20 0 0 0 OA 9・30事件と日本

著者
倉沢 愛子
出版者
早稲田大学アジア太平洋研究センター
雑誌
アジア太平洋討究 (ISSN:1347149X)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.7-36, 2016-03-22
著者
倉沢 愛子
出版者
名古屋大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1994

平成6年度の研究を継続させ、平成7年7月-8月と12月にはインドネシアにおもむいて現地での資料収集ならびにインタビュー調査を行った。昨年から整理している、バリ島で教師をしていた一日本人の日記をワープロに入力し、整理する作業は、院生らの協力を得てようやく完成し、その内容分析を行った。さらに、日本占領期に制作されたニュースやドキュメンタリー映画の中に収録されている、日本軍司令官や、スカルノら対日協力者の演説の文言を分析し、日本が具体的にどのような理論で、インドネシアの住民を戦争協力に向けて動員しようとしていたのかを分析した。これらの研究活動と平行して、これまでの研究成果を具体的な形で出した。そのひとつは、終戦50周年を記念して神奈川県湘南セミナーハウスで平成7年11月に三日間にわたって開催された「東南アジア史のなかの日本占領」と題するシンポジウムに参加し、日本のインドネシア占領に関する研究発表を行ったことである。さらにインドネシア独立50周年を記念して平成7年7月11日から14日までインドネシアのジャカルタで開催された"National Revolution:Memories,studies,reflections"と題する国際会議にも出席し、研究発表を行った。その他、本研究テーマに関しいくつかの雑誌論文を刊行した。
著者
倉沢 愛子 内藤 耕
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2010

経済大国化しつつあるインドネシアにおけるテレビ放送について「公共性」と「商業主義」という観点から多角的に分析した。具体的には公共放送が定義づけられた2002年放送法制定をめぐる調査と研究、民放における公共性の確保をめぐる調査、公共広告放送やニュースの分析、地方局の現状に関する調査をおこなった。公共性がうたわれつつも、テレビ放送が商業的利益の追求や政治的動員のために利用される現状が明らかにされた。
著者
倉沢 愛子 内藤 耕
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

3年間に亘りジャカルタ市南郊の低所得者の集住地区であるレンテンアグン町において、露天商・行商人たち、ならびに同地区内にある伝統的市場で商いをする商人たち(商店主並びに行商人)からその個人史(パーソナルヒストリー)の聞き取りを行なった。また、北部の中国系住民が多く住む商業地区コタにおいて、中国系の商人たちからも同様なききとりを行なった。それを通じて、開発政策の中で烈しく変容する庶民の生活を描き出し、それが大きな歴史をどのように投影しているのかを考察した。
著者
倉沢 愛子
出版者
東京大学
巻号頁・発行日
2012

博士論文
著者
倉沢 愛子 内藤 耕
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2001

都市化のプロセスと住民のあいだの組織原理の変遷と過去における機能を探求することを目的とした。基本的には、南部ジャカルタ市レンテンアグン町内を主たる対象地域としてフィールド調査を行ってきた。主に、上からの住民動員システムの代表例である、PKKの活動の観察を通して、住民組織がどのように編成されているのか解明することを試みた。他方、行商や露天商を営んでいる住民に対して個人史を中心とした聞き取り調査を行ってきた。その結果、同郷の親族や知人を頼って農村から出てきて、当初はその知人と同一の業種の仕事をすることが多いことが確認され、都市=農村間のネットワークについて素描することができた。彼らの多くは定住性が高くなく、町内居住者が定住性の高い集団とそうでない集団とに分離していく傾向があることが確認された。また、都市生成を商品流通と人の移動の点から解明するために、レンテンアグン町内にある伝統的市場に焦点をあてて、その歴史、規模、運営方法、出店している商人や買い物客の属性等の調査を行った。商人の多様性、階層性を明らかにする一方で、市場が地域社会の核となっていることを明らかにした。買い物客の分析を通しては、再販売のための仕入れ目的の者が約三分の一ほどいることがわかり、市場が地域のインフォーマルセクターを支える役割をしていることが明らかとなった。調査ではほかに、都市の日常を住民自身の感覚に近いところで表象する大衆紙を中心とした新聞資料の収集、整理に相当時間を費やした。全体として、ジャカルタ南部の都市化においてはフォーマルで強固な組織化の力とインフォーマルでルースなネットワークというふたつの組織原理がせめぎあっており、開発の時代を通して地域社会の二重化が進行してきたと考えられる。

1 0 0 0 治官報

著者
ジャワ軍政監部 [編] 倉沢愛子編
出版者
龍渓書舎
巻号頁・発行日
1989
著者
倉沢 愛子
出版者
Japan Society for Southeast Asian Studies
雑誌
東南アジア -歴史と文化- (ISSN:03869040)
巻号頁・発行日
vol.1989, no.18, pp.41-69, 1989-05-30 (Released:2010-02-25)

During World War II Japan occupied most part of Southeast Asia, advocating for “liberation of Asia” from western colonialism. Her hidden aim was, however, to exploit natural resources as well as human power of those areas, which were to be mobilized for her continuous and ambitious fighting. In order to achieve those purposes, Japan had to acquire cooperation of the population in the occupied areas. Therefore, propaganda activities were one of the most important tasks of Japanese military administration in Southeast Asia. Among various propaganda media movies were particularly promoted, since they were effective in the society where illiteracy rate was high and written media had limited effects. This paper will analyse Japanese film propaganda during World War II, taking the case in Java.As soon as Japanese seized power in Java, they confiscated all Dutch facilities and materials for film making and ordered a Japanese movie production company, Nippon Eigasha, to engage in production of news, culture, and feature films in Jakarta. Many distinguished staff were sent from Japan for this purpose. The theme of those films were closely connected with policies of military government. Among the films were those designed to impress people with Japanese military power, to inspire people's consciousness in defense of fatherland, and to encourage production and other labor activities. There were also many “educational” films to teach certain practical technique, scientific knowledge, Japanese songs, and Japanese value concepts. Writer had chance to see some of those films and her impression was that the artistic quality of those films was not bad and the contents were quite attractive.Under the Japanese rule kind of films shown in Java entirely changed owing to the prohibition of western movies, which by then had occupied about 85% of the total number of movies shown in Indonesia. Consequently those vacancy was filled by Japanese films, both locally made ones and those imported from Japan. Japanese encouraged movie watching among Indonesian people by reducing fare. But since the number of movie theaters were very small and they were mostly located only in cities, Japanese propaganda bureau organized moving theater teams and frequently carried out outdoor projection in villages. Those movies were free and open to everybody, and usually enjoyed a big audience. Big audience, however, does not necessarily mean positive acceptance of Japanese ideas. People, in many cases, simply came because there was scarcely any other amusement in those days. For most of the audience it was their first experience of movie watching, and impacts of the films were quite strong. Although Japanese propaganda was not successful in making Indonesian people accept Japanese idea for Greater East Asian Co-prosperity Sphere and moulding them into Japanese way of thinking, at least it had certain effects in alleviating people's unsatisfaction and anger towards Japanese and in preventing them from going into large-scale anti-Japanese resistance even in the highest tension brought by harsh economic policies. In that sense Japanese propaganda policies can be considered effective.
著者
山本 まゆみ 倉沢 愛子 Horton William.B 高地 薫 山崎 功 後藤 乾一 スリョメンゴロ ジャファール
出版者
宮城大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2019-04-01

歴史研究では、政治体制の変化で時間軸を「分断」する傾向があり、インドネシア近現代史では、第2次世界大戦で歴史の流れを「分断」する研究が通例となっている。だが、人脈や教育、社会活動という点から通観すると、スカルノと日本軍政監部の関係、インドネシア国軍やPETAの軍事教練、そして現在も存続する「隣組」のように、「分断」ではなく「連続性」や「継続性」を見出せる。本研究は、日本占領期を、独立後のインドネシアの播種期と捉え、占領期の軍の人脈、教育、文化・社会活動が、戦後社会に与えた影響を検証することを目的とする。本研究は、研究の国際貢献を念頭に、占領期研究の多言語史料や研究成果を英語で発表する。
著者
倉沢 愛子
出版者
慶應義塾経済学会
雑誌
三田学会雑誌 (ISSN:00266760)
巻号頁・発行日
vol.107, no.3, pp.425-443, 2014-10

特集 : 1940年代の地域社会と人の移動 : 日本帝国膨張・収縮期の地域社会第二次世界大戦中, 日本軍占領下のインドネシア, ジャワ島で行政補佐のために日本式の隣保制度が導入された。短い間ではあったが, 上意下達, 相互監視, 防諜・防空, 配給などにおいて活用され, 統治者にとって非常に有益な役割を果たした。そして敗戦で日本軍が去ったのちにも現地の社会に生き続け, とりわけ開発独裁の時代(1966–1998年)には重用された。それは日本の占領統治とスハルト政権による権威主義的な統治とが持つ基本的な性格の類似性によるところが大きい。本稿は戦時期ジャワにおいてこの隣保制度がどのように設立され, どのように機能したのかを当時の日本軍関係の文書, 新聞報道ならびにフィールド調査に基づいて検証し, 同時にそれが現在のインドネシアにおいてどのように活用されているのかを概観する。
著者
倉沢 愛子
出版者
慶應義塾経済学会
雑誌
三田学会雑誌 (ISSN:00266760)
巻号頁・発行日
vol.94, no.4, pp.645(81)-664(100), 2002-01

小特集 : マス・キリングの社会史はじめに第一章 9・30事件第二章 殺戮の背景 : 対立の構造第三章 「ジハド」の名における殺戮おわりに
著者
倉沢 愛子
出版者
慶應義塾経済学会
雑誌
三田学会雑誌 (ISSN:00266760)
巻号頁・発行日
vol.94, no.4, pp.645-664, 2002-01

はじめに第一章 9・30事件第二章 殺戮の背景 : 対立の構造第三章 「ジハド」の名における殺戮おわりに小特集 : マス・キリングの社会史