著者
小椋 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.379-412, 2008-12-25

今日、関東地方低地部を含む日本南部における典型的な鎮守の杜は、常緑広葉樹林(照葉樹林)であり、それは古くから人の手があまり入ることなく続いてきたと考えられることが多い。しかし、明治期以降の文献、地形図、写真をもとにした考察から、そうした通念は誤ったものである可能性が高くなってきている。ただ、これまでの考察事例はまだあまり多くはなく、かつての神社の杜が一般的にどのような植生であったかを述べるには、もっと多くの事例を検討する必要がある。そこで、本稿においては、古い写真や絵図類を主要な資料として、かつての神社の杜の植生について、より多くの事例を検討した。古い写真としては、『京都府誌』(一九一五)と『日本写真帖』(一九一二)に収められた神社の写真を、主に現況と比較しながら検討した。その結果、それらの写真からわかる神社の杜の植生は、一部には今と大きく変化していないように見えるものもあるが、多くの場合、今日の状態とは大きく異なっていた。すなわち、今日では神社の杜の植生には、クスノキやシイやカシなどの常緑広葉樹が主要な樹木となっていることが多いが、明治末期から大正初期にはスギやマツなどの針葉樹が重要な樹木として多く存在する傾向があった。また、神社付近の樹木は、今日よりも少なく、また小さいことが多い傾向があった。一方、絵図類については、幕末に発行された『再撰花洛名勝図会』(一八六四)と初期の洛中洛外図四点(一六世紀初期~中期)に描かれた神社の杜について、主に同時代に同じ神社を独自に描いた図の比較検討により、絵図類の写実性を検討しながら、それぞれの時代における神社の杜の植生について考えた。その結果、かつての神社の杜の植生は必ずしも一様ではなく、神社により大きく異なっていたが、概してマツがある程度見られるところが多く、またスギが神社の杜の重要な樹種であった場合が多かった。また、一部には常緑広葉樹の割合が大きかったと思われる神社もある。
著者
上野 誠
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.69-85, 1991-03-30

This thesis describes field work by Shinobu Orikuchi, who, together with Kunio Yanagita, led the folkloric studies at their embryonic stage in Japan.Shinobu Orikuchi, 1887-1953, was a renowned writer, a scholar of classical literature as well as a folklorist. Unlike Kunio Yanagita who concentrated on folkloric studies and did not publish may literary works of his own, Orikuchi remained as a writer, a scholar of classical literature as well as a folklorist with his concern equally divided among the three roles. This thesis tries to make clear the relationship between Orikuchi's position with multiple roles and his field work. Orikuchi tried to make his observation of the modern folkloric practices in the context of “classical logic” extracted from his knowledge of “classical literature” and perceive “classicality” of the people. For example, in his observation of Oni performance in the folkloric performing arts called “Hana-matsuri” in Toyone-mura or Toh-ei-cho, Kita-shidaragun, Aichi prefecture, he perceived it to have originated in the performance by “Yamabito” for blessing the arrival of spring. Orikuchi came to this conclusion through his studies of “classical literature”, without the knowledge of which it is impossible for anyone to conclude that the Oni performance originates in Yamabito blessing performance. The field work of this sort made by Orikuchi in relation with studies of classical literature signifies reconfirmation of “classical literature” through “folkloric practices”. Therefore, Orikuchi's field observation can be considered as on having a characteristic of looking at “folkloric practices” in the light of “classical literature”. Being based on this kind of field observation by Orikuchi, it is easy to understand why Orikuchi defind “folkloric practices” as “classical literature in modern life”. Field works meant for Orikuchi works of connecting “classical literature” with “classical literature in modern life”.
著者
東野 治之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.114, pp.21-32, 2004-02

大嘗会の際に設けられる標の山は、日本の作り物の起源に関わるものとされ、主として民俗学の分野からその意義が注目されてきた。しかしその歴史や実態については、いまだ未解明の点も多い。本稿では、まず平安初期の標の山が中国風の装飾を凝らした大規模なものであったことを確認した上で、『万葉集』に見られる八世紀半ばの歌群から、新嘗会の標の山が、同様な中国風の作り物であったことを指摘する。大嘗会は本来新嘗会と同一の祭りであり、七世紀末に分離されて独自の意味をもつようになったとされるが、そうした経緯からすれば、この種の作り物が、当初から中国的な色彩の濃いものであったことも容易に推定できる。そのことを傍証するのが、和銅元年(七〇八)の大嘗会の状況であって、それを伝えた『続日本紀』の天平八年(七三六)の記事は、作り物の橘が金銀珠玉の装飾とともに用いられていたことを示している。従って、大嘗会の標の山は、大嘗会の成立に近い時点で中国的な性格を持っていたわけで、その特色はおそらく大嘗会の成立時点にまで遡るであろう。このように見ると、標の山は神の依り代として設けられたもので、本来簡素な和風のものであったが、次第に装飾が増え中国化したとする通説には大きな疑問が生じる。そこで改めて標の山の性格を考えると、その起源は、すでに江戸時代以前から一部で言われてきたように、儀式進行上の必要から設けられた標識にあり、それが独自の発展を遂げたものと解すべきである。なお、大嘗会の標の山について、その形態をうかがわせる史料は限られているが、元慶六年(八八二)の相撲節会に用意された標の山に関しては、菅原道真が作った文から詳細が判明し、大きさや装飾が大嘗会のものと類似していたことがわかる。この文についての従来の読みには不十分な点があるので、改めて訓読を掲げ参考とした。一部非公開情報あり
著者
長沢 利明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.145, pp.373-412, 2008-11-30

現存する農民市としては東京都内最古の存在である世田谷のボロ市は、一五七八年(天正六年)における後北条氏の市立掟書の存在によって、そのことを確かめうる重要な地位を占めているが、当初よりそれは典型的な六斎市として成立していた。北条氏の没落した近世期には年に一度の歳の市となったが、彦根藩領内にあって代官の支配・統制下に置かれることとなった。近代期には村方の運営する農民市となり、改暦によって一月・一二月の二度の市立ともなっていったが、明治期にはボロ布市・筵市として知られるようになり、大正期には植木市としての発展もみた。近代産業の勃興と交通網の整備を通じ、前近代的な商品取引はしだいに一掃され、市場商人と地元との親密で特殊な相互関係も解消されていくこととなり、第二次大戦後には暴力団系テキヤ組織の介入を許す余地を与えることとなった。それゆえ戦後の市立の民主的な改革は、それらとの対決なくして実現することができず、粘り強い努力を通じて地元民はついに一九六五年(昭和四〇年)、ついにこれを達成するに至った。この成果によって今日のボロ市の運営基盤が形作られ、市立の現代化がなされていった。今日の出店構成に関する実態調査結果からも、改革後の特色ある業種実態、出店者の広域化、地元主導型の民主的運営形態の定着といった諸傾向を、そこに明確に見い出すことができる。
著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.145-162, 1993-11-10

日本の民俗学は柳田國男のほとんど独力によってその全体像が作られたと言っても過言ではない。従って、民俗学のどの分野をとってみても、柳田國男の研究成果が大きく聳え立っており、現在なお多くの研究分野は柳田國男の学説に依存している。民俗学の研究成果として高く評価されることの多い子供研究も実は大部分が柳田國男の見解を言うのであり、柳田以降の民俗学を指してはいない。そのような高く評価され、実証済みの事実かのように扱われる柳田國男の見解を整理し、問題点を指摘し、それに続いて柳田以降の民俗学の研究成果も検討した。柳田國男の子供理解は大きく二つの分野に分けられる。一つは子供の関係する行事や彼等の遊びのなかに遠い昔の大人たちの信仰の世界を発見するものである。子供を通して大人の歴史を明らかにする認識である。これは手段として子供を位置づけていることになる。この子供を窓口にして大人の過去を見る場合は、「神に代りて来る」という表現に示されるように、例外なく信仰、さらには霊魂観と結びつけて解釈している。もう一つの柳田の子供研究の世界は「群の教育」という表現に示される。群の教育は近代公教育を批判するものとして注目され、教育学系統の人々から高く評価される視点であり、柳田以降にもほとんど疑われることなく継承されてきた。しかし、この視点は子供を教育の対象と見るもので、大人にとって望ましい一人前に育てる教育に過ぎない。民俗学はこれら柳田國男の呪縛から解放されなければ新たな研究の進展は見られないことは明白である。子供を大人から解放して、子供それ自体の存在を分析し、子供を理解することによって新たな民俗学の研究課題は発見されるであろう。
著者
川森 博司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p385-406, 1993-02

本稿は,日本と韓国の事例の比較の視点から,異類婚姻譚の類型を整理し,日本の異類婚姻譚を東アジアという視野の広がりの中で考察していくための足がかりを作ることをめざしたものである。類型の分類においては,人間と異類の婚姻が成立するか,成立しないか,ということを第一の基準とし,次に「異類聟譚」と「異類女房譚」に分けて,諸類型の記述をおこなった。婚姻が成立する類型の主なものは,異類が人間に変身して人間との結婚を成就するという形をとるもので,日本においては「田螺息子」の話型があるが,それ以外にはあまり見られない。韓国においては,異類聟譚,異類女房譚ともに,この類型のものが相当数伝承されている。一方,婚姻が成立しない類型は,異類聟譚においても,異類女房譚においても,日本の異類婚姻譚の主要な部分をなしている。日本の異類聟譚においては,人間の女が計略を用いて異類の男を殺害して,婚姻を解消する「猿聟入」や「蛇聟入・水乞型」の伝承がきわめて数多く伝えられている。この形の伝承は韓国には見られないようである。また,日本の異類女房譚では,異類の女の正体が露見したために結婚が解消される形の「鶴女房」や「蛇女房」などが幅広く伝承されている。この類型は韓国にも存在するが,日本の場合ほど顕著にはあらわれない。韓国では,婚姻が成立しない類型においても,一時的な異類との交渉の結果,非凡な能力をもった子どもが生まれる形のものが多く見られる。ただし,これらの点について比較をおこなうとき,『韓国口碑文学大系』においては,昔話と伝説を一括して収録しているのに対し,日本の昔話の資料集は,伝説と区別して,昔話を収集していることを考慮しなければならない。本稿でおこなった類型の整理は,個々の話型についての分析をおこなっていくための土台となるものであり,また,「説話を通して文化を読む」ための基礎作業である。
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.7-46, 1993-03-25

いったん遺体を骨にしてから再び埋葬する葬法を、複葬と呼ぶ。考古学的な事象からは、死の確認や一次葬など、複葬制全体を明らかにすることは困難で、最終的な埋葬遺跡で複葬制の存在を確認する場合が多い。そうした墓を再葬墓、その複葬の過程を再葬と呼んでいる。東日本の初期弥生時代に、大形壺を蔵骨器に用いた壺棺再葬墓が発達する。その起源の追究は、縄文時代の再葬にさかのぼって検討する必要がある。縄文後・晩期の再葬は、普遍的葬法といえるものはまれであるものの、南東北地方から近畿地方にいたる比較的広い地域に広がっていた。再葬法には遺骨を集積した集骨葬や、土器に納めた土器棺再葬、人骨を破壊して四角く組んだ盤状集骨葬や、人骨を焼いて埋葬した焼人骨葬などがあり、けっして縄文後・晩期の再葬も一様ではない。縄文時代には、生前の血縁関係や年齢に応じたつながりを死後も維持するためと思われる合葬がしばしばおこなわれるが、再葬のひとつの要因として合葬が考えられる。そうした再葬を伴う合葬のなかには、祖先や集落の始祖に対する意識の萌芽的な側面が指摘できるものもある。しかし、同様な形態の再葬でもその内容が同じとはいえず、さらに長い年月の間、その性格も不変のものではありえないと思われる。地域間の相互交流、再葬の際の骨の扱い方の変化など再葬法の時代的な変化を整理することにより、そうした多様性の内実に近づくことが可能だろう。中部高地の縄文晩期の再葬の特色は、多人数の遺骸を処理する焼人骨葬であり、それは北陸に広がり、伊勢湾、近畿地方に伝播した。一方、中部高地には伊勢湾地方の集骨葬が影響を与えた可能性がある。再葬の際の骨の取り扱い方という点では、縄文後期に顕著であった全身骨再葬と、頭骨重視の傾向が晩期初頭~前葉にも引きつがれる一方、それ以降部分骨再葬や中期にさかのぼる遺骨破壊の行為も比較的広範囲に広まるように、晩期前葉を過渡期として遺骨の取り扱いにも変化がみられるようになる。晩期中葉の近畿地方では部分骨再葬と結びついた土器棺再葬をおこなっていた。土器棺再葬を部分骨再葬とみなせば、焼人骨はその残余骨の処理であったと考えられ、遺骨破壊の必要性が高まった反面、遺骨保存の措置が採られた二重構造を想定することができる。多様な再葬の形態と相互の影響関係が認められる近畿地方から中部高地の内陸地帯で、晩期中葉には集骨葬が衰退するなか、類例は少ないが土器棺再葬と焼人骨葬が晩期終末まで継続するのは、弥生時代の壺棺再葬墓の成立を考えるうえで重要な現象である。
著者
村木 二郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.165-190, 2003-10-31

12~13世紀に,経塚は全国各地で造営された。特に,平安京を中心とした近畿と,大宰府を中心とした九州北部が2大中心地であったため,これまでの研究も西日本の経塚が対象となることが多かった。しかし,ここ数年東日本の経塚調査例も増えてきている。そこで本稿では東日本の経塚のなかで,銅製経筒や土製・石製の専用経筒・外容器を出土した経塚を対象に,地域的な傾向をみていく。経塚は地域色の強い遺跡であるため,個々の資料を詳しく検討する際にはどうしても特殊性が目立ってしまう。そのため本稿では巨視的な立場で東日本の経塚を概観することにより,今後の研究における基礎作業をおこなうことが狙いである。手法として,まず銅製経筒を近畿系の経筒と,製作技法の異なる一鋳式経筒に分類し,その分布地域を押さえる。次に,外容器を珠洲系,東海系,石製などに分け,これらの分布圏も同様にみていく。また,経筒を埋納するにあたって外容器を用いる場合や石室を造る場合がある。出土状況が明らかな例が増えてきたため,こういった情報をもとに埋納法にもとづいた分類も加えた。これらの作業により,日本海側と太平洋側の違い,関東の独自性などが明確に現われる。それらをもとに,東日本の経塚は,陸奥,出羽,関東,中部高地・静岡東部,東海西部,加越,嶺南の7地域に区分することができた。
著者
東 潮
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.31-54, 2004-02

『三国志』魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡」,同倭人条の「南北市糴」の記事について,対馬・壱岐の倭人は,コメを売買し,鉄を市(取)っていたと解釈した。斧状鉄板や鉄鋌は鉄素材で,5世紀末に列島内で鉄生産がはじまるまで,倭はそれらの鉄素材を弁韓や加耶から国際的な交易によってえていた。鉄鋌および鋳造斧形品の型式学的編年と分布論から,それらは洛東江流域の加耶諸国や栄山江流域の慕韓から流入したものであった。5世紀末ごろ倭に移転されたとみられる製鉄技術は,慶尚北道慶州隍城洞や忠清北道鎮川石帳里製鉄遺跡の発掘によってあきらかとなった。その関連で,大阪府大県遺跡の年代,フイゴ羽口の形態,鉄滓の出土量などを再検討すべきことを提唱した。鋳造斧形品は農具(鍬・耒)で,形態の比較から,列島内のものは洛東江下流域から供給されたと推定した。倭と加耶の間において,鉄(鉄鋌)は交易という経済的な関係によって流通した。広開土王碑文などの検討もふまえ,加耶と倭をめぐる歴史環境のなかで,支配,侵略,戦争といった政治的交通関係はなかった。鉄をめぐる掠奪史観というべき論を批判した。Records describing activities in Pyonjin and the people of Wa contained in the Chinese History of the Three Kingdoms have been interpreted as meaning that the people of Wa living on Tsushima and Iki traded rice and acquired iron. These iron materials were iron plates shaped like adzes and iron ingods, and were obtained through international trading between Wa and Pyonjin and Kaya until the end of the 5th century when iron production began in the Japanese Archipelago. The dating of these iron materials and cast adzes and opinions as to their distribution have determined that they came to Wa from various Kaya states in the Nakdonggang River valley and Bokan (慕韓) in the Yeongsan-gang River valley. It is conceivable that the iron manufacturing techniques that were introduced to Wa were the same as those confirmed by the Gyeongju Fangseong-dong and the Jincheon-gun Sokjiang (石帳里) remains. It is in this connection that there have been calls for a re-investigation of the age of the style of twyer used in bellows, the amount of iron slag excavated, and materials from the Oagata remains in present-day Osaka Prefecture. The cast iron implements shaped like adzes are agricultural implements (scythe, hoe) , and a comparison of their forms has prompted the conjecture that those found in the Japanese Archipelago were supplied from the Nakdong-gang River valley. The distribution of iron, especially iron materials between Kaya and Wa, occurred as part of an economic relationship that involved trade. A study of other sources of information such as inscriptions at the monument to King Koukaidoou also show that the historical environment in which Kaya and Wa were in contact with each other was not a political relationship involving control, invasion and war. Instead, this paper criticizes the theory that takes the view that this relationship was one of pillage and plunder.
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.3-29, 2004-02

古墳時代の倭と加耶の交流を語る上でもっとも重要な問題の一つである鉄が,弥生時代の両地域間においても重要であったことは,この地が倭で用いられる鉄資源の供給地であったことからも明らかである。本稿は,鉄を媒介とした交流を考えるうえで弥生時代にさかのぼる重要な四つの問題を取り上げた。まず弥生時代の鉄器の原料であった鉄素材にはどのようなものがあったのかという,鉄素材の種類の問題。第2に鉄素材はどのようにして弥生社会にもたらされたのかという舶載・国産の問題。第3に鉄素材を加工し鉄器を作った施設,すなわち鍛冶炉の問題。第4に鉄器製作技術である。現在,弥生時代の鉄素材にはいくつかの種類があり,鉄素材ごとに由来,処理する鍛冶炉の構造,鉄器製作工程が異なることが明らかにされている。なかでもとくに注目されるのが,後期以降の西日本で類例が増えている板状鉄製品である。その化学成分から,韓半島東南部で作られた可能性が指摘されている板状鉄製品は,のちの加耶地域の鉄素材の前身となりうるものとして注目される。以前より論争のある板状鉄斧鉄素材説をめぐる議論が膠着状態におちいるなかで,これらと板状鉄素材との関係について検討した結果,興味深い事実が判明した。
著者
大澤 正己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.89-122, 2004-02

列島内の縄文時代晩期から弥生時代へかけての初期鉄文化は,中国東北部方面で生産された可能性の高い高温還元間接製鋼法にもとづく可鍛鋳鉄,鋳鉄脱炭鋼,炒鋼の各製品の導入から始まる。また,遺存度の悪い低温還元直接製鋼法の塊錬鉄も希れには発見されるが,点数は少ないのと銹化のためか,その検出度は至って低い。一方,弥生時代の鍛冶技術は,まだ稚拙であって原始鍛冶とも呼ぶべき状況にある。ます廃鉄器(鋳造鉄斧脱炭品破片)の砥石研磨再生から始まり,次に棒(条材),板の半製品を原料とした鏨切り,火炙り成形,砥石研磨による鉄器製作である。鍛冶素材の産地は,弥生時代後期前半頃までは中国側,後期中頃以降は,鉄生産の開始された朝鮮半島側に依存した形跡を残す。本格鍛冶となる羽口使用で,沸し,素延べ,火造りといった工程の開始は古墳時代の前期頃で,鉄鉱石・砂鉄原料の製錬開始は古墳時代中期以降まで待たねばならぬ。朝鮮半島側の製錬の開始は定かでないが,焙焼磁鉄鉱を原料とした石帳里遺跡のA・B区で3~5世紀の操業があり,更に遡るのは確実であろう。これに後続する遺跡として沙村製鉄遺跡が調査された。いずれも円形炉で,列島内の古墳時代後期に属する遺構が広島,岡山の両県でも検出されている。但し,列島内では大口径羽口(送風管)を伴わないので同系とみなすには議論の分かれる事となろう。列島内の円形炉は,砂鉄と鉱石の2通りの原料使用があり,焙焼技術は受継がれている。In Japan the early iron culture from the final phase of the Jomon period to the Yayoi period began at the introduction of iron products of malleable cast iron, iron casting decarbonized steel, and paddling steel with the method of high-temperature reduction which was most likely be adopted in the northeast region of China. Moreover, sponge iron with the method of low-temperature reduction has seldom been found because of hardly been survived; a few specimens and corroded condition cause that they have been found in a very small percentage.On the other hand, the technology of forge of the Yayoi period is still confined in the undeveloped stage and also in the environment which is called a primitive forge. Firstly, the used iron wares (fragments of the decarbonized-casting iron axes) were reused by polishing them with whetstone, and secondly, as the half-finished goods of a stick and a board as raw materials were proceeded to produce iron wares by cutting, taking fabrication of heat, and at the end polishing with whetstone. Raw materials for forge depend on China until the middle of the Late Yayoi period, but after the middle of the Late Yayoi period there is evidence that they depend on the Korean Peninsula where iron production already started.Adopting the funnel which serves as a full-scale forge; pounding, shaping, and refining, these procedures began around the first half of the Kofun period, and the beginning of refinement of iron ore and iron sand should wait until the middle of Kofun period. It is not certain when the refinement adopted in the Korean Peninsula began, however, there are some evidences that heated magnetites as raw materials were used in the A and B areas of Sǒkjang-ri Site in the 3th through 5th century, and it is sure that the date will be much earlier. As the successive site, Sachon Iron Mill Site has been excavated; the remains of furnace are round in plan, and this type has been discovered in Hiroshima and Okayama prefectures, which is belonging to the Late Kofun period. However, any large funnels in diameter have not been unearthed in Japan, therefore, there are some arguments whether or not two specimens are similar in type. As to the round furnace in Japan, iron sand and iron ore were adopted simultaneously for raw materials, and adopting the heating method have been inherited.
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.3-48, 1993-02-26

民族・民俗学で複葬と呼ぶ葬法は遺体を何度も故意に取り扱うため,葬儀が複数回におよぶもので,考古学ではこれを一般的に再葬と呼んでいる。日本列島では縄文晩期終末から弥生Ⅲ期までの東日本の一部で、主に壺形土器を蔵骨器にした再葬墓が発達した。この再葬墓に特徴的なものは,一つの土坑の中に複数の土器を納めた複棺再葬墓であるが,複数の土器棺に納めた人骨が複数体の場合は,一括埋納の契機や合葬された人々の社会的関係が問題になってくる。複棺再葬墓の土器には摩滅状態の著しいものや補修痕のあるものが日常集落以上に含まれる。また,一土坑の複数の土器には型式差のあるものが共存し,埋納までに要した長い集積の期間を推測させるものもあるが,それはまれである。一土坑の遺体数は2~4体で7体という例もみられる。これら合葬人骨は男女ともにあり,また成人と小児など世代を超えたものが組み合わさる場合もある。したがって一土坑における複数の納骨土器は,ある期間の集積を経て一括埋納されたものであり,集積の期間はまれに長期にわたる場合もあるが,多くは土器型式の存続期間を超えるほど長くなかったとみられる。ならば,この一土坑に合葬された者の紐帯は累世的なものは考えにくく,血縁的紐帯か世帯のまとまりか世代によるまとまりかということになる。出土人骨におもきを置けば年齢階梯的つながりは想定しがたく,血縁か世帯であろうが,これを解くてがかりは墓域の構成にある。初期の再葬墓群は弧状を呈するものがある。福島県根古屋遺跡の分析からすると,弧状の墓域がいくつかの群に分かれており,各群に新古の墓坑がみられる。これはあらかじめ墓域を区画して埋葬していったものであり,これら各群は縄文時代の埋葬小群と同様なものだといえる。縄文時代の埋葬小群は血縁のつながりがある身内のグループと,非血縁の婚入者のグループからなる一つの世帯の累積的墓群とされる。縄文時代後・晩期には夫婦など血縁関係にないものどうしの合葬はおこなわなかったとされる。複棺再葬を合葬の一形態とみなし,そこに縄文時代の合葬原理が生きているとすれば,こうした縄文時代の墓域構成を踏襲した初期の複棺再葬墓は,なんらかの血縁的な関係にある者どうしを合葬した土坑と考えるのが妥当だろう。そしてそれらが集合した埋葬小群が,一つの世帯の歴史的な墓群であり,墓域全体が一つの集落の墓地だと考える。
著者
前嶋 敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.115-145, 2014-01-31

本論文は、一七世紀中葉~一八世紀前半の米沢藩中条氏における戦国末期~近世初頭の当主の系譜に対する認識について、中条氏に伝来した系図・由緒書等および同氏の文書整理・管理の状況から検討するものである。本論文では以下の点を指摘した。①中条氏では、一七世紀中葉~後半頃の段階においては、戦国末期の当主が忘れられている状態であり、とくに中条景泰という当主の名を認識していなかった。しかし、一八世紀前半にはそれを景資という当主の改名後の名としている。なお、さらにその後に作成された系図等では景資と景泰は別人と理解されている。②中条氏では、一七世紀中葉以降には、文書の整理・収集等を通じて系譜の復元が行われていた。そして元禄四~七年の間に景泰の名を記す文書を収集し、その名を認識するにいたったと考えられる。また同氏では一七世紀後半までの文書整理と同じ方針でそれ以後も管理を継続していた。このことは、中条氏が同氏の系譜・由緒等に対して高い関心を持ち続けていたことを示しており、戦国末期の当主に対する認識をその後さらに変化させたことにもつながっていたと思われる。
著者
小倉 慈司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.353-404, 2012-03-01

近世前期に諸善本の副本作成事業や古写本収集を行なった後西天皇の収集書について、それが霊元天皇を経て、中御門天皇と有栖川宮職仁親王に引き継がれていく過程を明らかにする。寛文六年に後水尾法皇の命を承けて後西上皇が霊元天皇に諸記録新写本を七〇合進上したが、その中には古写本や文学書は含まれておらず、上皇の手許に残された。それらも含めた後西上皇蔵書は、貞享二年の上皇崩御後に霊元天皇が接収し、さらに再整理を行なって自らの蔵書中に組み込んだ。なお、後西上皇は蔵書の一部を皇子幸仁親王や近衛基煕に賜与している。後西天皇が禁裏本の副本作成作業を行なった理由について、従来は、禁裏の火災に備えるためと考えられていたが、実際には、譲位後も自分の手許に置くことができる蔵書を増やすためであったと考えられ、霊元天皇に進上した以外の書物については、最終的には一部を除いて幸仁親王(もしくは八条宮尚仁親王)に譲るつもりであったと考えられる。霊元天皇は後西上皇旧蔵書を接収した後、史書については分類して寛文六年後西上皇進上本に加える作業を行なったが、完全にその作業が完了しないまま、譲位後五年を経て東山天皇に譲った(未整理部分は手許に残す)。しかしその後も必要に応じて禁裏より箱を戻して書物を取り返すこともあった。一方、文学書は譲位後もそのまま仙洞にて管理していた。霊元法皇崩御後には、中御門天皇へは、後西上皇旧蔵書中より分置された分や霊元天皇新収書も含めてかなりの量の史書・文学書が贈られているが、それらの中には他の皇子女に一旦形見分けされた後に中御門天皇に献上されたものも含まれていた。有栖川宮職仁親王に対しては、享保12~14年頃と崩御後の二度にわたって書籍が賜与されている。これらの書籍の中には霊元法皇が意図的に選別して職仁親王に贈ったものと、崩御後、偶然的要素によって職仁親王の手に渡ることになったものとがあった。
著者
田原 範子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.167-207, 2011-11

本稿では,死という現象を起点としてアルル人の生活世界の記述を試みた。アルバート湖岸のアルル人たちは,生涯もしくは数世代に渡る移動のなかで,複数の生活拠点をもちつつ生きている。死に際して可能であれば,遺体は故郷の家(ホーム)まで搬送され,埋葬される。遺体の搬送が不可能な場合,死者の遺品をホームに埋葬する。埋葬地をめぐる決断の背景には,以下のような祖霊観がある。身体(dano)が没した後,ティポ(tipo)は身体を離れて新しい世界へ移動する。ティポは,人間界とティポの世界を往来しつつ,時には嫉妬などの感情を抱き,現実に生きている人びとの生活を脅かす。病気や生活の困難はティポからのメッセージである。そのような場合,ティポは空腹で黒い山羊を欲している。その求めに速やかに応じるために,埋葬地は祖先たちの住む場所つまりホームが望ましい。アルル人のホームランドでは,ティポはアビラ(abila)とジョク(s.jok,pl.jogi)とともに祀られている。ティポは現世の人間に危害を及ぼすだけの存在ではない。ティポの住まうアビラやジョクに対して,人びとは,語りかけ,家を建て,食物を用意し,山羊を供儀する。父や祖父のティポを通して,祖先の死者たちは生者と交流する。その交流は,生者に幸運や未来の予言をもたらすこともある。死者と生者が共にある空間で,死者のティポは安住することができる。移動に住まう人びともまた,死者をホームに搬送すること,死者の代わりに死者の遺品を埋葬することを通して,ティポの世界と交流している。In this paper, I have attempted to portray the life-world of Alur people through the process of burial. Some Alur migrate and have multiple living bases during their lifetime and through several generations on the shores of Lake Albert. When someone dies, it is common for the body to be carried home for burial. However when this is not possible, the belongings of the deceased are carried back to be buried, instead of the body. The practice of burial reveals Alur recognition of the spiritual world, as below:After the body (dano: s.&pl.) has died, the spirit (tipo: s.&pl.) leaves it and travels to another world. Tipo can also come and go between this world and another world which the tipo belongs to. In the case of the tipo having a negative emotion such as jealousy, it threatens living people. Sometimes illness and tribulations are messages from the tipo which is hungry and wants the blood of a black goat. In order to respond to the messages promptly, it is desirable to bury the deceased in their homeland.In the Alur homeland, the tipo of ancestors are enshrined together with jok ( pl.: jogi) and abila. Tipo do not always bring harm to the living. For jok and abila, people build them a house to live in, serve food to eat, plant herbs to take care of them, arrange stones to guard them, and talk to them. Abila symbolizes paternal lineage and jogi represents mother and grandmother. Other ancestors communicate with the living through abila and jok. This interaction brings luck, prophecies, and occasionally misfortune.Tipo can live in peace in such a life-world where there are daily interactions between the living and the dead. Carrying the dead body or the belongings of the deceased is also a form of interaction with another world by the people who live away from their homeland.