1 0 0 0 OA 『名人伝』論

著者
山下 真史
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.43, no.12, pp.11-19, 1994-12-10

中島敦の『名人伝』は、名人を純粋さの体現者とする通念に対して、名人を突き詰めれば木偶に至るということ、そしてその名人を偶像化することの滑稽さを描いた作品である。川端康成の『名人』などと比較しながら、同時代の文学状況にこの作品を置いてみると、中島が太平洋戦争下の日本の<純粋さ>を徒に崇める風潮への批判、陶酔を拒否して醒めた認識を持ち続けることをモチーフとしてこの作品を書いたことが分かる。
著者
茂木 健一郎
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.56-62, 2006-03-10

文学は、言葉によって組み立てられている。それは意味の塊であるようにも思われる。しかし、すぐれた文学作品は、決してどのような意味づけにも回収されない、その作品に接した時のクオリア(感覚質)によって特徴付けられる。ある作品を、精神分析にせよ、構造主義にせよ、記号論にせよ、テクスト論にせよ、ある立場で分析し、文脈付ける試みは、クオリアのピュアさにおいて、作品自体には絶対に負ける。極端なことを言えば、文学とは、最初から最後までの文字列が与える印象のことである。むろん、言葉である以上、いわゆる「意味」がその印象形成に介在することは当然である。しかし、そのような言葉の意味を通じて形成される文学作品の印象の中には、それが良質なものであるほど、決して特定の意味には回収され得ないものがある。傑作とは、すなわち、その作品を何度読んでも、十年二十年と向き合っても、汲み尽くせぬクオリアの源泉となるものを言う。特定の意味の体系に置き換えられてしまうものは名作たり得ない。ならば、そのような文学作品を分析し、解析しようとする批評が、自らも対抗し得る印象の表出に成功しない限り、常に破れ続ける運命にあるのは当然のことではないか。(以上、茂木健一郎『クオリア降臨』(文藝春秋)から一部改変して抜粋) 文学が人に与える感動の本質について考察し、脳の中の文学という体験について考えてみたい。
著者
志立 正知
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.59, no.7, pp.46-55, 2010-07-10

中世後期における地方武家の家伝・系譜伝承の形成過程について、安藤氏による「下国家譜」を例として検討を加えてみた。従来は、その成立時期が不明確であったために、かなり幅広く形成期を想定して、在地伝承などの形成と重なるものとして理解する意見が多かった。しかし、平川氏の問題提起を受けて、拙稿ではそれを検証しながら、成立時期が平川氏の想定よりも若干下る十五世紀中頃以降である可能性を指摘、その時代に安藤氏が置かれていた情勢の分析から、「下国家譜」に、長年にわたって抗争を続けていた南部氏を意識した津軽・秋田における先住権・支配権の主張という一面が認められること、さらには家譜編纂作業が、京都・羽賀寺と本拠を結ぶネットワーク上に想定する方が自然であることを指摘した。
著者
志立 正知
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.2, pp.11-22, 2000-02-10

『平家物語』語り本のテクスト形成を、琵琶語りによる成果とする通説が、諸本論の進展によって崩壊した現在、あらためて「語り本とは何か」が問い直されている。本稿では、平家都落記事を対象に、屋代本の再編が空間性を軸になされていることを検証。それが、屋代本自体の叙述には含まれない、延慶本などの情報を前提として、はじめて浮かび上がるところから、自テクストには書かれざる外的情報によって補完された享受・解釈・再編という、非自己完結的なテクストのあり方の可能性を指摘した。
著者
関谷 由美子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.6, pp.42-53, 2004-06-10

『門』は、<テクストの閉域>を遍在させている小説である。例えば(1)何故安井は御米を妹と偽って宗助に紹介したのか、(2)キイ・パーソン佐伯安之助は何故隠蔽されているかの如く姿を見せないのかなど。これら不在のテクストがもつ意味生産性に照準し、安井から宗助へと交替してゆく一つの欲望の形式を浮上させるとともに、この小説が従来考えられてきた、社会からの追放ではなく、社会への追放の物語という構造をもつことを論証する。
著者
佐藤 深雪
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.46, no.10, pp.34-41, 1997-10-10

寛政改革を主導した松平定信の一風変わった堕胎・間引き対策は、幕府と藩による巧妙な出産管理であり、人口資源としての子どもの所有である。一方、改革によって弾圧される側の代表であった山東京伝も多くの堕胎・間引きを描き、母による子どもの所有という方向を指し示した。しかし、堕胎・間引きを避けえない母の無力さをも京伝は露にした。京伝の読本を素材にして、一八世紀の子どもの受難を論じた。
著者
田中 励儀
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.11, pp.26-37, 2011

<p>昭和十四年、陸軍の要請を受けて著された、菊池寛『昭和の軍神 西住戦車長伝』は、通俗小説に堕すことを避けて、〈事実〉を資料に語らせる〈伝記小説〉の形を採った。それが歌舞伎や映画といった〈演劇〉的空間に移された時、それぞれのジャンルの特質から変貌を遂げる。〈小説〉的空間に属する原作と、菊池寛自身が書いた舞台脚本、他のライターが執筆したシナリオとを比較し、作家と戦争との関わりや、作品受容の実態を明らかにする。</p>
著者
野村 喬
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.10, no.8, pp.618-623, 1961-09-15
著者
近本 謙介
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.7, pp.29-38, 2000-07-10

南都における中世という新たな時代への移行は、皮肉にも焼亡という体裁を採ってもたらされた。全編がいわば終末イメージによって綴られる『平家物語』においても、南都焼亡はその論理構造の中に取り込まれている。しかし、焼亡の憂き目を現前の事実として受け止めなければならなかった南都においては、中世への再建が、堂塔の整備とともに、文字によって為されていたように思われる。その様相を、春日信仰を中心とした霊験や教学に関する書の生成を例に取りながら論述する。
著者
原田 行造
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.29, no.12, pp.20-30, 1980

Kaneyoshi tended to be fond of "Yoyo-no-furugoto", to think much of Manyoshu and to respect The Tale of Genji, and tried to get Chinese culture. Having lost a lot of volumes of Tohkado Bunko during the war of Ohnin, he preserved books of history, ceremony and etc., and completed Kacho-yojo and Nihonshoki-sanso in Nara. He attempted to restore the ancient ceremonies through his knowledge that he had got by his reading, and encouraged to learn classics. He not only variegated judgment of waka meeting, but also gave a lesson how to live during war time. The essence of his thoughts could be found in Sayo-no-Nezame, Bunmei-ittoki and Shoudanchiyo which were dedicated to Tomiko Hino and Shogun Yoshihisa.