著者
遠藤 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.183, pp.245-261, 2014-03-31

現代日本の音楽学は欧米の音楽学の輸入の系譜をひく研究が支配的であるため、今日注目する者は必ずしも多くはないが、西洋音楽が導入される以前の近世日本でも旺盛な楽律研究の営みがあった。儒学が官学化し浸透した近世には、儒学者を中心にして、儒教的な意味における「楽」の「律」を探求する学が盛んになり独自の展開を見せるようになっていたのである。それは今日一般に謂う音楽理論の研究と重なる部分もあるが、異なる問題意識の上に展開していたため大分色合いを異にしている。本稿は、近世日本で開花していた楽律研究の営みを掘り起こす手始めとして、京都の儒学者、中村惕斎(1629~1702)の楽律研究に注目し、惕斎が切り拓いた楽律学の要点と意義を試論として提示したものである。筆者の考える惕斎の楽律学の意義は次の六点に要約される。①『律呂新書』に基づき楽律の基準音、度量衡の本源としての「黄鐘」の概念を示した、②『律呂新書』を基本にすることで近世日本の楽律学を貫く、数理的な音律理解の基礎をつくった、③『律呂新書』の説く「候気」の説は受け入れず、楽律の基は人声とする考え方を提示した、④古の楽律を探求するにあたって、実証、実験を重んじた、⑤古の楽律の探求にあたって、日本の優位性を説いた、⑥古の楽の復興を希求した。
著者
根津 朝彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.121-152, 2019-03

本稿は,『毎日新聞』の社会部記者であった内藤国夫(1937~1999年)を中心に,東大闘争の専従記者が「1968年」報道にいかに携わったのかを明らかにする。第1節では,運動学生の行動動機を顧みずに,かれらを「暴徒」と見なす全般的な報道の特徴を検討した。それをよく示すものが『山陽新聞』の改ざん事件と,内藤国夫が取材した王子デモ報道であった。この背景には,学生運動の「暴徒」観を根強く抱く編集幹部の存在が挙げられる。第2節では,大学担当記者になった内藤国夫が東大専従記者となり,大河内一男総長の辞意報道に及ぼした影響や,各社が集った東大記者クラブと取材班の陣容を整理した。第3節では,内藤の日頃の取材先を押さえた上で,東大専従記者と運動学生の緊張関係が高まった読売新聞記者「暴行」事件に焦点をあてた。この事件を契機に学生の新聞不信が激化したことと,内藤の学生のために取材をしているという「君らのため」観との間に乖離があることを示した。第4節では,安田講堂の攻防で時計台放送が投げかけた,記者たちにとって東大闘争と報道とは一体何であったのかという,内藤を含めた記者たちの主体性を突きつける問題を考察した。それとともに警察側のデモ現場での巧妙な潜入や学生対策の実態について言及した。内藤は,東京大学法学部の卒業生という利点をいかし,取材源に食い込み,多くのスクープをものにした。しかし,その取材現場では学生の「暴徒」観に象徴されるように,事実に向き合おうとする記者と報道機関の姿勢も問われていた。そして多様な事実を報じる回路を制約したのが,現場記者と編集幹部の認識の差であった。記事決定の裁量権をもつデスクや編集幹部の力関係の構造の下,「1968年」報道も多面的な現実を読者に報じる役割が妨げられていたのである。最後に東大闘争と学生運動における暴力の問題についても見通しを提示した。
著者
木下 光生
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.271-290, 2011-11-30

本稿は、日本の賤民と百姓が一八世紀後半~一九世紀以降、自他の身分を強く意識し出す状況を素材として、共同研究の全体テーマ「身体と人格をめぐる言説と実践」を、日本近世史研究において問うことの意義を考えるものである。本テーマは、これまでの近世史研究ではほとんど意識されてこなかったが、その問いを、自己の「客観的な実態」(身体)と「自己認識」(人格)の間に生ずるズレやせめぎ合いをめぐる問題に置き換えてみれば、近世史研究で残されている課題、とりわけ賤民と百姓の自他認識論として議論することが可能となる。そしてそうした視点にたつと、一八世紀後半~一九世紀という時代のもつ重要性が鮮やかに映し出されることとなる。通常、右の時代は、民衆の力によって身分(制)社会が「動揺」「崩壊(解体)」する時代として描かれがちである。だが、当該期の賤民や百姓が邁進した地位向上運動をつぶさに見てみると、当時の民衆が「身分」を相対化しようとしていたどころか、むしろそれにこだわりまくり、身分を拠り所にした自己表明を、運動によって公言して憚らない人びとであった点に気づかされる。しかもそれらの運動は、いずれも、他身分・他賤民との「平等」ではなく、「差別化」を図ろうとするものばかりであり、それに邁進すればするほど、本来複雑な実態をもつ「客観的な自己」と「自分が自覚する自己」をひたすら乖離・分裂させるものであった。こうした動向を、単に「限界」視するのは無意味であり、人びとが「身分」に寄り添おうとした切実な思いに、もっと肉迫し得るような発想と時代認識をもたなければならない。加えて、他者との「差別化」を孕むような地位向上運動は、近現代日本社会でも確認できる。その意味で、「身体と人格をめぐる言説と実践」という問いかけは、「前近代/近代」という既存の時間認識を相対化する可能性も秘めている。
著者
榊 佳子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.41-60, 2008-03-31

日本古代の喪葬儀礼は七世紀から八世紀にかけて大きく変化した。そして喪葬儀礼に供奉する役割も、持統大葬以降は四等官制に基づく装束司・山作司などの葬司が臨時に任命されるようになった。葬司の任命に関しては、特定の氏族に任命が集中する傾向があり、諸王・藤原朝臣・石川朝臣・大伴宿祢・石上朝臣・紀朝臣・多治比真人・佐伯宿祢・阿倍朝臣が葬司に頻繁に任命されていた。これらの氏族が何故頻繁に葬司に任命されていたか、その理由を検討すると、諸王や真人姓などの皇親氏族の場合、天皇の親族であることが任命される理由であり、藤原氏も当初は葬司への任命はあまりなかったものの、天皇外戚になったことから重用されるようになったと考えられる。その他の氏族は、もともと食膳奉仕や宮城守衛などの職掌を担っていた氏族であり、さらに天皇の殯宮にても同様に食膳奉仕や殯宮守衛を行っていたことが、葬司任命につながったものと思われる。つまり葬司は喪葬儀礼の変化の中で新たに設けられたものであったものの、その任命に当たっては実際には以前からの喪葬儀礼の影響を強く受けたものであった。なお喪葬儀礼専掌氏族として有名な土師氏は、葬司にはほとんど任命されていなかったが、実際には六世紀後半以降、天皇の殯を管掌する役割を担っており、八世紀を通じて遺体に食膳を献上するなどの奉仕を行っていた。
著者
神戸 航介
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.212, pp.1-39, 2018-12-20

本稿は日本古代国家の租税免除制度について、法制・実例の両面から検討することにより、律令国家の民衆支配の特質とその展開過程を明らかにすることを目指した。律令制において租税制度を定めた篇目である賦役令の租税免除規定は、(1)身分的特権、(2)特定役務に任じられた一般人民、(3)儒教思想に基づく免除、(4)民衆の再生産維持のための免除、の四種類に分類することが可能である。こうした構造は唐賦役令のそれを継受したものであるが、(1)は律令制以前の畿内豪族層の系譜を引く五位以上集団の特権という性格を持っていたこと、(2)は主として中央政府の把握のもとに置かれた雑任を対象とし、在地首長層の力役編成に依拠した地方の末端職員は対象とならなかったことなど、唐の制度を日本固有の事情により改変している。一方(3)(4)の免除は中国古来の家父長制的支配理念や祥瑞災異思想を背景とするもので、日本の古代国家はこうした思想を民衆支配に利用するため、租税免除規定もほぼそのまま継受した。六国史等における実際の租税免除記事を見ると、八世紀には(3)(4)の免除は即位や改元など王権側の事情、災異など民衆側の事情を契機とし、現行支配の正当性を主張するために国家主導で実施された。しかし九世紀になると、王権側の事情による租税免除は次第に頻度を減少させていくように、儒教的支配理念が民衆支配の思想としては機能しなくなる。災異の場合も王権主導の免除は減少し国司の申請による一国ごとの免除が主流になっていき、未進調庸の免除も制度的に確立するが、これは国司の部内支配強化に対応し国司を通じた地方支配体制の進展に対応するものであり、十世紀には受領に対する免除として再解釈されていた。ただし天皇による恩典としての租税免除の思想は院政期まで存在しつづけたのであり、ここに古代国家の最終的帰結を見いだすことも可能であろう。
著者
遠藤 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.183, pp.245-261, 2014-03

現代日本の音楽学は欧米の音楽学の輸入の系譜をひく研究が支配的であるため、今日注目する者は必ずしも多くはないが、西洋音楽が導入される以前の近世日本でも旺盛な楽律研究の営みがあった。儒学が官学化し浸透した近世には、儒学者を中心にして、儒教的な意味における「楽」の「律」を探求する学が盛んになり独自の展開を見せるようになっていたのである。それは今日一般に謂う音楽理論の研究と重なる部分もあるが、異なる問題意識の上に展開していたため大分色合いを異にしている。本稿は、近世日本で開花していた楽律研究の営みを掘り起こす手始めとして、京都の儒学者、中村惕斎(1629~1702)の楽律研究に注目し、惕斎が切り拓いた楽律学の要点と意義を試論として提示したものである。筆者の考える惕斎の楽律学の意義は次の六点に要約される。①『律呂新書』に基づき楽律の基準音、度量衡の本源としての「黄鐘」の概念を示した、②『律呂新書』を基本にすることで近世日本の楽律学を貫く、数理的な音律理解の基礎をつくった、③『律呂新書』の説く「候気」の説は受け入れず、楽律の基は人声とする考え方を提示した、④古の楽律を探求するにあたって、実証、実験を重んじた、⑤古の楽律の探求にあたって、日本の優位性を説いた、⑥古の楽の復興を希求した。Study about the tune based on Confucianism was done actively in Japan before the modern era where Western Musicology was not yet introduced. This paper discusses the feature and meaning of the Study about the tune which was done in Edo period(1603-1867), focusing Nakamura Tekisai(1629-1702) , The Confucian scholar of Kyoto. In this paper, I show characteristic points of Nakamura Tekisai's study about the tune can count the following six .① Based on " Ritsu ryo Shin sho" written by Tsai Yuan-ting who was a scholar of the Sung dynasty in China, he showed that the pitch pipe of "Koh shoh" used as the standard of the tune could be also a standard of weights and measurements. ② Based on " Ritsu ryo Shin sho", he built the foundation of the mathematical temperment understanding that can be seen consistently to Study about the tune which was done at the Edo period. ③ He did not accept "kouki(a method of observe Ki)" that was explained in "Ritsu ryo Shin sho" as how to ask for ideal tune, but he presented his view point that basis of the ideal standard tune is a voice. ④When he searched for ideal tune of Chinese ancient times(that era was considered that the ideal tune had been realized), he respected the actual proof remaining in Japan and the experiment. ⑤ In the searching for ancient tuning, he claimed that Japan had predominance conditions. ⑥ He wanted ancient music to be revived someday and studied the ideal tuning as the foundation for it.
著者
千田 嘉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.13-32, 2003-03

城郭プランは権力構造とどのように連関してできあがったのか。この問題を解くために、きわめて特徴的な城郭プランをもった南九州に焦点をあてて検討を行った。まず鹿児島県知覧城を事例に南九州の戦国期城郭の分立構造を把握した。そして城内に多数の武家屋敷が凝集し、それが近世の麓集落の直接の母胎になったことを確認した。ついで熊本県人吉城を事例に知覧城で確認した城郭構造ができあがった要因を検討した。この議論を進める上で重要なのは人吉城の城郭遺跡が完全な形で残されており、踏査を行うことで把握可能であったことである。そして『相良氏文書』や『八代日記』などの良好な史料を基盤として勝俣鎮夫と服部英雄が深めた戦国期相良氏の権力構造の問題を踏査成果とあわせることで再検討できたことである。この結果、人吉城の分立的な城郭プランは地形要因だけではなく、築城主体の権力構造の特色を反映してできたと結論づけた。そしてこうした築城主体の権力構造と城郭プランとの相関関係は日本列島の城郭・城下を遺跡に即して分析する都市空間研究を進める上で、重要な視座となることを指摘した。
著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.169-183, 2003-03-31

飛騨の国人領主江馬氏は、庭園を伴う館で知られている。まず文献史料で考察すると、南北朝初期から将軍に近侍し、遵行指令を受け、中央と密接な関係を持っていたが、一五世紀後半には自立した地位を持つことが知られ、一六世紀には荘園関係の史料には見えなくなる。一方遺構は、一四世紀末~一五世紀前半に、「花の御所」を模倣した館が営まれるが、一五世紀後半には山城などに機能が分散し、一六世紀には館としての機能が廃絶する。こうした現象は他の国人領主の館にも見られることが知られてきており、国人領主が全国的な体系の中で存在していた一五世紀前半から、領域的な領主として自立する一五世紀後半以降への変化と言える。この変化の中で衰退した国人も多く、逆に一四世紀中葉~一五世紀前半には中央と地方の国人の間の安定した関係があったと言え、これを「室町期荘園制」の一面と見なすことができる。
著者
福島 金治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.203-221, 2018-03

経尊著『名語記』は鎌倉中期の辞書で、金沢文庫を設けた北条実時が所持していた。その立場は、京都伏見稲荷の社僧、万里小路資通の弟、花山院宣経の子とする説等がある。藤原定家流の人々との交流を通して在京する北条氏一族と昵懇な関係を築いていたとされる。本稿では、経尊本人の経験した内容を手がかりにその立場と活動の実態を検討した。経尊周辺には後鳥羽院と親近な関係者がいた。それは後鳥羽院の御所・水無瀬殿が広瀬殿に変えられたとある記載にうかがえ、広瀬殿のみえる慈光寺本『承久記』と基盤が共通する。また、備中国村社郷に下向し、郷の住人と目録の読み合わせを行っているが、村社郷の領主紀氏は将軍実朝から安堵され、媒介したのは源仲章であった。仲章は後鳥羽院の近習で、一族の慈光寺家には慈光寺本『承久記』が伝えられ、慈光寺家文書には村社郷の文書が伝来している。経尊は慈光寺家と近い関係にあったと推測される。『名語記』の特徴の一つは下級官人や職人のことやそれに関わる俗語が多くみえることで、経尊は職人支配と深く関わっていたと考えられてきた。そこで慈光寺家の関連内容をみると、仲章の一流は院や朝廷の物資の調達や職人の管理と関わっていた。こうした問題は経尊の地方との関係にもうかがえる。記述の多い西国との関係のなかで年貢や交通・流通に関わる記述をみると、美作では百姓に鍬を賦課して納入できない場合は鹿皮で代替するのが国例とある。また、伊予石は京都市中で竈の石材とされていることがみえる。伊予石の主産地は砥石山(愛媛県砥部町外山)とみられ、そこは伏見稲荷社領山崎荘に含まれる可能性が高い。このことは本人の京都伏見稲荷社に関わる記述と符合する。こうした点から、経尊は伏見稲荷の社僧を基本にしており、慈光寺家出身、または慈光寺家に仕える家に出自があり、荘園の経営実務にたけた人物であったと考えられる。Myōgoki is a dictionary compiled by Kyōson in the mid-Kamakura period and possessed by Hōjō Sanetoki, the founder of the Kanesawa Bunko (Kanesawa Library). As to the origin of the compiler, several theories have been proposed, such as a priest of Fushimi Inari Shrine in Kyoto, a younger brother of Madenokōji Sukemichi, and a son of Kazanin Nobutsune. Kyōson is also believed to have established close relationships with the Hōjō family in Kyoto through interaction with calligraphers of the Teika school. This article examines the experiences of Kyōson to elucidate his social status and activities.Kyōson is assumed to have been acquainted with those closely associated with ex-Emperor Gotoba. One of the reasons for this assumption is because Myōgoki states that the residence of the ex-emperor had been renamed from Minase-dono to Hirose-dono. This imperial villa is also called as Hirose-dono in the Jikōji version of Jōkyūki (Record of the Jōkyū Disturbance). This common description implies that the two documents had a common basis. Moreover, Kyōson visited Murakosogō in Bicchū in order to collate his inventory with that of local residents. He was introduced to the Ki family, who had been enfeoffed with the estate by Shōgun Sanetomo, by Minamoto no Nakaakira, who was a retainer of ex-Emperor Gotoba and whose family (Jikōji) kept the Jikōji version of Jōkyūki as well as the Jikōji documents including the records of Murakosogō. It is therefore presumed that Kyōson had close relationships with the Jikōji family.One of the characteristics of Myōgoki is that it is largely devoted to describing lower government clerks and artisans and their jargon. It has been believed that Kyōson was deeply involved in the control of artisans. Meanwhile, an analysis of description of the Jikōji family reveals that the Nakaakira branch was engaged in the control of artisans and the procurement of goods for the ex-emperor and the Imperial Court. The association of Kyōson with these kinds of people is also observed in his relationships with provincial authorities. His description as to land tax, transport, and logistics in western provinces, on which he spent considerable ink, includes the statement that typically, in Mimasaka, farmers were taxed on their hoes and paid the balance due with buckskin when they could not pay the tax in full. Myōgoki also states that in Kyoto, kilns were made of Iyo stone, which was mainly mined in Mount Toishi (in Toyama, Tobe Town, Ehime Prefecture), which is likely to be included in the Yamazaki estate of Fushimi Inari Shrine. This is consistent with his description about the shrine. Therefore, it is assumed that he was principally serving as a priest at Fushimi Inari Shrine, originally came from the Jikōji family or its subordinate family, and had expertise in the management of estates.
著者
山田 康弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.57-83, 2012-03-01

縄文時代の埋葬人骨出土例を精査してみると,一個体として取り上げられた事例の中に別個体の部分骨が入っていることがある。これらの中には,頭蓋や下顎,四肢骨といった大型の部位が入っていることがあり,偶発的な混入とは考えがたいものも存在する。このような事例の多くは,これまで単独・単葬例として取り扱われてきたが,当時の人々が意図的に別個体の部分骨を合葬しているのだとすれば,それは単独・単葬例とはまた異なった,別の一葬法として認知されるべきであろう。本稿において,筆者はこのような事例を部分骨合葬例と呼び,葬法の一類型として認定するとともに,そのあり方と意義について検討を行った。その結果,このような事例は関東地方南部を中心として8 遺跡・21 例存在し,単葬の男性に女性の部分骨が入れられている事例が目立つことや,大人と子供の組み合わせの事例も存在すること,埋葬小群内にあってその構成要素となっていることなどが判明した。また,その意義を考察するために従来の合葬例の研究および死生観の研究,すなわち合葬例の被葬者は,基本的には血縁関係者同士であると考えられること,縄文時代の死生観として系譜的な死生観があり,当時の社会構造においてその基礎をなす系譜的関係は,この死生観に沿った形で存在したことなどを踏まえて,本稿では部分骨合葬例の意義を,血縁関係を含めた何らかの社会的関係性を持つ者同士で行われたものであり,その意義を系譜的な関係性を確認・存続するためのものであったと推察した。
著者
上野 和男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.161, pp.39-60, 2011-03

本稿は、主として西日本地域に神社祭祀組織として広く分布する宮座について、とくに中国地方と北部九州の宮座を取り上げ、これを近畿地方の宮座と比較分析して、宮座の構造とその地域的変差を明らかにするとともに、宮座の現代的変化についても考察しようとするのが目的である。本稿で第一に論じたのは、宮座の概念についてである。本稿では、内面から、すなわち宮座の内部的な構造に立ち入って宮座を概念規定した。宮座は「一定の地域社会において当屋制を原理とする神社祭祀組織」である。宮座の内部構造に注目すれば、宮座は株座の形態をとるにせよ、また村座の形態をとるにせよ、対内的な家相互の平等性・対等性と、対外的な封鎖性排他性(ときには秘儀性)を特徴とする祭祀組織であると規定できよう。第二は、宮座の地域的多様性の問題である。宮座の地域的類型として、本稿では「家当屋制」と「組当屋制」を提示した。家当屋制とは、宮座のメンバーである家々の当屋順序を直接指定するような原理にもとづく当屋制であり、近畿地方の当屋制はこれにあたる。これに対して、組当屋制とは当屋順序がそれぞれの宮座メンバーの順序として直接指定しないで、地域、組などの順序に従って当屋の順序が間接的に規定している当屋制であり、兵庫県播磨地方以西の中国地方の宮座、北部九州国東半島の宮座がこれにあたる。第三に、宮座の現代的変化の問題についても論じた。中国地方や国東半島の宮座を通して明らかなことは次の諸点である。ひとつは、とくに人権思想平等思想の普及による株座から村座への変化である。ひとつは祭礼費用負担方法の変化である。特定の当屋が負担する「当屋負担型」から、全戸で平等に負担する「宮座負担型」への変化である。現代の宮座研究は今後とも宮座のこうした現実を直視しなければならない。
著者
春成 秀爾 小林 謙一 坂本 稔 今村 峯雄 尾嵜 大真 藤尾 慎一郎 西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.163, pp.133-176, 2011-03-31

奈良県桜井市箸墓古墳・東田大塚・矢塚・纏向石塚および纏向遺跡群・大福遺跡・上ノ庄遺跡で出土した木材・種実・土器付着物を対象に,加速器質量分析法による炭素14年代測定を行い,それらを年輪年代が判明している日本産樹木の炭素14年代にもとづいて較正して得た古墳出現期の年代について考察した結果について報告する。その目的は,最古古墳,弥生墳丘墓および集落跡ならびに併行する時期の出土試料の炭素14年代に基づいて,これらの遺跡の年代を調べ,統合することで弥生後期から古墳時代にかけての年代を推定することである。基本的には桜井市纏向遺跡群などの測定結果を,日本産樹木年輪の炭素14年代に基づいた較正曲線と照合することによって個々の試料の年代を推定したが,その際に出土状況からみた遺構との関係(纏向石塚・東田大塚・箸墓古墳の築造中,直後,後)による先後関係によって検討を行った。そして土器型式および古墳の築造過程の年代を推定した。その結果,古墳出現期の箸墓古墳が築造された直後の年代を西暦240~260年と判断した。
著者
小椋 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.43-77, 2018-02-28

森林や草原の景観はふつう1~2年で大きく変わることはないが,数十年の単位で見ると,樹木の成長や枯死,あるいは草原の放置による森林化などにより,しばしば大きく変化する。本稿では,高度経済成長期を画期とする植生景観変化とその背景について,中国山地西部の2つの地域の例について考えてみた。その具体的な地域として取り上げたのは,広島県北西部の北広島町の八幡高原と山口県のやや西部に位置する秋吉台である。その2つの地域について,文献類や写真,また古老への聞き取りなどをもとに考察した。その結果,八幡高原では,たとえば,今はスキー場などの一部を除き,草原はわずかしか見られないが,高度経済成長期の前までは,牛馬の放牧などのためなどに存在した草原が少なからず見られた。その草原の大部分は森林に変わり,また,高度経済成長期の前の森林には大きな木が少なかったが,燃料の変化などにより,森林の樹木は高木化した。なお,その地の草原は,高度経済成長期の直前の頃よりも少し遡る昭和初頭の頃,あるいは大正期頃まではさらに広く,その面積は森林を上回るほどであった。その変化の背景には,そこで飼育されていた馬の減少もあったが,別の背景として,大正の終り頃から製炭が盛んになり,山林の主な運用方法が旧来の牛馬の飼育や肥料用などのための柴草採取から,炭の原木確保のための立木育成へと変わったことがあった。一方,秋吉台には,今も草原が広く見られるが,それはそこが国定公園などに指定されている所で,草原の景観を守ることが観光地としての価値を維持するためにも重要であるためである。しかし,その秋吉台の草原も,高度経済成長期の前と比べると,草原面積は少し減少している。また,草原やその周辺の山林への人の関わり方の大きな変化により,植物種の変化など,その草原には大きな質的変化が見られ,また草原を取り巻く森林も高木化が進むなど大きく変化してきている。
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.355-390, 2008-03-31

本稿は、明治末から大正初期にかけての地方改良運動の時期に行なわれた風俗調査『飾磨郡風俗調査』(兵庫県飾磨郡教育会)と『奈良県風俗志』資料(奈良県教育会)の両者における婚姻、妊婦・出産、葬儀の習俗について分析を試みたものであり、論点は以下のとおりである。第一に、両者の風俗調査の間には、旧来の慣行を一方的に「刷新改良」しようという飾磨郡教育会と、「我ガ風俗ノ何種ハ本ノマヽニシテ、何種ハ如何ニ変化シ将タ西洋ヨリ入来レルカヲ調ベ置カン」とする奈良県教育会とのその動機づけと姿勢の上で大きな差異があったことが判明した。そこで、第二に、『奈良県風俗志』に報告された奈良県下の各村落における大正四年(一九一五)当時の婚姻、妊婦・出産、葬儀の習俗について、その当時すでに変化が起こっていた習俗と、いまだに変化が起こっていない習俗との両者の実情を明らかにすることができた。(1)婚姻の儀式で注目されるのは、上流、中流、下流の階層差である(結納や嫁入り、自由結婚に対する意識など)。(2)妊婦と出産に関して変化のみられた習俗と変化のみられない習俗については、民俗慣行としての妊産婦をめぐる伝統的な営為が、近代化によって医療と衛生の領域へと移行していく当時の状況にあっても、産穢をめぐる部分はなかなかそのような変化が見られなかった。(3)婚姻の習俗や出産の習俗と比較して、葬送の習俗の場合にはあまり大きな変化が見られなかったが、その中にあっても葬式の参加者たちによる盛んな飲酒や飲食の風習が廃れてきていた。当時の刷新改良の眼目が、①無礼講から礼節へ、②虚栄奢侈から堅実倹約へ、③迷信から衛生へ、④祝祭から哀悼へ、という点にあったために、葬儀での盛大な飲食は、この①と②と④に抵触するものとみなされたからと考えられる。そして、一方では、先の出産習俗の中の産穢にかかわる部分と同様に葬送習俗の死穢にかかわる部分にはまだ強い介入がみられなかった。第三は、民俗の変化という問題についてである。民俗の伝承の過程における変遷については、基本的に集団的で集合的なものであるから相対的な変遷史であり絶対的な年代で単純化して表すことができない傾向がある。しかし、本稿では風俗志の資料分析によって、その民俗の変遷が具体的な地域における変化として具体的な年代を当ててリアルタイムで確認することができた。
著者
宮内 貴久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.347-389, 2018-02-28

本論は『朝日新聞』,『読売新聞』の記事から,添い寝中に子どもが死亡する事故について,なぜ発生するのか,死因,住環境,授乳姿勢,死亡年齢を検証することにより,添い寝と授乳の実態と変化を明らかにした。さらに育児書の検討から添い寝がどう捉えられていたのか,適当とされる授乳期間はどの程度だったのか明らかにした。添い寝で死亡する事故は明治期から発生しており,時代によって死因は異なった。1870~1910年代は80%以上が乳房で圧死していた。1920年代になると乳房で圧死は67%,布団と夜具での死亡事故が20%となる。1930年代には乳房での圧死が50%まで減少し,布団と夜具での死亡事故が26%となる。こうした事故は職業には関係なくあるゆる住宅地で発生していた。1940~1960年代前半には深刻な住宅不足問題を背景に,スラムなど極めて劣悪な住環境に居住するブルーカラーの家で事故が発生した。1960年代後半にも住宅の狭小が原因による圧死事故が発生するが,高度経済成長による所得の増加による家電製品の普及とともに,タンス,学習机などの物があふれて部屋が狭小化し,そのため圧死するという事故が発生した。1970年代にはアメリカの育児法が紹介され,うつぶせによる乳児の死が問題視され,さらに死の多様化が進んだ。18冊の育児書の検討から11冊の育児書が添い寝を否定,5冊が注意すべきこととされたこと,また添い寝中の授乳により乳房で窒息死する危険性を指摘する育児書が12冊あったことからも,添い寝の危険性を喚起する新聞記事と一致し,社会問題となっていた。20冊の育児書の検討から,適当とされた離乳開始時期は5ヶ月頃からが3冊,10~12ヶ月が4冊,もっとも遅いのは2~3年だった。時代による離乳期の特徴は特にみられなかった。離乳時期は遅く4~5歳児への授乳,特に末子は5~6歳まで授乳するケースもあった。授乳は母親にとって休息がとれる貴重な時間であり,それが遅い離乳の要因の一つだった。母子健康手帳では添い寝が否定されたが,現実には多くの母親は添い寝をしていた。育児における民俗知と文字知にはズレがみられる。1985年に『育児読本』が大幅改訂され,これまで否定されていた添い寝が,親子のスキンシップとして奨励されるように変化した。
著者
澤田 和人
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.125, pp.69-99, 2006-03-25

帷子は今日よく知られた服飾のひとつであろう。しかしながら、その基礎的な研究は充分にはなされていない。本稿では、そうした状況を打開すべく、基礎的研究の一環として、室町時代から江戸時代初期にかけての材質の変遷を解明する。可能な限り文献を渉猟した結果、以下のような動向が辿られた。一五世紀に於ける帷子の材質は、布類、なかでも麻布がごく普通であった。絹物の例も散見されるが、それはあくまで特殊な用例であり、普遍化したものではない。一六世紀に入ると、麻布の種類も他の植物繊維の例も増え、布類の種類が豊富になっている。それと同時に、生絹という絹物も見られるようになった。一六世紀の末期ともなると、生絹は広範に普及を見せ、布類と等しいまでの重要な位置を占めている。一七世紀初期に於いては、布類については一六世紀末期の状況と大差は認められない。注目されるのは、綾などの絹物や、材質は不明であるが、唐嶋といった生地である。これらは慶長期の半ば頃から登場し始め、帷子の内でも単物として細分されて記録に出てくる。単物は裏を付けずにひとえで仕立てたものである。その材質には、絹物や木綿が見られる。単物は一六世紀後期に明瞭に確立をみせているが、当初は帷子とは分けて記載されており、慶長期中頃に至って帷子の内に組み入れて記載され始める。すなわち、単物というジャンルが、帷子というジャンルに融合をみせていく経過を示すのである。この動向は、絹物である生絹が単物と帷子との間を取り持つ契機として大きな役割を果たし、実現したと推察できる。このように、はじめ布製であった帷子は、やがて絹物でも仕立てられるようになっていった。それは、帷子の独自性を揺り動かす出来事であった。小袖と材質の上でさしたる相違がなくなり、引いては、独立した存在であった帷子が小袖と一元化されるようになるためである。
著者
吉田 広
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.239-281, 2014-02-28

水稲農耕開始後,長時間に及んだ金属器不在の間にも,武器形石器と転用小型青銅利器という前段を経て,中期初頭に武器形青銅器が登場する。一方,前段のないまま,中期前葉に北部九州で小銅鐸が,近畿で銅鐸が登場する。近畿を中心とした地域は自らの意図で,武器形青銅器とは異なる銅鐸を選択したのである。銅鐸が音響器故に儀礼的性格を具備し祭器として一貫していくのに対し,武器形青銅器は武器の実用性と武威の威儀性の二相が混交する。しかし,北部九州周縁から外部で各種の模倣品が展開し,青銅器自体も銅剣に関部双孔が付加されるなど祭器化が進行し,北部九州でも実用性に基づく佩用が個人の威儀発揚に機能し,祭器化が受容される前提となる。各地域社会が入手した青銅器の種類と数量に基づく選択により,模倣品が多様に展開するなど,祭器化が地域毎に進行した。その到達点として中期末葉には,多様な青銅器を保有する北部九州では役割分担とも言える青銅器の分節化を図り,中広形銅矛を中心とした青銅器体系を作り上げる。対して中四国地方以東の各地は,特定の器種に特化を図り,まさに地域型と言える青銅器を成立させた。ただし,本来の機能喪失,見た目の大型化という点で武器形青銅器と銅鐸が同じ変化を辿りながら,武器形青銅器は金属光沢を放つ武威の強調,銅鐸は音響効果や金属光沢よりも文様造形性の重視と,青銅という素材に求めた祭器の性格は異なっていた。その相違を後期に継承しつつ,一方で青銅器祭祀を停止する地域が広がり,祭器素材に特化していた青銅が小型青銅器へと解放されていく。そして,新たな古墳祭祀に交替していく中で弥生青銅祭器の終焉を迎えるが,金属光沢と文様造形性が統合され,かつ中国王朝の威信をも帯びた銅鏡が,古墳祭祀に新たな「祭器」として継承されていくのである。
著者
俵木 悟
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.435-458, 2017-03-31

柳田國男は一九三〇年代から、特定の時代・地域の人びとにおける「良い/悪い」や「好き/嫌い」といった感性的な価値判断を「趣味」という言葉でとらえ、心意現象の一部として民俗資料に含めることを提唱していた。これを展開した千葉徳爾は、芸術・娯楽に関わる民俗資料に「審美の基準」を位置づけた。本稿は、従来の民俗学が十分に論じてこなかったこの「趣味」や「審美の基準」を、民俗芸能の具体的事例にもとづいて論じる試みである。鹿児島県いちき串木野市大里の七夕踊りは、ナラシと呼ばれる一週間の稽古の過程において、各集落から選ばれた青年による太鼓踊りの評価が行われる。その評価が地域の人びとの関心を集め、多様な「良い踊り」に関する多様な言語表現や、流派に関する知識、技法の細部へのこだわり、踊りの特徴を継承する筋の意識などを生み出し伝えている。それらを手がかりとして、この踊りに関わる人びとにとって「良い踊り」という評価がどのように構成されているのかについて考察した。大里七夕踊りの場合、その評価の際だった特徴は、「成長を評価する」ということである。単に知覚的(視覚的・聴覚的)に受けとられる特徴だけでなく、踊り手がどれだけ十分に各人の個性を踊りで表現し得たかが評価の観点として重視されていた。これは近代美学における審美性の理解からは外れるかもしれないが、民俗芸能として生活に即した環境で演じられる踊りの評価に、文化に内在する様々な価値が混然として含まれるのは自然なことであろう。大里七夕踊りの場合、そのような価値を形成してきた背景には、近代以降に人格の陶冶の機関として地域の生活に根付いてきた青年団(二才)によって踊りが担われてきたという歴史が強く作用していると考えられる。