著者
佐藤 雅也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.133-196, 2008-12-25

ここでの問題意識は、民衆・常民の視点、民衆・常民の側に立った史学、文化史が民間伝承の学(民俗学)の本質とするならば、語りの部分、語られた部分を基礎に、戦争をとらえていくこと。日本の民衆・常民にとって、近代の戦争体験とその後の人生を明らかにしたうえで、戦争体験の記録と語りを継承していくことを目的としている。このことをふまえて、本報告では、三つのテーマから構成されている。第一に、「軍都」仙台の戦争遺跡と記念碑では、現在の時点から見た近代仙台の旧軍事施設の史跡、旧軍関係及び戦時関係の記念施設・記念碑・慰霊碑などについて、その概要を報告している。また、旧「軍都」仙台の陸軍施設の変遷と、近代の戦争に関わる記録を概観している。そして、昭和十五年(一九四〇)以降の仙台第二師団における宮城県・福島県・栃木県関係の旧軍施設に関する原本資料である仙台師管区経理部「各部隊配置図・国有財産台帳附図」について、その概要を紹介している。第二に、戦死者祭祀と招魂祭では、記念碑、文献資料、新聞記事などから、戊辰戦争、西南戦争、甲申事変、日清戦争、日露戦争、満洲事変、日中戦争、アジア太平洋戦争などにおける戦死者の慰霊と招魂の問題を取り上げている。第三に、戦争の民俗~戦争体験とその後の人生をめぐる民衆・常民の心意とは~では、「聞き書き」資料を基礎に、実物資料、文献資料、写真資料なども付け加えている。ここでは、①徴兵検査の意義と役割、②徴兵検査と軍隊への入営、③内地での軍隊生活、④一兵士が見た軍隊と戦争(召集、家族、戦地、敗戦と捕虜生活)、⑤満洲開拓と満洲移民、⑥「戦争未亡人」の戦中・戦後などについて、報告している。実際の調査では、約五十人の話者の方々のご協力をいただいたが、その中から十八人のインタビューをもとに記述している。このように民俗学の手法を駆使して、戦争の民間伝承を各地で継承していくことは、常民・民衆のための文化史としての民俗学にとって、課題の一つだと考える。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.79-104, 2009-03-31

安閑・宣化期に集中的に屯倉記事が記載されている点については,那津官家へ諸国の屯倉の穀を運んだとの記載を重視するならば,当該期における対外的緊張がその背景に想定され,屯倉と舂米部のセットにより兵粮米を用意し,「那津官家」を中心とする北九州の諸屯倉に集積する体制を構想した。先進的と評価されてきた白猪・児島屯倉における「田戸」は,編戸・造籍により戸別に編成された田部ではなく,成人男子の課役負担者を集計するのみであり,「田部丁籍(名籍)」も一旦作成されると十年以上更新されない単発的なリストであった。「田戸」・「田部丁籍(名籍)」などの表現はそのままでは信頼できず,通説的な律令制的籍帳支配を前提とする評価は疑問である。孝徳期の改革は,行政区画の設定よりも重層化した徴税単位の設定に重点があり,国造のもとで官家を拠点とする統一的,直接的な税の貢納および人の徴発を構想した。国造(国造制)だけでなく制度的に異なる伴造(部民制)・県稲置(屯倉・県制)が歴史的に「官家」(在地における貢納奉仕の拠点)を領したと認識され,その実績が評造や五十戸造といった新たな官家候補者の選定の前提になった。「譜第」意識の連続性において品部や屯倉の廃止命令は,国造を除く伴造や県稲置にとっては大きな転換点として認識された。ミヤケの伝承のうちには郡司の「譜第」に関係した伝承や註記が存在した。「皇太子奏請文」は「改新之詔」の原則に従って,王土王民的な建前から王族による大王への定量的な課役負担を新たに開始する宣言として解釈される。仕丁以外の王族が所有した旧部民たる民部(入部)や家人的奴婢たる家部(所封民)の実質は王子宮内部のツカサの運営費として温存され,基本的に天武四年の部曲廃止まで存続する。
著者
広瀬 和雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.150, pp.33-147, 2009-03-31

西日本各地の首長同盟が急速に東日本各地へも拡大し,やがて大王を中心とした畿内有力首長層は,各地の「反乱」を制圧しながら強大化し,中央集権化への歩みをはじめる。地方首長層はかつての同盟から服属へと隷属の途をたどって,律令国家へと社会は発展していく,というのが古墳時代にたいする一般的な理解である。そこには,古墳時代は律令国家の前史で古代国家の形成過程にすぎない,古墳時代が順調に発展して律令国家が成立した,というような通説が根底に横たわっている。さらには律令国家の時代が文明で,古墳時代は未熟な政治システムの社会である,といった<未開―文明史観>的な歴史観が強力に作用している。北海道・北東北と沖縄諸島を除いた日本列島では,3世紀中ごろから7世紀初めごろに約5200基の前方後円(方)墳が造営された。墳長超200mの前方後円墳32/35基,超100mの前方後円(方)墳140/302基が,畿内地域に集中していた。そこには中央―地方の関係があったが,その政治秩序は首長と首長の人的な結合で維持されていた。いっぽう,『記紀』が表す国造・ミヤケ・部民の地方統治システムも,中央と地方の人的関係にもとづく政治制度だった。つまり,複数の畿内有力首長が,各々中小首長層を統率して中央政権を共同統治した<人的統治システム>の古墳時代と,国家的土地所有にもとづく<領域的統治システム>を理念とした律令国家の統治原理は異質であった。律令国家の正統性を著した『日本書紀』の体系的な叙述と,考古学・古代史研究者を規制してきた発展史観から,みずからの観念を解き放たねばならない。そして,膨大な考古資料をもとに,墳墓に政治が表象された古墳時代の350年間を,一個のまとまった時代として,先見主義に陥らずにその特質を解明していかねばならない。
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.155-182, 2014-02-28

弥生文化は,鉄器が水田稲作の開始と同時に現れ,しかも青銅器に先んじて使われる世界で唯一の先史文化と考えられてきた。しかし弥生長期編年のもとでの鉄器は,水田稲作の開始から約600年遅れて現れ,青銅器とほぼ同時に使われるようになったと考えられる。本稿では,このような鉄の動向が弥生文化像に与える影響,すなわち鉄からみた弥生文化像=鉄史観の変化ついて考察した。従来,前期の鉄器は,木製容器の細部加工などの用途に限って使われていたために,弥生社会に本質的な影響を及ぼす存在とは考えられていなかったので,弥生文化当初の600年間,鉄器がなかったとはいっても実質的な違いはない。むしろ大きな影響が出るのは,鉄器の材料となる鉄素材の故地問題と,弥生人の鉄器製作に関してである。これまで弥生文化の鉄器は,水田稲作の開始と同時に燕系の鋳造鉄器(可鍛鋳鉄)と楚系の鍛造鉄器(錬鉄)という2系統の鉄器が併存していたと考えられ,かつ弥生人は前期後半から鋳鉄の脱炭処理や鍛鉄の鍛冶加工など,高度な技術を駆使して鉄器を作ったと考えてきた。しかし弥生長期編年のもとでは,まず前4世紀前葉に燕系の鋳造鉄器が出現し,前3世紀になって朝鮮半島系の鍛造鉄器が登場して両者は併存,さらに前漢の成立前には早くも中国東北系の鋳鉄脱炭鋼が出現するものの,次第に朝鮮半島系の錬鉄が主流になっていくことになる。また弥生人の鉄器製作は,可鍛鋳鉄を石器製作の要領で研いだり擦ったりして刃を着けた小鉄器を作ることから始まる。鍛鉄の鍛冶加工は前3世紀以降にようやく朝鮮半島系錬鉄を素材に始まり,鋳鉄の脱炭処理が始まるのは弥生後期以降となる。したがって鋳鉄・鍛鉄という2系統の鉄を対象に高度な技術を駆使して,早くから弥生独自の鉄器を作っていたというイメージから,鋳鉄の破片を対象に火を使わない石器製作技術を駆使した在来の技術で小鉄器を作り,やがて鍛鉄を対象に鍛冶を行うという弥生像への転換が必要であろう。
著者
藤森 馨
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.73-83, 2008-12-25

真名鶴神話(真鶴神話・八握穂縁起とも)とは、六月・十二月十一日神今食と十一月中卯日新嘗祭の祭月朔日に、天皇に供進される忌火御饌の起源神話として、神祇官から村上天皇に天暦三年(九四九)に上奏された『神祇官勘文』に見られる神話である。その内容は以下の通りである。倭姫が天照大神を奉じ、伊勢国壱志郡を発し、佐志津に逗留した際、夜間葦原で鶴鳴を聞いた。使者を派遣し、捜索させたところ一隻の鶴が八根の稲穂を守護していた。倭姫はこれを苅り採り、大神の御饌に供えようとし、折木を刺し合わせ火鑚をし、彼の米を炊飯。大神に供奉し、この時から神嘗祭は始まった。そして以後三節祭毎に御飯を供進したという。こうした火鑚を行って鶴が守護した稲を炊飯する儀を忌火といい、宮中の忌火御饌の起源であると神祇官より村上天皇に上奏されたのである。すなわち、この神話伝承によれば、宮中の忌火御饌は、伊勢神宮内宮の由貴大御饌神事と不可分な関係があるという。のみならず、天皇親祭の形式で執行される六月・十二月十一日神今食と十一月中卯日新嘗祭と祭祀構造を同じくする神宮三節祭、すなわち六月月次祭・九月神嘗祭・十二月月次祭との関係を考える上でも、宮中の忌火御饌供進儀と神宮の由貴大御饌供進儀との密接さを窺わせる神話は看過できない。本稿では宮中の嘗祭の延長線上に神宮三節祭があることを検討してみたい。
著者
坪根 伸也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.123-152, 2018-03-30

中世から近世への移行期の対外交易は,南蛮貿易から朱印船貿易へと段階的に変遷し,この間,東洋と西洋の接触と融合を経て,様々な外来技術がもたらされた。当該期の外来技術の受容,定着には複雑で多様な様相が認められる。本稿ではこうした様相の一端の把握,検討にあたり,錠前,真鍮生産に着目した。錠前に関しては,第2次導入期である中世末期から近世の様態について整理し,アジア型錠前主体の段階からヨーロッパ型錠前が参入する段階への変遷を明らかにした。さらにアジア型鍵形態の画一化や,素材のひとつである黄銅(真鍮)の亜鉛含有率の低い製品の存在等から,比較的早い段階での国内生産の可能性を指摘した。真鍮生産については,金属製錬などの際に気体で得られる亜鉛の性質から特殊な道具と技術が必要であり,これに伴うと考えられる把手付坩堝と蓋の集成を行い技術導入時期の検討を行った。その結果,16世紀前半にすでに局所的な導入は認められるが,限定的ながら一般化するのは16世紀末から17世紀初頭であり,金属混合法による本格的な操業は今のところ17世紀中頃を待たなければならない状況を確認した。また,ヨーロッパ型錠前の技術導入について,17世紀以降に国内で生産される和錠や近世遺跡から出土する錠の外観はヨーロッパ錠を模倣するが,内部構造と施錠原理はアジア型錠と同じであり,ヨーロッパ型錠の構造原理が採用されていない点に多様な技術受容のひとつのスタイルを見出した。こうした点を踏まえ,16世紀末における日本文化と西洋文化の融合の象徴ともいえる南蛮様式の輸出用漆器に注目し,付属する真鍮製などのヨーロッパ型の施錠具や隅金具等の生産と遺跡出土の錠前,真鍮生産の状況との関係性を考察した。現状では当該期の大規模かつ広範にわたる生産様相は今のところ認め難く,遺跡資料にみる技術の定着・完成時期と,初期輸出用漆器の生産ピーク時期とは整合していないという課題を提示した。
著者
堀部 猛
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.218, pp.279-298, 2019-12-27

古代の代表的な金属加飾技法である鍍金は、水銀と金を混和して金アマルガムを作り、これを銅製品などの表面に塗り、加熱して水銀を蒸発させ、研磨して仕上げるものである。本稿は、『延喜式』巻十七(内匠寮)の鍍金に関する規定について、近世の文献や金属工学での実験成果、また錺金具製作工房での調査を踏まえ、金と水銀の分量比や工程を中心に考察を行った。古代の鍍金については、今日でも小林行雄『古代の技術』を代表的な研究として挙げることができる。専門とする考古資料のみならず、文献史料も積極的に取り上げ、奈良時代の帳簿からみえる鍍金と内匠式の規定を比較することを試みている。しかしながら、内匠式における金と水銀の分量比をめぐっては、明快な解釈には至っていない。氏の理解を阻んでいるのは、奈良時代の史料が鍍金の材料を金と水銀で表すのに対し、内匠式が「滅金」と水銀を挙げていることにある。「滅金」が何を指し、水銀の用途は何であるのか、また、なにゆえこうした規定となっているのかが課題となっている。内匠式では「滅金」は金と水銀を混和した金アマルガムを指し、その分量比は一対三としている可能性が大きいこと、それに続く水銀は「酸苗を着ける料」として梅酢などで器物を清浄にする際に混ぜ、また対象や部位によりアマルガムの濃度を調節するのに用いるものとして、式が立てられていると解した。鍍金の料物を挙げる内匠式の多くの条文では、水銀が滅金の半分の量となっており、全体に金と水銀が一対五の分量比となるよう設定されている。この分量比は、奈良時代の寺院造営や東大寺大仏の鍍金のそれとほぼ同じである。以上のような滅金と水銀による料物規定は内匠式特有のものであり、実際の作業工程に即して式文を定立したことによると評価できる
著者
三浦 正幸
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.85-108, 2008-12-25

寺院の仏堂に比べて、神社本殿は規模が小さく、内部を使用することも多くない。しかし、本殿の平面形式や外観の意匠はかえって多種多様であって、それが神社本殿の特色の一つと言える。建築史の分野ではその多様な形式を分類し、その起源が論じられてきた。その一方で、文化財に指定されている本殿の規模形式の表記は、寺院建築と同様に屋根形式の差異による機械的分類を主体として、それに神社特有の一部の本殿形式を混入したもので、不統一であるし、不適切でもある。本論文では、現行の形式分類を再考し、その一部を、とくに両流造について是正することを提案した。本殿形式の起源については、稲垣榮三によって、土台をもつ本殿・心御柱をもつ本殿・二室からなる本殿に分類されており、学際的に広い支持を受けている。しかし、土台をもつ春日造と流造が神輿のように移動する仮設の本殿から常設の本殿へ変化したものとすること、心御柱をもつ点で神明造と大社造とを同系統に扱うことを認めることができず、それについて批判を行った。土台は小規模建築の安定のために必要な構造部材であり、その成立は仮設の本殿の時期を経ず、神明造と同系統の常設本殿として創始されたものとした。また、神明造も大社造も仏教建築の影響を受けて、それに対抗するものとして創始されたという稲垣の意見を踏まえ、七世紀後半において神明造を朝廷による創始、大社造を在地首長による創始とした。また、「常在する神の専有空間をもつ建築」を本殿の定義とし、神明造はその内部全域が神の専有空間であること、大社造はその内部に安置された内殿のみが神の専有空間であることから、両者を全く別の系統のものとし、後者は祭殿を祖型とする可能性があることなどを示した。入母屋造本殿は神体山を崇敬した拝殿から転化したものとする太田博太郎の説にも批判を加え、平安時代後期における諸国一宮など特に有力な神社において成立した、他社を圧倒する大型の本殿で、調献された多くの神宝を収める神庫を神の専有空間に付加したものとした。そして、本殿形式の分類や起源を論じる際には、神の専有空間と人の参入する空間との関わりに注目する必要があると結論づけた。
著者
柴田 昌児
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.149, pp.197-231, 2009-03-31

西部瀬戸内の松山平野で展開した弥生社会の復元に向けて,本稿では弥生集落の動態を検討したうえでその様相と特質を抽出する。そして密集型大規模拠点集落である文京遺跡や首長居館を擁する樽味四反地遺跡を中心とした久米遺跡群の形成過程を検討することで,松山平野における弥生社会の集団関係,そして古墳時代社会に移ろう首長層の動態について検討する。まず人間が社会生活を営む空間そのものを表している概念として「集落」をとらえたうえで,その一部である弥生時代遺跡を抽出した。そして河川・扇状地などの地形的完結性のなかで遺跡が分布する一定の範囲を「遺跡群」と呼称する。松山平野では8個の遺跡群を設定することができる。弥生集落は,まず前期前葉に海岸部に出現し,前期末から中期前葉にかけて遺跡数が増加,一部に環壕を伴う集落が現れる。そして中期後葉になると全ての遺跡群で集落の展開が認められ,道後城北遺跡群では文京遺跡が出現する。機能分節した居住空間構成を実現した文京遺跡は,出自の異なる集団が共存することで成立した密集型大規模拠点集落である。そして集落内に居住した首長層は,北部九州を主とした西方社会との交渉を実現させ,威信財や生産財を獲得し,集落内部で金属器やガラス製品生産などを行い,そして平形銅剣を中心とした共同体祭祀を共有することで東方の瀬戸内社会との交流・交渉を実現させたと考えられる。後期に入ると文京遺跡は突如,解体し,集団は再編成され,後期後半には独立した首長居館を擁する久米遺跡群が新たに階層分化を遂げた突出した地域共同体として台頭する。こうした解体・再編成された後期弥生社会の弥生集落は,久米遺跡群に代表されるいくつかの地域共同体である「紐帯領域」を生成し,松山平野における特定首長を頂点とした地域社会の基盤を形づくり,古墳時代前半期の首長墓形成に関わる地域集団の単位を形成したのである。
著者
鳥越 皓之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.35-51, 2001-03-30

民俗学において,「常民」という概念は,この学問のキー概念であるにもかかわらず,その概念自体が揺れ動くという奇妙な性格を備えた概念である。しかしながら考え直せば,逆にキー概念であるからこそ,民俗学の動向に合わせてこの概念が変わりつづけてきたのだと解釈できるのかもしれない。もしそうならば,このキー概念の変遷を検討することによって,民俗学の特質と将来のあり方について理解できるよいヒントが得られるかもしれない。そのような関心のもとに,本稿において,次の二つの課題を対象とする。一つが「常民」についての学説史的検討であり,もう一つが学説史をふまえてどのような創造的な常民概念があり得るのかという点である。後者の課題は私自身の小さな試みに過ぎないためにそれ自体は一つの主張以上の評価をもつものではない。だが,機会あるごとにこのような方法論レベルの試みを行うことが,民俗学の可能性を広げるものであると信じている。前者の学説史においては,柳田国男の常民の使用例は三つの段階に区切れること,また,神島二郎,竹田聴洲の常民についての卓越した見解の位置づけを本稿でおこなっている。後者の課題については,学説史をふまえて「自然人としての常民」とはなにかという点を検討している。そして常民概念は,集合主体レベル,文化レベルでのみとらえるのではなくて,個別の生存主体としてのワレからはじまり,それが私的世界を越えて公的世界に開かれたときにはじめて集合主体や文化主体として現象すると理解した方がよいのではないかと提案している。つまり民俗学は,一個一個の人間の個別な生存主体を大切にしてきたし,今後もそれを大切なものとみなしていくことが民俗学の方法論的特性だから,常民概念の基本にそれを設定すべきだと指摘しているのである。
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.11-41, 2018-02-28

本論文は,高度経済成長期に向かう時代,昭和30 年代初期のダム建設と水没集落の対応に一つの形があることに注目して民俗誌的分析を試みたものである。広島県の太田川上流の樽床ダム建設で水没した樽床集落(昭和31~32 年に移転)と前稿でとりあげた福島県の只見川上流の田子倉ダム建設で水没した田子倉集落(昭和31 年に移転)とは,どちらも農業を主とした集落で,移転時には民具の収集保存や村の歴史記録の刊行,移転後の故郷会の継続など,故郷とのつながりの維持志向性が特徴的であった。とくに,樽床の報徳社を作った後藤吾妻氏,田子倉の13軒の旧家筋の家々などが,村人の面倒見がよく,村の存続の危機への対応のなかで村を守る連帯の中心となっていた。村の中には貧富の差が大きかったが,富める者が貧しい者の面倒をみるという近世以来の親方百姓的な役割が村落社会でまだ活きていた可能性がある。それに対して,岩手県の湯田ダム建設で水没した集落(昭和34~35年に移転)は農家もあったが鉱山で働く人が多い流動的な集落で,代替農地の要求はなかった。さらに樽床ダムより約30年後に建設された太田川上流の温井ダムの場合には1987年に集団移転がなされたが,その際村人たちは受身的ではなく能動的に新たな生活再建を進めた。このように,移転時期による差異や定住型か移住型かという集落の差異が注目された。そして,故郷喪失という生活展開を迫られた人たちの行動を追跡してみて明らかとなったのは,土地に執着をもたず都市部に出て行った人たちの場合は新しい生活力を求めて前向きに取り組んだということ,その一方,農業で土地に執着があった人たちはその故郷を記憶と記念の中に残しその保全活用をしながら現実の新たな生活変化に前向きに取り組んでいったということである。つまり,更新と力(移住型)と記憶と力(定住型)という2つのタイプの生活力の存在を指摘できるのである。もう一つが世代交代の問題である。樽床も田子倉も湯田もダム建設による移転体験世代の経験は子供世代には引き継がれず,「親は親,子供は子供」という断絶が共通している。
著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.126, pp.119-131, 2006-01-31

太平洋戦争中、補給を断たれて多くの餓死・病死者を出したメレヨン島から生還した将校・兵士たちをして体験記の筆をとらしめたのは、死んだ戦友、その遺族に対する「申し訳なさ」の感情であり、そこから死の様子が描かれ、後世に伝えられることになった。あるいは自己の苛酷な体験を「追憶」へ変えたいというひそかな願いもあった。自己の体験をなんとか意義付けたい、しかし戦友の死の悲惨さは被い隠せない、と揺れる心情もみてとれた。このように生還者たちの記した「体験」の性格は多面的であり、容易に単純化・一本化できるような性質のものではない。戦後行われてきた戦死者「慰霊」の背後には、そうした複雑な思いがあった。いくつかのメレヨン体験記を通じて浮かびあがってきたのは、「昭和」が終わり、戦後五〇年以上たってなおやまない、〈戦争責任〉への執拗な問いであった。その矛先は、時に天皇にまで及んだ。たとえそこで外国への、あるいは己れの戦争責任が問われることがなかったとしても、「責任を問うこと」へのこだわりや「死んでいく者の念頭に靖国はなかったろう」という当事者たちの文章は、戦後日本における「先の戦争」観の実相を問ううえでも、さらには戦争体験の風化・美化を進める今後の世代が前の世代の「戦中の特攻精神や飢えの苦しみは戦後教育と飽食に育った世代の理解は不可」という声に抗して「戦争体験」を引き継ぐさい、今一度想起されてよいのではないか。
著者
伊藤 幸司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.223, pp.51-73, 2021-03-15

本稿は、日本と明朝との交流に使われた航路のうち、南海路を考察対象とするものである。日明航路は、東シナ海を横断する「大洋路」と「南島路」があり、これに接続する国内航路として「中国海路」と「南海路」がある。南海路は、南九州から九州東岸を北上し、豊後水道を横断して四国に渡り、土佐国沿岸を経て、紀伊水道から畿内の堺へと至る航路であり、一六世紀中葉に日本に来航した鄭舜功の『日本一鑑』では「夷海右道」として記されている。南海路は、一五世紀後期の応仁度遣明船が帰路に使用してから注目されるようになるが、実際は遣明船以前からの利用が史料から確認できる。ただし、瀬戸内海を通過する中国海路と比較すると、南海路は、距離も長く時間もかかるうえに、室戸岬や足摺岬を迂回し、太平洋に直面する土佐湾を航行するという自然条件の厳しさもあったため、中国海路の沿線が不安定化した場合や、政治的な背景がある場合に限って利用されることが多かった。本稿では、これまで断片的に蓄積されてきた南海路にかかる研究史を整理した上で、南海路を利用した遣明船について個別に取り上げ、南海路の港町との関係等に注目しながら考察をした。対象とする遣明船は、応仁度船、文明八年度船、同一五年度船、明応度船、永正度船、大永度船、天文一三年度船である。
著者
岡 美穂子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.223, pp.387-406, 2021-03-15

本稿では,16世紀に記された日本で活動するイエズス会士達の記録を手掛かりに,16世紀後半の九州=畿内間の航路の詳細を検証する。基本的には既刊の翻訳書である松田毅一監訳『イエズス会日本報告集』を情報源とするが,原文の綴りや翻訳内容に疑義のある箇所については原文に遡って,手を加えた。これらの情報の検討の結果,イエズス会士達は主に瀬戸内航路で諸所の港に乗合船で立ち寄りながら移動していたこと,これらの港の一部にはイエズス会士が定宿とするような日本人の家があり,布教の拠点ともなったことが明らかとなる。また,頻繁ではないものの,南海路で移動することもあり,それは主に瀬戸内海の状況が戦争で不安定な時に用いられた。瀬戸内航路,南海路共に海賊は多数おり,海賊との折衝や遭遇の様子も詳細に記される。また彼等を運ぶ船乗り達,船のスペックなどについても詳細な情報がある。特筆すべきは,大友宗麟が大坂出身で塩飽を拠点とする大型船の船頭と直接契約して,宣教師を畿内へと運ばせたという情報である。この情報からも,瀬戸内海の商業航路の関係者が,相当に超領域的な活動を行っていたことが考えられよう。従来のイエズス会史料を用いた南蛮貿易研究では,マカオ=九州間の交易についてのものが多かったが,本研究では,九州より先の日本国内,主に畿内の商人たちの南蛮貿易への関わりに着目した。とりわけ第四節では,小西家のキリシタン入信前後の状況と南蛮貿易に携わる京都商人の動きに着目し,これまでの研究では言及されたことのない血縁ネットワークについても明らかにした。そこからは,京都商人の入信動機には,南蛮貿易での利益のみならず,西洋からもたらされる最先端の知識への探究心もあったことが推察可能である。
著者
鋤柄 俊夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.48, pp.p161-239, 1993-03

大阪府南河内郡美原町とその周辺の地域は,特に平安時代後期から南北朝期にかけて活躍した「河内鋳物師」の本貫地として知られている。これまでその研究は主に金石文と文献史料を中心にすすめられてきたが,この地域の発掘調査が進む中で,鋳造遺跡および同時代の集落跡などが発見され,考古学の面からもその実態に近づきつつある。ところで従来調査されてきた奈良時代以降の鋳造遺跡は,寺院または官衙に伴う場合が多く,分析の対象は梵鐘鋳造土坑と炉または仏具関係鋳型とスラグなどが中心とされていた。一方河内丹南の鋳造遺跡についてみれば,鍋などの鋳型片および炉壁・スラグ片は一般集落を構成する遺構群の中から出土し,炉基部をはじめとする鋳造関連施設の痕跡もその一部で検出される。これらは鋳造施設をともなった中世集落遺跡の中の問題なのである。そしてこの地域の集落遺跡は,河内丹南の鋳物師の本貫地であったという記録と深く関わっている可能性が強いのである。小論はこの前提に立ち,丹南の中世村落を復原する中で特に職能民の集落に注目し,それが文献史研究の成果により示されている河内鋳物師の特殊な社会的存在とどのように関わってくるのかを考えたものである。考察は中世村落研究と鋳造遺跡研究の2点に分けられる。前者では,灌漑条件を前提とした歴史地理と景観復原の方法から村落の成立環境を,文献記録と遺跡の数量化分析から村落の配置と規模および古代から近世にかけての移動を復原した。後者では,全国の鋳造遺跡の整理から遺構の特徴,日置荘遺跡の検討から遺物の特徴を抽出し,鋳造作業における不定型土坑と倉庫空間の重要性および,鋳造集団がもつ特殊な流通について指摘した。これらの分析から,丹南の村落は成立環境の異なる条件により,少なくとも2つの異なった変化過程を示す可能性があり,それぞれに付属する鋳造集落においても同様な傾向のみられることがわかった。この仮説について,小論では日置荘遺跡をモデルとした鋳物師村落の景観復原を例に提示しておいたが,丹南鋳物師の2つの系統との関連の問題とあわせて,今後社会史的に復原検討されるべき課題とされよう。The area in and around Mihara Town in Kawachi County, Osaka, is known as the home of the "Kawachi iron founders", who were active from the later Heian Period to the Period of the Northern and Southern Dynasties. Studies on this region have been made mainly based on inscriptions on stone monuments, and bibliographical materials; however, as excavational investigations in this region have progressed, founding sites and contemporary settlement sites have been discovered, enabling studies to be made from an archaeological approach.Now, most founding sites from the Nara Period onward which have so far been investigated were for the most part annexed to temples or provincial government offices, and the main objects of analyses have been earthen pits for temple-bell casting, furnaces, molds connected with Buddhist alter fittings, and slag. However, from founding sites in Tannan, Kawachi, fragments of molds for cooking pots etc., furnace walls and slag have been excavated from groups of structures that constituted ordinary settlements; traces of foundry-related facilities have also been detected from some of them. These were found within the sites of medieval settlements accompanying foundry facilities. It is also highly possible that the settlement sites in this region are closely related to the records that Tannan, Kawachi, was the home of iron founders.On the basis of the above assumption, the author, in this paper, focuses on the settlement of craftsmen as he reconstructs the medieval villages of Tannan, and considers how they related to the special social being of Kawachi iron founders shown in the results of bibliographical studies.This study can be divided into two parts, on medieval villages and on founding sites. In the former, the author restores the environment in which villages came into being, by means of historical geography and scenic restoration assuming conditions of irrigation, and also restores the location and scale of villages, and their movement from the Ancient to the Modern Period, using bibliographical records and quantitative analysis of sites. In the latter, the author picks out the characteristics of remaining structures through an arrangement of founding sites nationwide, and those of remaining articles through an examination of the Hioki-no-shō Site; he also points out the importance of non-fixed type earthen pits and warehouse space in founding works, and the special distribution system of the iron founding groups.These analyses made it clear that the villages in Tannan probably had at least two different processes of change according to the different conditions of the environment in which they came into being, and that the same trend can be seen in the iron founding settlements that were attached to them. Concerning this hypothesis, the author presents an example of the reconstructed scenery of an iron founders' village, modeled after the Hioki-no-shō. This will probably be taken up as a matter for sociological restoration and examination, together with the question of its relation with the two lineages of Tannan iron founders.一部非公開情報あり
著者
高橋 照彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.371-407, 2002-03

本稿は,日本古代の鉛釉陶器を題材に,造形の背後に潜む諸側面について歴史的な位置づけを行った。まず,意匠については,奈良三彩が三彩釉という表層のみの中国化であるのに対して,平安緑釉陶では形態や文様も含めて全面的に中国指向に傾斜したということができる。また,日本における焼物生産史全体でみると,模倣対象としての朝鮮半島指向から中国指向への大きな比重の移動は,この奈良三彩や平安緑釉陶が生産された8世紀から9世紀に求められるとした。次に,用途・機能については,奈良三彩が祭祀具あるいは仏具など宗教祭器としての性格を持つのに対して,平安緑釉陶は宗教的機能が続くものの,基本的に実用食器としての用途が中軸となる点に大きな変質を認めることができる。その変容の契機は,弘仁期における宮廷儀礼の整備の中で,鉛釉陶器が国家的饗宴を彩る舞台装置として組み込まれたことが考えられる。生産体制については,奈良三彩が中央官営工房生産とみられるのに対して,平安緑釉陶では各地の在地生産を基盤にしつつ,中央からの品質規定のもと国衙が生産に関与する体制であったと判断できる。それは,中央から地方への技術委譲であり,窯業生産技術において奈良時代まで続いてきた畿内優越状況が終焉を迎え,畿外卓越化へと向かう転換点になったものといえる。最後に,技術導入過程については,白鳳期の緑釉技術が朝鮮半島系であり,特にその故地として百済が最も妥当と推測した。そして,百済滅亡前後の混乱の中で日本への亡命者が伝えた可能性を挙げた。続く奈良三彩は,前代からの鉛ガラス・鉛釉の技術を持っていた工人(玉生)が遣唐使として派遣されて,唐三彩の部分的技術を移入したものと想定した。奈良三彩は,日本在来の素地成形技術の上に,朝鮮半島系の施釉基礎技術と中国系の三彩技術が重なって成立したものといえる。一部非公開情報あり
著者
上野 和男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.106, pp.137-145, 2003-03

この報告は,儒教思想との関連で日本の家族の特質を明らかにしようとする試論である。考察の中心は,日本の家族の構造と祖先祭祀の特質である。家族との関連においては,儒教思想は親子中心主義,父子主義,血縁主義を原理としているといえるが,この3つの原理が日本の家族や祖先祭祀の原理をなしているかが,本報告の課題である。結論として,つぎの3点を指摘できる。第1は,日本には儒教的な親子中心型の家族とは異質な夫婦中心型家族が伝統的に広く存在してきたことである。この意味で儒教的な親子中心主義イデオロギーのみならず,夫婦中心主義イデオロギーも存在してきたのである。第2は,日本の祖先祭祀においては父方先祖のみを祀る形態もあるが,母方や妻方の先祖をも祀る型が広範に存在することである。このことは日本の祖先祭祀が父子主義のみによって貫徹されてきたわけではなかったことを意味している。第3に,日本の家族においては,財産を相続し祖先祭祀を担うのは必ずしも血縁によって結ばれた子供に限定されないこと,また,子供たちのなかでひとりの相続者がきわめて重要な位置を占めてきたことである。したがって,日本の祖先祭祀と家族は伝統的にも現代的にも儒教的な家族イデオロギーのみによって規定され,存在してきたわけではなかったといえよう。儒教的な家族行動規範は,日本社会の基本的な構造が確立した後に部分的に受容されたのであって,これが全面的に日本の家族や祖先祭祀を規定したことはこれまでにはなかったのである。
著者
高橋 敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.115, pp.61-82, 2004-02

大原幽学の東総地域における活動の結晶ともいうべきは、性学教団のシンボル、改心楼であった。改心楼をめぐっては幽学弾圧の端緒となった関東取締出役の手先と博徒の乱入事件がここで引き起こされたことでも著名である。関東取締出役が幽学に疑いを持ったきっかけは改心楼の大造な建築であった。幽学はじめ関係者は江戸訴訟のなかで、質素を趣旨とした道友の寄進にもとづく簡素な建築物であると弁明している。改心楼建築に関しては、その普請の過程の中で作成された第一次史料が多数のこされている。嘉永二年(一八四九)四月十五日の「絵図面定幷材木見立」から翌三年正月十九日の「開校」まで道友寄進の「土普請」から大工方、屋根、畳、石工、左官の職人を雇い入れての建物本体の建造、つづいて家具、食器、蒲団、蚊帳等の生活用具の購入までを実証する。また同時に動員された道友の労働力を克明に追求した。道友の寄進行為こそ、大原幽学の性学教団の力量をはかるバロメーターであるからである。江戸訴訟の際、評定所に提出された幽学側の改心楼建築の費用は金九九両余、これを九名の有力な道友が立て替えたと申告している。ところが普請関係の諸帳面を精査したところ、実際は金四四九両余も費しており、申告の四・五倍にのぼる。しかも、幽学は江戸まで出かけ主要な木材を買い付け、ぜいたく品と思しき道具類まで著名な大店から購入している。これだけでも金七二両余に及んでいる。改心楼造営に動員した道友は一八〇日間で四四三二人に達し、二四カ村を包括している。幽学の改心楼造営がこの地域に与えた影響を、決して過小評価することは出来ない。規模といい、建築費用といい、動員された道友の数と広がりといい、関東取締出役が疑いを抱くのは一面当然であったともいえる。改心楼は江戸訴訟の敗北とともに取り毀され、廃墟と化した。今その偉容はのこされた二幅の絵画で偲ぶのみである。