- 著者
-
菅 豊
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.57, pp.63-94, 1994-03-31
日本において,低湿地を積極的に稲作地として利用し,「水辺」を改変する農業は,通常,技術的未発達が指摘され,その技術に費やされる労苦からの脱却がことさら強調される傾向があった。確かに低湿な水田で行われる農耕は,重い労苦が伴い,不安定な収穫しか望めない泥濘だったのは間違いないし,従来,民俗,地理,歴史などの多くの研究者によって,この水との格闘の歴史は明らかにされてきた。しかし,果たして低湿地農耕は,生活環境によって規定されるがゆえにあらがうことのできない,いやいやながら,しぶしぶと行われていた不本意な農耕技術だったのであろうか。そしてその湿田は,人々が生計活動を行う上で,消極的,否定的,悲観的にしか取り組めないような苦渋に満ちたネガティブな生産空間だったのであろうか。この疑問を解決することが本稿の目的である。本稿では全国に分布する低湿地開拓技術が,必ずしも不利な状況で消極的に営まれていたのではなく,ポジティブにとらえ得る技術であったという視点から,この農耕技術を見直していくつもりである。本稿で対象とする地域において低湿地農耕は,むしろ完全に水田化されていない,不完全な耕作地であるがゆえに獲得できる,有利さを持っていると考えられる。土地所有制度の限界を克服することのできる低湿地農耕技術の社会的特質が顕在化する時,それは生産性の低さといったデメリットをさし引いても,なお余りあるものとして位置付けられるのである。この不完全な耕作地の活動が継続できた背景には,その経済的,社会的な有利さと共に,各生計活動のリスクを合い補え,より安定した生活を維持することのできる,複合的生計活動の展開があったと考えられる。