著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.106, pp.51-60, 2003-03-31

日本における現代民話研究は,すでに少なからぬ研究の蓄積を見ているが,日本の現代民話を日本以外の社会の現代民話と比較検討する作業は,まだまったくといってよいほど行なわれていない。この研究動向上の欠を補うべく,本論文では,韓国社会で語られている現代民話について,日韓比較の視点から検討した。本論文で行なった指摘を列挙すれば,次のようになる。(1)現代韓国社会では,現代民話がたいへんさかんに語られているが,日本社会における現代民話の存在様態と比較した場合,怪談系統の現代民話に加えて,社会的・政治的な諷刺の性格を持った笑話系統の現代民話が豊富に語られている点を特色として指摘できる。(2)韓国で,笑話系統の現代民話がさかんに語られていることの背景には,独裁政権下の社会状況と民主化闘争,深刻な労働問題,急速な経済発展とそれに伴なう矛盾などが存在するものと考えられる。(3)現在,日本の現代民話研究において集成され,分析が加えられている現代民話群は,その大半が怪談系統の語りであり,社会的・政治的諷刺の性格を持った現代民話をそこに見出すことは困難である。この状況を規定する要因は,①70年代以降の日本社会における脱政治化,②言論統制等の抑圧が存在しないことによるメディアとしての現代民話の需要低下,③研究者における現代民話対象化過程における偏向,といった要素の複合に求められる。(4)上の指摘をふまえたとき,われわれは現状の再解釈と再調査を行なう必要に気づかされる。また,海外との比較研究は,こうした現代民話再考の契機となるものであり,ここに比較研究の重要性が確認されるものである。
著者
藤岡 里圭
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.127-143, 2016-02-29

百貨店が成立するまで,小売業は呉服や小間物といった業種ごとに店が形成されていた。したがって,婚礼のための商品を買い求める際,複数の専門店を買い回りながら多くの商品を短期間で購入しなければならなかった。しかし,百貨店が陳列販売を導入し,取扱商品を呉服だけでなく雑貨などにも拡大したことによって,ひとつの店舗内で業種の異なる複数の商品を購入できるワンストップショッピングが可能となった。ワンストップショッピングは,消費者の商品探索の費用を削減し,短期間で複数の商品を購入しなければならない婚礼需要にとっては非常に有効であった。しかし,百貨店の成長とともに店舗面積が広がり,取扱商品が拡大すればするほど,ワンストップショッピングは可能でありながら必要な商品を見つけるための時間が増加し,消費者は商品を効率的に探索することができなくなった。そこで,三越は,御婚礼調度係を設置し,消費者のワンストップショッピングが有効に機能するよう売場を再編成したのである。大正時代,消費市場が飛躍的に拡大したことによって,百貨店は都市部だけでなく地方都市でも設立されるようになり,また,都市の百貨店が通信販売や出張販売を行うことによって,地方の消費者も百貨店を利用することができるようになった。その中で,婚礼は,百貨店の既存顧客だけでなく,地方客や都市部のこれまで百貨店を利用していなかった消費者にまでターゲットを広げる貴重な機会であった。そして,この婚礼支度という大きな需要に的確に応えた百貨店は,売上高を増加させていったのである。ところが,第一次世界大戦後の景気低迷によって,婚礼需要が抑制されると,自らの立場に相応しい支度をしたいけれども,ある一定の予算内で収めたいという中間所得者層の顧客に対して,三越は,婚礼支度の標準を示し,必要以上の出費を抑える工夫を施した。つまり,百貨店は,顧客層を下方に拡大しながら成長するマーケティング戦略を採用したのである。
著者
篠原 聡子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.171, pp.65-81, 2011-12-25

日本住宅公団によって昭和34年から建設がはじまった赤羽台団地(所在地:東京都北区,総戸数:3373戸)は,団地としての様々な試みが実現した記念的な団地ということができる。本稿では,その中に配置された共用空間と居住者ネットワークに着目して,その関係について考察する。その後の団地計画の中で普遍的な位置づけをもつ共用空間として集会所があげられるが,当初,計画者の中にどのように使用されるか確たるイメージはなかった。韓国の集合住宅団地の共用空間との比較から,日本の団地空間に出現した集会所や集会室は,本来,住宅の内側にあった「寄り合い」や「集会」という社会的機能を私的領域から分離する役割を果たし,その空間的な設えも日本の伝統的な続きの構成が採用されていた。また,幼児教室,葬式などにも使用され,集会所は,都市的な機能の補完の役割もはたした。しかし,集会所が既存の建築の代替的,補完的なものであっただけではなく,高齢者の集まりである「欅の会」のような集会所コミュニティともいうべき,中間集団の形成に関与したことも特筆されなければならない。一方で,居住者によって設立された,牛乳の共同購入のための牛乳センターは,極めて小規模ながら,自治会という大規模な住民組織の拠点となった。また,住棟によって,囲われた中庭は,夏祭りなどに毎年使われ,赤羽台団地の居住者の,その場所への愛着を育む特別な場所となり,居住者の間に緩やかな連帯感を形成する役割を果たした。団地という大空間にあっては点のような存在でありながら自治会という大組織の拠点となった象徴的な空間としての「牛乳センター」,一列の線のように配置され,とくに機能もさだめられず,分節されながら多目的につかわれ,多様な中間集団の形成に関与したユニバーサルな空間としての「集会所」,それらを時間的,空間的に繋ぐ基盤面となった包容する空間としての「中庭」は,居住者ネットワーク形成に多面的にかかわり,それらが連携して使われることによって,団地という抽象的な集合空間は,赤羽台団地という生活空間となった。
著者
山田 厳子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.267-294, 1993-11-10

通常とは違った特徴を持つ子どもが生まれることは民俗社会の中では歓迎されざることであった。そのことは、民俗社会の中で語られるさまざまな話の中からもうかがうことができる。しかしこのような子どもが却って富をもたらすと説明する話もある。ここでは現実との関わりによって語られる、しかも事実そのものとはいえない話(世間話)を例として検討しながら通常とは違う子どもに対する「過剰な意味づけ」を問うていきたいと考えている。「歓迎される」異常児として「福子」が、「忌避される」異常児として「鬼子」が挙げられる。「福子」には自身を犠牲にして「家」の繁栄をもたらすイメージがある。一方「鬼子」には「富」とともに「他界」からもたらされるイメージと、歓待されることによって「富」をもたらすイメージがある。異常児が、富とともに他界からもたらされるというイメージは、異常児の去来によって家の盛衰が決定されるという話へとつながるであろう。また異常児の誕生という不幸によって「富」の獲得という幸福とのバランスをとろうとする家の外部の者の心意もうかがうことができる。子どもの「異常」の説明のために「富」の推移が語られ、家の盛衰の説明のために「異常児」の誕生が語られたことが推測される。その際に「異常児」は家の盛衰と密接に結びついた霊的な存在と受け取られていたといえるであろう。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.53-74, 1985-03-25

In a previous paper, an analysis was attempted of hunting and fishing in Hokkaido during the Jōmon and Epi-Jōmon culture by examining faunal remains. One of the conclusions was that although Ezo deer and salmon were generally maintained to be the main animals of subsistence, sea animals were also important good.This paper is a sequel to the previous study, presenting research into subsistence activities, mainly the transition of hunting and fishing activities in Hokkaido after the Epi-Jōmon Period to the Edo Period. As a result, it is estimated that at the time of Satsumon Culture Period the society of Hokkaido was strong influenced by the peasant society of Honshu and that a great amount of crops were consumed in Hokkaido. But farming was not intensively carried out after the Period of Satsumon Culture. The Ainu People of Hokkaido after the people of the Satsumon Culture was engaged in economic activities centered in the money economy of Honshu. Although hunting and fishing were done, it seems that after the Satsumon Culture these activities were complement to crops and wageworking. Of course, this tendency is observed mainly in Southern Hokkaido, where there was a certain amount of communication between the people of Honshu and Hokkaido. In the Northern and Eastern districts of Hokkaido, people relied more on the traditional means of hunting and fishing. After the appearance of the Matsumae-Han and spread of Bashouke System throughout the island, Hokkaido was incorporated into the money economy of Honshu during the Edo Period. Needless to say, during this period the Ainu Culture was continued to be handed down through their culture system from generation to generation although it was transformed in many ways.
著者
藤井 隆至
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.51, pp.p259-290, 1993-11

本稿は,雑誌『郷土研究』がどのような主題をもち,どのような方法でその主題を分析していったかを解明する。この雑誌は1913年から1917年にかけて発行された月刊誌で,柳田国男はここを拠点にして民間伝承を収集したり自分の論文を発表したりする場としていた。南方熊楠からの質問に対して,この雑誌を「農村生活誌」の雑誌と自己規定していたが,それでは「農村生活誌」とは何を意味するのであろうか。彼によれば,論文「巫女考」はその「農村生活誌」の具体例であるという。筆者の見解では,「巫女考」の主題は農村各地にみられる差別問題を考究する点に存していた。死者の口寄せをおこなうミコは村人から低くみられていたけれども,柳田はミコの歴史的系譜をさかのぼることによって,「固有信仰」にあってミコは神の子であり,村人から尊敬されていた宗教家で,その「固有信仰」が「零落」するとともに差別されるようになっていったという説を提出している。差別の原因は差別する側にあり,したがって差別を消滅させるためには,すべての国民が「固有信仰」を「自己認識」する必要があるのであった。その説を彼は「比較研究法」という方法論で導きだしていた。その方法論となったものは,認識法としては「実験」(実際の経験の意)と「同情」(共感の意)であり,少年期から学んでいた和歌や学生時代から本格的に勉強していた西欧文学をもとにして彼が組み立ててきた認識の方法である。もう一つの方法論は論理構成の方法で,帰納法がそれであるが,数多くの民間伝承を「比較」することで「法則」を発見しようとする方法である。こうした方法論を駆使することによって彼は差別問題が生起する原因を探究していったが,彼の意見では,差別問題を消滅させることは国民すべての課題でなければならなかった。換言すれば,ミコの口寄せを警察の力で禁止しても差別が消滅するわけではなく,差別する側がミコの歴史を十分に理解することが必要なのであった。This paper elucidates what were the main subjects handed by the journal "Kyōdo Kenkyū (Studies of native lands)", and by what methods the subjects were analyzed. The "Kyōdo Kenkyū" was a monthly review issued from 1913 to 1917, which Yanagita Kunio used as a base for collecting folk tales and publishing his theses. In reply to a question posed by Minakata Kumagusu, he defined the periodical as a "journal of life in farming villages". Then, what did a "journal of life in farming villages" mean? According to Yanagita, his paper entitled "Study on Psychic Mediums" was a concrete example of the "journal of life in farming villages".In the opinion of the author, the main theme of his "Study on Psychic Mediums" lay in the examination of the problem of discrimination which was seen in farming villages everywhere. Mediums, who performed necromancy with the dead, were looked down upon by village people. However, tracing their historical lineage, Yanagita argued that mediums had been the children of gods in "the native belief", and religionists looked up to by village people, but came to be discriminated against as "the native belief" "went to ruin". The cause of the discrimination lay with the discriminators, and so, in order to eliminate discrimination, the whole nation should "realize for themselves" "the native belief".He came to this opinion by a methodology called "comparative study". The methodology came as epistemology from "jikken (actual experience)" and "dōjō (sympathy)" and was a method of understanding he built up based on the Japanese poems that he had studied since he was a boy, and the West-European literature he had studied earnestly since he was a student. Another methodology was the method of logical construction or the inductive method. It was a method to try to discover "rules" by the "comparison" of many folk tales.Making full use of these methodologies, Yanagita searched for causes from which the problem of discrimination arose. In his opinion, elimination of the problem of discrimination had to be a subject tackled by the whole nation. In other words, discrimination could not have been eliminated simply by the prohibition of necromancy by police power; a full understanding of the history of mediums on the part of the discriminators was essential.
著者
岡 惠介
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.217-236, 2001-03-30

北上山地の山村ではかつて凶作・飢饉が頻発し,藩の重税や耕地面積の狭さもあって,通年分の食料をいかに確保するかは最重要の課題であった。北上山地の山村の人々の多くは地域の野生植物を最大限に利用し,山を開墾して耕地面積を広げることによって,不足しがちな食料を確保してきた[岡 1990]。このような戦略を「居住地域内完結型生存戦略」ととらえ,東北の山村では一般的な戦略だとする意見もある[名本 1996]。筆者の調査地である北上山地の山村・岩泉町安家においては,戦後の食糧難の時代にも,シタミ(ナラ類の堅果)がアク抜きして利用され,焼畑が開墾された。これらは藩政時代の飢饉時の対応とほぼ同じであり,いわば100年以上の有効性を持ち得た持続可能性の高い戦略であった。この戦略をとるためには,東北地方の中でも北上山地に集中して分布する,広大なミズナラ林[青野ら 1975]の存在が不可欠であった。そして藩政時代のたたら製鉄や昭和10年以降の製炭産業の経営にも,豊かなミズナラ林が必要であった。安家にも出稼ぎは明治期から一部にあった。しかしこの居住地域外を志向する生存戦略が拡大しなかったのは,明治以降に発達した地頭名子制度によって,村人が小作・名子化していったことと,農村恐慌対策による通年稼働型の製炭産業の隆盛が大きかった。農村恐慌の時代には,東北農村からの娘の身売りが問題になった。しかし安家では,食料の確保が難しかった家は村内の富裕層に子供を奉公に出したため,外部への娘の身売りはなかった。また山村の富裕層は,平地農村の娘を引き取って育てることもあった。これらが可能だったのはまだ山村の経済がかなり自給的だったためで,その自給性を畑作・焼畑と共に支えたミズナラ林の存在は大きい。富裕層は小作・名子の労働によって豊かだったのであり,その小作・名子の生存を支えた柱の一つとしてシタミがあったからである。
著者
鯨井 千佐登
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.145-182, 2012-03-30

日本中世・近世「賤民」の権利のなかでも、①斃牛馬の皮を剥いで取得する権利、②埋葬する死体の衣類を剥いで取得する権利、③「癩者」の身柄を引き取る権利がとくに注目される。中世史家の三浦圭一は「牛馬にとって衣裳にあたるのが皮革に他ならない」とのべて、①と②を「同じレベル」で見ようとした。横井清も「皮を剥いでそれを取得することと死体の衣類を受け取ることが無縁なものとは私も思えない」といい、「身に付けている表皮を剥ぎとる権利と行為」をどのように考えるべきかという問題を提起している。一方、③は中世的な権利で、引き取られた「癩者」は「賤民」集団の一員となった。「癩」は「表皮」に症状のあらわれる皮膚の病であるから、③も含めて、「賤民」の権利は身を覆っている「表皮」にかかわるものとして一括して把握すべきかもしれない。こうした斃牛馬や死体の「身に付けている表皮を剥ぎとる権利」や「癩者」に対する監督権の宗教的源泉が、古くは境界の神にあると信じられていた可能性が高い。境界の神とは地境などに祀られていた神々のことで、「賤民」の信仰対象でもあった。本稿の課題は、そうした境界の神の本来の姿を見極めることである。本稿では、古くは境界の神に対する信仰が母子神信仰、とくに胎内神=御子神への信仰を骨子としていたことや、境界の神が月神としての性格を備え、人間の身の皮や獣皮、衣類、片袖を剥いで取得すると信じられていたこと、それゆえ境界の神に獣皮や衣類、片袖を捧げる習俗が生まれたこと、境界の神が皮膚の病の平癒という心願をかなえるだけでなく、それを発症させるとも信じられていたことなどを推定した。つまり、境界の神と「身に付けている表皮」との密接な関係を推定し、また、「賤民」の有した境界の神の代理人としての性格の検証という今後の課題を提示した。
著者
青木 隆浩
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.7-35, 2017-03

本研究では、近代日本の禁酒運動において、酒を用いる儀礼が案外大きな障壁となっていたことを明らかにし、その理由について考察していった。もともと飲酒のような道徳や生活習慣、教育に関わるようなことを法律で規制する機運が高まっていったのは、アメリカの影響による。だが、道徳や生活習慣を法律で規制しようとした場合には、その範囲や取り締まりの可否が問題となる。そして、未成年者飲酒禁止法案が一九〇一年に初めて提出されてから二一年間にわたって何度も否決され続けたのも、基本的にはその点が問題になっていたからである。議員や官僚たちには、法律にする以上はそれで社会を取り締まれなければならないという前提条件があったため、範囲や基準が曖昧にならざるを得ない道徳や生活習慣に関わることを具体的にどの程度まで取り締まるのかといったことが議論の中心になっていった。その中で、儀礼に用いる酒まで取り締まるか否かという点については、本音では日本を酒のない国にしたい禁酒派と、伝統的な慣習にまで法律で介入することや、儀礼に用いるようなアルコール度数の低い酒まで禁酒の対象にすることへ抵抗感を抱く反禁酒派の意見が常に衝突するところであった。結果的に禁酒派が議会でそこまで厳密に取り締まるつもりはないと発言し、そこに反禁酒派の失言が重なって、未成年者飲酒禁止法は制定された。しかし、一方で禁酒派は日本をさらに無酒国へと近づけたいという意思を、禁酒の対象を二五歳にまで引き上げる改正法案を国会に提出することで示した。こうした禁酒派の道徳や生活習慣に対する介入の拡大と規制の強化は、議会で強い抵抗を受けることになった。そして、禁酒派は改正法案提出後にかえって発言力を失っていったのである。
著者
川添 裕子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.29-54, 2011-11-30

近代以降の身体観の変化と併行して,美容整形は拡大し続けてきた。美容整形に関する人文社会科学研究では,身体の管理・監視に焦点を当てた分析と,整形経験者の能動性に焦点を当てた分析が対立的な議論を構成してきた。しかしいずれも近代社会とその対極の個人という図式に依拠している点では共通している。近代的身体観と近代的個人の概念に基づいた分析においては,美容整形経験者の身体と自己は,社会に従属するか,あるいは他者と無縁に刷新されるものと描かれる。本稿は,術前から術後に亘る聞き取り調査をもとに,従来の研究では背景に退いていた状況性と関係性および手術後の馴じむ過程に着目して,日本の患者の身体と自己のありようについて検討するものである。手術前,患者たちの身体と自己の感覚は画像情報的で,普通でないというようなスティグマ化された身体形態に固定化している。この日常生活全体に暗い影を落とすほどリアリティを持つ身体は,手術後は意外に早く忘れさられていく。固定化していた身体と自己の感覚は,手術を契機に流動的に変化しうる。しかし単に手術が技術的に成功すればいいだけではない。日本では,美容整形の周縁性・境界性がとりわけ顕著である。相対的に普通が強調される中で,ほとんどの患者はタブー視される美容整形を秘密にする。患者たちは痛みや違和感の残る身体に馴染むと同時に,その身体で他の身体の前に出てともにいることに馴染んでゆく過程で,手術前とは微妙に異なる身体と自己の感覚や他者の反応や新たな関わり方を少しずつ自分の身体に染み込ませてゆく。この一連の経験の中でそれまでの価値観や他者との関係を捉え直す患者もいるし,しばらくしてまた画像情報的な身体形態の追求に向う患者もいる。本稿の分析結果からは,身体と自己の感覚と認識は,そのつどの状況性と関係性の中で立ち現れる流動的で相互作用的なものであることが示唆される。
著者
古川 一明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.269-294, 2013-11-15

東北地方の宮城県地域は,古墳時代後期の前方後円墳や,横穴式石室を内部主体とする群集墳,横穴墓群が造営された日本列島北限の地域として知られている。そしてまた,同地域には7世紀後半代に設置された城柵官衙遺跡が複数発見されている。宮城県仙台市郡山遺跡,同県大崎市名生館官衙遺跡,同県東松島市赤井遺跡などがそれである。本論では,7世紀後半代に成立したこれら城柵官衙遺跡の基盤となった地方行政単位の形成過程を,これまでの律令国家形成期という視点ではなく,中央と地方の関係,とくに古墳時代以来の在地勢力側の視点に立ち返って小地域ごとに観察した。当時の地方支配方式は評里制にもとづく領域的支配とは本質的に異なり,とくに城柵官衙が設置された境界領域においては古墳時代以来の国造制・部民制・屯倉制等の人身支配方式の集団関係が色濃く残されていると考えられた。それが具体的な形として現われたものが7世紀後半代を中心に宮城県地域に爆発的に造営された群集墳・横穴墓群であったと考えられる。宮城県地域での前方後円墳や,群集墳,横穴墓群の分布状況を検討すると,城柵官衙の成立段階では,中央政権側が在地勢力の希薄な地域を選定し,屯倉設置地域から移民を送り込むことで,部民制・屯倉制的な集団関係を辺境地域に導入した状況が読み取れる。そしてこうした,城柵官衙を核とし,周辺地域の在地勢力を巻き込む形で地方行政単位の評里制が整備されていったと考えた。
著者
川村 清志 小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.214, pp.195-217, 2019-03-15

本稿は,民俗学における日記資料に基づく研究成果を概観し,その位置づけを再考することを目的とする。民俗学による日記資料の分析は,いくつかの有効性が指摘されてきた。例えば日記資料は,聞き取りが不可能な過去の民俗文化を再現するための有効な素材である。とりわけ長期間にわたって記録された日記は,民俗事象の継起的な持続と変容を検証するうえでも,重要な資料とみなされる。さらに通常の聞き取りではなかなか明らかにし得ない定量的なデータ分析にも,日記資料は有用であると述べられている。確かにこのような目論見のもとに多くの研究が行われ,一定の成果が見られたことは間違いない。ただし日記を含めた文字資料の利用は,民俗学に恩恵だけをもたらしてきたとは,一概にはいえない。文字資料への過度な依存は,民俗学が担ってきた口承の文化の探求とそこで紡がれる日常的実践への回路を閉ざしかねないだろう。そこで本稿では,これまで民俗学が,日記資料とどのように向かい合ってきたのかを問い直すことにしたい。民俗学者が,日記資料からどのようなテーマを抽出してきたのか,また,それらはどのような手順を踏むものだったのか,そこでの成果は,民俗学に対して,どのような展開をもたらし得るものであったのかを検証していく。これらの検証を通して,本論では日記研究自体が内包していた可能性を拡張することで,民俗学の外延を再構成し,声の資料と文字資料との総合的な分析の可能性を指摘した。
著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.41-81, 1983-03-15

This chronological table was compiled to indicate the development of Japanese Folklore Studies since the Meiji era. Important literature related to Japanese Folklore, significant events and activities in the Japanese Folklore Society are arranged in chronological order and divided into two columns: (1) Matters related to Yanagita Kunio, and (2) Others.Principal events and related items were included in the table to illustrate the interrelation between events, e.g.: criticism and refutation passed upon articles, publication of monographs and research papers based on field work.
著者
鋤柄 俊夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.161-239, 1993-03-25

大阪府南河内郡美原町とその周辺の地域は,特に平安時代後期から南北朝期にかけて活躍した「河内鋳物師」の本貫地として知られている。これまでその研究は主に金石文と文献史料を中心にすすめられてきたが,この地域の発掘調査が進む中で,鋳造遺跡および同時代の集落跡などが発見され,考古学の面からもその実態に近づきつつある。ところで従来調査されてきた奈良時代以降の鋳造遺跡は,寺院または官衙に伴う場合が多く,分析の対象は梵鐘鋳造土坑と炉または仏具関係鋳型とスラグなどが中心とされていた。一方河内丹南の鋳造遺跡についてみれば,鍋などの鋳型片および炉壁・スラグ片は一般集落を構成する遺構群の中から出土し,炉基部をはじめとする鋳造関連施設の痕跡もその一部で検出される。これらは鋳造施設をともなった中世集落遺跡の中の問題なのである。そしてこの地域の集落遺跡は,河内丹南の鋳物師の本貫地であったという記録と深く関わっている可能性が強いのである。小論はこの前提に立ち,丹南の中世村落を復原する中で特に職能民の集落に注目し,それが文献史研究の成果により示されている河内鋳物師の特殊な社会的存在とどのように関わってくるのかを考えたものである。考察は中世村落研究と鋳造遺跡研究の2点に分けられる。前者では,灌漑条件を前提とした歴史地理と景観復原の方法から村落の成立環境を,文献記録と遺跡の数量化分析から村落の配置と規模および古代から近世にかけての移動を復原した。後者では,全国の鋳造遺跡の整理から遺構の特徴,日置荘遺跡の検討から遺物の特徴を抽出し,鋳造作業における不定型土坑と倉庫空間の重要性および,鋳造集団がもつ特殊な流通について指摘した。これらの分析から,丹南の村落は成立環境の異なる条件により,少なくとも2つの異なった変化過程を示す可能性があり,それぞれに付属する鋳造集落においても同様な傾向のみられることがわかった。この仮説について,小論では日置荘遺跡をモデルとした鋳物師村落の景観復原を例に提示しておいたが,丹南鋳物師の2つの系統との関連の問題とあわせて,今後社会史的に復原検討されるべき課題とされよう。
著者
李 秀鴻 朴 宣映
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.195, pp.1-55, 2015-03

本稿では,これまで調査された韓半島南部地域の青銅器~三韓時代の環濠遺跡48ヶ所を集成し,環濠の時期ごとの特徴や性格,変化の傾向を検討した。韓半島南部地域において環濠は,青銅器時代前期には登場しており,清原大栗里遺跡で確認できる。幅の狭い3列の溝が等高線方向に曲走する。出土遺物からみて遼寧地域から直接移住した集団が築造したものと判断できる。青銅器時代において環濠の成立および拡散が明瞭に確認できる時期は,青銅器時代後期である。この時期には,大部分の環濠が嶺南地域に集中的に分布し,その中で地域的な差異も看取できる。まず,蔚山圏ではすべて丘陵上に分布し,1列の環濠がムラの周りを取り囲む形態が多い。地形や立地の特徴から,儀礼空間を区画する性格があったと判断できる。本稿では,環濠自体と環濠が眺望できる集落からなる結合体を,拠点集落と把握した。一方で,晋州圏では主に沖積地の大規模な集落に環濠が備わっている。木柵をともなう場合もあり,防御もしくは境界という機能がより強かったようである。ただし,防御といっても必ずしも戦争の際の防御だけではなく,野生動物の脅威にも対応した施設であった可能性もある。環濠が大規模な集落に設置されているため,拠点集落の指標となることは蔚山圏と同様である。環濠の成立は,青銅器時代の前期と後期の画期と評価でき,大規模な土木工事である環濠の築造を可能にした有力な個人の登場を推測することができる。三韓時代の前期には,韓半島の広い範囲に環濠遺跡が分布する。この時期には儀礼遺構としての意味が極大化する。1列の主環濠の外部に同一方向の幅狭の溝が並行するものが一般的な形態である。山頂部に円形に設置する例が多い。三韓時代の後期には環濠遺跡の数が急減する。これらは木柵をともなったり,環濠の幅が広くなったりしており,社会的緊張による防御的性格が強くなるように見受けられる。三韓時代後期に環濠が急減するのは,中国や高句麗から土城が伝来し,各地の国々が統合する過程において,地域の小単位としてあった環濠集落もより大きな単位への統合されていくためと考えられる。
著者
藤井 隆至
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.259-290, 1993-11-10

本稿は,雑誌『郷土研究』がどのような主題をもち,どのような方法でその主題を分析していったかを解明する。この雑誌は1913年から1917年にかけて発行された月刊誌で,柳田国男はここを拠点にして民間伝承を収集したり自分の論文を発表したりする場としていた。南方熊楠からの質問に対して,この雑誌を「農村生活誌」の雑誌と自己規定していたが,それでは「農村生活誌」とは何を意味するのであろうか。彼によれば,論文「巫女考」はその「農村生活誌」の具体例であるという。筆者の見解では,「巫女考」の主題は農村各地にみられる差別問題を考究する点に存していた。死者の口寄せをおこなうミコは村人から低くみられていたけれども,柳田はミコの歴史的系譜をさかのぼることによって,「固有信仰」にあってミコは神の子であり,村人から尊敬されていた宗教家で,その「固有信仰」が「零落」するとともに差別されるようになっていったという説を提出している。差別の原因は差別する側にあり,したがって差別を消滅させるためには,すべての国民が「固有信仰」を「自己認識」する必要があるのであった。その説を彼は「比較研究法」という方法論で導きだしていた。その方法論となったものは,認識法としては「実験」(実際の経験の意)と「同情」(共感の意)であり,少年期から学んでいた和歌や学生時代から本格的に勉強していた西欧文学をもとにして彼が組み立ててきた認識の方法である。もう一つの方法論は論理構成の方法で,帰納法がそれであるが,数多くの民間伝承を「比較」することで「法則」を発見しようとする方法である。こうした方法論を駆使することによって彼は差別問題が生起する原因を探究していったが,彼の意見では,差別問題を消滅させることは国民すべての課題でなければならなかった。換言すれば,ミコの口寄せを警察の力で禁止しても差別が消滅するわけではなく,差別する側がミコの歴史を十分に理解することが必要なのであった。
著者
廣田 浩治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.223-247, 2003-03-31

公家権門の家領を支配する担い手に、家僕を中心とする家政機構がある。中世後期の九条家の家僕は、「御番衆中」「境内沙汰人」などといわれ、諸大夫級と侍身分の家僕から成る。中世前期以来の家司が脱落する過程で、九条家家門との主従関係を強めた家僕が残り、家門が侍身分の家僕までも直接統括する体制に変質した。家門と家僕の関係は家と家の関係という性格が強まり、中世後期の九条家家僕の構成は九条政基・尚経期に一定の確立をみた。中世後期の九条家領荘園といえば日根荘がよく知られる。が、同家領はそれだけでなく、畿内・西国に複数存在し、また九条家関係の寺院の所領も畿内・西国に広がり、所領支配の面で九条家への依存度を強めた。特に寺院所領の錯綜する東九条御領(境内)では九条家「本役」賦課体制をとり、寺院所領の家領化が進んだ。家領支配に当たっては諸大夫級の家僕が奉行、侍身分の家僕は主に上使に任じた。当該期の荘園支配の本質はあらゆる手段を講じてできるだけ多くの収納を実現することにある。このため奉行・上使はしばしば家領に下向し、代官・在地勢力の離反を防ぎ、「案内者」を起用して荘務の協力者とした。家僕相互にも荘務遂行の下向経費捻出や給分保障の点で依存関係があり、これが家領相互の並行支配を支えた。また家僕には金銭の「秘計」「引替」の能力も求められた。日根荘のように家門が下向して直務支配を行う場合には、家門と複数の家僕(奉行―上使)による支配機構が整備される。政基の日根荘支配は複数の家僕に支えられ、また家門―家僕の主従関係は荘内の寺僧などにも広げられた。政基の支配は京都東九条の尚経を頂点とする他の家領支配とも関連しており、孤立したものではなかった。中世後期の九条家は家僕編成の主従制を強化したが、地域領主化したのではなく、公家権門として家僕の荘務を基盤に複数所領の収納維持を志向したのである。
著者
佐藤 宏之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.75-87, 2014-01

元和四年(一六一八)四月九日、幕府は大名改易後の居城の収公にさいし、城付武具はそのまま城に残し置くこととの方針を定めた。さらに、軍事目的のために備蓄した城米も引き継ぎの一環として、備蓄の有無と備蓄方針の確認を求めた。本稿は、国立歴史民俗博物館所蔵の石見亀井家文書のなかにある、元和三年の津和野城受け取りに関する史料を素材に、城受け取りのさいに引き継ぎの対象となる財(モノ)に着目する。城受け取りのさいには、城内諸道具の目録が作成され、それに基づいて引き継ぎが行われる。その目録化の過程において、武家の財は公有の財と私財とに峻別される。公有の財とは城付の武具・道具や城米であり、大名自身の私有物ではなく、幕府から与えられたモノといえる。すなわち、その帰属権が最終的に将軍に収斂していくものである。一方、私財とは大名や家臣の武具・家財や雑道具などであり、その処分は個々人の裁量に任せられたモノといえる。こうした動向の契機となったのが、天正一八年四月二九日に真田昌幸宛てに出した豊臣秀吉の朱印状ではないかという仮説を提示する。秀吉は、降伏した城々は兵粮・鉄砲・玉薬・武具を備えたままで受け取るという戦闘力を具備した城郭の接収確保を指示し、接収直後に破城とするのではなく、無抵抗で明け渡す城の力(兵粮・鉄砲・玉薬・武具)を温存した。秀吉は、その後の奥羽仕置を貫徹するなかで、諸国の城々は秀吉の城という実態と観念を形成していったのである。こうした城付の武具や城米を目録化することによって把握することは、城の力を把握することでもあった。したがって、近世の城の構成要素は、城付の武具と城米であったということができよう。このような城付の武具と城米を把握・管理した江戸幕府は、国家権力を各大名に分有させ、それを背景とした統治業務の分業化を行いつつも、幕府の国家的支配の体系のなかに編成していったと考えられる。On April 9, 1618, with reference to the seizure of a castle where a daimyo ( feudal lord) usually resided, the Shogunate decided on a policy that after daimyo kaieki (punishment by removal of samurai status and expropriation of territories) , any arms belonging to a seized castle must be left in place. Moreover, the Shogunate demanded to know the quantity and any storage conditions of jomai (rice originally reserved for military purposes) .Employing historical evidence concerning the seizure of Tsuwano Castle in 1617, which is found in documents relating to the Kamei family of Iwami Province in the possession of the National Museum of Japanese History, this paper focuses on possessions (assets) that were handed over upon seizure of the castle.Before accepting a castle, a complete inventory of all goods and materials within the castle was created, and based on this list, the castle was handed over. In the preparation process of the inventory, the assets of a samurai family were divided and assessed as belonging to either the government or the family.Government ownership concerned arms, tools, and jomai that belonged to the castle; they can be considered as possessions originally given by the Shogunate, not a daimyo's private possessions. That is to say, any right of possession was in the end attributed to the shogun. On the other hand, family possessions were arms, household goods, and miscellaneous tools of retainers, and their disposal was left to the individual daimyo's discretion.Such a trend was probably triggered by a shuinjo ( shogunal charter for trade) given by Hideyoshi Toyotomi to Masayuki Sanada on April 29, 1590. Hideyoshi gave directions to seize and secure a castle sufficiently provided with a military capability, more specifically, to receive surrendered castles complete with all food provisions, firearms, ammunition, and armor, in order to maintain the military power of any castle delivered without resistance, and not to destroy the castle immediately after seizure. Hideyoshi carried through the subsequent Punishment of the Ou region, during which he was actually putting into practice the concept that the castles in the provinces belonged to Hideyoshi.Understanding the quantity of military equipment and jomai that belonged to a castle by creating an inventory also allowed the assessment of the military capability of the castle. Therefore, one can safely state that the component parts of a castle in early-modern times were the weapons of war and jomai belonging to that castle.It can be considered that the Edo Shogunate, which understood and controlled the arms and jomai belonging to a castle, allocated some state authority to each loyal daimyo, and against the background of such a policy, while promoting the specialization of ruling and administrative work, the Shogunate was incorporating the policy into its own state ruling system.