著者
三浦 正幸
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.85-108, 2008-12

寺院の仏堂に比べて、神社本殿は規模が小さく、内部を使用することも多くない。しかし、本殿の平面形式や外観の意匠はかえって多種多様であって、それが神社本殿の特色の一つと言える。建築史の分野ではその多様な形式を分類し、その起源が論じられてきた。その一方で、文化財に指定されている本殿の規模形式の表記は、寺院建築と同様に屋根形式の差異による機械的分類を主体として、それに神社特有の一部の本殿形式を混入したもので、不統一であるし、不適切でもある。本論文では、現行の形式分類を再考し、その一部を、とくに両流造について是正することを提案した。本殿形式の起源については、稲垣榮三によって、土台をもつ本殿・心御柱をもつ本殿・二室からなる本殿に分類されており、学際的に広い支持を受けている。しかし、土台をもつ春日造と流造が神輿のように移動する仮設の本殿から常設の本殿へ変化したものとすること、心御柱をもつ点で神明造と大社造とを同系統に扱うことを認めることができず、それについて批判を行った。土台は小規模建築の安定のために必要な構造部材であり、その成立は仮設の本殿の時期を経ず、神明造と同系統の常設本殿として創始されたものとした。また、神明造も大社造も仏教建築の影響を受けて、それに対抗するものとして創始されたという稲垣の意見を踏まえ、七世紀後半において神明造を朝廷による創始、大社造を在地首長による創始とした。また、「常在する神の専有空間をもつ建築」を本殿の定義とし、神明造はその内部全域が神の専有空間であること、大社造はその内部に安置された内殿のみが神の専有空間であることから、両者を全く別の系統のものとし、後者は祭殿を祖型とする可能性があることなどを示した。入母屋造本殿は神体山を崇敬した拝殿から転化したものとする太田博太郎の説にも批判を加え、平安時代後期における諸国一宮など特に有力な神社において成立した、他社を圧倒する大型の本殿で、調献された多くの神宝を収める神庫を神の専有空間に付加したものとした。そして、本殿形式の分類や起源を論じる際には、神の専有空間と人の参入する空間との関わりに注目する必要があると結論づけた。Shrine honden (main sanctuaries) are smaller than the butsudo (Buddha halls) of temples and the inside of a honden is not used very much. However, one feature of honden is that they vary in style and external appearance. Architectural history divides these diverse styles into different categories and explains their origins. Descriptions of the size and styles of honden that are designated cultural properties are mainly classified mechanically according to differences in the style of roof, as is done for temple buildings, and the mixing in of some honden styles unique to shrines is both inconsistent and inappropriate.This paper re-examines current classification of styles, and proposes to correct some, especially the ryonagare-style. According to Eizo Inagaki, there are three main styles of honden, those with a ground sill, those with a central pillar, and those consisting of two rooms. Inagaki's classifications enjoy broad support across different academic fields. However, the author is critical of Inagaki's contentions and does not accept that kasuga-style and nagare-style honden with a ground sill changed from being temporary structures like a mikoshi, which were portable, to being permanent structures, or that shinmei-style and taisha-style shrines have the same origin because they have central pillars. A ground sill is a structural member that is necessary to stabilize a small structure, and does not date from the period of temporary honden, but originated in permanent honden that were of similar origin to those of the shinmei-style. Furthermore, with regard to Inagaki's opinion that both the shinmei-style and taisha-style were influenced by Buddhist architecture and were created to counter the Buddhist style, the author believes that the shinmei-style was created by the imperial court in the latter part of the 7th century and that the taisha-style was created by local chiefs. Given the definition of a honden as a" building with exclusive space for the permanently present kami," and also that the entire interior of a shinmei-style honden is exclusive space for the kami and that in a honden of the taisha-style only the inner sanctuary inside constitutes this exclusive space, the author shows that both are completely different in origin and that it is possible that the latter was derived from saiden (an early religious building).The author also criticizes Hirotaro Ohta's theory that honden in the irimoya-style evolved from haiden (worship halls) for shintaisan (mountains which are believed to be kami's body). In the author's opinion, irimoya-style honden came into being in the late Heian period when ichinomiya and other important shrines were built in each province. As honden that were much bigger than other shrines, they had a storehouse for the many sacred treasures given to the shrine in addition to the exclusive space for the kami. In conclusion, when discussing the categories and origins of styles of honden, it is necessary to pay attention to the relationship between space that is exclusive to the kami and space that is used by people.
著者
三浦 正幸
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.85-108, 2008-12-25

寺院の仏堂に比べて、神社本殿は規模が小さく、内部を使用することも多くない。しかし、本殿の平面形式や外観の意匠はかえって多種多様であって、それが神社本殿の特色の一つと言える。建築史の分野ではその多様な形式を分類し、その起源が論じられてきた。その一方で、文化財に指定されている本殿の規模形式の表記は、寺院建築と同様に屋根形式の差異による機械的分類を主体として、それに神社特有の一部の本殿形式を混入したもので、不統一であるし、不適切でもある。本論文では、現行の形式分類を再考し、その一部を、とくに両流造について是正することを提案した。本殿形式の起源については、稲垣榮三によって、土台をもつ本殿・心御柱をもつ本殿・二室からなる本殿に分類されており、学際的に広い支持を受けている。しかし、土台をもつ春日造と流造が神輿のように移動する仮設の本殿から常設の本殿へ変化したものとすること、心御柱をもつ点で神明造と大社造とを同系統に扱うことを認めることができず、それについて批判を行った。土台は小規模建築の安定のために必要な構造部材であり、その成立は仮設の本殿の時期を経ず、神明造と同系統の常設本殿として創始されたものとした。また、神明造も大社造も仏教建築の影響を受けて、それに対抗するものとして創始されたという稲垣の意見を踏まえ、七世紀後半において神明造を朝廷による創始、大社造を在地首長による創始とした。また、「常在する神の専有空間をもつ建築」を本殿の定義とし、神明造はその内部全域が神の専有空間であること、大社造はその内部に安置された内殿のみが神の専有空間であることから、両者を全く別の系統のものとし、後者は祭殿を祖型とする可能性があることなどを示した。入母屋造本殿は神体山を崇敬した拝殿から転化したものとする太田博太郎の説にも批判を加え、平安時代後期における諸国一宮など特に有力な神社において成立した、他社を圧倒する大型の本殿で、調献された多くの神宝を収める神庫を神の専有空間に付加したものとした。そして、本殿形式の分類や起源を論じる際には、神の専有空間と人の参入する空間との関わりに注目する必要があると結論づけた。
著者
三浦 正幸
出版者
建築史学会
雑誌
建築史学 (ISSN:02892839)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.46-68, 1985 (Released:2019-01-24)
著者
鈴木 充 阮 儀三 徐 民蘇 丸茂 弘幸 三浦 正幸 呉 凝
出版者
一般財団法人 住総研
雑誌
住宅総合研究財団研究年報 (ISSN:09161864)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.241-250, 1990 (Released:2018-05-01)

中国の住宅建築は明清時代を通じて大きな変化をみせなかったといわれている。蘇州市は前514年に建設され,それ以後城市の輪郭線を変えずに現在まで続いてきている都市である。特に1130年に兵火に遭い,再興されてからはほとんど都市構造を変えないまま,近代を迎えたといわれている。本研究はそのような蘇州市を文献資料と民居遺構の両面から解析して,中国都市住宅の歴史的背景を解明しようとするものである。研究は,まず,文献と1239年ごろ刻まれた〈平江図〉を資料にして,現地形に1229年時点の蘇州の市街を再現し,前街后河といわれる水郷都市としての特徴ある敷地割が,宋時代に始まったという推論を得た。従って唐時代以前の住宅地は現在大規模住宅の敷地になっている部分に集約されることになる。遺構面での追及は,民国時代に書かれた建築書〈営造法原〉の分析から,殿庭と呼ばれる富豪達の住宅も基本的には民居の構成方法と変らないことを確かめた。また,実際の住宅建築遺構では,しょう門西北の山塘街揚安浜で明初期から中末期にかけての遺構3棟と,清時代の遺構7棟を発見し,明時代から堂と天井(中庭)と廂防を組み合わせる三合院を基本単位(進)にして,その単位を奥行方向に繰返すことにより,第宅を形成していることがはっきりした。また,これら一串の住宅を落と呼び,主落の両脇に2落3落と並べ1屋を形成することによって大宅が形成され,各落は年代的に異なっているものもあり,周囲の住宅を買取することによって大宅が形成されて行くものと考えられる。山塘街は主として2進程度の小宅からなり,街路空間の構成は,十数メートルおきに道幅の狭広による節づけが成されており,その南に続く揚安浜には明清建築からなる5進3落の大宅があり,更に5進1落系の密集地もあり,前街后河の山塘街と合わせ,水郷都市蘇州の民居を代表する建築空間を有する地区であることが判明し,保存の措置が講ぜられることになった。
著者
三浦 正幸
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文報告集 (ISSN:09108017)
巻号頁・発行日
no.362, pp.142-149, 1986-04-30

Katoh-jingu is one of important shrines in the history of Japanese architecture. It had been being worshiped by the Fujiwaras throughout the Heian era and the Kamakura era, and had been a very influential shrine. I showed in my monograph that the main shrine in the Kamakura might have had a plan similar to 'Shimen-bisashi' which was articulated into the core and the surrounding envelope. I guess that the rear envelope was used keeping ritual goods and that the frontal envelope was the place where the Shinto priests performed rites.
著者
三浦 正幸
出版者
東京大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2007

カスパーゼは細胞死のメディエーターとして機能するシステインプロテアーゼであり、生体防御機構においても重要な役割を担うことが知られている。そこで、カスパーゼの活性化を可視化するツールとして、FRETを用いたインディケーター、SCAT3(Sensor for activated CAspases based on FRET)を発現するショウジョウバエ系統を作製した。ショウジョウバエの脂肪体は感染時に抗菌ペプチドを産生する器官として知られている。我々は、ショウジョウバエの遺伝学的手法(GAL4/UASシステム)を用いてショウジョウバエの脂肪体にSCAT3を発現させ、感染後のカスパーゼ活性検出を試みた。ショウジョウバエ腹部にE.coliをマイクロインジェクションした後に、時間経過毎に脂肪体を取り出し、単一細胞レペルでのカメパーゼ活性を観察した。その結果、E_coliの注入後30分の間において、脂肪体細胞の一部の細胞で、細胞死を誘導するのに十分なカスパーゼ活性が観察された。感染後の免疫担当細胞におけるカスパーゼ活性化動態の単一細胞レベルでの観察はこれまでに報告が無く、新しい知見である。カスパーゼ活性が観察されたのは一部の細胞だけではなく、それ以外の細胞においても、微弱な、あるいは一時的なカスパーゼ活性が検出された。この活性が、持続し細胞死を誘導するものかどうかについて、E_coli注入後6時間の脂肪体細胞を観察したところ、活性化が見られなかったことから、感染後初期に誘導された一時的な活性化であることが考えられ、E_coliの感染初期においてカスパーゼが何らかの生理機能を果たしていることが示唆された。
著者
狩野 充徳 岸田 裕之 勝部 眞人 妹尾 好信 高永 茂 伊藤 奈保子 本多 博之 西別府 元日 中山 富廣 有元 伸子 竹広 文明 古瀬 清秀 フンク カロリン 三浦 正幸 久保田 啓一 野島 永 瀬崎 圭二
出版者
広島大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

多くの伝承・伝説に包まれた世界遺産・厳島は、人間社会の傍らで、人びとの暮らしとともにあった。無文字時代には、原始的宗教の雰囲気を漂わせながら、サヌカイト・安山岩交易の舞台として。有史以後には、佐伯景弘らの創造した伝説を原点に、中世では信仰と瀬戸内海交通・交易の拠点として、近世では信仰と遊興の町として、近代では軍事施設をもつ信仰と観光の町としてあった。そして、それぞれの時代に、多くの伝承・伝説が再生産されていったのである。