニスは、まず学校の中に取り入れられるが、外国のスポーツをそのまま吸収するのではなく、ゴム製の庭球ボールを開発するとともに、ダブルスを基本とする和式テニス(いわゆる軟式庭球)を普及させた。これは用具の経済的な効率を考えつつ、授業として展開できるように考案されたものであり、教育現場に適した日本的なスポーツの受容といえる。同様にバレーボールも、9人制が推進されたが、これも効率化と、身長や技術的な能力の差異を集団でカバーするという観点からも推進されており、やはり教育的な観点での日本的な受容と言える。以上の事から、日本における近代スポーツの受容については教育的な面、健康増進の面、さらには教育活動としての経済的効率の面から積極的に解釈され、それらの効果を高めるために、近代スポーツを受容、加工していったことが明らかになった。
著者
高木 英樹 真田 久
出版者
筑波大学体育科学系
雑誌
筑波大学体育科学系紀要 (ISSN:03867129)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.79-90, 2005-03

競技としての水球は、1900年の第2回オリンピック(パリ)において、エキシビジョン種目ながら団体競技種目としてはじめてオリンピックに採用される1)など、国際競技としての歴史は古い。日本には1910年代に横浜や神戸に ...
著者
田原 淳子 嵯峨 寿 真田 久 建石 真公子 舛本 直文 三浦 裕 師岡 文男 來田 享子 荒牧 亜衣
出版者
国士舘大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009-04-01

人類にプラスになるレガシー(遺産)をもたらす持続可能なオリンピックについて調査・検討を行った結果、オリンピズムの現代的解釈のもとに、大会を含むオリンピックムーブメント全体の見直しが肝要であり、具体的には、人権保障の遵守、競技種目の実施形態の多様化、All for Sports for All概念に基づくスポーツの普及・推進、自然と人的・社会的環境への配慮、オリンピズムを核とした、国際教養としてのオリンピック教育の普及・推進と文化プログラムの展開、計画的なレガシー創造とその活用等を、グローバルにローカルを加えた「グローカル」な視点で展開することが求められるとの結論が導かれた。
著者
近藤 良享 野津 有司 真田 久 河野 一郎
出版者
筑波大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2002

この研究は、国内外のスポーツ界における薬物等ドーピングを防止するために,教育プログラムや啓蒙を行うための基礎的資料を得ることを目的とした。本研究では,まずアンチ・ドーピング対する実態を把握するために,世界アンチ・ドーピング機構(WADA)と日本アンチ・ドーピング機構(JADA)との共同プロジェクトと絡めて、ドーピングに対する意識調査項目(60項目)を作成し、日本の体育系大学のトップレベルの選手、288名に対する予備調査を実施した。この調査結果をふまえ、JOC五輪強化指定選手およびJADA加盟団体選手に対する意識調査(調査項目を10項目に精選)を2,800名に行った。さらに,JADA加盟団体所属選手らと同じドーピングに対する意識調査を体育・スポーツ系のT大学の学生(744名)に実施した。その結果,T大学生とJADA調査との比較検討から,今後の日本におけるアンチ・ドーピング教育の多くの課題が引き出された。具体的には、アンチ・ドーピング意識が,JADA調査の選手らよりもかなり低く,アンチ・ドーピング意識が不完全であること、また,ドーピングに関する知識・情報が,大学生も日本代表選手らへの提供も全く不十分な状況が示された。アンチ・ドーピングの教育・啓蒙のための教材づくりや支援システムを構築する必要性が浮き彫りにされた。世界アンチ・ドーピング規程へのWADAとIFsの締結期限が2004年8月のアテネ開会式前日であり、これより国際レベルでのアンチ・ドーピング活動が開始された。さらにユネスコ国際条約として,2006年2月の政府関係機関の締結が終われば、アンチ・ドーピング運動が国際スポーツ団体・国家レベルで一体となって展開されることになり、ハード面のドーピング撲滅への足がかりが整うが、未だに不十分な健全なアンチ・ドーピング観の形成を行うためのソフト開発が求められる。