著者
遠藤 慶太
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.10, pp.55-76, 2020 (Released:2021-12-01)

六世紀に即位した継体天皇は、応神天皇五世孫とされる出自、近江・越前と推測される政治基盤といった特徴から、関心の集まる古代天皇(大王)である。 継体天皇への着目は、近代では『日本書紀』の紀年論からスタートし、皇室内部の並立を想定する学説や陵墓の比定問題へと展開していった。これらの学説は戦後の古代史・考古学にも強い影響を与え、継体・欽明朝の内乱説や三王朝交替説などの議論をもたらしている。 その一方で継体天皇は、明治期の皇室典範制定において注目されたことも重要である。典範草案の起草者・井上毅は、天皇の正当性を支えるものを血統、すなわち「万世一系ノ天皇」(A line of Emperors unbroken for ages eternal)に求めた。そのときに傍系10親等から即位した継体天皇の位置づけは、皇室典範が起草された当時の現実の課題なのであった。 歴史のなかで過去の天皇がどのように認識されていたのか、また天皇のイメージはどのような史料に依拠してきたのか。このことを考えるうえで、継体天皇をめぐる議論そのものが研究の題材となりうるだろう。 本論では、まず六世紀の王権のありかたから新しい王統とされる継体天皇の記事を再検討し、治世の重複を父子での共同統治として理解する仮説を提示した。続いて『神皇正統記』の記述をとりあげ、この段階で皇位の継承に神意をみる新たな視点が導入されたこと、それが継体天皇を思慕する越前の女性を題材とした謡曲「花筐(はながたみ)」や『椿葉記』で主張された崇光流での歴史叙述に反映されたことを論じる。 このように継体天皇のイメージは『古事記』『日本書紀』のような歴史叙述を枠組み(共通の認識)としながらも、大胆な読み替えや豊かな着想によって再構築され、時代ごとの要請に応じてさらなるイメージが築きあげられてきた。皇位継承の危機ではたびたび六世紀の「史実」が持ち出され、時には十九世紀の越前のように、国学者の実証研究を地域の側で受けいれ、地域の歴史像を確認する動きがみられたのである。 継体天皇像は受け手によって変容・増殖してきたのであって、それはイメージの運動とでも評しうる。系譜の実証研究が記念碑の建立として史跡を保証する機能を果たしていることをみれば、近代以降の歴史学もふくめてイメージの運動に関与しているといえるのではないか。また蓄積された「歴史」を資源として、地域や時代の要望に応じて柔軟に解釈・引用されることで、天皇のイメージは実感をともなって浸透・再生産されるのであろう。
著者
勝俣 鎭夫
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.92, no.2, pp.172-189,277-27, 1983-02-20 (Released:2017-11-29)

In this essay, the author attempts to reply to the criticism levelled at him by Mr.Araki Moriaki in a recent article entitled "The Land Survey by the Sengoku Daimyo (戦国大名) and the Sakuai (作合) (Subletting Rent)" (see Shigaku Zasshi, Vol XC, No 8: Aug. 1981). In that article, Mr.Araki judged as empirically unprovable the key point to the author's Sengoku daimyo land survey theory (see Katsumata Shizuo 勝俣鎭夫, Sengoku-ho Seiritsu-shiron 戦国法成立史論) which states that the fundamental principle underlying said surveys was to negate tax unit managers' rights under the previous shoen (荘園) system to reap supplementary land rent income and incorporate such income into a system of monetary evaluation of land yields (kandaka-sei 貫高制). That is to say, as opposed to the author's schema which equates tax additions gained by land surveying (kenchi mashibun 検地増分) tax unit manager appropriation of supplementary land rents tax unit field management income, Mr.Araki attempts to resurrect his outdated formula which equates gains by surveying tax unit management income "off the record" fields (onden 隠田) hidden from the shoen tax system. In the present essay, the author, after investigating Mr.Araki's own empirical evidence, makes clear the impossibility of proving the existence of such a formula. Howeverr Mr.Araki is mistaken not only because of the low level of his empirical proof, but mainly because he ignores the great historical significance which lay in the Sengoku daimyos' method of "on paper" surveying (sashi-dashi kenchi 指出検地) in favor of "field" surveys (joryo kenchi 丈量検地), which, he purports, were carried out in order to discover previously concealed taxable land. Moreover, because it is now possible to conceive of Hideyoshi's cadastres (Taiko Kenchi 太閤検地), which were fundamentally "on paper" surveys, as having adopted the Sengoku daimyos' method for carrying out their own land surveys -that is, as a grand finale to the surveying done by those feudal powers -the time has finally come for a radical re-investigation of the long established explanation proposed by Mr.Araki concerning the origins of Taiko Kenchi.
著者
島津 毅
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.8, pp.1-36, 2016 (Released:2018-10-10)

中世京都では清水坂非人集団の奉行衆(ぶぎようしゆう)(以下、坂と記す)が京中の葬送を統轄していたと、これまでの研究では理解されてきた。そして坂が葬送を統轄するまでの経過は、次のように説明される。 ①十三世紀末、清水坂非人(以下、坂非人(さかひにん)と記す)は、葬送を担った対価として、葬場へ持ち込まれた諸道具類を没収する権利を持っていた。 ②十四世紀中頃、坂は京中の葬送を統轄しており、十五世紀、坂は京中の寺家(じけ)に免(めん)輿(よ)と言って三(さん)昧(まい)輿(こし)使用の免許を与え、寺家が独自に葬送を行える権限を与え得る存在であった。 以上のような理解は、現在も通説として用いられているが、少なくとも二つの問題を抱えていた。一つは坂非人が葬送で諸道具類を取得し得た権利の由来が解明されていないこと、二つに、中世後期における坂の権益が獲得された経緯や背景が解明されていないことである。そこで、本稿はこれら問題を解明するために検討を進め、次のようなことが明らかになった。 (1)少なくとも十世紀初め頃の葬送から行われていた、葬場での輿や調度品等の上(あげ)物(もの)を焼却する儀礼が十三世紀前半頃に廃れてゆき、代わって坂非人が上物を乞場(こつば)であった鳥(とり)辺(べ)野(の)で非人施行(せぎよう)の一環として受けるようになる。 (2)十三世紀後半、坂は鳥辺野を「縄張り」として支配権を強め、葬地へもたらされた「具足」を当然に取得できる権益として確立する。 (3)十五世紀頃、寺家の常住輿使用による葬送に坂が対処した結果、坂の得分が現物輿の取得から免輿措置としての金銭取得に変化する。 (4)十五世紀以降、寺家による境内墓地創設への対処として、坂は鳥辺野での既得権益を梃子として、鳥辺野以外の葬地における葬送へも輿をはじめとする葬具の使用料などを取得するようになる。 以上のように坂の得分の実態は、中世後期における葬送墓制の変化に対して、乞場・鳥辺野で得られなくなる輿等の葬具に対する補償を求めた坂の措置に過ぎなかった。
著者
石見 清裕
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.91, no.10, pp.1586-1609,1646-, 1982-10-20 (Released:2017-11-29)

Raising an army and founding T'ang Dynasty by Li Yuan (李淵) have been understood from the viewpoint of the group of Kuan-lung (関隴) rulers since Hsi-wei (西魏) period, through the analysis of the leading members of Li Yuan group by now. However, I should like to pay attention to the Pi-yeh-t'ou of Hsiung-nu in Ordus for the following reasons. (1)Preceeding the raise of his army, Li Yuan appointed his three sons as feudal lords of the far wesl lands, they are Lung-hsi (隴西), Tun-huang (敦煌), and Ku-tsang (姑臧). Soon after he entered Ch'ang-an (長安), he drew back these appointments, So these seemed to have been his strategic preparations to aim Ch'ang-an from Tai-yuan (太原). The clue to understand this relationship between Li Yuan and these three lands, is found in the genealogy of Tou (竇), Li Yuan's empress reported in "Genealogical Tree of Prime Ministers (宰相世系表)" in "Hsin T'anbg-shu (新唐書)". (2)Tou's original family name was He-tou-ling (〓豆陵), in "Genealogical Tree". This Tou was connected with famous Tou family in Han (漢) period, accordig to the legend of the founder of the T'o-pa tribe (拓抜部) known in the preface to "Wei-shu (魏書)". At this occasion, they invented the story that the father of Tou family of Han period came from the land of Lung-hsi, Tun-huang and Ku-tsang. As a result, we can assume the intervention by He-tou-ling family behind Li Yuan's feudal appointments of his three sons in these lands. (3)He-tou-ling family originated from the Pi-yeh-t'ou tribe of Hsiungnu and belonged to He-lien Hsia Dynasty (赫連夏国) originally. They lived nomadic life in the province of Pei-he (北河) even after the downfall of Hsia (夏) Dynasty and possessed enough power to revolt against Pei-wei (北魏) in the reign of Emperor Hsiao-wen (孝文). As the influence of Pei-wei decreased after the disturbance of Liu-chen (六鎮之乱), they spread widely over Ordus and He-hsi-t'ung-lang (河西通廊). Because of their great power, Kao Huan (高歓) and Yu-wen T'ai (宇文泰) even quarrelled over Pi-yeh-t'ou in the province of Ordus. (4)In the meantime, it is evident from many examples that the strategic point of North China in order to take possession of Ch'ang-an lies in Tai-yuan and Ling-chou (霊州). Therefore, Li Yuan obtained Ling-chou under control through the alliance with the Pi-yeh-t'ou, and He-hsi (河西) route by feudal appointments of his three sons in Lung-hsi, Tun-huang and Ku-tsang. He also controled Turk (突厥), the menacing power in the north, and Hsueh Chu (薛拳), the most powerful warlord in the west, and managed to build up a scheme to enter Ch'ang-an. During T'an period, Tou family's fame had no equal, because they had not only a genealogical relation to Kao-Tsu (高祖), but also they played important parts to found the dynasty. In the result of this discusson, it can be said that Hsiung-nu did not disappear simply after the downfall of He-lien Hsia Dynasty (赫連氏夏国) in the history, but they actually parti cipated in founding T'an Dynasty.
著者
市川 周佑
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.9, pp.1-37, 2021 (Released:2022-09-20)

本稿の目的は、「大学の運営に関する臨時措置法」の成立過程を明らかにすることである。政府は、日本全国に波及した大学紛争に対応するため、1969年に臨時措置法を制定した。 第1章では、1968年までの政府と自民党の大学紛争対応を分析した。自民党では、教育制度改革の必要性を主張する坂田道太が党の文教政策を主導した。そして、1968年11月30日、佐藤栄作総理大臣は、内閣改造を行い、坂田を文部大臣とし、保利茂建設大臣を官房長官とした。 第2章では、1969年以降の自民党の動向を検討した。東京大学での紛争の激化や、岡山大学で警官が殉職するなど、大学紛争が激化した。自民党内では、日米安全保障条約改定の観点から大学紛争を捉えるようになり、政府に強硬な対応を強く求めた。 第3章では、政府の法案作成過程を検討した。政府内では、保利官房長官と文部省が法案作成を行った。保利は沖縄返還実現のため早期の紛争沈静化が必要と認識し、文部省とともに最小限度の立法化を目指した。しかし、短期的に法案が作成されたため、法案には多くの不備があり、治安的側面が存在した。このような問題点は内閣法制局の審査によって改められた。 第4章では、国会審議過程を検討した。法案作成過程では、自民党の要求が排除され、自民党は政府案を強く非難した。そのため、学生処分を法案に挿入することで政府と自民党は一致した。しかし、野党の反対が強く十分な審議時間を確保できず、修正は断念された。そして、審議が参議院に移ると、重宗雄三参議院議長が強行採決に難色を示したが、佐藤は岸信介などに説得を依頼し、参院での強行採決を実現させた。 政府と与党間には、教育政策と外交政策をめぐり意見の相違が存在し、これが両者の対立の要因となった。このような対立により、法案は大きく姿を変えていった。また、政府内では、保利官房長官が大学紛争対策を主導した。
著者
田熊 敬之
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.7, pp.1-36, 2020 (Released:2021-09-09)

「恩倖(おんこう)」は皇帝の寵愛、またはそれを受けた者を意味する。中国の正史に歴代立てられた恩倖伝のなかでも、特に『北斉書(ほくせいしょ)』恩倖伝は、北族武人や西域胡人等を含むという民族的な多様性によって注目されてきた。本稿では、北斉「恩倖」が隋代以後の中央集権に繫がるという問題意識のもと、その代表的な人物である和士開(わしかい)の墓誌、及びその父である和安(わあん)の碑文を用いて、恩倖がどのように皇帝・権力者と結びついたのかを検討した。 まずは『北斉書』恩倖伝にいう「恩倖」とは何かを、序文や「和安碑」から分析した。その結果、北斉「恩倖」の焦点は皇帝や権力者に突如接近し、朝政に関与した人々にあったことを指摘した。次に、そうした中央権力との関係を支えた要因として、「和安碑」「和士開墓誌」にある「嘗食典御(しょうしょくてんぎょ)」「主衣都統(しゅいととう)」という官職に注目した。両官の職責は基本的に皇帝の御膳・御服を掌ることであったが、同時にその就官者は北朝期の政変や監察、執政の補佐に深く関与した。本稿では両官を「君主家政官(くんしゅかせいかん)」と名づけ、それを遊牧的な制度の影響を受けたと同時に、北魏(ほくぎ)末以後の二重権力状態を背景に出現してきた北朝独特の官職群であると定義づけた。君主家政官は当時の官制系統のなかで柔軟に運用され、胡漢の様々な階層へと浸透・拡大していくことで、出自を問わない人材が皇帝や権力者の周辺に集められたのである。最後に、君主家政官が漢人士族まで広がっていった背景には、北斉における門閥(もんばつ)的な体制そのものの変化・動揺があったことを述べた。 「恩倖化」の影響が北斉社会の広範に及ぶにつれて、貴族勢力の地方僚属に対する辟召権(へきしょうけん)が失われていき、隋(ずい)の開皇(かいこう)年間における郷官(きょうかん)廃止及び科挙(かきょ)制定の伏流となった。北斉「恩倖」の出現は、旧来の門閥制度に対する否定・社会階層の流動という趨勢の先駆的な動きであり、それはまさしく隋代以後の中央集権へと繫がっていったのである。
著者
仲田 公輔
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.7, pp.40-63, 2016 (Released:2018-10-10)

ビザンツ皇帝レオン6世(在位886-912)は、帝国東方のアルメニア人有力者に対して交渉を持ち、彼らを利用して新たな軍管区の設置も行ったとされる。この政策はJenkinsらの従来の研究においては、9-10世紀にかけてのビザンツ帝国の積極的東方進出政策の文脈に位置づけられ、後の大規模な拡大の土台だと解釈されてきた。しかし本稿は、近年のHolmesやShepardが10世紀以降の「再征服」本格化の時期について行った、ビザンツ帝国の東方に対する一貫した戦略の想定を見直す研究に鑑み、その始点とされるレオン6世の政策の意義についても再考を試みる。その際に、従来は十分に議論されてこなかったアルメニア人勢力側の主体性にも着目し、彼らの動向のビザンツの政策への影響についても考察することで、新たに境域での両者の双方向的な関係性の実態の一端を明らかにすることを目指す。 そのため本稿では第一に、イスラーム勢力の動向や、アルメニア人有力者間の関係も視野に入れ、レオン6世期のアルメニアの状況・政治構造について整理して考察し、その中でのアルメニアの諸勢力の動向とその背景について議論する。その過程で、アルメニア人勢力側にも主体的にビザンツに働きかけうる状況が存在することも確認できる。第二に編纂物を中心とするギリシア語史料に目を向け、ビザンツ帝国がそのようなアルメニアをどのように位置づけていたのかを再検討する。そして最後にそれらを踏まえた上で、レオン6世期のアルメニア境域政策の個別事例の詳細について再検討し、ビザンツ=アルメニア境域における政治秩序の再編の実態を明らかにする。 こうした考察を経ることで、レオン6世の政策からは、ビザンツ帝国側が一貫して主導権を握っていたわけではなく、アルメニアの諸勢力が彼らの側の事情に基づいて帝国側に対して行う様々な働きかけを行い、それに対する反応として帝国側が対策措置を講じていくという、相互交渉の実態が明らかになるのである。
著者
大薮 海
出版者
公益財団法人史学会
雑誌
史學雜誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.116, no.11, pp.1767-1788, 2007-11-20

In recent years a revival has occurred in the research done by Kawaoka Tsutomu in the idea of a Muromachi Bakufu power structure whose major players were the Bakufu in Kyoto and its appointed military executives (shugo 守護) in the provinces. The author of this article argues that such a characterization places too much emphasis on the role of shugo, in that there were figures who were never appointed to that position but nevertheless wielded as much power and influence and should be looked upon as "de facto shugo." For this reason, in order to better understand the Bakufu's power structure, it is necessary to re-confirm the political forces looked upon to date as "shugo," first in terms of those appointed to the position and those not, and to then consider the kind of relationship which those who were not appointed enjoyed with the Bakufu. The present article focuses on the Kitabatake Family of Ise Province as a typical example of Bakufu vassals who were granted fiefs (chigyo 知行) but not appointed military governors, and because of that fact have been defined in the research to date as "partial" or "quasi" shugo. After an examination of the Kitabatake Family's authorization to issue directives on behalf of the Bakufu (jungyo 遵行) and its military administration of Ise Province, the author points out that 1) the Kitabakes were not appointed to the position of shugo until the Bunmei Era (1469-1487), and 2) prior to Bunmei, the family's deputization and military recruiting in Ise connected them to the Bakufu without the mediation of a shugo appointment, showing that the Bakufu included powerful regional figures other than shugo families. The article also discusses the authority wielded by the Kitabatake Family within its fief, and its activities outside of that fief, namely its control of access to the Ise Shrine, in order to examine critically the existing understanding about the basis on which the office of shugo existed, arguing that 1) such authority as control over access to shrines cannot be understood as falling within the jurisdiction of the office of shugo, and 2) calling the Kitabatake Family the "provincial governor of Ise" (Ise-kokushi 伊勢 国司) meant something altogether different. The author concludes that in order to understand the power structure of the Muromachi Bakufu, it is necessary to transcend the Bakufu-Shugo connection and focus on other kinds of Bakufu vassal (chigyoshu 知行主) on sub-provincial levels, for example.
著者
片岡 耕平
出版者
公益財団法人史学会
雑誌
史學雜誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.117, no.10, pp.1747-1782, 2008-10-20

Two times at which the kind of social relations an individual is involved in become very clear is when he is born and when he dies. Observing the behavior of people surrounding a new-born infant and a dying person is an effective way of clarifying the social relations that will or have determined that person's life. The present article attempts such an observation in the hope of shedding light upon the nature of social relations in medieval Japan. It was a dominant idea at the time that as soon as a person was born or died, pollution was generated. As to how the people around the new-born or the deceased reacted, the seemingly natural response of avoidance was not the case. Rather, from the mideleventh century on, a way of thinking came into vogue regarding the spontaneous pollution emanating from the natural life cycle as having a positive meaning. That is to say, a change was occurring in how people reacted to pollution, indicating the formation of a new set of social relations characteristic of medieval Japan. The "victim" of such unintentional, spontaneous pollution became the social group described in the sources as ikka 一家 (lit. "the family"), which from the end of the Heian period indicated in functional terms, a group composed of the new-born's (deceased's) patrilineage and lateral kin. The occurrence of such pollution on an "ikka" scale is a specific phenomenon of the process by which patrilineal households (ie 家) precipitated out of ancient period extended patrilineal clans (uji 氏). One important feature of this new kinship organization was the succession of rights enjoyed by parents directly to their children, and made rituals conducted at the moments of birth and death important for firmly establishing and legitimizing parent-offspring relations.
著者
松井 洋子
出版者
公益財団法人史学会
雑誌
史學雜誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.118, no.2, pp.177-212, 2009-02-20

After the Dutch Factory was moved from Hirado to Deshima in 1641, there are three known cases in which its members brought women to Japan. In this article the author examines these cases in order to reconsider the popular notion that foreign women were banned from Japan during the Edo period. The first case dates from 1661, when the newly appointed governor and the Dutch residents of Fort Keelung, situated in the northern part of Formosa, evacuated with their families and servants when the island was attacked by Cheng Ch'engkung. There were about 30 women among them, and they were all permitted to land on Deshima without problems. They stayed until the departure of the ships bound for Batavia. Two babies were born and baptized during that time, and one couple was married. This case leads us to conclude that neither the Japanese nor the Dutch thought that foreign women were prohibited from coming to Japan. The second case involved Mrs. Jan Cock Blomhoff, who accompanied her husband, the newly appointed chief factor, to Japan in 1817 along with their son, nurse, and maids. The Governor of Nagasaki at first permitted them to come ashore, but after further consultation with higher ranking officials in Edo, he refused the women and the son permission to stay in Japan. Mrs. Blomhoff did not give up, however, and tried to petition herself, but was rejected, with governor confirming that the wives of Dutch and Chinese traders were prohibited from accompanying their husbands, due to the lack of a precedent. The third case relates to a Dutch clerk, De Villeneuve, who was accompanied by his wife in 1829. The Dutch Governor-General in Batavia had allowed him to take his wife, notwithstanding the prohibition of 1817. The Japanese authorities immediately refused her entry and ordered the chief factor to accurately inform his superiors about this prohibition once again. These three cases lead the author to conclude that foreign women were first banned from entering Japan in 1817, but that the Dutch did not adequately understand the prohibition until 1829 and argue the necessity to reconsider the process of issuance, transmission and implementation of orders concerning foreigners by Japanese authorities during the Edo period.
著者
吉井 文美
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.122, no.7, pp.1183-1217, 2013-07-20 (Released:2017-12-01)

This article discusses shifts in the Japanese Ministry of Foreign Affairs' understanding regarding the Open Door Principle following the establishment of Manchukuo, as exemplified by the issue of "treaty rights" claimed by foreign countries. Immediately following the establishment of Manchukuo, although both the Japanese Ministry of Foreign Affairs and the Manchukuo government emphasized that 1) the legal order previously established by the Republic of China would be preserved and 2) the new state would respect the Open Door Principle, in actuality economic regulation, not in line with Open Door were put firmly in place. Since the world powers continued to demand that it support Open Door, forcing Japan to take nominal steps to demonstrate its respect for international law, the Ministry of Foreign Affairs set itself to the task of bridging the gap between what had been put in place in the governance mechanism Japan had created for Manchukuo and the actual fluidity of the situation there. The author then proceeds to an analysis of the specific case of the negotiations between Japan and world powers that arose over the regulation of Manchukuo's oil and tobacco industries. Both Great Britain, which was the holder of huge interests from central China southward and had instituted a boycott of Japanese goods throughout its commonwealth, and the United States, which was the original supporter of the Open Door Principle and left the decision of whether to do business in the region up to individual enterprises, did react to the "treaty rights" issue as an invasion of their Manchurian interests, but did not go as far as taking a decisive stance on the matter. The Japanese Foreign Ministry responded to the "treaty rights" issue by revising its interpretation of the Open Door Principle itself. However, in the process, a state of affairs was created making it difficult for Japan to pursue its campaign for the international recognition of Manchukuo. Ultimately, the Foreign Ministry ended up announcing the "natural death" of the Nine-Power Treaty and proposing a new international order. Under the conditions of its escalation of military action without a declaration of war and its assumption of governance over the territory it had so occupied, it is ironic that Japan would be put in a position of having to show such high respect for the "treaty rights" of foreigners in China.
著者
関口 哲矢
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.126, no.3, pp.67-92, 2017

本来、復員庁の改組と復員業務は関連づけて議論されるべきである。しかし先行研究では、復員庁の史実調査部に所属する旧軍幹部とGHQ・G2(参謀第二部)のウィロビー部長との関係から、改組に旧軍復活の意図があったとする指摘が多い。この評価は妥当か。再検討の結果、復員庁の改組が復員業務の進捗ではなく、米ソ対立やGHQ内の部局間対立、日米の見解の相違によって方向づけられたことを明らかにした。<br>復員庁が発足した当初は、復員の動向が意識されていた。米ソの話しあいによっては、最後まで残されたソ連地区からの復員が進み出すかもしれず、それに伴い今後の復員庁の規模も決定される可能性があったからである。しかし米ソの議論は、ソ連が復員庁の縮小と旧軍人の追放を主張し、アメリカが反発するという政争に終始した。くわえてアメリカは、日本には旧軍人の追放に厳格である反面、ソ連に対しては残置の正当性を主張した。GHQ内でもGS(民政局)は追放に厳格であるのに対し、G2は宥和的という相違があった。<br>復員業務に対する日米間の認識のずれ(・・)も、復員庁の運営に大きな影響をあたえた。GHQが復員手続きの完了と復員者の引揚げをもって復員の完了ととらえたのに対し、日本側は行方不明者の捜索までを業務とみなして組織の存続を主張した。しかし認められず、改組は段階的に進められていく。そのため日本側は、組織の存続を粘り強く訴えていくことになったのである。<br>以上から、復員庁の改組を方向づけたのは日本・GHQ双方の意思疎通不足といえよう。GHQの主張は対ソと対日で異なり、GSとG2も対立と協調の両面をみせあった。日本内部でも復員庁の改組方針を政府見解にまでいたらせる努力を怠った。これらの結果、改組の議論に各政治勢力の利害関係が持ち込まれ、復員の状況が反映されることを妨げたのである。よって、改組と再軍備の動きを強調する傾向は再考されるべきである。<br>
著者
井上 敬介
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.117, no.6, pp.1122-1143, 2008-06-20 (Released:2017-12-01)

The objective of the present article is to investigate the activities of the (Rikken-) Minsei Party (1927-1940) under Japan's national consensus governments of the 1930s, especially its extreme opposition to the claim that the will of the people was being usurped, leading to its refusal to form a government. To begin with, the author examines the process by which the Party decided upon a national consensus platform under the leadership of Wakatsuki Reijiro 若槻礼次郎. The Party's two main factions, led by Wakatsuki and Kawasaki Takukichi 川崎卓吉, respectively, reacted violently to the claim that that they had usurped the will of the people and chose to abandon any effort to form a partisan government. This claim came from the movement to reduce the sentences of the conspirators involved in the 15 May 1932 assassination of Prime Minister Inukai Tsuyoshi by a group of young naval officers, which held the Minsei Party responsible for the London Arms Limitations Treaty of 1930. On the other hand, the opposition faction formed within the Party by Ugaki Kazushige 宇垣一成 and Tomita Kojiro 富田幸次郎 took charge of movements to activate the party politics within the Diet and promote cooperation between the public and private sectors in attempts to find a way to form a Minsei Party government. Then the discussion turns to the efforts by Ugaki to form a new party from within after Wakatsuki stepped down in August 1934, followed by a wavering in the Party's national consensus line, and finally the establishment of such a platform under the leadership of Machida Chuji 町田忠治. The new party movement ended in failure after Ugaki's refusal to stand for party chairman, resulting in the election of Machida. Then leadership of the public-private sector cooperation movement was assumed by Kawasaki, while Tomita abandoned efforts to form a government. The 19^<th> party elections of 1936 pitted Tomita's call for partisan politics against Machida and Kawasaki's appeal for national consensus, as the Machida-Kawasaki line emerged victorious, from which time on, the Minsei Party made no further effort to form a partisan government in the world of Japanese politics following the 26 February 1936 coup d'etat attempt.