著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.513-542, 2003-10

本論は信仰と宗教の関係論への一つの試みである。フランスのブルターニュ地方にはパルドン(pardon)祭りと呼ばれるキリスト教的色彩の強い伝統行事が伝えられている。それらの中には聖泉信仰や聖石信仰など多様な民俗信仰(croyances populaires)との結びつきをその特徴とするいくつかのタイプが存在するが,なかでもtantadと呼ばれる火を焚く行事を含むタイプが注目される。フィニステール北部に位置するSaint-Jean-du-Doigtのパルドン祭りはその典型例であるが,聖なる十字架がtantadの紅炎の中で焼かれる光景は衝撃的である。ブルターニュ各地のパルドン祭りにおけるtantadの火の由来を考える上で参考になるのは,夏至の夜の「サン・ジャンの火」(feu de la saint Jean)の習俗である。この両者の比較により,以下のことが明らかとなった。伝統的な習俗としては夏至の火の伝承が基盤的であり,そこにパルドン祭りという教会の儀礼が季節的にも重なってきて,パルドン祭りの中にtantadの火として位置づけられたものと考えられる。伝統的な「夏至の火」には,先祖の霊が暖まる,眼病を治す,病気や悪いことを焼却する,という信仰的な側面が確認されるが,それは火の有する暖熱,光明,焼却という3つの基本的属性に対応するものである。また,tantadの火を含まない諸事例をも含めての各地のパルドン祭りの調査分析の結果,明らかになったのは以下の点である。パルドン祭りの構成要素として不可欠なのは,シャペルの存在と聖人信仰(reliques信仰),そしてプロセシオン(procession)である。パルドン祭りはカトリックの教義にのみ基づく宗教行事ではなく,ブルターニュの伝統的な民俗信仰の存在を前提としながら,それらの諸要素を取り込みつつ,カトリック教会中心の宗教行事として構成され伝承されてきた。したがって,パルドン祭りの伝承の多様性の中にこそ伝統的な民俗信仰の主要な要素を抽出することができる。火をめぐる信仰もその一つであり,キリスト教カトリックの宗教行事が逆に伝統的な民俗信仰の保存伝承装置としての機能をも果してきているということができるのである。
著者
斉藤 亨治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.247-263, 2002-03-29

善光寺平では,更新世前期からの盆地西縁部の断層の活動により盆地が形成され,その盆地が地殻変動・火山活動・気候変化によって盛んに供給された土砂によって埋積された。善光寺平周縁をはじめ長野県に扇状地が多いのは,流域全体のおおまかな傾斜を表す起伏比(起伏を最大辺長で割った値)が大きく,大きい礫が運搬されやすいためである。その扇状地には,主に土石流堆積物からなる急傾斜扇状地と,主に河流堆積物からなる緩傾斜扇状地の2種類ある。急勾配の土石流扇状地については,その形成機構が観測や実験によりかなり詳しく明らかになってきた。しかし,緩傾斜の網状流扇状地については,その形成機構はよく分かっていない。扇状地と気候条件との関係では,乾燥地域を除いて,降水量が多いほど,気温が低いほど,扇状地を形成する粗粒物質の供給が盛んで,扇状地が形成されやすいといえる。また,気候変化との関係では,日本では寒冷な最終氷期に多くの扇状地ができた。その後の温暖な完新世では,扇状地が形成される場所が少なくなったが,寒冷・湿潤な9000年前頃と3000年前頃,扇状地が比較的できやすい環境となっていた。善光寺平の地形と災害との関係では,犀川扇状地および氾濫原部分では,1847年の善光寺地震で洪水に襲われているが,氾濫原部分では通常の洪水もよく発生している。扇端まで下刻をうけた開析扇状地では水害が発生しにくいが,扇頂付近が下刻をうけ,扇端付近では土砂が堆積するような扇状地では,下刻域から堆積域に変わるインターセクション・ポイントより下流部分で水害が発生しやすい。裾花川扇状地や浅川扇状地には扇央部にインターセクション・ポイントがあり,それより下流部分では,比較的最近まで水害が発生していたものと思われる。
著者
小川 宏和
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.218, pp.167-182, 2019-12-27

本稿では、『延喜式』にみえる赤幡が古代社会において果たした役割を検討することにより、赤色に対する色彩認識が人々の行動に与えた影響を明らかにすることを目的とした。古代社会において赤色は、装着した人・物の内部にある汚穢等を鎮めると同時に外部の障害から保護する性質=清浄性と結びついた色と認識され、この清浄性を前提に道路において人・物の進行や移動を汚穢から守りつつ実現させる機能も民俗社会で広く認められていた。そして、この赤色の性質は様々な局面で権力とも結び付き、赤色を支配し利用することが天皇家を中心とした公の力を表示することを意味した。そのため、赤幡は天皇の行幸時のほか、最高の清浄性が求められる供御物を運搬する際に道路において掲示され、他の進上物と区別する意味をもち、御膳食材やそれを食べる天皇らの身体の清浄性を維持する機能を果たしたと考えられる。さらに、八世紀半ば以来供御物の標識とされてきた赤幡は、贄を生産する集団、贄人に頒布されることになる。赤幡は元慶七年官符にみえる員外贄人が得た「腰文幡」や家牒と同様、贄人の生産活動のなかで交通許可証として機能するとともに贄人集団を組織化して特権身分を表示した。また、延喜天暦年間までに内廷官司が旧来の腰文幡ではなく赤幡を贄人の標識として放つように変化したことを指摘し、その背景には、元慶七年官符からうかがえる「潔齋」を基準とした贄人の差異化が困難な状況が存在したと推定した。供御を口実にした弱民圧迫行為が贄人自身の「潔齋」を破綻させ、その行為は最も「潔清」が求められた天皇の食事にも「汚黷」を及ぼすという論理が存在したのである。赤幡班給は他の家政機関が発給する標識との差異化を意図したもので、清浄性をもつ赤色が贄や贄人、御膳に要求された清浄性をめぐる危機的環境のなかで必要とされ、贄人の身体の「潔齋」を守り、特権身分を保証する意味をもったと考えられる。
著者
宮田 公佳 松田 政行
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.184, pp.99-155, 2014-03

博物館は文化財及び歴史資料のみならず,写真,書籍,調査研究報告書,論文等に至るまで,多種多様な資料を有している。後世に永く伝えられるべきこれらの資料は,それ自体が情報であるだけでなく,新たな情報を獲得するための情報資源である。近年では博物館情報資源の多くがデジタル化されており,その有効活用のためには情報機器や各種技術が必要となっている。高性能かつ安価な情報機器と高度な関連技術を用いることによって,従来では実現困難であった博物館情報資源の活用方法が見出されている一方で,技術的に可能なことが適法であるとは限らない状況が生じうる。したがって,博物館情報資源を活用するためには,技術的な課題と法律的な対処方法との両立が求められる。そこで本論文では,両者を比較対比することで相互の関連性について理解を深め,さらに博物館情報資源を機能的に活用する手法について議論する。本論文では,画像技術と著作権法に着目し,博物館情報資源の活用における具体例を提示しながら議論を進める。画像情報の果たす役割は多岐に及び,その実現手段は多様となるが,入力,処理,出力という三要素と,その連携である保存・活用の段階に分類することで情報資源の活用手段を構造化することは有用である。デジタル情報の活用においてはコピーの作製が重要であり,コピーと改変に関し著作者の権利として定めている著作権法の理解が不可欠である。博物館情報資源活用の具体例を通して,技術と著作権に関する個別問題に対処するだけでなく,技術と著作権法の構造的理解を踏まえた総合的判断力の醸成に寄与するための考察を行う。
著者
小杉 亮子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.153-168, 2019-03-29

本稿では,1960年代に拡大・多発した学生運動(1960年代学生運動)について,先行研究が大規模社会変動にたいする反応や挑戦としてのみ位置づける傾向にあったのにたいし,より多面的かつ立体的な1960年代学生運動像を提示することをめざし,新たな視角として,社会運動論の戦略・戦術分析を導入する。具体的には,本稿では,1968~1969年に東京大学で発生した東大闘争における戦略・戦術を検討する。その結果,次のことが明らかになった。第一に,東大闘争では直接行動戦略がとられ,さらに,それが非暴力よりも対抗暴力を志向していったために,腕力・体力の有無と闘争での優劣や闘争参加資格とが連関するようになっていた。第二に,東大闘争終盤においては,対抗暴力が軍事的な実力闘争へと傾斜し,闘争の軍事化が見られた。第三に,1960年代学生運動の直接行動戦略が対抗暴力を志向するものとなった要因には,新旧左翼運動が持っていた実力闘争志向や武装主義と,アジア,アフリカ,ラテンアメリカにおける脱植民地・独立運動に影響を受けた第三世界主義とがあった。また本稿では,今後の展開可能性として,軍事的男性性概念の導入によって,ジェンダー的観点からなされてきた1960年代学生運動論と本稿の知見が接続しうることを示す。ジェンダー的1960年代学生運動論では,1960年代学生運動における性別役割分業や女性性の周辺化が1970年代以降の女性解放運動に与えた影響にかんする知見が蓄積されてきた。軍事的男性性という観点から,1960年代学生運動における女性参加者の動機や経験にアプローチすることによって,1960年代学生運動の軍事化とそれが運動の展開過程にもたらした影響について,さらに新たな光を当てることが可能になるだろう。
著者
山辺 昌彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.61-72, 2003-03

この論考は、高橋峯次郎あて軍事郵便の分析の一環として、中国との戦争に参加した兵士が戦場で何をしたか、また戦争をどう考えていたかを、軍事郵便から明らかにすることが課題である。従来の高橋峯次郎あて軍事郵便の研究は、農民兵士の視点から戦場の中国農民の生活をどう見ていたかに重点が置かれていた。そのため日本の中国との戦争の遂行を担った兵士としての側面を明らかにすることが残されてきた。従来、軍事郵便は検閲のために真実を書けないと考えられてきたが、最近、軍事郵便から侵略戦争の加害の事実を明らかにする、静岡県浅羽町の軍事郵便を使った小池善之氏の研究がでている。この成果をより豊かにすることもこの論文の課題である。論文では、高橋徳松・千葉徳右衛門・菊池清右衛門・石川庄七・高橋千太郎・高橋徳兵衛・菊池八兵衛・加藤清逸の軍事郵便に書かれた戦場の様子を紹介している。戦闘の様子では、日本兵が女性・子供を含む中国住民や捕虜・敗残兵を殺し、住民の家を焼き、その財産を略奪していることが見られる。一方で蔑視していた中国軍が住民との結びつきを強め、強固に抵抗していることも見られる。また、日本軍の攻撃・爆撃により廃嘘になり死体が放置されている都市の様子、日本軍が軍事力で占領地支配を維持しており、日本軍のいいなりになる政権をつくり、植民地と同様に日本化している様子も見られる。さらに毒ガス戦の準備の様子を見られる。このように、農民兵士の軍事郵便からも、日本の中国への戦争が侵略戦争であり、それが中国の人びとに多大な災難、損害と苦痛を与えており、戦争犯罪もあったことがわかる。農民兵士は日本軍の戦争を正当化するイデオロギーを疑うことなく受け入れており、中国兵の殺戮などを面白がっており、中国人を悲惨と思い、日本人に生まれたことを喜び、戦争に負けてはいけないという考えを持っていることも、軍事郵便から読み取れる。
著者
横山 泰子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.43-55, 2012-03

江戸時代に日本で作られた手品の解説本の中には、手品のみならずまじないの情報が掲載されている。こうした記事は手品史の観点からはあまり注目されないが、奇術と呪術が渾然一体となっていた当時の人々の感覚を知るうえで面白い研究対象といえる。本論では、中国の『神仙戯術』の翻訳からはじまる近世日本の手品本を概観し、その中に記されたまじないを取り上げた。初期の『神仙戯術』や『続神仙戯術』は、手品をはじめ、呪術や生活術などを集めている。もともと中国でも、種や仕掛けを用いて不思議な現象を見せる娯楽としての手品と、まじない等の情報が混在していた。日本の手品観は、中国の手品観の影響を受けていると思われる。また、中国の呪術と似たものが日本の本にも見られるので、文献を通じて中国のまじないが日本人の日常生活の中に浸透していったと考えられる。ただし、まじないの方法には日中で異動がある。外国の呪術は、日本の生活環境にあうよう、改変されて伝えられたのだろう。本来まじないは口頭で秘密裏に伝えられるものだったと考えられるが、江戸時代においては生活上の実用的な知識として本に記されて流布した。奇しくも、まじない本や手品本、占い本等のいわゆる「秘術」を公開する文献は、十七世紀後期に刊行されはじめる。この時期を日本における秘術公開時代の幕開けと考えてみたい。手品本のまじないは、先行の呪術系の書物に類似するものが見られる。専門書の中のまじないの情報が、手品本の中に流入していったものと思う。手品本に記されたまじないには、呪歌を伴うものや、書記行為を伴うものがある。近世日本では、十七世紀から民衆の識字率が向上したが、そうした社会的背景が、手品本の存在や字を書くまじないのあり方と関係している。行為者の能力や資質にあわせて、様々なまじないができるようになっているところに、江戸時代のまじない文化の大衆性を感じる。一部非公開情報あり
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.183, pp.169-186, 2014-03

東日本大震災後の日本社会において,民俗文化がどのような意味を持ちうるのか,具体的には被 災地の瓦礫のなかから民俗文化にかかわる資料を救出することはどのような意味を持ち,さらにそ れらは博物館における展示においてはどのように表象されるのだろうか。こうした点について本稿 では筆者自身が関わった国立歴史民俗博物館の文化財レスキューの経験や実感を通して考察する。本稿ではそうした意識のもと,まず民俗事象を民俗文化財ではなく,表題に掲げた文化資源とい う概念でとらえる意義について近年の研究動向をふまえて確認する。次にその主要な対象であり, 前提でもあった宮城県気仙沼市小々汐地区のオオイ(大本家)尾形家の歴史民俗的な位置づけを行 う。さらに同家を舞台として伝承されてきた民俗として年中行事,特に盆と正月を取り上げ,具体 的に記述する。そして最後にそうしたイエ(家)の年中行事を歴博における展示としてどのように 構成したかについて述べてみたい。The East Japan Great Earthquake and Cultural Resources:A Case Study of Kogoshio District in Kesen-numa City, Miyagi Prefecture What significance can folk culture have in the Japanese society after the East Japan Great Earthquake? More specifically, what does it mean if materials related to folk culture are retrieved from debris after the catastrophe? Furthermore, how are they described when exhibited at museums? This paper examines these questions through the author's experience and understanding of the cultural asset rescue performed by the National Museum of Japanese History (hereinafter abbreviated as "Rekihaku").Based on this awareness, the article first confirms what it means to regard the folk phenomena as cultural resources, not as folk cultural assets, by tracing the latest developments of relevant research. Then, the article clarifies the historical position of the Ogata residence, called as "Ōi" meaning the overall head family, in Kogoshio district, Kesen-numa City, Miyagi Prefecture, for it was the main target and reason of the rescue activity. Regular annual events handed down by people of the residence, such as the Bon and New Year festivals, are specifically described in the paper. In conclusion, it depicts how these family annual events were exhibited at the Rekihaku.
著者
浜島 正士
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p219-247, 1993-02

中国の福建省地方は、中世初頭の東大寺再建に際して取り入れられ、以後の日本建築に大きな影響を与えた大仏様ときわめて関係が深い地域とされている。その福建省に残る十世紀から十七世紀にかけて建立された古塔について、構造形式、様式手法を通観し、その時代的変遷を考察するとともに、十二世紀以前の仏堂遺構も加えて大仏様との関連を探ってみる。Fuchien Province in China is considered to have very deep connections with the Daibustu-yo style of architecture which was introduced to Japan on the occasion of the reconstruction of Tōdaiji Temple in the early Middle Ages, and which exerted a strong influence on Japanese architecture thereafter. The author looks through the structural types and styling techniques of ancient Pagoda erected from the 10th to 17th centuries and still remaining in Fuchien Province. He also looks into their relationship with the Daibustu-yo together with other Buddhist structures remaining from the 12th century or earlier.
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.9-29, 1996-03-29

縄文時代の代表的な呪具である土偶は,基本的に女性の産む能力とそれにからむ役割といった,成熟した女性原理にもとつく象徴性をほぼ一貫して保持していた。多くの土偶は割れた状態で,何ら施設を伴わずに出土する。これらは故意に割って捨てたものだという説があるが,賛否両論ある。縄文時代後・晩期に発達した呪具である石棒や土版,岩版,岩偶などには火にかけたり叩いたりして故意に破壊したものがみられる。したがって,これらの呪具と関連する儀礼の際に用いたと考えられる土偶にも,故意に壊したものがあった蓋然性は高い。壊したり壊れた呪具を再利用することも,しばしばおこなわれた。土偶のもうひとつの大きな特徴は,ヒトの埋葬に伴わないことである。しかし,他界観の明確化にともなって副葬行為が発達した北海道において,縄文後期後葉に土偶の副葬が始まる。この死者儀礼は晩期終末に南東北地方から東海地方にかけての中部日本に広まった。縄文晩期終末から弥生時代前半のこの地方では,遺骨を再埋葬した再葬が発達するが,再葬墓に土偶が副葬されるようになったり,土偶自体が再葬用の蔵骨器へと変化した。中部日本の弥生時代の再葬には,縄文晩期の葬法を受け継いだ,多数の人骨を焼いて埋納したり処理する焼人骨葬がみられる。こうした集団的な葬送儀礼としての再葬の目的の一つは,呪具の取り扱いと同様,遺体を解体したり遺骨を焼いたり破壊して再生を願うものと考えられる。つまり,ヒトの多産を含む自然の豊饒に対する思いが背後にあり,それが土偶の本来的意味と結びついて土偶を副葬するようになったのだろう。そもそも土偶が埋葬に伴わないのは,男性の象徴である石棒が埋葬に伴うことと対照的なありかたを示すが,それは縄文時代の生業活動などに根ざした,社会における性別の原理によって規定されたものであった。土偶の副葬,すなわち埋葬への関与はこうした縄文社会の原理に弛緩をもたらすもので,縄文時代から弥生時代へと移り変わる社会状況を反映した現象だといえる。
著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.21, pp.p13-40, 1989-03

It has often been pointed out that YANAGITA Kunio sympathized with Japanese women. It is said that he attached much importance to the role Japanese women had played in the history of Japanese society and that he attempted to estimate it positively by investigating varied facets of their activities within the local folklore. Believing that women's own history should be elucidated by women researchers themselves, Yanagita held many study meetings only with women, furthermore, he spared no effort for them to organize their own study groups or to publish their own periodicals. Most women folklorists hold him in high regard and are thankful to him. But it shuld be noticed here that they have acceded to his points of view the role in the folk society of Japan, without even daring to criticize or to review his viewpoints. But are not there many problems in Yanagita's understanding of the role and situation of women throughout the folk history? This paper attempts to review the place he gave to women in his individual studies and to clarify the limits of his perception of women's role.It is a fact that YANAGITA Kunio appraised the role of Japanese women from diverse standpoints. But, on the one hand, in the case of women in a settled agricultural society, their role as assumed by him is limited to that of supplementary members in the male-oriented Japanese society. The women as seen by him did not act independently, but rather as supporters of men being always beside or behind them. From this standpoint he emphasized the role of women as a working force. On the other hand, in the case of itinerant women, he stressed that they were bearers of faith and culture. His achievements are great in that he highlighted the raison d'être of these women which had long been forgotten or neglected, and the social structure in which they appeared. What is most important is that Yanagita treated them as suppoters of a settled society where they are supposed to have played predetermined roles. In this regard, their situation is no different from that of women living in a settled agricultural family, in that they hold a subordinate existence in the society. In conclusion, we can only say that Yanagita's understanding of women was narrowly limited.
著者
橋本 政亘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.289-329, 2008-12

江戸幕府により寛文五年(一六六五)七月十一日付で出された「神社条目」により、卜部吉田家はこれをテコに諸国の神社・神職を支配下におくべく、神道裁許状の交付、官位の執奏等を通してその推進をはかった。そしてその根拠としたのが、第三条および第二条であった。しかし第二条の条文には吉田家が格別の位置にあることが記されてはいなかったことからくる限界もあった。そこで、吉田家では、諸社家の官位執奏権を公認されるよう寛文八年十月出願するにより、幕府は京都所司代をして朝廷の評議を要める。かくて時の関白鷹司房輔と吉田家に肩入れする武家伝奏飛鳥井雅章との問で激しい論争が展開されることになるが、朝廷内の意見は一致をみないまま、翌々年八月幕府の裁許に委ねられることになる。そしてそれより四年後の延宝二年(一六七四)に至り幕府の結論が出される。「寛文九年吉田執奏一件争論」といわれるものがこれであり、幕府は儒者林春齋(弘文院)にこの一件に関する勘文を上呈させ、『吉田勘文』として纏められている。本稿は、『吉田勘文』を具体的に検討し、執奏一件争論の実態を明らかにすることを通し、吉田家の諸社家官位執奏運動の方針、朝廷や幕府の対応の在り方を明らかにし、「神社条目」の理念について改めて考察するものである。この一件につき、京都所司代を以て幕府の裁許が示されたのであるが、これは吉田家の望みが全くは否定されたものではなく、幕府の方針の転換であったともいえる。一方、吉田家でも諸社家の官位執奏問題はその後も主張を継続していき、幕府もその対応を微妙に変えていく。最後に、幕末までの大きな流れに基軸をすえ見ておいた。
著者
服部 英雄 楠瀬 慶太
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.277-297, 2010-03

1部(航海技術と民衆知)ではまず中世の文献資料を手がかりに航海技術を考えた。はじめに宣教師アルメイダ修道士の報告(1563年11月17日付書簡)に「日本人は夜間航海しない」とあることの意味を考えてみた。これは通常、夜間には労働をしないということと同等の意味にすぎないが、船を操る人は夜を避けた。特殊には、必要があれば夜間も航海する。ただし危険を伴った。つぎに治承四年『高倉院厳島御幸記』を検討した。貴族の場合、夜間航海はしない。夜間航海は危険があった。航海技術は潮の流れを見極め、時間調整をする。しかし毎日かならず朝に船出すれば、時間的に逆潮になることもある。その場合は沿岸流(反流)や微弱流・部分流にのって、人による漕力を駆使した。『大和田重清日記』でも、夜間航行は避けられている。『言継卿記』にみる伊勢湾航海は原則として潮に乗って、短時間に横断するが、潮の速さのみでは日記に記載された時間内に到着することは不可能だったから、風力と人力を必要とした。湾内南北通行の場合は、航海が長時間に及ぶため、潮が順である時間帯内に通過することは不可能であった。逆潮の航海も強いられている。1部後半及び2部では現地で聞き取った潮流と海の地名について具体的に(1)浜・磯(2)岬(3)山(4)瀬のそれぞれについて、長崎県平戸島春日・福岡県糸島半島の事例を報告した。瀬のようにつねに海中にあって、地図にも掲載されず、文字化されない地名がある(一部は海図に記載)。そうした海の地名は操業・山見・枡網(定置網)などの漁業に必要なものばかりで、民衆知(漁業技術)と一体化している。しかしじっさいには他人には容易には教えない個人知も一部にあって、共有されないものも含まれている。
著者
篠原 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.235-246, 2012-03

本論文は日本の俗信とことわざおよび俳諧のなかに現れる他種多様な動物や植物の表現について、俗信とことわざおよび俳諧の相互の関係性を論じたものである。こうした文芸的世界が華開いたのは、庶民にあっては「歩く世界」と「記憶する世界」が経験的知識の基本であった日本の近世社会の後半であった。俗信やことわざおよび俳諧は、近世社会のなかで徐々に発展していったと思われる。農民や漁民の生業や生活のなかでの自然観察の経験的知識は、記憶装置である一行知識として蓄積され人びとに共有されていった。この経験的知識の記憶装置である一行知識は、汽車や飛行機などの動力に頼る世界ではなく「歩く世界」を背景にした繊細な自然観察に基づいている。同時に一行知識は、そうした観察に基づく経験的知識を、活字化し書籍として可視化する世界とはまだほど遠く、記憶しやすい定型化した文字数に埋め込んだものである。経験知としての一行知識は、大きくは動植物に関する観察による領域と人間に関する観察による領域の二つに分けられる。この経験知は基本的には生活や生業におけるものごとに対する対処の方法なのであるが、経験知は感性的な側面と生活の知恵の側面と生活の規範の側面の三つの方向にそれぞれ特徴的な定型化の道を歩んだのではないか。感性的な側面は、季節のうつろいと人生のうつろいを重ね合わせる俳諧的世界を創造していく。生活の知恵の側面は、自然暦や動植物の俗信を発展させていく。生活の規範の側面は、人の生き方や社会のなかでの個のありようを示すことわざの世界を豊饒にしていく。俗信やことわざそして俳諧の世界に通底しているのは「歩く世界」と「記憶する世界」で醸成された一行知識であり、それを通じて三つの領域は親和性をもっているといえる。
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.393-415, 1990-03-30

The purpose of this paper is to grasp the color culture mainly of the urban environment in Japan from the viewpoints of the history and folklore, and discusses what sort of materials should be aimed at as the subjects.Firstly, the ranking system of colors of the clothes and the symbolism in the ancient and middle ages in Japan are outlined. Then, the actual states of colors of dresses, props., theatesr, etc. used for “Izumo Kagura”, a folk art currently performed in mountain villages in Izumo-city, Shimane Prefecture are shown. Since this is an art using a myth as its theme, a question is proposed that the symbolism of color in the ancient and middle ages may lie behind.Further, from “Comprehensive folk vocabulary in Japan” compiled by Yanagita Kunio and other folklorists, the words that show four colors, white, black, red and blue are extracted and the symbolisms of the folk natures are described. Combinations of colors such as white and black, white and red, white, black and red, etc. are shown as the basic subjects of color symbolism in the folklore in Japan, referring the examples of Akamata/Kuromata ceremonies in Yaeyama Islands, Okinawa Prefecture.Finally, the words of 783 popular songs often sung by the Japanese are studied to check what sort of color image they have. The result shows that words representing the colors are used frequently in the order of white, red, blue, seven colors and black. In it, color preference and folk symbolism unique to Japanese are included. It is emphasized that the historical study on the color sense of the Japanese is important as one of the subjects of methodology of the folklore study.
著者
佐野 静代
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.162, pp.141-163, 2011-01

エリとは,湖沼河川の浅い水域に設けられる定置性の陥穽漁法であり,全長1㎞にも及ぶ大型かつ精巧なエリは,琵琶湖にしかみられないものとされてきた。本研究では,近世・近代史料の分析から琵琶湖のエリの発達史に関する従来の説を再検討し,エリが琵琶湖でのみ高度な発達を遂げた要因について,地形・生態学的条件から分析した。原初のエリは,ヨシ帯の中に立てられる単純な仕組みのものであったが,中世には湖中へ張り出す湖エリタイプがすでに存在していたと推測される。また近世の絵図や文書の分析の結果,17世紀までの湖エリはツボ部分のみを連結した屈曲型の構造であったのに対して,18世紀後半には今日に近い「岸から一直線に伸びる道簀」+「大型の傘」を備えた形態へと転換がはかられていることがわかった。琵琶湖のエリは,江戸後期に大きく姿を変えていることが明らかである。さらにエリの「傘」内部の漁捕装置の発達については,「迷入装置(ナグチ)の複雑化」と「捕魚部(ツボ)の増設」という二つの方向性があり,その発展段階としてはそれぞれ5段階,4段階があること,そして天保期には「カエシ」のエリという大型エリの技術段階に到達していたことがわかった。この天保期における「カエシ」の技術の成立には,琵琶湖の水位低下という人為的な環境変化が関わっていた可能性が推測された。エリが琵琶湖のうち特に「南湖」において発達した要因としては,湖底の地形条件に加えて,漁獲対象となる琵琶湖水系の固有種の生態学的条件があげられる。なかでもニゴロブナの南湖への産卵回遊が,野洲郡木浜村の「エリの親郷」としての位置づけに深く関わっていることが明らかになった。一部非公開情報あり
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p343-370, 1993-02

日本人の色彩感覚に基づく文化および制度や技術の歴史に関して,これまで多くの研究が行われてきたが,本稿では主として日本の民俗文化において表徴される色彩に焦点をあて,その民俗社会の心意的機能,あるいは庶民の色彩認識についてのアプローチを試みたものである。特に都市社会において顕著な人為的色彩は,日本の各都市において様々な諸相をみせ,ここでは伝統都市として金沢,松江,熊本の各城下町を対象に,近世からの民俗的な色彩表徴の事例を現地調査および文献を参照しながら考察し,その特徴を引き出してみた。その結果,白色をベースにした表徴機能,赤色,赤と青色,藍色,紫色,黒色,五彩色といった色調の民俗文化に都市的要素を加味した展開のあることが見出された。金沢と熊本の場合は民俗事例と藩政期からの伝承により,松江はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『日本瞥見記』の著作を通して,明治初年の事例とハーンの見た印象をてがかりに探ってみたものである。また,都市がなぜ民俗的な色彩表徴の機能を前提としているかについての疑問から,建築物,あるいは染色,郷土玩具といった対象によって,多少,問題アプローチへの入口を見出し得たと思われる。都市は日本の社会構造の変革をもっとも端的に表出する場であるため,モニュメント,ランドマーク,メディアの変化など外側の表徴だけでも,その変容の速度は著しく,従って色彩の記号化も激しく変化するが,しかしそうであっても日本人の基本的な色彩の認識は変わっていないという前提にて,都市のシンボルカラーを捉えねばならないと考える。それはまったく日本の民俗文化の枠を越えてはいないからであろう。