著者
水島 あかね 笠原 一人
出版者
一般社団法人 日本建築学会
雑誌
日本建築学会技術報告集 (ISSN:13419463)
巻号頁・発行日
vol.28, no.68, pp.494-499, 2022-02-20 (Released:2022-02-20)
参考文献数
14

This paper shows that the famous western-style house called “The Former Guggenheim House” was actually built by J.Lyons in Shioya, Kobe, from the end of 1907 to 1908. “The Former Lyons house,” also known as the former Takeuchi house, was built by J.Guggenheim. For a long time, those two houses have been mistaken. J.Lyons established J.Lyons & Co., and this company will later become Nickel and Lyons Ltd.. F.M.Jonas and P.Watson, who were deeply connected with J.Lyons, joined his company and acquired land in Shioya. We can affirm that J.Lyons influenced the development of Shioya into a resort area.
著者
笠原 一人
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.75, no.649, pp.727-736, 2010-03-30 (Released:2010-06-09)
被引用文献数
2

This Paper examines the Architectural works and activities of Isaburo Ueno. He went to Berlin and Wien to study architecture in 1920's after graduated from Waseda Univ. in Tokyo. He worked at Josef Hofmann's studio, and got married with a Wiener Werkstätte designer Felice Lizzi Rix. After he came back to Japan, he established his own architectural studio. He founded 'The International Architectural Association of Japan' in 1927, and became the chairman of the association. He designed architectures based on modernism, while he applied some ornaments on his works. That ornaments designed by his wife Lizzi, as the collaborationist. Then after World War II, he devote to education of architecture and design.
著者
伊藤 徹 秋富 克哉 荻野 雄 笠原 一人 昆野 伸幸 西川 貴子 西村 将洋 松隈 洋 長妻 三佐雄 若林 雅哉
出版者
京都工芸繊維大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

1890年代から1950年代の日本において、知識人や芸術家たちを支えた≪語り≫を主題とする本研究は、哲学、政治学、経済学、文学、建築、美術工芸、演劇などの諸局面で、それが、どのような形で生産され、また消費されていったのか、その具体相を明らかにした。≪語り≫とは、近代化によって従来の生の地盤を掘り崩された後に生じた空隙を埋めるべく創出された、共同的な基礎的虚構群を意味する。本研究は、自己産出的な幻想によって自己を支える構造を、当該の時代の精神史の内に見出した。
著者
笠原 一人
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.88, no.807, pp.1734-1745, 2023-05-01 (Released:2023-05-01)
参考文献数
17

The magazine “Design” was published from September 1927 to October 1935 by Sousei-sha in Osaka, led by Kouichi Emura. It introduced some architectural organizations such as International Architectural Association of Japan, Souu-sha, Teppi-sha, and Rokka Crafts Association. The works and articles were published range from eclecticism to modernism, and were various specialists in architecture, design, landscaping, furniture, etc.. The editorial policies of “Design” were “open magazine”, “magazine for unknown writers”, “not to stick to styles and principles”, and “independence and freedom”. “Design” reformed itself sometimes, such as lowering the price and opening call for participants works and articles.
著者
笠原 一人
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.75, no.649, pp.727-736, 2010
被引用文献数
2

This Paper examines the Architectural works and activities of Isaburo Ueno. He went to Berlin and Wien to study architecture in 1920's after graduated from Waseda Univ. in Tokyo. He worked at Josef Hofmann's studio, and got married with a Wiener Werkstätte designer Felice Lizzi Rix. After he came back to Japan, he established his own architectural studio. He founded 'The International Architectural Association of Japan' in 1927, and became the chairman of the association. He designed architectures based on modernism, while he applied some ornaments on his works. That ornaments designed by his wife Lizzi, as the collaborationist. Then after World War II, he devote to education of architecture and design.
著者
笠原 一人
出版者
京都工芸繊維大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2004

今年度は、まず昨年度から行っている資料調査の一環として、「日本インターナショナル建築会」(以下、「建築会」とする)の「外国会員」の資料が残されたヨーロッパの資料館(ベルリンのAKADEMIE DERKUNST、ウィーンのOsterreichisches Museum fur angewandte Kunst、ロッテルダムのNetherlands Architectural Instituteなど)を訪問し、「建築会」から送られた「外国会員」への書簡などを確認した。その結果、「建築会」が外国会員を募集する際、東京で「建築会」主催の国際建築展を開催すること(実現せず)を目的として会員になるよう呼びかけていたことが明らかとなった。また、本野精吾が設計した旧鶴巻邸および旧大橋邸に残された、本野のデザインによる室内デザインや家具についての現物調査を行った。その結果、建築はモダニズムの方法を実現しているが、室内デザインや家具においては、ウィーン分離派やアールデコ、古典主義などの影響を受けた、装飾を伴ったやや古風な意匠が展開されていることを確認した。最後に2年間の本研究についてのまとめの考察を行った。戦前の関西のモダニズム建築の伝播には、建築運動団体が大きな役割を果たしたと言える。「建築会」は、ヨーロッパの建築運動との直接的な関わりを持ち、会員として高等教育機関の教員や官公庁に在籍する技師などが数多く在籍していたため、その影響は大きかった。また東京の「分離派」や「創宇社」、あるいは「デザム」を率いた西山卯三らの影響を受けて、京都に「白路社」や「鉄扉社」という無名の技術者による建築運動団体も存在した。こうした建築運動団体は、独自の雑誌や展覧会などのメディアを駆使した。それによって「建築会」は海外との直接的な関わりを可能にし、「建築会」の機関誌となっていた雑誌『デザイン』から「鉄扉社」が誕生するなど、複数の建築運動が関連することにもなった。関西の内外で複数の建築運動団体の活動が、互いに関連し合いながらモダニズム建築の伝播に貢献したことを確認できた。
著者
伊藤 徹 荻野 雄 昆野 伸幸 平子 友長 長妻 三佐雄 笠原 一人 平芳 幸浩 松隈 洋 西川 貴子 日比 嘉高 若林 雅哉 秋富 克哉 宮野 真生子
出版者
京都工芸繊維大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本研究は、日本語としての「主体性」の概念の成立と使用の歴史を、哲学、社会思想、文学、美術、演劇、建築など多様な分野において、追跡したものである。それによって、日本が近代化に伴って経験した人間理解の変化を、多様なアスペクトにおいて解明することができた。また海外の日本文化研究者との共同研究および出版事業を通じて、日本におけるテクノロジーの発展と文化との関係についての知見を国際的に発信することができた。
著者
中川 理 矢ヶ崎 善太郎 並木 誠士 石田 潤一郎 笠原 一人
出版者
京都工芸繊維大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2002

2年間の調査・研究により明らかになったことの概要は、以下のとおりである。1)芸術にかかわる人々の中で、郊外居住地の開発を最も促したのは、画家である。ただし、明治前半期までは、彼らの居住地は、近世までの居住地と変わらなかった。明治後半期になり、画家の地位向上にともない、画業の環境を求めて画家の郊外移住が始まった。2)京都市周辺部での郊外住宅地の開発は、昭和初期から盛んになるが、この開発行為の多くの事例で、画家、映画関係者、大学教員などの文化人の郊外居住の需要が前提になっていることがうかがえる。3)東山地域では、数寄者といわれる、茶の湯に親しんだ文化人たちが、独自の居住環境を作り上げていた。4)等持院かいわいの住宅地には、日本画家を中心とした「絵描き村」と呼ばれる地区がある。この地域では、関西のモダニズムをリードした建築家・本野精吾なども居住しており、画家と建築家とのサロン的交流があった。5)下鴨地域では、昭和のはじめから洋画家が集住し、その後、官吏やサラリーマンも住む住宅地になっていった。北白川地域では、昭和初期から土地会社により宅地開発が進み、京大教授を中心とした学者や医者などが住む宅地が形成された。6)大学教員が郊外地に住む場合には、同じ大学の教員である建築家に設計を依頼するケースが多く見られ、大学内で郊外居住をめぐるサロン的交流があったと考えられる。
著者
笠原 一人
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.68, no.566, pp.153-159, 2003
被引用文献数
1 1

This paper examine the works, activities and architectural ideas of Masabumi Ito within the movement of The International Architectural Association of Japan' founded in 1927. As a member of 'The Association', Ito played an important part for the edition of the periodical and the public relations. He wrote a large number of articles investigating the problems 'International' and 'Locality'. In the articles on 'International', Ito aimed to have the architecture that is scientific, technological, and rational. On the other hand he aim to have the architectures which esteem the climatic individuality. Then he aimed to solute the peculiar questions of the 'locality' by the 'International' method. Furthermore, he tried to esteem the principals in his architectural projects.
著者
笠原 一人
出版者
京都工芸繊維大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2006

明治期に5回にわたって開催された内国勧業博覧会や大正期と昭和期のいくつかの大規模な博覧会を事例として資料を収集し、博覧会が都市の観光化に及ぼした事例を調査した。その結果、1895年に京都で開催された第4回内国勧業博覧会と平安遷都千百年紀念祭の開催時に都市の観光化が進められ、またその後の博覧会でも同様の手法が用いられたことが明らかになった。その手法は多彩で、道路整備や都市施設整備も見られるが、鉄道のネットワークの活用や観光案内書や錦絵、広告など、広義のメディアを駆使したイメージ戦略が目立つものであった。