著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.80, pp.185-202, 1999-03

弥生時代には,イレズミと考えられる線刻のある顔を表現した黥面絵画が知られている。いくつかの様式があるが,目を取り巻く線を描いた黥面絵画A,目の下の線が頰を斜めに横切るように下がった黥面絵画B,額から頰に弧状の線の束を描いた黥面絵画Cがおもなものである。それぞれの年代は弥生中期,中~後期,後期~古墳前期であり,型式学的な連続性から,A→B→Cという変遷が考えられる。Aは弥生前期の土偶にも表現されており,それは縄文時代の東日本の土偶の表現にさかのぼる。つまり,弥生時代の黥面絵画は縄文時代の土偶に起源をもつことが推測される。黥面絵画には鳥装の戦士を表現したものがある。民族学的知見を参考にすると,イレズミには戦士の仲間入りをするための通過儀礼としての役割りがあったり,種族の認識票としての意味をもつ場合もある。弥生時代のイレズミには祖先への仲間入りの印という意味が考えられ,戦士が鳥に扮するのは祖先との交信をはかるための変身ではなかろうか。畿内地方では,弥生中期末~後期にイレズミの習俗を捨てるが,そこには漢文化の影響が考えられる。その後,イレズミはこの習俗本来の持ち主である非農耕民に収斂する。社会の中にイレズミの習俗をもつものともたないものという二重構造が生まれたのであり,そうした視点でイレズミの消長を分析することは,権力による異民支配のあり方を探る手掛かりをも提示するであろう。
著者
板橋 春夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.135-145, 2002-03-29

桐生新町の天王祭礼は由緒ある祭礼で、市神は桐生織物と深い関係にある。御旅所は当番町の天満宮寄りに安置するのが習わしであった。桐生新町では明治三十年代まで鉾や屋台を引き回していたが、電灯線が引かれ渡御に支障が出るようになって中止となり、御輿も現在廃止した。近世期のにぎわいぶりは彦部信有「桐生の里ぶり」に詳しいが、現在、その面影を見出すのはむずかしい。そこで隣接する在郷町である大間々町の天王祭礼でその様子を見ていく。桐生新町の御輿は「天王伝右衛門」という人物がかつて掌握していたが、何らかの理由で退転。正徳二年(一七一二)に江戸の職人が御輿を製作。桐生新町の御輿は大間々へ回っていたという。大間々町の天王祭礼は、寛永六年(一六二九)、京都から八坂神社の分霊を市神として勧請し、三丁目大泉院内に祀ったのが始まりである。仮御輿だったので万冶元年(一六五八)に新規製作。町の大火で消失してしまい、寛政三年(一七九一)に新規製作した。祭日は徳川家康が関東に入った際に絹織物を献上したところ、それが勝利の吉例になったのにちなむというものである。大間々町の天王祭礼に関する聞き書きを行い、具体的な祭りの様子を記述した。全国各地で伝統的祭礼が衰退し、代わりに行政主導型の新しいイベントとして改編する動向がある。桐生市や大間々町の天王祭礼はそれぞれ高度経済成長期に大きな変化があった。本稿では大間々町の天王祭礼を聞き書きと地元紙『東毛タイムス』の記事を利用して変化を探った。
著者
川森 博司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.1-21, 1991-03-30

The two main topics of Japanese folktales are marriage and fortune-making. This thesis analyzes the latter type of folktales in an attempt to reveal the spirit of people who lived in a typical Japanese village community to hand down these pieces of folktales.Significant among the type of fortune-making folktales are stories characterized by antagonism between I-the main character who makes a fortune and II-another character who fails to make a fortune. The antagonism is expressed in various combinations of conflicting parties such as a man and his wife, a man and his neighbor, or a man and his real brother or stepbrother, among which the preferred one in Japan is that of a man and his neighbor.In the Amami and Okinawa islands, however, a type of antagonism between ‘a man and his brother’ appears in a high ratio depending on some kinds of stories. Detailed analysis of folktales in the Amami and Okinawa islands is expected to identify the difference from folktales in the main land of Japan so that the nature of antagonism between characters in Japanese folktales may be better understood.The Japanese features may also be more clearly understood by comparing her folktales with that of other nations to reveal their similarities and differences. For example, in Korea, a type of antagonism between ‘a man and his brother’ appears more frequently in their folktales. More careful comparison, however, requires a classified collection of materials from various countries, based on which international comparison should be made.The fact that a type of antagonism between ‘a man and his neighbor’ is the preferred type in Japanese folktales indicates that the relationship with neighbors was of main concern to people in a typical Japanese village community. Folktales provide valuable resources for investigating their inner world.
著者
渡部 鮎美
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.145, pp.253-274, 2008-11-30

臨時雇いとは出稼ぎや日雇いのように,日々または1年以内の期間を定めておこなわれる労働である。本論では農業と臨時雇いなどの他の仕事を兼業する人々の生計活動の分析を通して,兼業というワークスタイルについて論じる。調査地の千葉県南房総市富浦町丹生は房総半島南端に位置する集落である。丹生の人々は1960年から現在まで,農業とともに日雇いや農業パートなどの多くの臨時雇いをしてきた。とくに1970年代前半までは臨時雇いが農閑期の収入源となっていた。しかし,1970年代後半になるとビワ栽培が盛んになり,農業収入が増加して臨時雇いの経済的な意味は希薄化する。それでも現在まで丹生や周辺地域で臨時雇いが続けられてきたのは,臨時雇いが賃金を得る以外の意味をもっていたからである。まず,彼らにとって臨時雇いはヒマな時間を埋めるための仕事であった。そして,臨時雇いは外出がしづらい環境のなかで,家庭の外へ出る手段にもなっていた。また,彼らにとって臨時雇いは一生や一年,一日のなかでおこなわれる多様な生業活動のひとつであった。これまでの労働研究では,生計活動と直接結びつかない労働も生計活動と直接結びつく労働と同等の価値をもっていたことが示されている。また,そうした労働観が諸生業の産業化によって崩れていることも指摘されている。しかし,産業化後も生計活動と直接結びつかない臨時雇いのような生業活動は主たる生計手段となる生業活動からの逸脱となっている。一般にイレギュラーな労働とみられる臨時雇いも人々の生活の上ではなくてはならないものだったのである。本論では,複合生業論などの先行研究で見出された個々の生業活動が,実際にどのようにおこなわれているのかを参与観察や生計活動の通時的な分析を通して示した。そして,一生や一年,一日のなかで,主たる生業活動を逸脱しては復帰する営みが,現代の農業と他の仕事を兼業する人々の労働の総体としてとらえられるものであったことをあきらかにした。
著者
田村 省三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.209-233, 2004-02-27

本稿は、日本の近代化の先駆けであり、薩摩藩の近代科学技術の導入とその実践の場であった「集成館事業」の背景としての視点から、薩摩藩の蘭学受容の実際とその変遷について考察したものである。薩摩藩の蘭学は、近世における博物学への関心と島津重豪の蘭学趣味から出発し、オランダ通詞の招聘や蘭方医の採用をとおして、しだいに領内に普及していった。そして、蘭学が重用され急速に普及していったのは島津斉彬の時代であり、藩が強力に推進した「集成館事業」の周辺に顕著であった。しかし、藩士たちの蘭学の修得については、中央から遠く離れた地域性や経済的な困難もあって、江戸や大阪への遊学は他の地域に比べて少なかった。むしろ、中央の優秀な蘭学者を藩士に採用したり、蘭学者たちとの人脈を活用するという傾向が強かったと思われる。ただし長崎への遊学は、例外であった。薩摩藩の蘭学普及は、藩主導で推進されている。したがって地域蘭学の立場からすれば、同時代の諸藩とはその目的、内容と規模、普及の事情に相違がみられる。一方で、蘭学普及の余慶がまったく領内の諸地域には及んでいなかったのかと言えばそうではない。このたび、地域蘭学の存在を肯定することのできる種痘の事例を確認することができた。それは、長崎でモーニッケから種痘の指導を受けた前田杏斎の種痘術が、領内の高岡や種子島の医師たちに伝えられ実施されたという記録によってである。また薩摩藩は薩英戦争の直後、藩の近代化を加速するため、洋学の修得を目的とした「開成所」を設置する。ここでは当初蘭学の学習が重んじられていたが、しだいに英学の重要性が増していった。さらに明治二年、国の独医学採用に伴い、藩が英医ウィリアム・ウィリスを招聘して病院と医学校を設置してから、英国流の医学が急速に普及する。この地域が本格的に西洋医学の恩恵を受けるのは、以降のことである。
著者
小林 青樹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.213-238, 2014-02-28

本論は,弥生文化における青銅器文化の起源と系譜の検討を,紀元前2千年紀以降のユーラシア東部における諸文化圏のなかで検討したものである。具体的には,この形成過程のなかで,弥生青銅器における細形銅剣と細形銅矛の起源と系譜について論じた。まず,ユーラシアにおける青銅器文化圏の展開を概観した上で,細形銅剣の起源については,北方ユーラシアでは起源前1千年紀前半の段階から,中国北方系の青銅短剣の影響を受けたカラスク文化系青銅短剣の系列があり,一方,アンドロノヴォ系青銅器文化の
著者
坂本 稔
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.137, pp.305-315, 2007-03-30

土器の使用に伴って付着した物質は,その炭素14年代が土器の使用年代を示すものと考えられる。その起源物質の推定を目的として,土器付着物の炭素・窒素分析を行った。多くの試料は陸上生物に特徴的な値を示し,炭素14年代について海洋リザーバー効果の影響が少ないことが分かった。一方,東北や北海道では海洋生物に特徴的な値を示す試料の割合が増え,その影響は無視できない。炭素の安定同位体比からは,土器付着物に雑穀類などのC4植物の存在が確認され,また窒素の安定同位体比との相関では,食材を反映する内面と燃料材を反映する外面とに違いが見られた。
著者
柴崎 茂光
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.49-73, 2015-02

本報告では,鹿児島県屋久島で行われているエコツーリズム業が地域社会に及ぼす経済的影響を,西暦2000年前後に焦点を絞って,需要側(観光客側)・供給側(エコツーリズム業従業者側)双方の視点から明らかにした。屋久島を訪問する年間約20万人程度の観光客のうち,19-21%に当たる約34,000-38,000人が,屋久島滞在中にエコツアーを利用していた(2001-2002年)。またエコツアーを利用した観光客の過半数(57-60%)が,パッケージツアー(以下,パック旅行)を利用しており,エコツーリズム業とパック旅行の関係が密接であることが判明した。エコツーリズム業の経営構造を分析した所,費用の約50%は労務費が占めていた。その一方,減価償却費は旅館業やボーリング場経営に比べ小さい金額・比率にとどまっており,開業に必要な投資額が莫大でないことが示唆された。損益分岐点分析を行ったところ,売上高は損益分岐点売上高を上回り,また損益分岐点比率もホテル業などよりも小さい値であるため,経営環境は良好であると推測された。屋久島のエコツーリズム業の売上高は,年間5億1,000万-5億7,000万円と推定された。エコツアー業の経営環境は良好である一方で,山岳地域への環境負荷も増大させてきた。こうした状況に対して公的機関を中心に,荒川登山バス(シャトルバス制度),様々な対策を導入してきたものの,抜本的な解決には至っていない。
著者
福原 敏男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.1-23, 1994-03-31

筆者はこれまでに、祭礼芸能である一つもの・細男について考察し、これを平安末期に成立した田楽・王の舞・獅子舞・十列・巫女神楽・競馬・流鏑馬・神楽・舞楽・神子渡等からなる一連の芸能として位置づけた。京都・奈良の古社の祭礼において、「日使」と称する役が、上記の諸芸能とともに、祭礼に参加する事例がある。従来の日使に関する先行研究は、春日若宮祭礼に限られ、ここに神聖性が指摘された。日使は黒袍表袴に長い裾をひいた姿で、奉幣を主な役割とし、芸能的所作がないからであった。本稿では、春日祭・春日若宮祭礼、東大寺八幡宮転害会、大山崎離宮八幡宮の日使神事、山城宇治田原三社祭に参加する日使を対象にした。史料と絵画に基づく検討の結果、日使の成立を楽人の風流に求めた。日使が伝播した地における宗教性は、その所役を荷った人々の階層の問題である。
著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.125, pp.1-46, 2006-03-25

近代の博多において、大祭祇園山笠に参加できた諸町のうち、古溪町という町の社会構造と祇園山笠経営についてその実態を詳細に叙述した。同町にはとりわけ昭和一〇年代の史料が豊富に残っているので、聞き取り調査で得られた情報も交えつつ、とくにこの時期を中心に叙述した。古溪町では道路に面した表店に居住する世帯とそれ以外の場所(裏店または表店内の借間)に居住する準世帯との間に大きな社会的格差があった。町の寄合や町役員の選挙に参加できるのは表店の世帯主だけであった。また、町費・祭礼当番費・衛生費などを負担するのも表店の世帯主だけであった。彼らだけが町の正式な構成員であったとみなせる。日中戦争が長期化するなか、古溪町では昭和一五(一九四〇)年に町内会と隣組が設立された。そのさい、内務省の方針に従い準世帯も両組織に加えられたが、しかし両組織の役員の選挙に準世帯の世帯主は参加できなかった。表店の優越は昭和一八(一九四三)年の祇園山笠において古溪町が山笠当番という役を勤めたときにも明瞭に示された。このときの同町の当番役員は表店の世帯主またはその子弟だけで占められた。さらにこの祭礼で最も名誉があるとされる「台上がり」と呼ばれる役割を勤めたのも、表店の世帯主またはその子弟だけであった。一方、明治末期以降の日本では慢性的な不況が続き、博多においても町々の経済力は低下していき、祇園山笠の実施も困難になっていった。昭和前期(一九二六〜一九四五)になると、博多の町々は福岡市や地元財界から祇園山笠にたいする補助金を交付してもらうようになった。しかし太平洋戦争の激化によって物資と人手に不足が生じ、祇園山笠の実施はさらに困難になった。古溪町が山笠当番を勤めたのはまさにこのような時であった。
著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.145, pp.275-315, 2008-11-30

都市祭礼を中核とする経済構造を以下のように定義する。①祭礼の運営主体が祭礼に必要な資金を調達し、②ついでその資金を諸物品・技術・労働力・芸能の確保に支出して祭礼を準備、実施し、③祭礼が始まると、これを見物するために都市外部から来る観光客が手持ちの金銭を諸物品や宿泊場所の確保に支出する。以上の三つの段階ないし種類によってその都市を中心に多額の金銭が流通する。この構造を祭礼観光経済と呼ぶことにする。また、②に関係する商工業を祭礼産業、③に関係する商工業を観光産業と呼ぶことにする。本稿では近世と近代の博多祇園山笠を例にこの構造の具体像と歴史的変遷を分析した。近世においては、この祭礼の運営主体である個々の町が祭礼運営に必要な費用のほとんどを町内各家から集めた。そしてその費用のほとんどを博多内の祭礼産業に支出した。祭礼が始まると、博多外部から来る観光客が観光産業に金銭を支出した。博多は中世以来、各種の手工業が盛んな都市だった。このことが祭礼産業と観光産業の基盤となっていた。祭礼産業は祭礼収益を祭礼後の自家の日常の経営活動に利用したと考えられる。観光産業も観光収益を同様に扱ったと考えられる。一方、祭礼後の盂蘭盆会のさいには周辺農村の農民が博多の住民に大掛かりに物を売っていた。このような形で、博多の内部で、そして博多の内部と外部の間で、一年間に利潤が循環していた。近代の博多では商工業の近代化と大規模化が進まず、小規模な商工業者が引き続き多数を占めていた。そのため資本・生産・利潤の拡大を骨子とする近代資本主義にもとづく経済構造は脆弱だった。明治末期以来の慢性的な不況や都市空間の変容などさまざまな要因により、町々が祭礼費用を調達することは困難になっていった。しかし小規模な商工業者たちにとって祭礼収益や観光収益が年間の自家の収益全体に占める割合は高かった。この理由で、祭礼費用の調達に苦しみつつも、博多祇園山笠はかろうじて近代にも継続された。
著者
田原 範子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.167-207, 2011-11-30

本稿では,死という現象を起点としてアルル人の生活世界の記述を試みた。アルバート湖岸のアルル人たちは,生涯もしくは数世代に渡る移動のなかで,複数の生活拠点をもちつつ生きている。死に際して可能であれば,遺体は故郷の家(ホーム)まで搬送され,埋葬される。遺体の搬送が不可能な場合,死者の遺品をホームに埋葬する。埋葬地をめぐる決断の背景には,以下のような祖霊観がある。身体(dano)が没した後,ティポ(tipo)は身体を離れて新しい世界へ移動する。ティポは,人間界とティポの世界を往来しつつ,時には嫉妬などの感情を抱き,現実に生きている人びとの生活を脅かす。病気や生活の困難はティポからのメッセージである。そのような場合,ティポは空腹で黒い山羊を欲している。その求めに速やかに応じるために,埋葬地は祖先たちの住む場所つまりホームが望ましい。アルル人のホームランドでは,ティポはアビラ(abila)とジョク(s.jok,pl.jogi)とともに祀られている。ティポは現世の人間に危害を及ぼすだけの存在ではない。ティポの住まうアビラやジョクに対して,人びとは,語りかけ,家を建て,食物を用意し,山羊を供儀する。父や祖父のティポを通して,祖先の死者たちは生者と交流する。その交流は,生者に幸運や未来の予言をもたらすこともある。死者と生者が共にある空間で,死者のティポは安住することができる。移動に住まう人びともまた,死者をホームに搬送すること,死者の代わりに死者の遺品を埋葬することを通して,ティポの世界と交流している。
著者
坂 靖
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.211, pp.239-270, 2018-03

本稿の目的は,奈良盆地を中心とした近畿地方中央部の古墳や集落・生産・祭祀遺跡の動態や各遺跡の遺跡間関係から,その地域構造を解明する(=遺跡構造の解明)ことによって,ヤマト王権の生産基盤・支配拠点と,その勢力の伸張過程を明らかにすることにある。弥生時代の奈良盆地において最も高い生産力をもっていたのは「おおやまと」地域である。その上流域で,庄内式期の纒向遺跡が成立する。その後,布留式期に纒向遺跡の規模が拡大し,箸墓古墳と「おおやまと」古墳群の大型前方後円墳の造営がつづく。ヤマト王権の成立である。「おおやまと」地域において布留式期に台頭したのが,「おおやまと」地域を生産基盤とした有力地域集団(=「おおやまと」古墳集団)であり,地域一帯に分布する山辺・磯城古墳群をその墓域とした。ヤマト王権は,「おおやまと」古墳集団を出発点とし,その勢力が伸張していくことにより,徐々にその地歩を固め影響力を増大していく。布留式期には,近畿地方各地に跋扈した在地集団に加え,奈良盆地北部を中心とした佐紀古墳集団,「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団を仲介する役割を担った在地集団などが存在したことが遺跡構造から明らかであり,そのなかで「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団が主導的立場にあったと考えられる。5世紀には,「おおやまと」古墳集団は河内の在地集団を取り込み,さらにその勢力を伸張し,倭国の外交を展開する。そして,大和川の上・下流域一帯の広い範囲が生産基盤となり,倭国の支配拠点がおかれた。一方,近畿地方各地には,有力地域集団が跋扈しており,ヤマト王権の支配構造は,危ない均衡のうえに成り立っていたと考えられる。そうした状況が一変するのが,太田茶臼山古墳の後裔たる継体政権である。淀川北岸部の有力地域集団は,近畿地方や北陸・東海地方の在地集団や有力地域集団と協調することにより,ヤマト王権の生産基盤は,畿内地方一帯の広範な地域に及んだ。そして,6世紀後半には「おおやまと」古墳集団と一体化することにより,専制的な王権が確立し,奈良盆地の氏族層に強い影響力を及ぼしながら,倭国を統治することになるのである。This article examines the dynamics of and relationships among tumulus, settlement, production, and ritual sites in the Nara Basin and other areas in the central Kinki region to elucidate the regional structure (the relational structure of archaeological sites) and thereby explains the production base and regional government hubs of the Yamato polity and the process of expanding its influence.In the Yayoi period, the Ōyamato area had the highest productivity in the Nara Basin. Its upper river basin is home to the Makimuku archaeological site, which dates back to the Shōnai-style Pottery phase. In the following Furu-style Pottery phase, the clan based at this site expanded, with the construction of large keyhole tombs at the Hashihaka Tumulus site and the Ōyamato Tumulus cluster. It was the origin of the Yamato polity. The powerful regional clan (known as "Ōyamato Tumulus clan") that had established a production base in Ōyamato gained power in the region in the Furu-style Pottery phase and built tombs across the region, including tumulus clusters in Yamanobe and Shiki. The Yamato polity, originated from the Ōyamato Tumulus clan, gradually strengthened its position and expanded its influence by advancing into new areas.The relational structure of archaeological sites indicates the coexistence of dominant local clans across the Kinki region, the rise of the Saki Tumulus clan based in the northern Nara Basin, and the emergence of local clans serving as mediators between the Ōyamato and Saki Tumulus clans in the Furu-style pottery phase. Among these clans, the Ōyamato and Saki Tumulus clans seem to have played a leading part.In the fifth century, the Ōyamato Tumulus clan won over local clans in Kawachi, further expanded its influence, and acquired diplomatic authority to represent the Yamato state. The Yamato state expanded its production base across the extensive Yamato River Basin and interspersed regional government hubs around the area. It is, however, presumed that the domination of the Yamato polity was based on an unstable balance of power among the influential regional clans thriving in the Kinki region.This situation changed drastically under the reign of Emperor Keitai, a descendant of the Ōda Chausuyama Tumulus clan. This powerful regional clan originated in the northern bank of the Yodo River further expanded the production base of the Yamato Polity across the extensive Kinai region by establishing alliances with other influential regional and local clans in the Kinki, Hokuriku, and Tōkai regions. The merger of these clans and the Ōyamato Tumulus clan in the late six century established an absolute monarchy that governed the Yamato state while exercising its strong influence over the clans in the Nara Basin.
著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.593-610, 2003-03

各市町村における従軍者記念誌は、日露戦争終結直後、戦死者が忘却されていくことを嘆いて作られた。だが第一次大戦後、主に在郷軍人会市町村分会によって作られた記念誌は、そのような後ろ向きの意図ではなく、ある積極的な政治的意図、すなわち過去の栄光の記録・記憶化を通じて軍人という自己の存在意義を再確認し、反軍平和思想の盛んだった社会に訴えていくために作られていった。そのような記念誌の中で日清・日露の追憶を語った老兵たちは、戦死者の壮絶な死を語って戦争の「記憶」に具体性を与えて、人々の共感を呼び起こす役回りを演じた。そうした語りのあり方は「郷土の英雄」を求める人々の心情にもかなうものだった。老兵たちが自己の従軍体験を語る際、確かに悲惨な体験も語ったものの、基本的には名誉心充足の機会として戦争を描いていた。そのような従軍者たちの「語り」を彼らの〝郷土〟が一書に編む時、彼らが国家の大きな歴史に占めた位置、役割の説明が熱心に行われた。それは戦死者の死の〝意味〟を明らかにし、ひいては戦争自体の持つ価値を地域ぐるみで再確認、受容することに他ならなかった。以上の過程を通じて、満州事変勃発以前から満州は「血をもって購った」土地であり、したがってその権益は擁護されるべきという論理や「社会主義共産主義」の脅威が市町村という末端レベルで繰り返し確認されていった。満州事変に際して軍、在郷軍人会などが国民の支持を調達する際、日露戦争の「記憶」を強調したことは周知のことだが、本稿が掲げた諸事例は、そのような「記憶」が当時の社会において具体的にいつから、どのようにして共有化されていったのかを示すものである。
著者
北条 勝貴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.72, pp.41-80, 1997-03

古代最大の規模を有する氏族の1つである秦氏については,現在,各集団における在地的特徴・個別的性格の解明が要請されている。そのための方法として,氏族の有する歴史性――文化全般の蓄積が顕著に反映される,種々の氏神に対する信仰形態の検討が重要視される。山背国葛野郡を本拠とする秦氏の集団は,古来同氏族の族長的地位を保持してきた。その勢力範囲には幾つかの神社が存在するが,中でも松尾大社は隣接する愛宕郡の賀茂社に並ぶ巨大勢力を築いており,その創祀や信仰の展開には注意を要する。同社の祭神には2柱あり,大山咋神と市杵嶋姫命という男女の神とされている。前者は秦氏渡来以前より同地に奉祀されていた農業神らしいが,後者は筑前国宗像郡に鎮座する胸肩君の氏神――宗像三女神の1神で,元来沖ノ島にあって渡来人や海人集団から特別な崇拝を受けた海洋神であった。松尾大社の周辺に立地する葛野坐月読神社や木嶋坐天照御魂神社も,それぞれ玄界灘に由来し,海人系の壱岐氏・対馬氏によって奉祀されていた神格である。その分祀は,渡来人や海人集団の移動に伴うものと考えざるをえない。海岸部から内陸部へ,北九州地域から畿内諸国への海人集団の東遷は,考古学的にもある程度立証されている。それは彼らの主体的行動に基づく場合もあるが,多く5世紀後半以降は,半島との交通権・制海権を掌握・独占しようとするヤマト王権によって促進された。半島よりの秦氏の渡来も,そのような社会状況を背景に移動と停留を繰り返しつつ,海人集団との繋がりを持って行われたものと推測される。松尾大社に鎮座する市杵嶋姫命も,胸肩氏と血縁的・文化的に接触した秦氏の1集団により,玄界灘より分祀されてきたものと想定される。元来松尾山には大山咋神と一対の普遍的女性神(神霊の依代たるタマヨリヒメ)が祀られており,市杵嶋姫命はその神格に重複し限定を加える形で鎮座したものであろう。The Hata clan (uji) was one of the largest clans in the ancient period. In order to deepen our comprehension of the clan, it is necessary to elucidate the local features and particular characteristics of each of its constituent groups. An important part of this approach is to examine the forms of spiritual practices and beliefs associated with the various deities worshipped by the clan(ujigami), since these practices and beliefs clearly reflect the historical character and ac-cumulated cultural heritage of the clan.The Hata clan based in Kadono-gun in Yamashiro Province maintained their position as the heads of the Hata clans throughout the ancient period. Their sphere of influence extended throughout most of shrines; in particular, the Matsuo Shrine developed as a major power comparable to that of the Kamo Shrine in neighboring Otagi-gun. The initiation of rites and the development of beliefs and practices at the Matsuo Shrine thus merits close attention. Two main deities are worshipped at the shrine : Ōyamakui-no-kami, a male deity, and Ichikishimahime-no-mikoto, a female. Ōyamakui-no-kami appears to have been an agricultural deity worshipped in the region before the arrival of the Hata clan. In contrast, Ichikishimahime-no-mikoto was the ujigami of the Munakata-kimi clan enshrined in Munakata-gun in Chikuzen Province ; one of the three female Munakata deites, she was an ocean deity originallylocated in Okinoshima, and was the object of particular worship by the people that had crossed over from the continent and by the clans who had features as a navigator and a diver (kaijin-kei shizoku). The Kadono-ni-imasu Tsukuyomi Shrine and the Konoshima-ni-imasu Amateru-mitama Shrine, both situated near the Matsuo Shrine, took their origins from Genkainada, and enshrined deities worshipped by the Iki clan and Tsushima clan, which were formed by groups of navigators and divers. The development of branch sites of worship (bunshi) of these deities must be understood as the result of the movements of the people originating on the contient and of the clans who had features as a navigator and a diver.Archeologists have to a certain extent established that the clans who had features as a navigator and a diver moved progressively eastward, from coastal sites in the northern Kyushu to inland sites in the various provinces of the Kinai region. Although these movements were in some instances based on their own initiatives, in many cases they were pro-moted by the Yamato court from the late fifth century forward as part of its efforts to monopolize control of the seas and traffic with the Korean peninsula. Under these conditions, the crossing of the Hata clan from the peninsula, which involved a series of movements and stops, can also be seen to be connected to the movements of the clans who had features as a navigator and a diver.One can therefore surmise that the Ichikishimahime-no-mikoto enshrined in the Matsuo Shrine was carried over from Genkainada by a group of the Hata clan members who had developed blood and cultural relations with the Munakata clan. Originally, a universal female deity (Tamayorihime, a receptacle for divine spirits) had been worshipped at Mt. Matsuo as a counterpart to Ōyamakui-no-kami. The enshrinement of Ichikishimahime-no-mikoto thus no doubt involved an overlapping with a limitation of the divine characteristics of this deity.
著者
大東 敬明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.142, pp.193-209[含 英語文要旨], 2008-03

本稿は、東大寺二月堂修二会(以下、東大寺修二会)「中臣祓(なかとみのはらえ)」の典拠や構造を、その詞章から、分析しようとするものである。東大寺修二会に参籠する僧は練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれ、法会を支障なく執行する為に、穢れを取り去って心身を清浄に保つ事が求められる。そのため、現在では三月一日から十五日未明にかけて行われる「本行(ほんぎょう)」に先立って「別火(べっか)」行が行われ、その最終日にあたる二月末日に「咒師(しゅし)」によって「大中臣祓(おおなかとみのはらえ)」が行われる。また、「別火」行・「本行」期間中、様々な場面で「中臣祓」が行なわれる。祓は、罪や穢を除去することを目的とする儀礼である。この「中臣祓」は、「別火」行に入る際、「別火」行中の朝夕の勤行の際、洗面・入浴・便所の後、「本行」において、日々、二月堂に上堂する前等に行われる。「中臣祓」で用いられる御幣には、本稿で分析対象とする詞章が書かれた紙が巻きつけられている。練行衆は、それぞれ持っている守本尊に向かい、拍掌の後に、詞章を黙誦し、この御幣で身を祓うなどの所作を行なう。本稿において「中臣祓」の詞章は、① 東大寺八幡宮(手向山八幡宮)への法楽。② 真言神道や修験道で用いられた「拍手祓大事(かしわではらえのだいじ)」「伊勢拍手秡(いせかしわではらえ)」と共通する作法。③ 陰陽道流の祓で用いられた自力祓形式の略祓。④ 吉田神道の影響を受けた略祓で、息災延命祈願に用いられた祓。の四つの部分より構成される、と考察した。それぞれの具体的な典拠について、②以外は見出すことは出来なかったが、「中臣祓」の詞章が複数の系統の祓に関わる作法を集めて、独自の形式を作り上げている事は言える。すなわち、「中臣祓」は東大寺八幡宮へ法楽を捧げた後に、真言神道、陰陽道、吉田神道など、典拠を変えながら三重に祓を行う構造(②③④)を持つ。東大寺修二会が、諸儀礼の要素を取り込んで独自の形式としてゆくことは、法会の様々な部分から見出すことが出来る。「中臣祓」は東大寺修二会全体から見れば小さな作法であるが、同様の性格を見出すことが出来た。This paper uses the texts of the "Nakatomi no Harae" that are part of the Shuni-e ceremony held at Nigatsu-do at Tōdaiji as a means of investigating the origin and composition of this purification ritual.Priests who take part in the Tōdaiji Shuni-e ceremony are called Rengyoshu, and are required to remove all defilement and to purify their minds and bodies so that the ceremony can proceed without hindrance. This is done by means of a ceremony called "Bekka" which is held before the main ceremony, which currently takes place from March 1 through the early hours of March 15. On the last day of the Bekka ceremony, the last day of February, priests called Shushi perform the "Onakatomi no Harae" ceremony. The "Nakatomi no Harae" is also held at various stages in the Bekka ceremony and in the main ceremony. These purification rituals are performed in order to remove the polluted and bad condition.When the Bekka ceremony is under way, "Nakatomi no Harae" is performed at services held morning and night, after washing the face, bathing, and toileting, and before entering the Nigatsu-do everyday when the main ceremony is taking place. The Rengyoshu face their respective protective Buddhas, clap their hands, after which they perform various rites, such as the silent recitation of texts and purification of their bodies with white paper strips called "gohei". In the "gohei", the text which is the subject of this study is written on furled paper.In this study, the author found that the "Nakatomi no Harae" consists of four parts:1) Hōraku for Tōdaiji Hachimangu (Tamukeyama Hachimangu);2) Rites the same as the "Kashiwade Harae no Daiji" and the "Ise Kashiwade Harae" practised in Shingon Shinto and Shugendo; 3) Purification rituals in the form of self-purification rituals practised in Onmyodō purification rituals; 4) Purification rituals used in prayers for health and longevity that have been influenced by Yoshida Shinto.With the exception of part 2, it was not possible to determine the origins of these parts. However, it is fair to say that the texts of the "Nakatomi no Harae" were formed in their own unique way by amassing rites related to purification rituals with a number of different origins. That is to say, the structure of the "Nakatomi no Harae" is such that after the Hōraku is said for Tōdaiji Hachimangu, three purification rituals, parts 2, 3, and 4, are performed with different origins, such as Shingon Shinto, Onmyodo, and Yoshida Shinto.The creation of the unique forms in the Tōdaiji Shuni-e ceremony through the inclusion of elements from different rituals over time is evident in various parts of the Buddhist service. Even though when viewed from the perspective of the complete Tōdaiji Shuni-e ceremony the "Nakatomi no Harae" is a minor ritual, this study has found that the "Nakatomi no Harae" contains similar characteristics.