著者
呉屋 淳子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.171-211, 2015-12-25

近年,学校教育のなかで民俗芸能が積極的に行われている。学校教育で教えられている民俗芸能を見てみると,その在りようは,年々多様化している。特に,2006(平成18)年の教育基本法改訂に伴い,『新学習指導要領』のなかで「伝統の継承」に関する文言が明記され,正規の教育課程でも「伝統と文化」に関わる教科・科目の導入が顕著となってきている。本稿で取り上げる沖縄県八重山諸島石垣島に所在する3つの高等学校で導入された八重山芸能も,『高等学校学習指導要領』改訂に伴う教育課程の再編成によって実施されている。また,学校教育で民俗芸能の教育が導入される状況は,地域によってもさまざまである。たとえば,地域社会を主体として民俗芸能の継承を行うには,困難な状況となり,学校教育が民俗芸能の継承の一翼を担っている場合がある。本稿が対象とする八重山諸島は,地域社会だけでなく,八重山諸島の3つの高等学校のそれぞれの学校が主体となり,地域社会と相互に関わり合いながら民俗芸能の教育が行われている。そして,民俗芸能が地域と切り離されて教授されてきた訳ではなく,むしろ地域社会と密接な関わりを保ちながら行われていた。このようなことから,本稿では,八重山諸島の歴史的,社会的,文化的背景を踏まえて,現代八重山における八重山芸能の継承の現状と展開を,現在,3つの高等学校で行われている八重山芸能の教育の事例から明らかにする。その際,近世琉球期に八重山諸島と沖縄本島を行き来した人々がもたらした影響を通して,今日の八重山芸能がどのような人的交流を経て確立され,学校教育に取り入れられてきたのかについてみていく。具体的には,まず,廃藩置県以降,琉球王府に仕えた元役人の琉球古典芸能家が八重山諸島の人々へもたらした影響と,琉球古典芸能の八重山諸島への流入が八重山芸能の確立に与えた影響とその展開について検討する。次に,戦後の沖縄と八重山で芸能の普及に大きな役割を果たした「研究所」に着目しながら,芸能を継承する場の変化について指摘する。それらを踏まえて,現在,八重山の3高校の生徒および教員が八重山内外を移動することによって受ける沖縄本島や日本本土からの影響について検討し,八重山芸能が創造される過程について明らかにする。八重山の高等学校の事例を通して,今日の八重山芸能の継承と創造の過程について考察する。
著者
山折 哲雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.p365-394, 1985-03

Kūkai, the Heian Buddhist (774-835) received permission from the government to construct a hall called Shingonin in the center of the royal palace for the performance of rituals of Esoteric Buddhism. Every year, a ritual called Goshichinichimishiho was performed at the hall over seven days every second week during the New Year. A mandala was displayed as the central divinity and other images of Esoteric Buddhism were installed. Many followers of Esoteric Buddhism prayed for national security and the harvest.The most important thing to be noted in the ritual was that prayers were offered while sacred water was sprinkled on the emperor. When the emperor could not be present at the ritual, prayers were offered while sacred water was sprinkled on the emperor's clothes placed on a table. This ritual was believed to drive away evil spirits that may possess the emperor, and to make his body strong and full of life.Goshichinichimishiho is reminiscent of rituals such as Niinamematsuri and Onamematsuri that took place in the royal palace from ancient times. Niinamematsuri is a harvest cult held in November every year. In this ritual the emperor slept and ate with his guest the god Amaterasuōmikami in a temporary palace. The importance of the ritual lies in the fact that it tried to soothe down and fortify the soul of the emperor, which would gradually have weakened as the year drew to an end. In this sense the ritual was performed to strengthen and revive the spirit of the emperor. When a new emperor ascended the throne, after the coronation, Onamematsuri was performed. In this case, the ritual to revive and fortify the soul of the emperor took place after the ritual where the soul of the previous emperor was succeeded by the new emperor. Thus the fortification and succession of the empeor's soul were the main importance of Niinamematsuri and Onamematsuri, whereas in Kūkai's Goshichinichimishiho, the prime importance of the ritual lay in driving away evil spirits that might possess the emperor. From the comparison of these two rituals, Kūkai must have been conscious of the political and religious function of Niinamematsuri and Onamematsuri and had the intention to oppose these rituals by introducing the ideology of Esoteric Buddhism in the center of a national ritual. Goshichinichimishiho performed in Shingonin was continued during the Heian period. In later times it became less popular because of the rise of the study of Japanese classical literature and Confucianism. After the Meiji Era it was completely abolished.
著者
井上 宗一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.225-249, 2011-03-31

昨今、日本の相撲、特に大相撲やアマチュア相撲の動態は、相撲に付与された「国技」という呼称、およびそれに付随して共有されているイメージを揺るがしつつある。大相撲における外国人力士の台頭、アマチュア相撲によるオリンピック正式種目登録への動きなど、選手構成、組織の運営方針や競技の形態などの多様な展開がその大きな要因のひとつである。その一方、力士の人間性や所作などについては、宗教的な言説を基盤とした一種の様式美とされ、「品格」、「品位」といった言説と絡み合いながら、「日本の伝統的競技」の代表的なもの、つまり「国技」として位置付けられる要因となっている。これまでの民俗学における相撲研究では、相撲の「国技」たる「品格」を保証するような、相撲の宗教儀礼としての側面のみを照射し、それ以外の側面についてあまり語られてきていない。そこには、民俗学固有ともいえる事例の選別や、言及の指向が存在しており、さらに言うならば、民俗学は相撲のみならず、競技を競技として対象化してこなかったのではないかと考える。本稿ではまず、民俗学における競技についての言及を振り返り、その固有ともいえる指向を検討する。次いで北陸地方で行なわれている神事相撲の事例を通して、対象とする事例を拡大して検討することで、民俗学での競技に対する、より開かれたアプローチの構築に寄与したい。
著者
廣田 浩治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.223-248, 2003-03

公家権門の家領を支配する担い手に、家僕を中心とする家政機構がある。中世後期の九条家の家僕は、「御番衆中」「境内沙汰人」などといわれ、諸大夫級と侍身分の家僕から成る。中世前期以来の家司が脱落する過程で、九条家家門との主従関係を強めた家僕が残り、家門が侍身分の家僕までも直接統括する体制に変質した。家門と家僕の関係は家と家の関係という性格が強まり、中世後期の九条家家僕の構成は九条政基・尚経期に一定の確立をみた。中世後期の九条家領荘園といえば日根荘がよく知られる。が、同家領はそれだけでなく、畿内・西国に複数存在し、また九条家関係の寺院の所領も畿内・西国に広がり、所領支配の面で九条家への依存度を強めた。特に寺院所領の錯綜する東九条御領(境内)では九条家「本役」賦課体制をとり、寺院所領の家領化が進んだ。家領支配に当たっては諸大夫級の家僕が奉行、侍身分の家僕は主に上使に任じた。当該期の荘園支配の本質はあらゆる手段を講じてできるだけ多くの収納を実現することにある。このため奉行・上使はしばしば家領に下向し、代官・在地勢力の離反を防ぎ、「案内者」を起用して荘務の協力者とした。家僕相互にも荘務遂行の下向経費捻出や給分保障の点で依存関係があり、これが家領相互の並行支配を支えた。また家僕には金銭の「秘計」「引替」の能力も求められた。日根荘のように家門が下向して直務支配を行う場合には、家門と複数の家僕(奉行―上使)による支配機構が整備される。政基の日根荘支配は複数の家僕に支えられ、また家門―家僕の主従関係は荘内の寺僧などにも広げられた。政基の支配は京都東九条の尚経を頂点とする他の家領支配とも関連しており、孤立したものではなかった。中世後期の九条家は家僕編成の主従制を強化したが、地域領主化したのではなく、公家権門として家僕の荘務を基盤に複数所領の収納維持を志向したのである。
著者
上野 和男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.179-212, 1996-02-29

この報告は、沖縄八重山波照間島の盆行事についての記述と分析である。波照間島の盆行事はムシャーマを中心とする村落レベルの行事と家族単位の盆行事の二つに区分される。ムシャーマは来訪神ミルクを先頭とする仮装行列と棒術、太鼓、獅子舞、ニンブチャー(念仏踊り)を内容とする行事であり、村落レベルでの盆行事にはこのほかに来訪神アンガマの行事とイタシキバラとよばれる行事がある。これに対して家族単位の盆行事は、先祖を迎えて供物を供えて供養し、そして先祖を送るという、構造的にはごく一般的な内容の盆行事である。本稿では波照間島の盆行事をつぎの三点を中心に考察を試みた。第一は、村落レベルの行事と家族単位の盆行事の儀礼過程の記述と両者の意味の差異、および両者の関係についての検討である。第二は、ムシャーマ行事のもつ祖先祭祀的性格と農耕儀礼、特に豊年祭的性格についての考察である。そして第三は、盆行事に登場するミルク、フサマラー、アンガマの三つの来訪神についての検討である。これらの諸問題について分析の結果、つぎのような結論に達した。第一に、波照間島の盆行事のうち、村落レベルの行事は主として無縁の先祖に対する供養がその中心であり、家族レベルの盆行事は各家族の正当な先祖に対する祖先祭祀であって、両者は意味が異なる。第二に、村落レベルの盆行事は、豊年祭的要素と祖先祭祀的要素の双方を含んでおり、これはもともと無縁先祖に対する祭祀として行われていたムシャーマ行事に豊年祭アミジワーの行事が移行し両者が合体した結果である。第三に、八重山地域で活発に行われている来訪神信仰のなかでも波照間島のミルク、フサマラー、アンガマは、たとえばミルクがブーブザーとよばれる夫やミルクンタマとよばれる子供たちとセットになって登場するなど、いくつかの独自の特徴をもつことが明らかになった。
著者
清水 靖久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.39-70, 2019-03

東大紛争大詰めの1968年12月23日,加藤一郎総長代行が全学共闘会議に最後の話し合いを申入れ,懸案の文学部処分の「白紙還元」を提案したのに,全共闘は話し合いを拒否したという説がある。事実ではないが,その当否を検討するためにも,文学部の学生がなぜ処分されたのか,その「白紙撤回」を全共闘はなぜ要求しつづけたのか,1969年1月18,19日の機動隊導入による安田講堂の攻防は避けられなかったか,1969年12月まで文学部だけ紛争が長引いたのはなぜかを考察する。東大紛争における文学部処分とは,1967年10月4日の文学部協議会の閉会後,文学部学生仲野雅(ただし)が築島裕(ひろし)助教授と揉みあいになり,ネクタイをつかんで暴言を吐いたとして無期停学処分を受けたことである。当時の山本達郎文学部長は,12月19日の評議会で,仲野の行為を複数教官に対する「学生にあるまじき暴言」として誇大に説明して処分を決定し,一か月後に事実を修正したが伏せた。1968年11月就任の林健太郎文学部長は,同月上旬の軟禁時以外は,仲野と築島の行為の事実を議論せず,教師への「非礼な行為」という説明を維持した。1969年8月就任の堀米庸三文学部長は,9月5日,仲野処分を消去するとしたが,処分は適法だったと主張しつづけ,築島の先手の暴力という事実を指摘されても軽視した。この文学部処分は,不在学生が処分された点で事実誤認が明らかになった医学部処分とともに東大紛争の二大争点であり,後者が1968年11月に取消されたのちは,最大の争点だった。加藤執行部は,12月23日,文学部処分について「処分制度の変更の上に立って再検討する用意がある」と共闘会議に申入れたが,林文学部長らが承認する見込みはなかったし,共闘会議から拒否された。「白紙還元」の提案と言えるものではなかった。
著者
花部 英雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.57-67, 2012-03

四五〇〇もの俗信を集めた「北安曇郡郷土誌稿」は、日本の俗信研究の先駆けとなる資料集である。その中の「夢合せ」の項に二〇〇ほどの夢にかかわる俗信がある。まずはこの俗信のうち「夢の予兆」にあたる内容を分析し、民俗としての夢の一般的傾向を明らかにする。次に、「夢の呪い」について、夢を見る以前、以後とに分けてその内容を検討し、夢をどのように受けとめ、それに対応しているかを確認する。さらに呪いのうち韻文形式をとる三首の歌を話題にして、全国的事例からその内容、意味を分析する。そして、この呪い歌の流通の背景に専門の呪術者の関与があることを例証し、呪術儀礼の場で行なわれ、やがて民間に降下してきたことを跡づける。続いて、呪文の「悪夢着草木好夢滅珠玉」を話題にする。福島県の山都町史に悪夢を見た朝、北に向かい「悪夢ジャク、ソラムク、コウムジョウ」と三回唱えればよいという。前述の呪文を耳に聞いた形で伝えてきたものと思われる。この呪文が求菩提山修験の符呪集にあり、修験山伏がこの祈祷にかかわってきたことがわかる。同じ呪文が、陰陽道系の呪術を記した南北朝時代の『二中歴』にあり、ここでは人形に悪夢を付着させて水に流したり、焼却したりする作法が記されている。宮廷の陰陽道儀礼の中で、「悪夢は草木に着け」の呪文が唱えられてきたのであろう。平安時代の『簾中抄』や『口遊』では、桑の木に悪夢を語るとある。なぜ桑の木に悪夢を語るのが悪夢祓いになるのか。現行の民俗を見ていくと、奄美のクチタヴェ(呪文)に好い夢は残り悪い夢は草の葉に止まれというのがある。また、南天に夢を語り、揺するという例もある。南天は「難転」の語呂合せであり、さまざまな呪術儀礼に用いられるが、古くは桑が悪夢消滅の草木であった。桑は蚕の食物であり、悪夢を桑の葉に付着させ、蚕に食べてもらうことで悪夢を消滅させるというのがその原義にあったのではないか、というのが本稿の結論となる。"Kitaazumi-gun Kyodoshiko," gathering as much as 4,500 folk beliefs, is a collection of materials that pioneered the study of Japanese folk beliefs. In these materials, about 200 folk beliefs related to dreams are treated in the "oneiromancy" section. Among these folk beliefs, this article first analyzes the contents of the "omen of dream" and clarifies the general pattern of dreams as folk culture. Subsequently, it examines the contents of the "curse of dream" before and after having dreams and confirms how people treat dreams and react to them. Furthermore, it deals with three curse songs of the verse form and analyzes the contents and meanings based on nationwide examples. Finally, it exemplifies the involvement of professional magicians in circulating these curse songs and proves that the songs were performed at venues of magic rituals, before eventually spreading to common people.Subsequently, the article deals with the incantation of "akumu tsuku somoku-ni komu messu shugyoku-wo." According to the history of Yamato, Fukushima, when you awoke from a bad dream in the morning, you might want to face north and repeat "akumujaku, soramuku, komujo." three times. This seems to have been transmitted by ear from the incantation mentioned above, which appears in the collection of incantations for the Mt. Kubote mountaineering ascetics, suggesting that the mountaineering ascetics were involved in this prayer.The same incantation appears in "Nichureki" of the Nanboku-cho period, in which the incantations of the Yin- Yang school are described, and for the above incantation, how to attach a nightmare to a doll and let water carry it away or burn it is explained. The incantation of wishing "a nightmare attached to trees and plants" would have been chanted in the Yin-Yang rituals at the Imperial Court. "Renchusho" and "Kuchizusami" of the Heian period cite explaining a nightmare to a mulberry tree. Why would doing so result in the expulsion of a nightmare?Among existing folk customs, Amami has kuchitave incantation wishing a good dream stay and a bad dream attached to leaves of grass. There is also an example of explaining a dream to nanten nandina and shaking it. Because the Japanese word "nanten" also means "change of bad luck," it is used for various magic rituals. In ancient times, mulberry trees banished nightmares. People might have believed that because mulberries were eaten by silkworms, nightmares attached to mulberry leaves would also be eaten by silkworms and disappear. This is the conclusion of this article.
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.203-225, 2003-10-31

明治維新後、禄を失い生計の道を絶たれ窮乏化を余儀なくされた士族によって各地で入植・開墾が行われた。わずか七十万石に圧縮された静岡藩では、膨大な数の旧旗本・御家人を無禄移住という形で受け入れたため、立藩当初から家臣団の土着が進められ、荒蕪地の開墾が奨励された。廃藩後は県による支援も行われ、士族授産事業が推進された。しかし、同時期、藩や県からの経済的援助を受けることなく、独力で茶園の開拓に取り組んだ少数の旧幕臣グループがいた。赤松則良・林洞海・渡部温・藤沢次謙・矢田堀鴻らである。矢田堀・赤松は長崎海軍伝習所出身の幕府海軍幹部・エリート士官、林は佐倉順天堂ゆかりの蘭方医、渡部は開成所で教鞭をとった英学者、藤沢は蘭学一家桂川家に生まれた幕府陸軍の幹部であったが、いずれも静岡藩では沼津兵学校や沼津病院に職を奉じていた。藩の公職に就いた彼らには、無禄移住者とは違い、「食うため」には困らないだけの十分な俸給が与えられたのであるが、明治二年(一八六九)以降遠州での開拓・茶園経営に、あえて自らの資産を投入した。洋学知識や洋行経験を有していた彼らは、土質や害虫を研究し、先進地の製茶法を導入したり、アメリカへの直輸出を図ったりと、科学や情報によって地場産業を改良する役割を果たした。しかし、その行動は、苦しい藩財政を助けたり、国益を目指したりといった「公」を意識した動機のみによるものではなく、むしろ個人の営利・蓄財を目的とした私的経済活動としての側面が大きかった。廃藩に前後して上京、優れた能力を買われ一旦は明治政府に出仕した彼らであるが、遠州の茶園はそのまま維持された。海軍中将・男爵となった赤松は退役後には遠州に隠棲し、明治初年以来の念願だった田園生活を楽しむ。茶園開拓をめぐる赤松らの言動からは、官にあるか野にあるかを問わず、「一身独立」を率先実行した近代的人間像が見えてくる。
著者
福島 金治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.212, pp.41-56, 2018-12

延慶改元は徳治三(一三〇八)年の後二条天皇の死去と花園天皇の践祚を契機に行われた。延慶改元は鎌倉幕府が天皇の管轄事項である改元に関与した例とされるが、従来、改元の問題は即位過程の中で実施された改暦と切り離されて論じられてきた。島津家本『大唐陰陽書』に付載された伏見上皇院宣と得宗北条貞時書状は、延慶改暦に功のあった宿曜師宣算を褒賞したものである。本稿では、これと花園天皇の即位に到る過程、および朝廷への窓口である六波羅探題金沢貞顕による公家からの典籍の借用・書写・収集からうかがえる人的交流をリンクさせることで、改元・改暦をめぐる公武交渉の実態を検討した。花園天皇の即位に際して選定された「延慶」は、伏見院の主導で関東申次西園寺実兼らの意向を反映していた。一方、即位の日取りの設定には凶例とされる中間朔旦冬至が問題であった。先例とされた保元改暦は、鳥羽上皇没後の保元の乱の発生が背景にあったことをみると、延慶改暦は乱の発生を回避する願望があった可能性がある。一方、貞顕による典籍の書写・収集活動は、彼の文化的営為を知る目的で研究されてきたが、その書写先には大覚寺統の公家や改元・改暦に関わった人物との交流が濃厚である。書写活動には公家からの情報収集などの目的が潜んでいただろう。また、後年の貞顕書状には延慶元年の改元・改暦の時期に東使が在京していたために自身の鎌倉下向がかなわなかったとある。これは、東使二階堂貞藤・長井貞広が上洛して花園天皇の奏事始にいたる交渉、長崎思元が関与した改元・改暦完了後の建長・円覚両寺を定額寺とする一件と円覚寺扁額の拝領という二つの事態をさしていよう。右の事情を勘案すると、即位以前の改元と批判された延慶改元と鎌倉幕府の関与を強調する公家の態度は、中間朔旦冬至の回避を前提に即位・改元の日取りに合意した伏見院と得宗北条貞時の立場を反映していると考えることができる。The era name was changed to Enkyō in Tokuji 3 (1308), when Emperor Gonijō died and was succeeded by Emperor Hanazono. This incident was referred to as an example of interferences of the Kamakura Shogunate with the era name change, which fell within the exclusive competence of the emperor, although most past studies discussed the era name change separately from the calendrical reform made at that time as part of the enthronement process. Ex-emperor Fushimi and Tokusō Hōjō Sadatoki praised Sensan, a master astrologer, for his contribution to the calendrical reform to Enkyō in their letters, respectively, which were appended to the Shimazu family's copy of Daitō Inyōsho (the Book of Yin and Yang in the Tang Era). This study analyzes this calendrical reform in relation to the process of enthronement of Emperor Hanazono and in comparison to the personal networks reconstructed by examining which Court nobles Kanesawa Sadaaki, appointed to Rokuhara Tandai as a liaison to the Imperial Court, borrowed, copied, and collected books from to elucidate the actual negotiations between the Imperial Court and the Shogunate on the era name change and the calendrical reform.Enkyō was chosen as the name of the first era of the reign of Emperor Hanazono, reflecting the opinions of Court nobles such as Saionji Sanekane, Kantōmōshitsugi (a liaison to the Kamakura Shogunate), under the leadership of Ex-emperor Fushimi. Meanwhile, that year's winter solstice coincided with a new moon, breaking the coincidence cycle of 19 years, and this was seen as a bad omen. The fact that at the time of the calendrical reform to Hōgen, which formed a precedent, the War of Hōgen broke out after the death of Ex-emperor Toba implied that the calendrical reform to Enkyō may have been related to the wish to avoid war. On the other hand, the studies of Sadaaki's collection and transcription of books aimed to elucidate his cultural activities but also revealed that through these activities, he is highly likely to have interacted with Court nobles of the Daikakuji lineage and other people involved in the determination of the era name change and the calendrical reform. His transcription activities may have been secretly aimed at collecting information from Court nobles. Moreover, according to a letter he later wrote, he could not go to Kamakura because Tōshi messengers dispatched from the Kamakura Shogunate stayed in the capital city at the time of the era name change / calendrical reform in Enkyō 1 (1308). This could refer to the following two issues: (1) the dispatch of Tōshi messengers, Nikaidō Sadafuji and Nagai Sadahiro, to the capital city to negotiate details about the enthronement of Emperor Hanazono and (2) the involvement of Nagasaki Shigen in negotiations to grant Kenchō-ji and Engaku-ji temples the status of Jōgakuji after the era name change / calendrical reform and bestow a signboard on the latter temple. In light of the above, it can be assumed that the era name change to Enkyō, which was criticized for preceding the enthronement, and Court nobles' attitudes that emphasized the interferences of the Kamakura Shogunate may have reflected not only the political stance of Tokusō Hōjō Sadatoki but also the agreement of Ex-emperor Fushimi to set the dates of the enthronement and the era name change to avoid the irregular coincidence of the winter solstice and moon cycles.
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.763-790, 2001-03

これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。しかし,近代国民国家形成と関わる日本民俗学のイデオロギー性が明らかにされ,また批判されている今日,民俗学がその対象を〈日本国民〉〈日本人〉に限定し,それ以外の,〈在日朝鮮人〉をはじめとするさまざまな人々を研究対象から除外する論理的な根拠は存在しない。本稿では,このことを前提とした上で,民俗学の立場から,〈在日朝鮮人〉の生活文化について,これまで他の学問分野においても扱われることの少なかった事象を中心に,民俗誌的記述を試みた。ここで検討した生活文化は,いずれも現代日本社会におけるピジン・クレオール文化として展開されてきたものであり,また〈在日朝鮮人〉が日本社会で生活してゆくための工夫が随所に凝らされたものとなっていた。この場合,その工夫とは,マイノリティにおける「生きていく方法」「生存の技法」といいうるものである。さらにまた,ここで記述した生活文化は,マジョリティとしての国民文化との関係性を有しながらも,それに完全に同化しているわけではなく,相対的な自律性をもって展開され,かつ日本列島上に確実に根をおろしたものとなっていた。本稿は,多文化主義による民俗学研究の必要性を,こうした具体的生活文化の記述を通して主張しようとしたものである。
著者
平 雅行
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.159-173, 2010-03

中世社会における呪術の問題を考える際、その議論には二つの方向性がある。第一は中世を呪術からの解放という視点で捉える見方であり、第二は中世社会が呪術を構造的に不可欠としたという考えである。前者の視角は、赤松俊秀・石井進氏らによって提起された。しかし、中世社会では呪詛が実体的暴力として機能しており、天皇や将軍の護持僧は莫大な財と膨大な労力をかけて呪詛防御の祈祷を行っていた。その点からすれば、中世では呪詛への恐怖が薄れたとする両氏の考えは成り立たたない。とはいえ、合理的精神が着実に発展している以上、顕密仏教と合理性との関係をどう捉えるかが問題の焦点となる。そこで本稿では『東山往来(とうさんおうらい)』という書物をとりあげ、①そこでの合理性や批判精神が内外の文献を博捜した上で答えを見出そうとする挙証主義によって担保されていたこと、②その挙証主義は顕密仏教における論義や文献学研究を母胎として育まれたことを明らかにした。さらに密教祈祷においても、①僧侶が医療技術を援用しながら治病祈祷を行っていたこと、②一宮で行われた豊作祈願の予祝儀礼も、農業技術の達成を踏まえたものであったことを指摘した。そして、高い合理性を取り込んだ呪術、呪術性を融着させた高度な合理主義が顕密仏教の特質であると論じた。そして、顕密仏教が中世の呪術体系の頂点に君臨できた要因として、①文献的裏づけの豊かさと質の高さ、②祈祷を行う僧侶の日常的な鍛錬、③呪詛を正当化する高度な理論の3点をあげた。最後に、合理性と呪術性の共存、呪術的合理性と合理的呪術性との混在は、顕密仏教だけの特質ではなく、程度の差こそあれ、現代社会をも貫く超歴史的なものと捉えるべきだと結論している。

1 0 0 0 OA 挹婁の考古学

著者
大貫 静夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.151, pp.129-160, 2009-03-31

挹婁は魏志東夷伝 Weizhi Dongyizhuan の中では夫餘の東北,沃沮の北にあり,魏からもっとも遠い地に住む集団である。漢代では,夫餘の残した考古学文化は第2松花江 Songhua Jiang 流域に広がる老河深2期文化 Laoheshen 2nd Culture とされ,北沃沮は沿海州 Primorskii 南部から豆満江 Tuman-gang 流域にかけての沿日本海地域に広がっていた団結文化 Tuanjie Culture に当てることで大方の一致を見ている。漢代の挹婁はその外側にいたことになる。漢代から魏晋時代 Wei-Jin Period に竪穴住居に住み,高坏を伴わないという挹婁の考古学的条件に符合する考古学文化はロシア側のアムール川(黒龍江 Heilong Jiang)中・下流域および一部中国側の三江平原 Sanjiang Plain 側に広がるポリツェ文化がよく知られている。北は極まるところを知らず,東は大海に浜するという点では,今知られる考古学文化の中ではアムール川河口域まで広がり,沿海州の日本海沿岸部まで広がるポリツェ文化が地理的にもっともそれに相応しいことは現在でも変わらない。そのポリツェ文化はその新段階に沿海州南部に分布を広げる。層位的にも団結文化より新しい。魏志東夷伝沃沮条に記された,挹婁がしばしば沃沮を襲うという記事はこの間の事情を反映したものであろう。ただし,ロシア考古学で一般的な年代観を一部修正する必要がある。最近,第2松花江流域以東,豆満江流域以北に位置する,牡丹江流域や七星河 Qixing He 流域において漢魏時代の調査が進み,ポリツェ文化とは異なる諸文化が展開したことが分かってきた。これらの魏志東夷伝の中での位置づけが問題となっている。すなわち,東夷伝に記された挹婁としての条件を考えるかぎり,やはり既知の考古学文化の中ではポリツェ文化がもっともそれに相応しく,七星河流域の諸文化がそれに次ぎ,牡丹江流域の諸文化,遺存がもっともそれらから遠い。しかし,だからといって,これらを即沃沮か夫餘の一部とするわけにはいかない。魏志東夷伝の記載から復元される単純な布置関係ではなく,実際はより複雑だったらしい。
著者
野地 恒有
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.195-213, 2003-03-31

本稿は,金魚観賞における選評基準を題材とした動植物観賞の文化の比較民俗学的研究である。選評基準とは,金魚観賞において,金魚を選定・評価する基準のことである。本稿では,第1に,現代の日本金魚の選評基準として蘭鋳(らんちゅう),土佐金(とさきん),地金(じきん)の3品種の金魚を取り上げることによってその選評基準と観賞の志向をとらえ,第2に,18世紀の中頃に著された金魚飼育書『金魚養玩草(きんぎょそだてくさ)』を用いて江戸時代の金魚の選評基準を検証し,第3に,中国金魚の選評基準との比較を行った。その結果,日本金魚の選評基準は,1品種に完結した理想形として提示されており,その基準への嵌合という飼育形態がみられた。そして,その観賞の志向は,一定の理想形への深化とまとめられた。『金魚養玩草』からも,ほぼ同様な金魚観賞の志向を見出すことができたが,『金魚養玩草』には,1品種の枠を越えて新品種を評価する態度がみられ,現代における日本金魚と異なる観賞の志向もとらえられた。中国金魚の選評基準は多品種を包括した実体に即した等級分類として提示されており,定形の基準外の品種作出という飼育形態がみられた。そして,その観賞の志向は,多様姓への拡大とまとめられた。金魚の観賞における選評基準は伝承文化を背景としている。金魚飼育とは選評基準に合致した金魚を作り出す技術のことであり,選評基準とは金魚の飼育技術と密接に関係している知識体系のことである。金魚の飼育をはじめ,花卉・草木や盆景・盆栽の栽培などは〈改造された自然〉を対象とする技術であるとともに,〈改造された自然〉の観賞でもある。それは,動植物観賞の文化ということができる。〈改造された自然〉を観賞する文化において,日本では定形へ深化し,中国では変形に拡大すると予想される。その志向の差は自然観の質的な相違を表出するものである。
著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.83, pp.1-59, 2000-03-31

哀悼傷身の習俗の一つに抜歯がある。この抜歯は18~19世紀のハワイ諸島の例が有名である。抜く歯は上下の中・側切歯であって,首長や親族の死にさいして極度の哀悼の意をあらわすために1回に2本を抜く。文献記録では,16~18世紀の中国の四川省や貴州省に住んでいた佗佬の例がもっとも古い。しかし,考古資料では,徳島県内谷石棺墓の男性人骨に伴った女性の上顎中切歯1本が哀悼抜歯の存在をしめしており,4世紀までさかのぼる。中国新石器時代の抜歯は,7000年前に上顎の側切歯を抜くことから始まる。抜歯の年齢・普及率からすると,成人式とかかわりをもつと考えてよい。中国では4500年前になると,この習俗はいったん衰退する。まもなく今度は上下の中・側切歯を抜くことが安徽・江蘇・山東付近で始まる。抜歯の年齢はあがり,その頻度は低くなる。新たに始まったこの抜歯は死者に対する哀悼のためであった,と私は推定する。上下の中・側切歯を抜いた例は,モンゴル(~19世紀?),シベリア(新石器~19世紀?),アメリカ(15世紀以前~19世紀?),日本(縄文前期~6世紀=古墳時代),琉球(縄文~13世紀),ポリネシア(18~19世紀)で知られている。中国新石器時代に発祥した哀悼抜歯が数千年かけてアジア・アメリカ・太平洋にひろがっていったことを,これらの事実は示唆している。ポリネシア・シベリア・モンゴルでは,髪を切り身体を刀で傷つける哀悼傷身は,首長や親族との特別に親密な関係を表現し更新する役割を果たしている。考古資料にのこされている哀悼抜歯の痕跡は,墓の内容,男女の別などを考慮することによって,抜歯された人物の社会的な位置を探り,さらにはその社会の構造を解明していく手がかりとなる可能性を秘めている。