著者
濱田 雄太
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.77, no.8, pp.529-534, 2022-08-05 (Released:2022-08-05)
参考文献数
18

重力の量子化は,素粒子物理学最大の難問の1つとして,長年横たわっている.弦理論やホログラフィー原理を使って,様々な状況下での理解が進んでいるが,未だ完全な定式化には至っていない.そこで,少し視点を変えて,仮に重力の量子論が完成したとして,我々の世界にどんな示唆があるのか,という問いを考えてみよう.量子重力理論が完成すれば,時空の曲率がプランクスケールにまで大きくなった場合を取り扱うことができる.したがって,インフレーション期以前に存在したかもしれない超初期宇宙の超高温状態や宇宙の始まり,ホーキング輻射によりプランク長さ程度まで小さくなったブラックホールの運命,が分かると期待される.次に,重力以外のセクターについてはどうだろうか? すなわち,なぜ我々の世界は標準模型で記述されるのか,暗黒物質の正体は何なのか,電弱スケールとプランクスケールの階層性はどこからくるのか,といった疑問に量子重力理論は何か役立つのであろうか?これらに直接答えることは難しい.ここでは,このような問いに迫るための第一歩として,「量子重力理論は理論の非重力セクターに非自明な制限を与えるか?」を問いたい.仮に重力を量子化せず,古典的に扱うならば非自明な制限は得られないだろう.プランクスケール以下の低エネルギー有効理論は,古典重力理論と結合した有効場の理論で与えられる.この低エネルギー有効場の理論の立場からは,アノマリーを生成しないことにだけ注意すれば,どんな物質場や相互作用を導入しても良い.ところが,近年の発展により,一見無矛盾だけれども,量子重力と結合できない有効場の理論の集合(沼地(Swampland)と呼ばれる)が存在し,さらにそのような理論の数は,量子重力と結合できる有効場の理論の数よりも遥かに多いことが明らかになりつつある.このように,低エネルギーの立場からは一見明らかでない制限を見出そうとする研究は,量子重力の沼地問題と呼ばれ,最近研究が進展している.もちろん,完全な量子重力理論を手にしない限り,沼地は確定できないのだが,ブラックホール,弦理論,あるいはホログラフィーが正しいと仮定して,様々な角度から量子重力理論が持つべき性質を議論できる.こうして得られる(あるいは予想される)制限は,沼地条件または沼地予想と呼ばれる.最近,著者らは,低エネルギー有効理論の無矛盾性条件の詳細を注意深く調べることで,一見明らかでない隠された沼地条件を見出せることを発見した.具体的には,次の2つを考えた.1つ目は,散乱振幅の無矛盾性条件である.場の理論の基本的性質であるユニタリー性や因果性は,散乱振幅がある種の条件を満たすことを意味する.そこから,広いクラスの理論で弱い重力予想を示すことができた.2つ目は,理論に存在する位相欠陥の無矛盾性である.欠陥の動力学を記述する場の理論が無矛盾に存在することを要請して,元々の理論のゲージ群に強い制限が与えられることが分かった.さらに,我々は,様々な沼地条件をブラックホールエントロピーの有限性の一般化として理解することも提案した.また,いくつかの沼地条件とブラックホール物理との関係を明らかにした.提案は,これまで独立と思われてきた沼地条件を,より基本的な1つの原理から理解できる可能性を示唆している.今後の更なる発展により,量子重力理論の隠れた無矛盾性条件,背後にある原理が明らかになっていき,現象論への示唆,あるいは量子重力の定式化そのものへの示唆が得られることを期待する.
著者
西奈美 卓 白木 賢太郎
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.75, no.4, pp.192-200, 2020-04-05 (Released:2020-09-14)
参考文献数
64

プリオンは遺伝情報をもたずに感染するタンパク質のことをいう.プリオン病は18世紀には文献として確認されていた疾患である.当時,ヒツジの個体間で感染する神経変性疾患として確認されていた.この疾患は脳組織に海綿状の異常がみられるため,伝達性海綿状脳症(TSE)と総称されていた.20世紀の半ば,放射線生物学者のTikvah Alperらは,核酸を損傷させることができる放射線をもちいてTSEに照射したところ,TSEに耐性があったことから感染因子が核酸ではない可能性を疑っていた.1982年になり,Stanley Prusinerらは,核酸を特異的に壊す5つの処理とタンパク質を不活性化する処理による結果を比較することで,TSEは核酸をもたずに感染するという仮説を発表した.タンパク質の立体構造の変化が感染するという“タンパク質単独仮説”である.この感染因子は,核酸をもつウイルスやプラスミド,ウイロイドなどと区別するためにプリオン(proteinaceous infectious particles)と名付けられた.しかし,プリオンの概念は,“核酸を介して情報を伝達する”という分子生物学のセントラルドグマに反するほか,“タンパク質の天然構造はそのアミノ酸配列にしたがって熱力学的に最も安定な構造をとる”という,アンフィンセンのドグマにも従わず,長いあいだ科学の世界に受け入れられなかった.プリオンの概念が大きく進歩したのは,1994年の酵母プリオンUre2やSup35の発見であった.出芽酵母S. cerevisiaeでは,メンデルの法則にしたがわない奇妙な遺伝現象が知られていた.Reed Wicknerらは,その現象が哺乳類プリオンの概念で説明ができるのではないかと提唱したのである.その後,いくつかの研究グループによって,Sup35の構造変化が酵母の表現型を変化させることが証明されていった.酵母プリオンは感染の評価が速やかにでき,また,ヒトへの感染も起こらないため,扱いやすい研究モデルになった.そして,酵母には他にもプリオンがあること,原核生物であるボツリヌス菌もプリオンをもつことなどがわかっていった.このようにして,プリオンの概念は,原核生物から真核生物まで進化的に保存されていることが明らかとなったのである.その間にも,プリオンに似た機構で神経変性疾患を引き起こすプリオン様タンパク質の発見や,概念としてのプリオンに迫るアミロイドの研究が著しく発展した.しかし,疾患に関わる可能性のあるプリオンの現象が,なぜ多様な生物種にわたり進化的に保存されているのだろうか?最近の相分離生物学の台頭によって,プリオンの存在理由をうまく説明できる仮説が登場している.何億年も前に別の種に分かれた出芽酵母S. cerevisiaeと分裂酵母S. pombeのどちらにも保存されてきたプリオンタンパク質として,Sup35がある.Sup35は翻訳を終結させる働きがある.酵母が飢餓状態に陥ると細胞内が酸性になるが,そのときSup35は不可逆な凝集体の形成を防ぐために液–液相分離して液滴を形成することがわかった.つまり,Sup35のアミロイドを形成してプリオンを引き起こす領域は,同時に,液滴を形成して細胞の飢餓ストレスに応答するために働いていたのである.このように,タンパク質の溶液物性に還元して生命現象を理解するのが相分離生物学の見方である.
著者
深井 有
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.48, no.5, pp.354-360, 1993-05-05 (Released:2008-04-14)
参考文献数
34
著者
早川 竜馬 Tuhin Shuvra Basu 若山 裕
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.77, no.5, pp.298-303, 2022-05-05 (Released:2022-05-07)
参考文献数
29

単分子を集積回路の構成要素とする分子デバイスのアイディアは,1974年にAviramとRatnerによる分子ダイオードの提案に始まる.その後,単分子接合を効率的かつ再現性よく形成する技術が確立され,単分子トランジスタや単分子メモリなど興味深いデバイス提案がなされてきた.しかしながら,50年近く経った現在でも,未だ実用化には程遠いのが現状である.分子の持つ“優れた量子機能”を如何に実用デバイスの中で発現するかが重要な鍵となる.一方で現在のエレクトロニクスを支えるシリコンデバイスも大きな転換点を迎えている.素子の微細化によるトランジスタの高性能化は限界を迎え,従来とは異なる新しい動作原理で駆動するトランジスタの開発が求められている.そのため,ソース電極からドレイン電極へ流れる電荷の流れをトンネル効果により制御するトンネルトランジスタは,高速動作,低消費電力を兼ね備えた次世代トランジスタとして期待されている.しかしながら,“0”と“1”の2値動作という点では従来のトランジスタと変わらない.上記背景から,筆者らは現在のシリコンプロセスに適合した分子トランジスタを開発するため,分子を量子ドットに用いた縦型トランジスタを提案している.分子は,原子レベルで厳密に規定された均一な粒子であり,サイズ分布の無い理想的な量子ドットとして機能する.分子の持つ離散準位(分子軌道)を利用した単電子トンネル伝導を誘起できれば,低消費電力化に加え,多値化が実現でき,トランジスタのさらなる高性能化が期待できる.これまで,トランジスタの基本構造である金属–絶縁体–半導体構造の絶縁膜にC60分子を始め様々な分子を集積し,2重トンネル接合として機能することを示してきた.本研究では,上記トンネル素子をさらに縦型トランジスタのチャネル層に応用し,分子軌道を反映したトンネルトランジスタ動作を実証したので報告する.C60分子は3重縮退した最低空軌道と5重縮退した最高被占軌道を持つ.そのため,単一電荷が縮退した分子軌道へ注入されると帯電エネルギーにより縮退準位がシフトし,異なる準位として観測される.実際,20 Kにおいて測定したドレイン電流–ドレイン電圧特性において,縮退した分子軌道が等間隔に観測され,単電子トンネル伝導を確認した.オーソドックス理論を用いたシミュレーションから導出したトンネル接合容量を用い,量子ドット径を算出したところ1.3~1.9 nmとなった.これは,C60分子1~2個分に相当する.チャネル層には104–105個の分子が存在しているが,各分子が孤立分散しているため,少数分子に起因するトンネル伝導を観測できる.また,300 Kにおいても上記伝導機構が維持されており,室温動作も視野に入る.さらに僅か5 nmのチャネル長であるにもかかわらず,4桁にわたるドレイン電流のゲート変調に成功した.これは,分子軌道の変調効果に加え,シリコン基板内に形成される空乏層によりドレイン電流が効果的に制御された結果で,分子をシリコンデバイスに集積する一つの利点と言える.今後,様々な機能性分子を用い,無機材料では実現できない“分子固有の機能”を兼ね備えた次世代トランジスタが実現できると期待される.
著者
東辻 浩夫
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.75, no.10, pp.637-640, 2020-10-05 (Released:2020-12-10)
参考文献数
8
被引用文献数
1

物理教育は今 国際物理オリンピック過去問シリーズ落ちないばねの不思議――国際物理オリンピック2019の理論問題
著者
湯浅 年子
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.34, no.4, pp.273-291, 1979-04-05 (Released:2008-04-14)
参考文献数
10
被引用文献数
1

(希望は夜の空の如きもの. それは, ひたすら, みつめる瞳が探す星を見出せない程の真の闇ではない. -Octave Feuillet) 1932年頃から幾多の切断はあり乍らも辛うじて続けて来た研究について書く機会を与えられた. その際, 私の第一の希望がこれまで発表した論文のリストを日本にも残しておきたいという事なので, 当欄の趣意には添わないが解説で述べる「少数核子の問題」以外については付記した原論文を参考にしていただく事にして, 幾つかの研究を記述するに止める. 私のして来た事が果して研究といえるか, 諸賢の御批評を仰ぎたい.
著者
矢島 達夫 清水 忠雄
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.78, no.10, pp.613, 2023-10-05 (Released:2023-10-05)

追悼霜田光一先生を偲んで
著者
金子 邦彦
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.43, no.9, pp.689-697, 1988-09-05 (Released:2008-04-14)
参考文献数
44
被引用文献数
1

自然現象の中には, 自由度の大きい系がもたらす, 時間的にも空間的にも複雑な振舞が数多く見られる. 流体系での乱流現象はむろんのこと, 固体物理の非線形現象や化学反応や光学系, 更には生命現象にも例は挙げられる. ここでは, そのような現象を自由度の大きいカオスとして捉え, その為のプロトタイプとしてのモデル, coupled map lattice (CML) を提唱する. そのsimulationをもとに, 時空力オスの諸現象を概観し, 更に, 定量的記述法, 非線形素子としての可能性などについても触れたい.
著者
岩沢 宏
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.20, no.6, pp.424-426, 1965-06-05 (Released:2008-04-14)
参考文献数
19
著者
釜江 常好 荒船 次郎
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.31, no.6, pp.409-425, 1976-06-05 (Released:2008-04-14)
参考文献数
70

1974年秋に米国のブルックヘーヴン国立研究所とスタンフォード線形加速器研究所で, 従来の素粒子とは異質の中間子が発見されてから今日までに, これと同族と思われる一群の新粒子の存在が明らかになってきた. またほぼ同じ時期に, 新粒子群の存在と同様, あるいはそれ以上重大な意味を持つと思われる異常現象が相次いで見出された. そして当然のことながら, これらの発見を, 個別的にあるいは統一的に解釈しようとする理論も数多く提案され, 合せて素粒子物理を大きな渦に巻き込んだ激動の一年余りであった. 各地の実験グループのデータ整理も一段落し, 理論的活動も少し落ち着いてきた1976年2月の時点でこれら新粒子・異常現象関係の発表結果をまとめると共に, 個別的および統一的解釈の試みを解説するのも有意義と考えて, この一文を書いて見た. これと合せて宇宙線研究グループにより報告されている新粒子, 新現象についても解説し, 批評を試みる. 新粒子群と異常現象は, 今後も, 現時点で一応の成功を収めている,「チャーム・クオーク」の導入により説明されてしまう可能性もある. それだけでも偉大な進歩なのだが, 「チャームリオーク」説を踏み越え, 素粒子の構造, 強い相互作用・電磁相互作用・弱い相互作用の全体, レプトンとハドロンの関係等の理解の革命的な飛躍につながって行く可能性も十分にある. 断片的ではあるが, これらの可能性についても随所でふれて見たい.
著者
田邉 健太朗 鈴木 良拓
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.71, no.10, pp.688-694, 2016-10-05 (Released:2017-04-21)
参考文献数
18

時空の次元Dが無限大の極限において一般相対性理論はどのような理論になるだろうか.またブラックホールはその極限においてどのように振る舞うのか.この次元無限大の極限を取る手法は決して珍しいものではなく,身近なところでは統計力学における平均場理論がある.各サイトにおける自身のゆらぎを無視する平均場理論は,空間次元が無限大になる極限において厳密になる近似手法である.さらに,動的なゆらぎを取り入れた動的平均場理論は強相関電子系においてその威力を発揮している.本稿では,次元無限大の極限を取る手法(以下,高次元極限法)が,一般相対性理論においても強力であるという我々による最近の研究成果を紹介する.平均場理論においては無視されるゆらぎであるが,一般相対性理論ではそのゆらぎのダイナミクスに着目することで,高次元極限法によりブラックホールがもつ重要な性質をアインシュタイン方程式から抽出することができる.次元無限大の極限では,ブラックホールの重力場はそのホライズン近傍の非常に狭い領域に閉じ込められるようになる.つまり,その極限においてブラックホールから少しでも離れた場所ではその重力を感じなくなる.この描像は平均場理論においてゆらぎを無視する近似が次元無限大の極限で厳密になることと似ている.しかし我々の解析は,そのブラックホール近傍に閉じ込められる重力場のダイナミクスに注目するという点において平均場理論とは大きく違ってくる.一般相対性理論はスケールを含まない理論であり,そのような狭い領域における短いスケールの重力場のダイナミクスも記述できる.特に次元無限大においてホライズン近傍に局在するその重力場のゆらぎこそが,ブラックホールのもつ興味深いダイナミクスの鍵を握っているのである.我々による重要な研究成果の一つは,ブラックホールの有効理論を高次元極限法により導出したことである.時空の次元Dが大きくなる極限において,ホライズン近傍に閉じ込められる重力場の空間スケールはホライズン半径r0に対してr0 /Dとなる.このr0 /Dという短いスケールの重力場はアインシュタイン方程式において積分することができ,結果としてブラックホールによる重力場の低エネルギーゆらぎに対する有効理論を得ることができる.有効理論はブラックホールホライズンを質量や運動量,粘性など物理的性質をもった実体として記述するものであり,これはまさしくブラックホール物理学におけるメンブレンパラダイムをアインシュタイン方程式から導出したことを意味する.この有効理論は,ブラックホールがもつ不安定性とその非線形時間発展といった重要なブラックホール物理を単純な方程式で記述し,それらの解析を劇的に簡単化する便利なものである.我々の宇宙が高次元時空であることを示唆する超弦理論に触発され,高次元ブラックホールの研究はこれまで盛んに行われてきた.しかし,高次元ブラックホールの物理的性質は4次元ブラックホールのものとは全く異なり,どのようなブラックホール解が存在するのか,どのようなブラックホールの不安定性があるのか,など高次元ブラックホールに対する我々の理解は未だ不十分である.これは非線形連立偏微分方程式というアインシュタイン方程式の特徴からその解析が容易ではないことによる.そのような複雑なアインシュタイン方程式に潜むブラックホールの物理的性質を探る研究において,今後,ブラックホールの有効理論を与える高次元極限法は新たな突破口を開くだろう.
著者
星野 晋太郎 楠瀬 博明
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.71, no.1, pp.27-33, 2016-01-05 (Released:2017-04-22)
参考文献数
53

低温で電気抵抗が突如として消失する超伝導現象は,その発見から今日に至るまで多くの人々の心を惹きつけている.この現象の本質は1957年に提出されたBardeen-Cooper-Schrieffer(BCS)の理論によって解明され,物理学全体に影響を与える重要な概念となっている.例えば,2012年から翌年にかけて標準理論の最後のピース,ヒッグス粒子が発見されたことは記憶に新しいが,その着想にBCS理論が多大な影響を与えたことをこ存じの方も多いだろう.超伝導の研究分野では,ヒッグス場の役割を果たす電子ペア凝縮体の多様性が大きな興味の1つであり,その中でもひときわ風変わりな超伝導状態が本稿の主題である.超伝導は,格子振動などによって媒介される引力によって結びつけられた電子のペア(クーパー対)が位相をそろえて量子凝縮した状態と考えられている.ヒッグス粒子のスピンはゼロと同定されたようだが,BCS理論で想定されたクーパー対も等方的な(s波)スピンゼロ(1重項)状態である.この状態は元素で言えば軌道やスピンなどの自由度をもたない希ガス(閉殻構造)にあたる.周期表には内部自由度をもつ遷移元素や希土類元素もあり,多彩な物性の源になっている.局所的に強い斥力が働く系では,粒子はお互いに避け合って空間的に離れたクーパー対ができやすく,その波動関数は2つの粒子の相対座標の原点に節をもつ(異方的超伝導).実際,銅酸化物高温超伝導体や液体^3Heではd波1重項やp波3重項のペアが実現していると考えられている.では,空間的にではなく時間的に避け合ったペアは可能だろうか?このような新しいペアは1974年に液体^3Heを対象としてBerezinskiiによって提案された.そのペア波動関数は時間方向に節をもつ奇関数であり,そのフーリエ変換は奇周波数成分によって特徴づけられるため,奇周波数超伝導と呼ばれている.ペアの結びつきが時間とともに振動し,同時刻では消えてしまうという奇妙な状態である.奇周波数超伝導という物質の新しい量子状態には様々な驚きが潜んでいると思われ,これまでに理論・実験両方の観点から議論されている.しかしながら,この時間方向に「異方的」なペアに対して従来の超伝導理論の処方箋を適用すると,熱力学的に不安定で,かつ従来とは逆符号の電磁応答を示すなどの非物理的な解が得られることが指摘され,研究者を悩ませてきた.本稿では超伝導体に対して通常仮定される2つの条件を個別に見直すことにより,熱力学的不安定性の問題が解決されることを示す.第一に見直す点は,ペアを特徴づけるギャップ関数に対して暗に仮定されている「エルミート性」である.これにより,奇周波数超伝導は熱力学的に安定な状態となり,正しい電磁応答係数を得ることができる.また第二の解決策は,「エルミート性」の仮定はそのままに,クーパー対の重心運動量がゼロという通常用いられる条件を見直すことである.実際に,局所電子相関を厳密に取り扱う手法を用いて重い電子系のモデルを解析することで,有限の重心運動量をもつ奇周波数クーパー対が安定に存在することが示される.このように最近の研究の進展によって,奇周波数超伝導の本質的な理解を妨げていた問題点が解決されるとともに,その特異な物性が具体的なモデル計算により明らかになりつつある.
著者
伊部 昌宏 市川 温子
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.72, no.10, pp.700-701, 2017-10-05 (Released:2018-08-06)
参考文献数
4
被引用文献数
3

現代物理のキーワードニュートリノ振動におけるCP対称性の破れの探索とその意義
著者
玉岡 幸太郎 梅本 滉嗣
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.75, no.6, pp.335-339, 2020-06-05 (Released:2020-10-14)
参考文献数
9

時空,そして重力の微視的起源を明らかにすることが,物理学における究極の問いの一つであることは間違いないだろう.近年,この問題を考える上で,量子コンピュータなどの基礎ともなる量子情報科学に基づいたアプローチが重要視されている.この問いは,「重力の量子論がどのように定式化されるか?」と換言できる.重力の量子化は,歴代の物理学者による挑戦を跳ねのけ続けてきた難しい問題だが,この困難を克服できる可能性の一つがホログラフィー原理である.これは,「D+1次元の量子重力理論は,D次元の重力を含まない量子多体系と等価である」という作業仮説である.実際に,量子重力理論の有力候補である超弦理論において,このホログラフィー原理を具現化したAdS/CFT対応が発見された.この具体例を通して,ホログラフィー原理の核心を明らかにすべく,数多くの研究が進められている.この文脈において,昨今では量子情報というキーワードを基にした新しい発展が続いている.その火付け役となったのが,D次元量子多体系のエンタングルメント・エントロピーとD+1次元重力理論のある種の曲面の面積が等しいことを明らかにした,笠–高柳公式である.エンタングルメント・エントロピーは,純粋状態にある2体系の量子もつれ(エンタングルメント)を定量化する情報量である.一方,面積は時空の曲がり方から一意に決まる幾何学量のため,この公式は「量子相関の構造」と「時空の曲がり方の構造」に密接な関係があることを示唆している.ところが,熱状態などの混合状態を考え始めると,エンタングルメント・エントロピーはもはや量子もつれを定量化する情報量ではなくなってしまう.これと対応するように,笠–高柳公式に現れる幾何学量だけでは,時空の計量を完全に決定できないことも知られている.事実,エンタングルメント・エントロピーの混合状態への一般化は量子情報理論におけるテーマの一つであり,これまでも文脈に応じて無数の情報量が提案されてきた.我々は少し見方を変えて,「ホログラフィー原理の観点から“良い”量子情報量は存在するか」という問いを考えた.その結果として,笠–高柳公式の一般化を与えるような“良い”量子情報量の候補を二つ発見した.一つは純粋化量子もつれと呼ばれるよく知られた量,もう一つはオッドエントロピーと呼ばれる新しく導入された量である.どちらの量も,純粋状態に対してはエンタングルメント・エントロピーと等価である.我々は,これらの情報量が,重力理論と等価な量子多体系において,笠–高柳公式に現れる曲面を一般化したもの(エンタングルメント・ウェッジ・クロスセクションと呼ばれる)の面積と等価であることを様々な観点(情報量と幾何学量の満たす不等式の一致や,重力と量子多体系における直接計算の一致など)から示し,一般に成り立つことを予想した.これらの発見は,単なる公式の一般化にとどまらず,従来の予想(重力理論とホログラフィックに等価な量子多体系では,2体量子相関が支配的である)に修正が必要であることを明らかにするなど,前述の「ホログラフィー原理が成り立つ上で何が重要か?」に対して新しい知見を与え始めている.また,このような情報量はホログラフィー原理の理解を超えて,様々な分野で有用である可能性が高く,今後の更なる発展,応用が期待される.