著者
佐野 静代
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.133, pp.85-108, 2006-12-20

古代の御厨における漁撈活動の実態を解明するためには,「湖沼河海」の各々の御厨を取り巻く自然環境の分析が不可欠である。自然環境の分析には,地形・気候的条件とともに,その上に展開する「生態系」,特に魚類を中心とした生物相の考察が含まれる。魚類の生態と行動(生活史・食性・場所利用など)は,古代にも遡及しうるものであり,当時の地形と漁撈技術段階との照合によって,魚種ごとの捕獲原理や漁獲時期が推定可能となる。このようにして各御厨で行われた漁法が明らかになれば,「湖沼河海」の御厨ごとの漁撈活動と,贄人の生活形態の相違が浮かび上がってくるはずである。本稿では,古代の琵琶湖に設けられた筑摩御厨を対象として,当時の地形・生息魚種の生態・漁撈技術段階を照合し,その生活実態について検討した。筑摩御厨では,春の産卵期に接岸してくるフナと,春~初夏に琵琶湖から流入河川に遡上してくるアユを漁獲対象としており,贄人の漁撈活動は,地先水面での地引網漁+上り簗漁というきわめて定着的な漁法によっていたことがわかった。御厨現地での生活実態としては,水陸の移行帯において漁撈と農耕が分かちがたく結びついた「漁+農」複合型の生業形態であったと推定される。琵琶湖岸の古代の御厨においては,漁撈のみに尖鋭化した特権的専業漁民の姿は認めがたく,古代の贄人の生活実態は,網野善彦が提起した「船による移動・遍歴を生活の基本とする海民」像とは,異なるものといえる。生業を指標とする集団の考察には,現地の環境条件との照合が不可欠であり,網野の提起した「非農業民」概念もこのような視点から再検討されるべきと考える。
著者
佐藤 健二
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.13-45, 2011-03-31

本稿は近代日本における「民俗学史」を構築するための基礎作業である。学史の構築は、それ自体が「比較」の実践であり、その学問の現在のありようを相対化して再考し、いわば「総体化」ともいうべき立場を模索する契機となる。先行するいくつかの学史記述の歴史認識を対象に、雑誌を含む「刊行物・著作物」や、研究団体への注目が、理念的・実証的にどのように押さえられてきたかを批判的に検討し、「柳田国男中心主義」からの脱却を掲げる試みにおいてもまた、地方雑誌の果たした固有の役割がじつは軽視され、抽象的な「日本民俗学史」に止められてきた事実を明らかにする。そこから、近代日本のそれぞれの地域における、いわゆる「民俗学」「郷土研究」「郷土教育」の受容や成長のしかたの違いという主題を取り出す。糸魚川の郷土研究の歴史は、相馬御風のような文学者の関与を改めて考察すべき論点として加え、また『青木重孝著作集』(現在一五冊刊行)のような、地方で活躍した民俗学者のテクスト共有の地道で貴重な試みがもつ可能性を浮かびあがらせる。また、澤田四郎作を中心とした「大阪民俗談話会」の活動記録は、「場としての民俗学」の分析が、近代日本の民俗学史の研究において必要であることを暗示する。民俗学に対する複数の興味関心が交錯し、多様な特質をもつ研究主体が交流した「場」の分析はまた、理論史としての学史とは異なる、方法史・実践史としての学史認識の重要性という理論的課題をも開くだろう。最後に、歴史記述の一般的な技術としての「年表」の功罪の自覚から、柳田と同時代の歴史家でもあったマルク・ブロックの「起源の問題」をとりあげて、安易な「比較民俗学」への同調のもつ危うさとともに、探索・博捜・蓄積につとめる「博物学」的なアプローチと相補いあう、変数としてのカテゴリーの構成を追究する「代数学」的なアプローチが、民俗学史の研究において求められているという現状認識を掲げる。
著者
藤本 誉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.204, pp.11-30, 2017-02-28

本稿は、室町後期(一五世紀後期)から織田権力期(一六世紀後期)までを対象として、堺における自治および支配の構造とその変容過程を検討したものである。当該期は中近世移行期として「荘園制から村町制へ」というシェーマが示されているように社会構造が大きく変容する時期である。堺においても堺南北荘の存在や、近世都市の基礎単位になる町共同体の成立が確認されており、これらの総体としての都市構造の変容の追究が必要であった。検討の結果、堺南北荘を枠組みとする荘園制的社会構造から町共同体を基盤とした地縁的自治構造が主体となる社会構造への移行が確認され、その分水嶺は地縁的自治構造が都市全体に展開した一六世紀中期であった。そしてこの時期に、そのような社会構造の変容と連動して支配権力の交代、有力商人層(会合衆)の交代といった大きな変化が生じ、イエズス会宣教師が記した堺の「平和領域性」や自治の象徴とされる環濠の形成は、当該期の地縁的自治構造(都市共同体)の展開が生み出したものであると考えられた。そして、様々な部位で変化を遂げながら形成された一六世紀中期の都市構造が、近世的都市構造として一六世紀後期以降に継承されていくと見通した。
著者
蒲池 勢至
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.209-236, 1993-03-25

これまで民俗学における墓制研究は、「両墓制」を中心にして進展してきた。「両墓制」は「単墓制」に対しての用語であるが、近年、これに加えて「無墓制」ということがいわれている。「無墓制」については、研究者の捉え方や概念規定が一様でなく混乱も生じているので、本稿ではこの墓制が投げかけた問題を指摘してみたい。さらに、「無墓制」が真宗門徒地帯に多くみられることから、真宗における「墓」のあり方を通して「石塔」や「納骨」といった問題を考えようとするものである。まず、全国各地の事例を整理してみると、これまでの報告には火葬と土葬の場合が区別されずにいたり、あるいは「墓がない」というとき「墓とは何か」が曖昧であった。それはまた、両墓制における「詣り墓」(石塔)とは何かが曖昧であったことを示している。「無墓制」の実態は、火葬したあとに遺骨を放置してしまい、石塔を建立しないものであるが、この墓制は両墓制研究の中で、いま一度、遺体埋葬地や石塔の問題、土葬だけでなく火葬の問題を検討しなければならないことを教えている。真宗門徒になぜ「無墓制」が多いのかについては、真宗信仰が墓をどのように考えていたのか歴史的に考察する。現在の真宗墓地にみられる石塔の形態や本山納骨の成立過程をみて、真宗の墓制観や教団による規制との関係を論じる。そこには、遺体や遺骨を祭祀することは教義的に問題があった。中世においても、真宗は卒塔婆や石塔に否定的であって、このような墓や石塔に対する軽視観は近世を通じて今日まで至り、火葬のあとに遣骨を放置したまま石塔も建立しない習俗が残存したのである。また、真宗は墓としての石塔は否定したが、納骨儀礼は認めて、近世教団体制の確立する段階で中世的納骨儀礼を近世的な形で継承したのであった。
著者
井上 智勝
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.357-378, 2008-12-25

本稿では、従来個別の地域に即して蓄積されてきた神職組織研究を相互比較することによって、近世の神職組織の存在形態とその特質を解明した。対象は、これまでの研究が触頭―触下という関係に注目して集積されてきた関係から、触頭などの長を戴く神職組織に設定している。検討対象としては、松前から九州までの事例を取り上げた。かかる神職組織は、領国地域・非領国地域を問わず、各地に多数存在し、多様な展開を見せていた。非領国地域の組織は、領主権力から比較的自由に存在することが可能で、前代以来の自律性を残しつつ存在した。比較的広い封地を有する領主の神職編成には、領主権力によって触頭が設定される場合と、前代以来の地域有力社が保持する既存組織が利用される場合があった。前者の場合でも下部組織として郡や郷などにおいて展開してきた在地の神職組織に依拠することは多かった。また、領主権力によって構築された神職組織は、触頭の奉仕社と同格の神社神職からの強い抵抗を誘発することがあり、当該地域権力が消失あるいは縮小した場合には解体する方向へ進むこともあった。後者においては、在地からの抵抗は比較的少なく、反対に領主権力が地域有力社の自律的な在り方に制限を加えられることもあった。神職組織の編成原理も単に触頭―触下という論理ではなく、官位、称号、参勤など、いくつかの論理によってその関係を正当化していた。このうち参勤という神職集団の形成形態は、やや古い形態を残すものと考えられる。また、本所はかかる組織に依拠して諸国の神職支配を行っていたが、既存の組織や秩序からの脱却を図る神職の動向を助長する役割を果たす場合もあった。
著者
橋本 政宣
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.289-329, 2008-12-25

江戸幕府により寛文五年(一六六五)七月十一日付で出された「神社条目」により、卜部吉田家はこれをテコに諸国の神社・神職を支配下におくべく、神道裁許状の交付、官位の執奏等を通してその推進をはかった。そしてその根拠としたのが、第三条および第二条であった。しかし第二条の条文には吉田家が格別の位置にあることが記されてはいなかったことからくる限界もあった。そこで、吉田家では、諸社家の官位執奏権を公認されるよう寛文八年十月出願するにより、幕府は京都所司代をして朝廷の評議を要める。かくて時の関白鷹司房輔と吉田家に肩入れする武家伝奏飛鳥井雅章との問で激しい論争が展開されることになるが、朝廷内の意見は一致をみないまま、翌々年八月幕府の裁許に委ねられることになる。そしてそれより四年後の延宝二年(一六七四)に至り幕府の結論が出される。「寛文九年吉田執奏一件争論」といわれるものがこれであり、幕府は儒者林春齋(弘文院)にこの一件に関する勘文を上呈させ、『吉田勘文』として纏められている。本稿は、『吉田勘文』を具体的に検討し、執奏一件争論の実態を明らかにすることを通し、吉田家の諸社家官位執奏運動の方針、朝廷や幕府の対応の在り方を明らかにし、「神社条目」の理念について改めて考察するものである。この一件につき、京都所司代を以て幕府の裁許が示されたのであるが、これは吉田家の望みが全くは否定されたものではなく、幕府の方針の転換であったともいえる。一方、吉田家でも諸社家の官位執奏問題はその後も主張を継続していき、幕府もその対応を微妙に変えていく。最後に、幕末までの大きな流れに基軸をすえ見ておいた。
著者
篠原 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.41-60, 1989-03-30

Conventionally the natural and spiritual features of region (we call it “Fûdo” ) have seldom been discussed positively in our folklore. This is partly because the word “Fûdo” , which means natural and spiritual features, is much ambiguous in Japanese and that equivocal use of this word has been left to take its course both in its intensive and extensive sense. A number of people admit however that the “Fûdo” implies a sort of regional sense, sensitivity or inclination which cannot be expressed by any other wording.The “Fûdo” should therefore be regrasped in the general framework of people's recognition process of Nature, not as an object of natural science. Though this recognition was once applied in the basic theory of WATSUJI Tetsuro on which he discussed the “Fûdo” as his subject matter, his discussion developed only into his personal speculation, not into the process of people's recognition of the natural and spiritual features of regions.The “Fûdo” if it is to be defined in its intensive meaning, may be grasped as an image that can evoke a “subjectivization” of the environments which surround humans. From the standpoint of the subjectivization of environments this approach can be identified with that idea of KANI Toukichi according to which he attempted to classify the river from the point of view of the insects living therein in his ecological study.YANAGITA Kunio made no positive proposition on the problem of Fûdo. His final objective in his folkloristic works was to abstract the regional mind. He finally spellbound this mind contending that it can be understood only by persons from same regions. This paper attempted to prove that the mind is an intensive reality of the Fûdo. In the same line of understanding, such folklorists after YANAGITA as CHIBA Tokuji and TSUBOI Hirofumi, who were much interested in the problem of Fûdo, tried to break that spell.By way of abstracting an interrelation of vocabulary produced in some regions by an association, we can predict an existence of an association system such as “Saijiki” (a collection of haiku divided into four seasons), which is based on an emic image association. These predictions have been described in this paper taking up some material examples, which must be an effective approach to comprehend regional sense and sensitivity. Because the spatial range of the Fûdo is much elastic, it is not productive to understand it within the geographical framework only. The author thus proposes to rediscover our Fûdo in a folklore specialized in a study of regional sensitivity.
著者
新納 泉
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.211, pp.51-77, 2018-03-30

レーザー計測などの新しい技術の採用によって,前方後円墳の立体的な形状をきめ細かく把握することが可能になってきた。本稿では,そうしたデータにもとづいて,大規模な前方後円墳を例に設計原理とその系列の復元を行う。主として取り上げるのは,近年レーザー計測などが実施された,大阪府藤井寺市仲津山古墳(仲姫皇后陵古墳),同堺市上石津ミサンザイ古墳(履中陵古墳),岡山市造山古墳,大阪府羽曳野市誉田御廟山古墳(応神陵古墳)の4基であり,それぞれの古墳の設計原理の解明と相互の関係を検討した。設計原理を読み解くにあたっては,主として,コンピュータのプログラムを用いて描画される復元図を,測量図に重ね合わせるという手法を用いた。設計原理に用いられた長さの単位を知るには,後円部の中心点と,前方部の隅角の各段を結ぶ稜線が主軸と交わる前方部中央交点(P点)との間の距離が最も信頼性の高い手がかりとなる。これらの点は少ない誤差で絞り込めることと,その2点間の距離が後円部の半径の1.5倍となる例が多く,墳端の位置がはっきりしない場合でも,後円部の半径を推定しやすいからである。以上の方法を用いることにより,次のような点を明らかにすることができた。(1)歩を長さの単位とし,直角三角形の底辺と高さの比で角度を決定している,(2)0.5歩の倍数で段築のテラスの幅を決定し,それを長さの基本単位としていたが,基本単位の長さは後円部と前方部前面で異なるのが普通である,(3)設計原理のままでは要請された墳丘長に合わないことが多いため,実施設計において墳丘を引き伸ばすなどの一定の調整がなされていた,(4)それぞれの古墳の築造に際しては,既存の設計原理を適用するのではなく,そのたびに新たに設計原理が構想されていた,(5)設計原理の継承には系統性が存在するが,その内容は複雑なものである。
著者
小田嶋 恭二
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.211-230, 2003-03-31

藤根村という東北の貧しい農村に生まれた高橋峯次郎という一教師をとおして、彼が生きた明治・大正・昭和の三時代とはどういう時代であったのか、また村の指導者として日露戦争、満州事変そして太平洋戦争に、どのように関与し行動したかを考察する。峯次郎という人間を考える上でのキーワードは、「貧しい農村」、「青少年教育」、「兵隊バカ」の三つである。これは、彼が生前六六年間書き続けた日記、三七年間発行し続けた『真友』、教え子から受け取った七千通を超える軍事郵便、生涯にわたって手がけた二冊の郷土史から拾い上げることができる。彼は、藩政時代から繰り返し起こる飢饉や百姓一揆の恐ろしさ、戊辰戦争の敗北により明治政府から疎外されてきた東北農村の歴史を聞いて育つ。苦学して師範学校を卒業し、教員となり村の青少年教育に情熱を注ぐが、戦争という暗い陰がいつも隣り合わせであった。日露戦争にも従軍し、戦争の悲惨さや家族に及ぼす影響を痛いほど知っていた。そのため、教え子が戦地に行って苦労しないよう軍事訓練をしたり、出征兵士に村の様子、家族の様子を知らせる『真友』や激励の手紙を送付した。時には異常なまで軍に協力する姿が、誤解され「兵隊バカ」と呼ばれることもあった。昭和二〇年八月一五日敗戦という結末で太平洋戦争は終わる。これまで政治を信じ軍部を信じ「兵隊バカ」とまで呼ばれ、国策遂行に協力したことに対し、敗戦を境にその指導責任を問われることになる。戦争で教え子を失い、これまで村の指導者としてとった行動が否定され、心に深い傷を負う。戦後、彼は戦死した教え子の霊を供養し、遺族たちの世話や恵まれない人々や子どもの世話をし、社会福祉に奉仕する。これは彼自身の戦争責任の取り方であり、また一つの人生のけじめのつけ方でもあったのではないか。
著者
東野 治之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.114, pp.21-32, 2004-02-27

大嘗会の際に設けられる標の山は、日本の作り物の起源に関わるものとされ、主として民俗学の分野からその意義が注目されてきた。しかしその歴史や実態については、いまだ未解明の点も多い。本稿では、まず平安初期の標の山が中国風の装飾を凝らした大規模なものであったことを確認した上で、『万葉集』に見られる八世紀半ばの歌群から、新嘗会の標の山が、同様な中国風の作り物であったことを指摘する。大嘗会は本来新嘗会と同一の祭りであり、七世紀末に分離されて独自の意味をもつようになったとされるが、そうした経緯からすれば、この種の作り物が、当初から中国的な色彩の濃いものであったことも容易に推定できる。そのことを傍証するのが、和銅元年(七〇八)の大嘗会の状況であって、それを伝えた『続日本紀』の天平八年(七三六)の記事は、作り物の橘が金銀珠玉の装飾とともに用いられていたことを示している。従って、大嘗会の標の山は、大嘗会の成立に近い時点で中国的な性格を持っていたわけで、その特色はおそらく大嘗会の成立時点にまで遡るであろう。このように見ると、標の山は神の依り代として設けられたもので、本来簡素な和風のものであったが、次第に装飾が増え中国化したとする通説には大きな疑問が生じる。そこで改めて標の山の性格を考えると、その起源は、すでに江戸時代以前から一部で言われてきたように、儀式進行上の必要から設けられた標識にあり、それが独自の発展を遂げたものと解すべきである。なお、大嘗会の標の山について、その形態をうかがわせる史料は限られているが、元慶六年(八八二)の相撲節会に用意された標の山に関しては、菅原道真が作った文から詳細が判明し、大きさや装飾が大嘗会のものと類似していたことがわかる。この文についての従来の読みには不十分な点があるので、改めて訓読を掲げ参考とした。
著者
岩本 通弥
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.73-144, 1993-11-10

本稿はこれまで概して「日本独特の現象」ともされてきた〈親子心中〉に関し、韓国におけるその事例を紹介することで、そうした言説に修正をはかるとともに、両者を比較することにより、より深いレベルにおける〈親子心中〉の諸現象、すなわち〈親子心中〉という行為だけでなく、それをめぐる社会や文化のより大きな象徴的システムのうち、何が普遍的であり、あるいは何が日本的であるのか、そのおおよその見通しを得ることを目的としている。そのため本稿では、これまでほとんど日本には報告されてこなかった、韓国における〈親子心中〉を含めた「自殺の全体像」を提示することからはじめるが、資料としては、その代表的な中央紙である朝鮮日報と東亜日報における自殺記事を、一年分収集し、これを分析した。新聞を資料として用いることに関し、方法的な視角を述べるならば、新聞記事というニュースの性質を、単なる情報の〈伝達〉という機能から捉えるのではなく、むしろ、より読み手(decorder)の役割を重視した、神話的な〈物語〉を創出していくものとして、繰り返し語られるニュースのなかの、隠れたメッセージや象徴的コードを読み解いていく。その物語性は、読み手に文化的諸価値の定義を提供しているが、こうした視角で分析してみると、日韓の自殺と親子心中「事件」のコードは類似したものが多い一方、大きく異なる点も存在する。最も相違するのは日本の自殺・親子心中の〈物語〉が「他人に迷惑を掛けること」の忌避を訴えているのに対し、韓国のそれは「抗議性(憤り)」を媒介とした「他者との心情の交流」が主要な価値コードとなっている。正反対の日本の価値コードからすれば、韓国の自殺・同伴自殺は「いさぎよし」とは見做されず、また逆に日本のそれも韓国的コードでは負に位置付けられようが、それは両国の感情表現の方法をはじめ「死の美学」や死生観・霊魂観の相違に起因するものであり、表面的形態的には類似している日韓の〈親子心中〉も、その意味するところは大きく異なっている。
著者
白石 太一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.93-118, 2003-10-31

古墳時代前期から中期初めにかけての4世紀前後の古墳の埋葬例のうちには,特に多量の腕輪形石製品をともなうものがある。鍬形石・石釧・車輪石の三種の腕輪形石製品は,いづれも弥生時代に南海産の貝で作られていた貝輪に起源するもので,神をまつる職能を持った司祭者を象徴する遺物と捉えられている。したがって,こうした特に多量の腕輪形石製品を持った被葬者は,呪術的・宗教的な性格の首長と考えられる。小論は,古墳の一つの埋葬施設から多量の腕輪形石製品が出土した例を取り上げて検討するとともに,一つの古墳の中でそうした埋葬施設の占める位置を検証し,一代の首長権のなかでの政治的・軍事的首長権と呪術的・宗教的首長権の関係を考察したものである。まず,一つの埋葬施設で多量の腕輪形石製品を持つ例を検討すると,武器・武具をほとんど伴わないもの(A類)と,多量の武器・武具を伴うもの(B類)の二者に明確に分離できる。前者が呪術的・宗教的首長であり,後者が呪術的・宗教的性格をも併せもつ政治的・軍事的首長であることはいうまでもなかろう。前者の中には,奈良県川西町島の山古墳前方部粘土槨のように,その被葬者が女性である可能性がきわめて高いものもある。次に両者が一つの古墳のなかで占める位置関係をみると,古墳の中心的な埋葬施設が1基でそれがB類であるもの,一つの古墳にA類とB類の埋葬施設があり,両者がほぼ同格のもの,明らかにB類が優位に立つものなどがある。それらを総合すると,この時期には政治的・軍事的首長権と呪術的・宗教的首長権の組合せで一代の首長権が成り立つ聖俗二重首長制が決して特殊なものではなかったことは明らかである。また一人の人物が首長権を掌握している場合でも,その首長は大量の武器・武具とともに多量の腕輪形石製品をもち,司祭者的権能をも兼ね備えていたことが知られるのである。
著者
中島 信親
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.134, pp.275-298, 2007-03-30

本論は、光仁・桓武朝にあたる奈良時代後半から平安時代初期に都城や国家が造営した寺院で用いられた軒瓦を、文様および造瓦技術に着目しつつ概観し、その中で長岡宮式軒瓦がどの様に位置づけられるかを検討した。奈良時代後半に存在した文様および造瓦技術が異なる二系統の造営官司(宮造営官司と造東大寺司)が二度の遷都を通じて再編・融合される中で、その渦中で製作された長岡宮式軒瓦は、文様が稚拙なものも含めてほぼすべてが宮造営官司の造瓦技法が用いられていることを確認した。また、文様と分布から長岡宮式軒瓦を区分し、分布の集中域に存在する殿舎や施設とそれが文献に記載される年号から、区分した軒瓦に製作年代の一定点を与えた。
著者
上野 和男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.97-159, 1993-11-10

本稿は日本各地の隠居制家族の比較分析を通じて、日本における隠居制家族の諸類型を設定し、その地域的変差を通じて隠居制家族の構造を明らかにし、さらに日本の家族類型における隠居制家族の位置と村落社会構造との関連を明らかにしようとする一試論である。ここで試みる隠居制家族の類型化は、日本の家族の地域類型設定の一部をなすものであり、その意味でこの研究は日本社会の地域性研究の重要な一部をなすものである。隠居制についてはこれまでさまざまな概念規定が試みられてきているが、ここでは地域社会に規制された家族内部において、居住分離を基本とするある程度独立した複数の生活単位を形成する家族制度である、と規定した。この規定にしたがえば、隠居制家族は福島県を北限とし、トカラ列島宝島を南限とする各地の村落に認められる。これらの隠居制家族を比較分析して本稿では、あとつぎの結婚から隠居形成までの期間、生活単位の成員構成、隠居者と母屋構成員との関係および婚姻居住形態の三つを指標として、日本の隠居制家族の類型化を試み、「父性型」「婿入婚型」「双性型」の三類型を設定した。父性型は嫁入婚を基礎として、親夫婦と息子夫婦が家族内で別個の生活単位を形成する型である。婿入婚型は妻訪いをともなう婿入婚を基礎とする隠居制家族であり、父―息子二世代夫婦不同居の原則が貫徹されている。双性型は夫方の親夫婦のみならず、妻方の親夫婦との間にも隠居制家族を形成する型である。これらの型によって地域的分布も異なる。隠居制家族は構造的には、夫婦関係を中心とする日常生活上の分離と、親子関係を軸とする家族としての統合との妥協的な家族構造であり、程度の差を内包しつつも分離と統合のふたつの側面をもつ家族構造である。また隠居制家族と世代階層制、宮座などの村落組織との構造的な関係は稀薄である。
著者
藤沢 敦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.365-390, 2013-11-15

古墳時代から飛鳥時代,奈良時代にかけての,東北地方日本海側の考古資料について,全体を俯瞰して検討する。弥生時代後期の様相,南東北での古墳の築造動向,北東北を中心とする続縄文文化の様相,7世紀以降に北東北に展開する「末期古墳」を概観した。さらに,城柵遺跡の概要と,「蝦夷」の領域について文献史学の研究成果を確認した。その上で,日本海側の特質を太平洋側の様相と比較しつつ,考古資料の変移と文献史料に見える「蝦夷」の領域との関係を検討し,律令国家の領域認識について考察した。日本海側の古墳の築造動向は,後期前半までは太平洋側の動向と基本的に共通した変化を示すことから,倭国域全体での政治的変動と連動した変化と考えられる。ところが後期後半以降,古墳築造が続く地域と途切れる地域に分かれ,地域ごとの差違が顕著となる。終末期には太平洋側以上に地域ごとの差違が顕著となる。時期が下るとともに,地域独自の様相が強まっており,中央政権による地方支配が強化されたと見なすことはできない。続縄文文化系の考古資料は,日本海沿いでは新潟県域まで分布し,きわめて遠距離まで及ぶ。また海上交通の要衝と考えられる場所に,続縄文文化と古墳文化の交流を示す遺跡が存在する。これらの点から,日本海側では海上交通路が重要な位置を占めていた可能性が高く,続縄文文化を担った人々が大きな役割を果たした可能性が指摘できる。文献史料の検討による蝦夷の領域と,考古資料に見られる文化の違いは,ほとんど対応しない。日本海側では,蝦夷の領域と推測される,山形県域のほぼ全て,福島県会津盆地,新潟県域の東半部は,古墳文化が広がっていた地域である。両者には,あきらかな「ずれ」が存在し,それは太平洋側より大きい。この事実は,考古資料の分布に見える文化の違いと人間集団の違いに関する考えを,根本的に見直すことを要求している。排他的な文化的同一性が先に存在するのではなく,ある「違い」をとりあげることで,「彼ら」と「われわれ」の境界が形成されると考えるべきである。これらの検討を踏まえるならば,律令国家による「蝦夷」という名付けは,境界創出のための他者認識であったと考えられる。
著者
千田 嘉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.64, pp.223-235, 1995-11-30

従来,遺構に即した踏み込んだ検討が行われてこなかった東北北部の山域について,墳館・唐川城・柴崎城・尻八館を事例に検討を行った。この結果,墳館は10世紀末~11世紀にかけての古代末の防御集落と中世の館が重複した遺跡であったことを示し,東北地域で数多くみられるこうした重複現象が,中世段階ですでに古代末に地域の城が構えられた場が,特別な意味をもち,そこに改めて城を築くことが,中世の築城主体にとって権力の権威や正当性を示す意義をもったとした。さらに唐川城・柴崎城・尻八館は,曲輪の整形が未熟な反面,堀が卓越して発達するという,同一系譜の特徴的な城であったことを明らかにし,その築造時期が14世紀末にはじまり,15世紀前半までに限定できるとした。この14世紀末という時期は,十三湊において都市を南北に2分した大土塁が築造されはじめた時期に当たり,また15世紀半ばという最後の改修の年代も安藤氏と南部氏の戦いの時期に一致したことを示した。そして諸状況から考え,これらの3つの山城は安藤氏の拠点城郭として機能したと評価した。堀を卓越させたこれらの城郭構成は,これまでみすごされてきた北の城郭の特徴を示したもので,中世後期の城郭形成に,北からの堀が不可欠であったことを述べるとともに,南方のグスクと共通した郭非主体の防御のあり方は,その先のさらなる北や南との交流の中で生み出されたものだとした。