7 0 0 0 OA 悪魔の系譜

著者
野上 素一
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.4, pp.1-15, 1955-12-30

L'autore traccia i caratteri e fisionomie dei diavoli nella letteratura medioevale e del Rinascimento basandosi sulla scienza del diavolo di vari autori come S.Gregorio e Caesarius di Heisterbach. L'autore riprende in esame la questione dell'origine ebraicobiblica e classica dei diavoli, da quella di carattere feroce e bestiale di tempo antico fino a quella addolcito come Oliver(Caes. di Heist. V.37)e quella melanconica, come il diavolo della "Strage degli Innocenti" del Marino. In fine si preoccupa di spiegare il silenzio di Lucifero nell'Inferno della Divina Commedia.
著者
ナンニーニ アルダ ビオンディ マルコ
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.61, pp.237-270, 2011-10-15

本稿で紹介するのはGiscel(Gruppo di intervento e studio nel campo dell'educazione linguistica、www.giscel.org) Giapponeのメンバーによって作成された日本人学習者を対象とした「初心者のためのシラバス」である。Giscelはイタリア言語学学会(Societa di Linguistica Italiana:SLI)の一部として、イタリア語教育研究を進めるグループである。日本のグループは2005年より存在している。当然のことながら、イタリア語は日本のコミュニティの言語ではない、「外国語(伊:lingua straniera,LS)と呼ばれるものである。ある言語を使うコミュニティ内で学ぶ言語は「第2外国語」(伊:lingua seconda,L2)と呼ばれる。学ぶ環境が異なると、ある程度異なったシラバスが必要となる。そこで、Giscel Giapponeのメンバーは日本の環境に合ったシラバスの研究を行なっている。まだ初期段階に過ぎないが、日本でのこのようなアプローチは初めてのため、イタリア語教育の関係者に紹介することを目的として執筆した。様々な意味を持つ「シラバス」(sillabo)は、イタリア語教育の文献では専門用語としてカリキュラム(curriculum)の一部をなし、「知識や能力の観点から(必要とされ、)教える内容の選択とその順序を整えたものを表す(Ciliberti 1994:100,il sillabo e"quella parte dell'attivita curricolare che si riferisce alla specificazione e alla sequenziazione dei contenuti di insegnamento fatta in termini di conoscenze e/o capacita")。つまり、「講義要綱」でも、「教科書」でもない。それらはシラバスの次の段階のものであり、curriculumの発展段階に位置する。Giscel Giapponeのsillabは2つの基本的な文献を出発点にしている。まずは、L2/LSに必要な知識や能力を特定するためにQuadro comune europeo di riferimento(QCER,ingl.CEFR)を基にしている。特にこのsillaboが目的としているのはQCERのレベルA1とレベルA2の一部である(cf.http://www.lanuovaitalia.it/profilo_lingua_italiana/sei-livelli.html, 2011年1月)。次にLo Duca,Sillabo di italiano L2,Roma 2006を参考にしているが、次の2つの点でLo Ducaから離れている。その違いこそがGiscel Giapponeのシラバス研究のオリジナリティをなしている。一つは文化的な内容と能力を明確にする点である。Lo Ducaは、ヨーロッパのErasmusプログラムで留学する大学生を対象としているため、文化的な内容は、イタリアで滞在することによって学ぶことができるものとし、シラバスでは扱わないことにしている。それに対し、Giscel Giapponeのsillaboでは、日本で学ぶ学習者を対象にしているため、いかなる文化的な内容でも教えるべきものとして考慮しており、日本文化とイタリア文化の似た部分と似てない部分を明確化し、誤解を招かない正しい知識を与えるにふさわしいものとなっている。もう一つは学習者が既に持っている言語的・社会文化的知識(conoscenze pregresse linguistiche e socioculturali)を系統的に考慮する点である。最近の言語習得研究においても、母国語が学習者の使う一つのストラテジーとして重要視され始めている(cf.Chini 2005)。筆者の考えでは、言語だけでなく、その文化にもアプローチするならば、学習者は母国語と文化(lingua e cultura materna:略:L1/C1)に対する「既存の知識と経験」を懸け橋として、「新しい言語と文化(lingua e cultura seconda:L2/C2 o straniera:LS/CS)との間に様々な形の関係を作ることで、新しい知識を得ることができる(cf.Nannini 2002,2005,2009a)。実際、De Mauro-Ferreri(2005)が、こうした既知の知識や経験をlinguistica educativa(教育的言語学)研究の一部として認めているのも偶然ではない。というのも、De Mauro-Ferreriは"l'incremento del patrimonio linguistico gia in possesso di chi apprende"(学習者が既に持っている言語財産の増進化)を出発点としているからである。このsillaboは言語の全てのレベルを考慮することで、《宣言的知識conoscenze dichiarative「〜を知る」》と《手続き的知識conoscenze procedurali「〜を使うことができる、ノウ・ハウがある》の齟齬を乗り越えることを試みている。学習者が練習問題を解く段階では、「できる」ように見られてしまうことがよくあるが、現実には、「習った」とされる同じ要素を自律的に使うことができない(一例を挙げれば、冠詞の意味、使い分けなど、cf.Nannini 2007b)。どのコミュニケーション・タスクにも言語的な形が必要とされ、その中には社会的・文化的・語用論的な要素だけでなく、語形論的・統語論的な要素も含まれる。こうした要素は相互に補い合って、言語能力の発展に寄与するものである。その結果、このアプローチの中心になるのは語彙となる(cf.Ferreri 2005)。Bettoni(2001:77)が断言するように、「ある単語を学ぶということはその単語の文法を学ぶということだ("imparare la parola significa impararne la grammatica")からである。換言すれば、単語の中に表れる「文法」に注意を向け、それをコミュニケーションの一部として考えない限り、「文法」を正しく理解して学ぶことはできないということである。このように、sillaboでは、そこで扱われるコミュニケーション・タスクをそれぞれ以下の観点から順番に分析を加えている。1)基本的な言語表現2)語彙3)社会・語用論4)音声・音素学;プロゾディ(イントネーションなど)5)意味・統語論的なカテゴリー(例:冠詞の意味的な範囲と使い分け)6)文化的諸要素7)形態・統語論とメタ言語の自覚 また、初心者に必要とされたコミュニケーション・タスクは下記の通りである。挨拶。自己紹介と他人の紹介。自分と相手の家族について話す。情報の尋ね方と与え方。バールやレストラン、ホテル、店でのやりとり。体調や気分・感情の基本的な表現。自己や他者に関する身体や性格の簡単な描写。銀行員との簡単なやりとり。
著者
高田 和文
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.30, pp.167-185, 1981-03-31

L'originalita artistica e la forza espressiva dei Sei personaggi in cerca d'autore si devono unicamente al fatto che Pirandello ha intuito l'analogia fra la sua problematica esistenziale e il meccanismo del teatro, che si imperniano entrambi sulla dialettica realta-finzione, e l'ha concretizzata in una metafora eccezionalmente significativa : 'personaggio in cerca d'autore'. In questo 'teatro nel teatro', ossia 'metateatro', Pirandello fa un doppio uso linguistico della tensione dialettica teatrale, la cui essenza risiede, come e stato ben detto, 'in una pellicola sottile fra il reale e il falso'. Egli, cioe, con tale dialettica esprime la sua visione del mondo, e nello stesso tempo mette in discussione le convenzioni del teatro tradizionale. In altre parole : l'autore qui si occupa tanto del signifiant quanto del signifie del linguaggio teatrale. Cio premesso, il presente saggio si propone di evidenziare il doppio valore dei personaggi pirandelliani, enucleando un aspetto peculiare della loro azione teatrale. Data la doppia struttura della commedia stessa, potremmo ipotizzare due livelli ben distinti dell'azione dei personaggi. Essi, da una parte vivono di prima persona la loro tragedia, scatenando i loro sentimenti in termini prevalentemente emotivi, dall'altra, sono costretti, di fronte al Capocomico ed agli Attori, a 'narrare' gli avvenimenti del loro passato ed a 'spiegare' la loro ragion d'essere, sicche tendono ad analizzare i loro sentimenti e argomentare sul perche della loro sofferenza. E ovvio che si tratta di un procedimento analogo a quello dello sdoppiamento della coscienza esposto nel saggio 'L'umorismo' ; una funzione particolare della riflessione, per cui essa 'analizza il sentimento, spassionandosene' ; l'atteggiamento di vivere e 'sentirsi vivere', che e 'il tristo privilegio' dell'essere umano. E, addirittura, la disgregazione della coscienza razionalistica, che costituisce il motivo ideologico-esistenziale della produzione letteraria di Pirandello, e che permea tutti i personaggi pirandelliani precedenti : da Mattia Pascal a Leone Gala de Il giuoco delle parti. Il fenomeno che caratterizza l'azione teatrale dei personaggi, tuttavia, puo essere interpretato anche in chiave tecnico-formale ; piu precisamente dal punto di vista della teoria dell'attore. Siamo, infatti, di fronte a un modo di recitare molto simile a quello teorizzato da Brecht, che si contrappone al sistema di rappresentazione naturalistico basato sull'immedesimazione illusionistica, e che afferma : l'attore deve mantenere la 'distanza fra se e il personaggio', assumendo 'un atteggiamento critico', e quindi 'guarda se stesso' nell'atto della recitazione. Potremmo concludere che la formula del 'teatro epico', che diede una svolta decisiva al teatro contemporaneo, era gia presente, anche se in una maniera implicita, nel capolavoro pirandelliano.
著者
増田 重光
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.4, pp.16-28, 1955-12-30

Secondo il Sig. Jacob Burckhardt, il personalita del M.Savonarola sarebbe un "moderno", ma l'autore non e dello stesso avviso e non capisce questa decisione. L'autore prende in considerazione diverse opere del M.Savonarola, Practica maior, De laudibus Johannis Baptistae, De felci progressi illustrissimi Borsii Estensis, De vera republica et digna saeculari militia, De nuptiis Battifecho et Serrabocca, Della penitenza, Confessionale, Ad mulieres Ferrarienses de regimine praegnantium et noviter natorum usque ad septennium Michaelis Savonarollae Patavfii liber, e'Libellus de magnificis ornamentis regiae civitatis Paduae. Ed alla fine conclude che la personalita di M.Savonarola non puo esser detta "moderna".
著者
サバットリィ ラウラ
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.57, pp.96-123, 2007-10-20

イタリア、1930年4月から5月にかけてローマのパラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニ・ディ・ベッレ・アルティの展示場にて大規模な日本美術展覧会が開催された。企画は大倉喜七郎男爵(1882-1963)によるもので、融資的な後援は男爵自身が全面負担した。ムッソリーニ政権の組織的な支援によって実現されたこの展覧会は、西洋において初の大規模な日本美術展であり、日本では後に「ローマ展」という名で知られるようになった。展示作品は日本美術院及び帝国芸術院所属の画家たちによる絵画で、その多くは近代日本画の傑作として知られるようになった。展覧会の具体的な準備は、日本画壇の代表者として日本芸術使節の役を担った横山大観(1868-1958)が担当した。大倉男爵・大観両方の希望でパラッツォ・デッレ・エスポジツィオーニの展示場は日本人の職人達の手によって改装され、展示空間は本格的な日本様式へと変更された。このローマ展は当時の日本・イタリア両側のマスコミに大きく取り上げられ、評論界においても来客数においても大成功を収めた。イタリアのインテリ界に日本美学の解釈法及び日本画の本質を理解してもらうために、当時の在日イタリア大使、ポンペーオ・アロイージ男爵(1875-1949)は1929年にArs Nipponica(『アルス・ニッポニカ』、日本の美術)という本を500冊限定部数で発表した。この本は、日本美術の様々な表現を紹介したもので、当時の日本美術界の主な研究者及び芸術家による日本美術の特徴を解説したエッセイがイタリア語で掲載されていた。日本の代表的な建築物と芸術作品のきれいな写真及び日本人専門家のエッセイを集めたこの本こそは、イタリア側の評論家に不可欠な参考書になった。エッセイの中でも「日本絵画の本質に関する考察」と題する、画家・川合玉堂(1873-1957)によって執筆されたものは特に参考になったように思われる。そこには、日本美学の基本的な要素として《余韻》、《余白》などのような概念が述べられており、イタリア人記者・批評家の批評はそのコンセプトをしばしば借用した。本論文はその批評の中でより興味深いものを中心に議論することとした。イタリア側の多くの批評は〈繊細さ〉、〈優美さ〉、〈理想主義〉、〈鮮やかなポリコロミー〉及び〈様式性・本質性〉という日本絵画の独特な性質を特に評価した。その批評を書いた人物の中に作家及び語学者、ピエトロ・シルヴィオ・リヴェッタ氏(1886-1952)及び建築美術史家・評論家、ロベルト・パピーニ氏(1883-1957)がいた。前者は普及者として重要な役目をもち、後者は日本絵画に対する独自の評価が美術評論上興味深い意義を持った。リヴェッタはもともと美術評論家ではなかったこともあり、当時の定期刊行物に掲載された日本絵画に関する彼の批評は『アルス・ニッポニカ』からの借用が特に目立ち、美術評論上オリジナリティーがあまりないように思われる。しかし、1930年に出版された彼の本、La pittura moderna giapponese(『日本の近代絵画』)は、一般のイタリア人に日本文化に対する知識を普及させた。この普及者としての役割は重要である。この日本美術展に関するコメントを執筆した評論家の中で日本画の"gusto primitivo"、即ち"ルネサンス前派の芸術家たちらしい美的センス"を指摘し、意義深い批評を書き残したものもいた。ロベルト・パピーニはその批評家の一人である。彼は日本画には《無邪気さ》、《謙虚さ》、《盛大さ》及び《壮大さ》という独特な要素が見られると指摘し、日本の伝統的な絵画は"プリミティーヴィ(Primitivi)"と呼ばれる(特に13世紀と14世紀の)イタリアの中世後期・ルネサンス前派の画家たちの絵画に似たような特徴をもつと強調し、日本絵画を評価した。パピーニのような批評は実はローマ展以前にもすでに行われていた。1911年にローマで開催された博覧会にて日本絵画が展示され、日本画はルネサンス前派、"プリミティーヴィ"を連想させると、文学評論家エミリオ・チェッキ(1884-1966)がすでに指摘していた。ルネサンス前派と日本画・中国画との両絵画に形式上・技法上の類似点が実際存在し、自然と対峙されがちなところがあるが、イタリアのファシスト政権時代における芸術界の事情を考えると、パピーニの批評は新たな意義をもつようになると思われる。20世紀初頭、ヨーロッパ中に様々なアバンギャルドの芸術が風靡した後、20年代から30年代にかけてイタリアにおいても、そして欧州全体の芸術界においても、伝統の形像的な表現法への回復傾向が表れた。当時のイタリアにおける文化・芸術討論はジョット、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、マサッチョのようなルネサンス前派及びルネサンス前期の芸術家たちの遺産が高く評価され、その伝統様式への復興の呼びかけが強まると同時に、ファシスト政権は芸術界において新古典主義を強調していったのである。実際、日本画に対するパピーニの評価、即ち近代日本画の中で見られる、東洋の古典より着想を得た《本質的で堂々とした雄大さ》という彼の批評には当時のイタリアの美術史・美術評論界の思想・傾向及びファシスト政権の独自の理想が反映されていたと考えられる。その理想は国家の土着の伝統に見られる、その古典の"聖なる"、単純で高貴な性質であり、その復興への呼びかけ及び称賛が独特で、ファシスト政権の国粋主義の一面と重なった。ローマ展は様々な局面において重要なイベントであった。それまで非常に限られた小数の評論家の中に留まっていた日本美術への関心はこのローマ展で広まり、日本絵画の美学はようやくイタリアのインテリ界にて幅広く取り上げられるようになり、体系的に分析されることになった。ただ、日本美術がイタリアのマスコミによって大きく取り上げられたのは、このローマ展へのファシスト政権の組織的な関わり及び支持があったからだと思われる。この際に作成された参考書『アルス・ニッポニカ』の重要性も大きいと言っても過言ではない。そこに掲載された日本人専門家によるエッセイはイタリア側の批評に非常に参考になったものであり、この点に関しても、日本美術史上その歴史的な意義は極めて重要だと考えられる。また、イタリア側の批評に関して、日本美学の特徴が当時のイタリアの美術史・美術評論の傾向に従って評価され、その評価にファシスト政権の理想も反映されていたという点は特に意義深いことである。
著者
深草 真由子
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.56, pp.144-166, 2006-10-21

Nella prima meta del Cinquecento, la valutazione del Decameron venne radicalmente cambiata dalla disputa della "Questione della Lingua". Il Decameron, la cui lingua e stile Pietro Bembo loda nelle Prose della volgar lingua, venne da lui proposto come il miglior modello di prosa volgare. Questo mio studio intende esaminare quale testo del Decameron il Bembo utilizzo nello studiare la lingua volgare e nello scrivere la sua opera. Le citazioni dal Decameron nelle Prose sono fissate nel Codice Vaticano Latino 3210, l'autografo del Bembo scritto fra il 1521 e il 1523, e rimangono sostanzialmente identiche da questo codice alia prima edizione del 1525 e alle successive. Per questo il Bembo sembra avere stabilito il suo "Decameron" prima della redazione del Vaticano Latino 3210, cioe entro i primi anni del 1520. Ma su quale manoscritto o su quale edizione lo fece? Ecco le chiavi del problema: Nelle Prose I X, il Bembo si riferisce a "un libro...buono e antico" nel quale si trova sempre TRASCUTATO invece di TRASCURATO; come si legge nella sua lettera del marzo 1533, egli corresse "uno di quelli stampati in Vinegia" con "un testo antichissimo e perfetto". Vittore Branca avanza l'ipotesi che, durante il suo soggiorno a Urbino dal 1506 al 1512, il Bembo avesse utilizzato il Codice Hamilton 90, l'autografo del Boccaccio che allora era posseduto da Giuliano de' Medici, duca di Nemours. In questo codice, si trovano alcune note attribuite alia mano del Bembo, e si usa sempre la parola TRASCUTATO. Appare quindi sicuro che il Bembo ebbe l'occasione di servirsi del Codice Hamilton 90 e probabilmente lo chiamo "libro...buono e antico". Inoltre il Branca desume che anche il "testo antichissimo e perfetto" sia lo Hamilton 90, e sia stato collazionato con una stampa veneziana se il Bembo aveva avuto bisogno di registrarlo prima di restituirlo a Giuliano. Carlo Vecce, investigando il Codice Chigiano L. VIII. 302, suggerisce la possibilita del tutto verosimile che "uno di quelli stampati in Vinegia" sia il Decameron curato da Niccolo Delfino, stampato a Venezia da Gregorio de Gregori nel maggio 1516. Questa edizione fu innovativa nei confronti di tutta la tradizione a stampa precedente, e fu apprezzata soprattutto in ambito veneto. E il Decameron a cura di Delfino che il Bembo corresse con "un testo antichissimo e perfetto". Ma possono essere compatibili l'ipotesi del Branca e la scoperta del Vecce? E cioe possibile che il Bembo correggesse l'edizione del Delfino con lo Hamilton 90 e che entrambi fossero per lui contemporaneamente disponibili? Se e cosi, il Bembo avrebbe potuto consultare lo Hamilton 90 anche dopo il maggio 1516, cioe dopo la morte del proprietario Giuliano; purtroppo mancano pero notizie che consentano di affermarlo con certezza. Ma questo problema e risolto quando si osserva la quantita delle varianti e la somiglianza tra lo Hamilton 90 e le citazioni delle Prose, nonche una delle note del Bembo sullo Hamilton 90, nella quale si verifica la collazione con la stampa veneziana. E ormai evidente la collazione fatta dal Bembo utilizzando questi due libri. Il Bembo dovette fare la collazione perche, a mio avviso, e una sorta di operazione di revisione per creare una sua edizione con il manoscritto "buono e antico" e "antichissimo e perfetto" e la stampa veneziana. Puo darsi che il Bembo, che aveva gia curato le Rime del Petrarca e la Commedia di Dante, avesse l'intenzione di pubblicare in seguito il suo "Decameron".
著者
ブランカ V 池田 廉
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.26-44, 1958

E' una traduzione puntuale ed espressiva del saggio del prof.V.Branca, e incluso come prefazione alla "Tradizione delle opere di Giovanni Boccaccio" (Ediz. di Storia e Letteratura, Roma, 1958). Il Prof.Branca, che e oggi conosciuto come uno dei migliori studiose di critica filologica italiana, vi chiarifica la sua posizione metodologica della critica filologica. Inoltre da molti nuovi suggerimenti del problema ; <<Procedere razionalmente, secondo quel severo metodo, - l'A. scrive in suo brano importantissimo dalla umana storia della formazione di ogni codice alla ricostruzione della tradizione caratterizzante e insieme alla determinazione della tradizione caratterizzata e in fine alla fissazione del testo e alla sua interpretazione, articolare rigorosamente queste ricerche in senso circolare, non come indagini successive e a se stanti ma come momenti contemporanei e reciprocamente illuminatisi di unica ricostruzione storica, appare oggi esigenza fondamentale per sviluppare coerentemente e far vigoreggiare l'eredite della "nuova filologia">>.
著者
ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.21-52, 2016 (Released:2017-12-09)
参考文献数
36

La restaurazione Meiji del 1868, come è noto, spazzò via in poco tempo le vestigia del decrepito regime shogunale dei Tokugawa. Tuttavia, nonostante la nascita del nuovo governo imperiale, diversi feudi settentrionali del Giappone rimasero fedeli a Tokugawa Yoshinobu, l’ultimo shōgun. Questa rottura portò ad una guerra civile (conosciuta come “guerra Boshin”), che vide, tra l’estate del 1868 e la primavera del 1869, il protrarsi degli scontri fra le truppe imperiali e i Tokugawa appoggiati dagli han del Nord fino alla battaglia finale di Ezo, conclusasi nel maggio 1869.Il primo Ministro Plenipotenziario d’Italia, conte Vittorio Sallier De La Tour, era giunto in Giappone nel 1867, in seguito alla firma del Trattato di Amicizia e Commercio fra Giappone e Italia. Uno degli obiettivi principali della sua missione era tutelare l’attività dei “semai”, ovvero i commercianti di uova dei bachi da seta. Essi, armati di coraggio e spirito d’iniziativa, già nella prima metà degli anni ‘60 avevano iniziato a recarsi in Giappone allo scopo di procurarsi la preziosa merce, indispensabile per il superamento della crisi in cui versava l’industria serica italiana, messa in ginocchio dalla “pebrina”, un’epidemia che colpiva i bachi da seta riducendone drasticamente le capacità produttive.In questo contesto si inserisce una testimonianza inedita particolarmente interessante: il Giornale di un viaggio nel Nord del Giappone del semaio italiano Giacomo Farfara. Si tratta di un manoscritto in italiano inviato a più riprese alla moglie del Ministro d’Italia, la parigina Mathilde Sallier De La Tour, nata Ruinart De Brimont, donna colta, coraggiosa e affascinante. Al giornale di viaggio sono abbinati alcuni schizzi cartografici relativi ad alcune delle località visitate (le baie di Miyako, Hachinohe e Aomori), due lettere confidenziali indirizzate alla contessa De La Tour e un’altra laconica missiva indirizzata al Ministro.Farfara fu uno dei semai più attivi in Giappone: di origine livornese ma operante a Milano, dove nel 1870 costituirà, insieme all’amico e socio d’affari giapponese Ōtani Kōzō e al ricco commerciante milanese Brambilla, la “Società Italo Giapponese”, e, nel 1872, insieme al fratello Nino e al socio francese Théophile Grenet, la ditta commerciale “Farfara e Grenet”, attiva per diversi anni tra Milano, Parigi e Yokohama.Il Giornale di Farfara inizia a Yokohama il 29 ottobre 1868 e termina a Noheji, nella baia di Aomori il 15 gennaio 1869. La lunghezza del manoscritto è di 57 facciate (di 26-27 righe ciascuna); in esso l’autore narra alla contessa le sue peripezie a bordo di un’imbarcazione a vela, il Gaucho, spesso in balìa di marosi e tempeste. Riporta inoltre i suoi incontri e scambi di vedute con alcuni personaggi che ebbero un ruolo determinante nell’andamento della guerra Boshin. Tra essi spiccano Jules Brunet (1838-1911), ufficiale francese esperto di artiglieria e consigliere militare del Bakufu, che dopo la Restaurazione aveva rifiutato di rimpatriare avendo deciso di combattere fino alla fine al fianco dei Tokugawa e dei loro alleati, e il famoso ammiraglio Enomoto Takeaki (1836-1908), che si era recato con la flotta dello Shogun a Ezo (l’attuale Hokkaidō) e vi aveva istituito un effimero governo provvisorio. Farfara riferisce inoltre alla contessa gli abboccamenti avuti con le autorità di alcune province settentrionali fedeli ai Tokugawa riguardo alla sua scomoda e difficile missione: trasportare a Miyako (nell’attuale Iwate) una grossa partita di armi e munizioni in una fase decisiva della guerra civile.In questa indagine, alla luce di alcuni degli stralci più significativi del Giornale e delle lettere, ci si propone di comprendere le motivazioni che avrebbero spinto un italiano, in ottimi rapporti con la moglie del Ministro d’Italia(View PDF for the rest of the abstract.)
著者
ロレンツォ・アマート
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
vol.73, pp.1-26, 2023 (Released:2023-11-15)
参考文献数
69

1569年から1634年まで、「アカデミア・デッリ・アルテラーティ」と呼ばれるフィレンツェの小さな私設アカデミーが、市の最有力家門の若き子弟たちの館で開かれていた。集まったのは、トンマーゾ・デル・ネーロ、ネーロ・デル・ネーロ、ピエロ・デル・ネーロ、会の中心人物となったジョヴァン・バッティスタ・ストロッツィ・イル・ジョーヴァネ、シピオーネ・アンミラート、ヴェルニオ伯ジョヴァンニ・デイ・バルディ、オッタヴィオ・リヌッチーニなどの当代知識人である。アカデミーの『日誌』Diario(フィレンツェ、ラウレンツィアーナ図書館Ashburnham 558写本)には、修養の機会としての「書くこと」の重要性が頻繁に語られている。そのため詩作品を制作してアカデミーに持参し、投稿箱に提出するように定められた。およそ月に一度、箱が開けられ、作品は「査読者」の手にわたって評価と批評がなされる。次いで「弁護人」に回され、今度は逆に、彼らは作品を擁護しなければならない。このディベートは間違いなく詩作品の欠点を正し、質を高めたに違いない。同時に、自説を論理立てて展開することができるように、また、詩的基準にもとづいて判断を精緻化できるように、アカデミーのメンバーたちを育てていったに違いない。ここでの詩的基準とは、韻律論、文体論、言語論、象徴的含意、「権威たる著者たち」の伝統との整合性などを指す。こうした査読と弁明のプロセスは、部分的にだが、現在まで伝えられている。ラウレンツィアーナ図書館Ashb. 560・561写本と、フィレンツェ国立図書館Ginori Conti 27b手稿には、実際、アルテラーティの何百もの詩が保存されているのである。それらの草稿には、時には多くの削除・訂正がほどこされ、また時には査読者や弁護人による評価が付されている。これらの写本は、アカデミー詩作品の「草稿」集成である『雑録』Zibaldoneの残滓である。他に現在まで伝わっている写本に、ヴァチカン図書館Vat. Lat. 8858写本(1575-1585年の間に筆写)があるが、こちらは「秀作」と判定された会員作品の公式アンソロジー(『日誌』で『アルテラーティ二次詞華集』とされる本)を伝える。Vat. Lat. 8858に収録された詩の一部は、Ashb. 560・561所収のものと突き合わせることが可能である。『雑録』にある詩が、作品の私的第一稿とみなし得るのに対し、Vat. Lat. 8858の詩は、例えばAshb. 561に書きとめられているような賛否両論のディベートを通じて提案された集団的見直しに従って到達した「集団的」決定稿とみなすことができる。これらのディベートを読み進めてゆくことは、したがって、極めて興味深い作業となる。なぜなら、ディベートがアカデミーのメンバーたちの教養や審美的嗜好を明らかにしてくれるからである。それゆえ、本論文では、Ashb. 561とGinori Conti手稿に見える査読と弁明の何節かを、可能な限りVat. Lat. 8858の最終稿とも突き合わせながら、分析する。ディベートで触れられた多くの重要な論点のうち、本論文第2章では、修辞・文体・言語にかかわる諸問題を集中的に扱う。そこから明らかになるのは、アカデミーのメンバー個々の様々な立場の違いを超えて、アカデミー全体がもつ「同時代主義者」という天性がいかに立ちあらわれ、口語を正真正銘の「権威たる著者」の基準とみなす「博識ある多様性」へと向かってゆくかである(クルスカ学会が当時求めていたのとは正反対の方向だ)。他方、本論文第3章では、16世紀末におそらくもっとも流行した詩のジャンルであったマドリガーレに焦点を当てる。実際、マドリガーレはVat. Lat. 8858を代表するジャンルとなるのである。もっとも、アルテラーティの最有力メンバーであったジョヴァン・バッティスタ・ストロッツィ・イル・ジョーヴァネは、かの偉大なマドリガーレ作者、ストロッツィ・イル・ヴェッキオの後裔であり、さらには、1574年にフィレンツェ・アカデミーで口述されたマドリガーレ講義の著者その人であったのだが。その意味で、以下のようなことが実証されたとしても驚くにあたらない。『二次詞華集』に認められる実際のマドリガーレ作品においてだけでなく、Ashb. 561に見えるマドリガーレへの批評や弁明においてもまた、支配しているのは奇想的な詩的言語の探求であり、その関心は自然さを犠牲にしてでも「驚異」の方へ、わかりやすさを犠牲にしてでも音楽性の方へ向かっている。アルテラーティ写本に見られる詩的実験は、実際、ほどなく初期オペラの実現につながる歌詞としての詩を準備する。他方それは、ガブリエッロ・キアブレーラの韻律的実験の先駆けをなしているようにも思われる。もっとも、『日誌』からわかるところでは、キアブレーラが範としたピエール・ド・ロンサールは、実際にアカデミーを訪問する以前からすでに、アルテラーティ内では読まれ、論評されていたのだが。そういうわけで、このルネサンス末期の詩と批評の正真正銘の実験工房が残したものを研究することは、後に続くイタリアン・バロックの詩的・音楽的美意識の形成をよりよく理解するために、重要なのである。
著者
土肥 秀行
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.61, pp.195-216, 2011-10-15

Questo articolo prende in analisi una tesi ormai comunemente recepita da lettori e studiosi di Giuseppe Ungaretti: quella dell'influenza giapponese sulla forma breve della prima produzione del poeta. Gia nel 1962 Luciano Rebay, uno dei piu celebri critici ungarettiani, ipotizza una possibile "origine giapponese" di Ungaretti, mentre Atsuko Suga sostiene nel 1981 che i componimenti introdotti da Harukichi Shimoi e Gherardo Marone sulla rivista <<La Diana>>, e letti da Ungaretti, si classificano in stile waka, anziche haiku (chiamato allora haikai in Italia) e si mostrano inoltre come rifacimenti creativi in prosa, ovvero delle "versioni" ben distanti dalla nostra concezione di traduzione. La studiosa insomma non riconosce l'impronta haikaistica nella poesia ungarettiana del primo Novecento. Risalendo agli inizi della questione, cosi come viene dibattuta nel 1933 tra Ungaretti e Enzo Palmieri (critico dell'ex-circolo de <<La Diana>>), Shimoi e Marone iniziano a collaborare per la traduzione delle poesie giapponesi verso la fine del 1915; Marone e il soldato Ungaretti si conoscono per corrispondenza nell'aprile 1916; su <<La Diana>> del mese successivo Marone pubblica per la prima volta le traduzioni dei versi giapponesi della poetessa Akiko Yosano, e di seguito una poesia ungarettiana, Fase, composta in forma alquanto essenziale. In un'apparente coincidenza-in realta meditata con ogni probabilita dalla redazione-questi due poeti, tanto distanti fra loro, vengono riportati consecutivamente sulle stesse pagine. Dunque la produzione poetica di Ungaretti (ripresa un anno dopo l'esperienza lacerbiana) e il lavoro di traduzione di Shimoi-Marone procedono quasi contemporaneamente. Da parte nostra abbiamo alcune riserve nel riconoscere in Ungaretti un'effettiva disposizione a prendere in esame i poeti giapponesi tradotti per la rivista. Nondimeno i letterati de <<La Diana>> sostengono, sin dalle loro prime recensioni a Il porto sepolto (la prima raccolta uscita nel dicembre 1916), un'affinita stilistica tra Ungaretti e i poeti giapponesi, tanto da creare l'etichetta, ancora oggi ampiamente accreditata, "Ungaretti haikaistico": tale definizione e all'origine della polemica del 1933 attorno al poeta ormai pienamente affermato, e nello stesso tempo indignato per il vecchio epiteto attribuitogli. La motivazione per cui Ungaretti tende a comporre in forma breve deriva, in parte, dalla lettura dei poeti giapponesi, ma dall'altra parte e necessario identificare anche un altro importante fattore di influenza nella corrente allora definita "frammentismo", un filone diffuso specialmente tra gli avanguardisti napoletani degli anni Dieci. Nel periodo successivo, il critico Aldo Capasso, il quale conosceva sia il circolo dianiano che Ungaretti, attacca la definizione crociana di "non poesia" a proposito dell'opera di Giovanni Pascoli, valorizzandola invece all'insegna del frammentismo, ossia dello stile haikaistico. Uno dei saggi pascoliani di Capasso, Sulle Myricae del 1935, spinge il giovane poeta Pasolini a concepire una tesi di laurea a sostegno del "particolare" in Pascoli. Nel clima bolognese della fenomenologia anceschiana, in cui intellettualmente si collocava lo stesso Pasolini, il frammentismo prevale come tendenza principale dell'ultima generazione. Tornando indietro di qualche tempo, Luciano Anceschi, allora critico debuttante, si distingue per un articolo su Yosano, le cui opere sono inserite nell'antologia Lirici giapponesi (1927), edizione accresciuta delle Poesie giapponesi (1916) curate da Shimoi e Marone e lette all'epoca con passione da Ungaretti. Ad un esame stilistico-variantistico delle due celeberrime poesie ungarettiane, Mattina, che suona <<M'illumino/d'immenso>>, e Notte di maggio (1915-1936) in cui Carlo Ossola percepisce il ritmo haikaistico rovesciato (7-5-7 sillabe), bisogna ammettere, quasi parallelamente alla tesi di Suga, che in Ungaretti il metro e la brevita della poesia giapponese siano sottilmente presenti, benche in maniera non determinante. Stando invece alle dichiarazioni di Ungaretti nel dopoguerra, il frammentismo viene da lui ricordato positivamente in un saggio leopardiano (1952-1963) con riferimento ad una poesia "interrotta" ma "compiuta" e l'ultimo Ungaretti (1963) racconta la propria prima stagione poetica alludendo ad un'analogia con un concetto chiave della forma breve giapponese: <<cogliere un attimo>>. Il poeta, infine, durante la sua visita in Giappone del gennaio 1960, dichiara di essere stato vicino alla poesia giapponese a livello metrico e tematico. Anche per via di questi commenti dell'autore stesso, la lettura del primo Ungaretti sotto l'angolatura della poetica frammentistica e nipponica continua a trovare numerosi sostenitori.
著者
鈴木 信吾
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.44, pp.177-204, 1994-10-20

L'italiano antico presenta spesso un tipo di frase che comincia con un costituente diverso dal soggetto. Nel presente saggio cerchiamo di cogliere alcune proprieta pragmatiche di tali costituenti, mettendoli a confronto con quelli dell'italiano moderno similmente anteposti al verbo. Prima di operare tale verifica, consideriamo, come punti di riferimento, quali mezzi sintattici esistono, in italiano moderno, per spostare a sinistra un elemento diverso dal soggetto(§1)e quale meccanismo permetteva all'italiano antico di fare altrettanto(§2). In base a queste osservazioni possiamo ritenere che due anteposizioni di tipo moderno, quelle anaforica e contrastiva, riecheggino in qualche modo la struttura dell'italiano antico. Esaminiamo in seguito, mettendo a fuoco l'italiano antico, le proprieta pragmatiche dei costituenti anteposti che vengono condivise da quelli delle due anteposizioni di tipo moderno(§3). Proseguendo nello stesso esame, consideriamo alla fine il caso della dislocazione a sinistra, cioe il caso in cui il costituente anteposto presenti un pronome clitico di ripresa(§4). Nel corso di tale analisi verifichiamo che, in italiano antico, la funzione anaforica degli elementi anteposti, che oggi e conservata per lo piu nello stile elevato, si estendeva anche a quello colloquiale, mentre la loro funzione contrastiva si esprimeva in diversi gradi di intensita:piu intensa e la loro funzione contrastiva, piu si avvicina a quella dell'anteposizione contrastiva di tipo moderno. In definitiva, la costruzione con un costituente anteposto al verbo oltrepassava, da un lato, il limite che oggi ha l'anteposizione anaforica e si avvicinava, dall'altro, alla sfera dell'anteposizione contrastiva, coprendo cosi un insieme dei contesti che oggi farebbero scattare l'esigenza di una ripresa pronominale. La ripresa pronominale dell'italiano antico, invece, si poteva avere essenzialmente quando il costituente anteposto non era adiacente al verbo. D'altra parte, il fatto che essa si trovasse anche in alcuni rari casi di costituenti contigui confermerebbe, dal punto di vista diacronico, un ulteriore passo in avanti verso l'italiano moderno.
著者
伊藤 亜紀
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.50, pp.1-23, 2000-10-20

Il Trattato dell'arte della seta scritto da un anonimo fiorentino tra la fine del XIV e l'inizio del XV secolo, ci offre molti dai preziosi sulla tintura nella fine del Medioevo, e el capitolo che trartta della tintura dell'azzurro, comincia come segue: ≪…gli azzurri, questi sono colori di piccola portanza e piuttosto da tacergli, che dirgli≫. Questa frase rappresenta francamente l'idea di "azzurro" degli italiani in quel periodo; nei manuali tintori le ricette per la tintura in azzurro sono poche rispetto a quelle del rosso e del verde, ed anche in alcune liste di vestiti in dati personali - come inventari, diari, lettere, ecc. -, i vestiti di questo colore sono molto rari, Inoltre nella letteratura di quel periodo non compaiono quasi mai personaggi con vestiti azzurri. \L'assenza dell'azzurro" e un fenomeno generale in tutta l'Europa di quell'epoca, perche il guado, tipica pianta che produce la materia tintoria dell'azzurro, era disponibile a prezzo relativamente basso senza difficolta. Percio anche i vestiti azzurri sono portati principalmente dalla classe media e bassa. Per questa popolarita, nella sistema del simbolismo cromatico, agli azzurri erano attribuiti di solito dei significati negativi come la volgarita e la beffa. Ma nei Cinquecento, questa idea tradizionale dei colori subisce un leggero cambiamento. Alcuni trattati del simbolismo cromatico come Del significato de colori e de mazzolli di Fulvio Pellegrino Mrato (1535), Il mostruosissimo mostro…Nel primo de' quali si ragiona del significato de' colori di Giovanni de' Rinaldi (1559) e Il Dialogo nel quale si ragiona delle qualita, diversita, e proprieta de i colori di Lodovico Dolce (1565), valutano molto il turchino come il colore del 'pensiero elevato'. Infine nella Iconologia di Cesare Ripa (terza edizione: 1603), viene presentato come il colore dell'abito della donna allegorica Sapienza. Si possono enumerare alcune ragioni per questa valutazione del turchino-una tonalita dell'azzurro; quando la rotta per l'India fu scoperta alla fine del XV secolo, grandi quantita di indaco, che puo tingere in azzurro a un prezzo inferiore, e meglio del guado, giunsero in Europa e si diffusero in Italia, percio i bei panni azzurri o turchini erano abbondanti sul mercato. Inoltre mi pare che anche la diffusione in tutta l'Europa della moda del colore scuro - soprattutto del nero-dalla fine del XV secolo, e il erollo della gerarchia dei colori, alla cui cima era posto il rosso, richiamino l'attenzione della gente verso altri colori-anche verso gli azzurri. Oltre a cio in Francia il bleu era gia molto valutato dopo la meta del XIII secolo come colore del mantello della Madonna, e nel Blason des Coulerus, trattato del simbolismo cromatico scritto in francese da Sicille (1435-58), il bleu e definito il colore della 'science'. Puo darsi che questa idea francese dei colori esercitasse un'influenza su quella italiana. Pero cenche la domanda dei panni azzurri fosse qumentata, e nei trattati del simbolismo cromatico, al turchino fosse attribuita una buona immagine, questi colori non sono stati valutati come gli altri. In effetti, anche dopo il XVI secolo, gli azzurri non sono stati mai consigliati per l'abbigliamento, e gli abiti di questo colore non erano portati volontariamente dalla gente. Possiamo quindi dire che nella vita quotidiana l'interesse della gente per l'azzurro fu basso, e non ci fu una grande promozione dell'azzurro nel costume italiano.
著者
伊藤 亜紀
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.48, pp.203-226, 1998-10-20

Plinio dice che il vestito tinto con la porpora, ottenuta dalla sostanza dei molluschi (murex o purpura) che vivono lungo la costa mediterranea orientale, era molto apprezzato dagli imperatori nell'antichita romana. Pero nel Medioevo, questa tintura che richiedeva tempo e denaro, era andata gradualmente declinando eccetto che a Costantinopoli e a Palermo, per poi scomparire definitivamente nel 1453 quando l'impero cadde in mano ai Turchi. Infatti, alcuni manuali di tintoria del Quattro e Cinquecento (come il Trattato dell'arte della seta edito da Girolamo Gargiolli, il manoscritto 4.4.1. della Civica Biblioteca di Como, e il Plictho di Giovan Ventura Rosetti ecc.) e la Pratica della mercatura (ca. 1310-1340) di Francesco Balducci Pegolotti non menzionano neppure la porpora. Nonostante tutto, la passione della gente per il rosso era rimasta invariata. Molte pagine dei suddetti manuali erano dedicate alla tintura delle diverse tonalita del rosso: rosato, paonozzo, scarlatto, chermisi, sanguigno, cardinalesco, ecc. E riferiscono che per ottenere questi colori, si usavano il chermes o la grana, insetti parassiti delle quercie, la robbia e il verzino dell'Asia sud-orientale al posto della porpora. Anche queste sostanze coloranti erano generalmente molto costose. I vestiti tinti di rosso in questo modo erano piu preziosi di quelli di altri colori, percio erano indossati principalmente dai nobili ricchi. Ad esempio, nell'inventario di Puccio Pucci, che faceva parte della cerchi di Cosimo de'Medici, redatto nel 1449, c'erano molti vestiti sui toni del rosso. Ed anche i medici e gli intellettuali che anelavano al potere politico e finanziario dei nobili, preferivano questo colore. Il Boccaccio descrive in tono vivace i giudici, i medici e i notai, con <<gli scarlatti>>, che da Bologna tornano a Firenze (Decameron, VIII9). Nelle opere letterarie allegoriche, in cui spesso i colori dei vestiti dei personaggi hanno un ruolo importante, il rosso e tradizionalmente il colore dell'abito della persona simboleggiante la carita (p.e. Purgatorio, XXIX, vv. 122-23). Ma nel Trecento, alcuni autori come Francesco da Barberino danno a questo colore qualche nuovo significato- l'industria, la discrezione, la fortezza, ecc.-, senza badare troppo alla tradizione. Secondo Le Blason des couleurs di Sicille (ca. 1458), uno dei trattati sui colori del basso Medioevo, che ci mostra molti dei loro significati simbolici, it rosso (vermeil) significa Haultesse, Hardiesse, Sanguin, Feu, Este, ecc., ed e considerato come il colore primo e piu importante. Fino a quando il nero sara esaltato dagli uomini di Stato, dai moralisti o da qualche letterato nel Cinquecento, il rosso dominera come "re" dei colori.Il rosso, che era un colore "basso" dal punto di vista morale fino alla meta del Medioevo, avera poi ereditato le porprieta del color propora -la nobilta, il potere, la ricchezza, ecc.-, ed era stato nobilitato. Si puo dire, senza paura di esagerare, che la tecnica della tintura del rosso aveva fatto passi da gigante e che erano state inventate tante tonalita perche sia i produttori che i consumatori avevano nostalgia del color porpora, che era molto ricercato nell'antichita.
著者
天野 恵
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.41, pp.63-83, 1991-10-20

Nelle battaglie campali al tempo dell'Ariosto, mentre-come osservava anche Machiavelli-l'artiglieria pesante aveva un ruolo secondario, gli archibugieri spagnoli cominciavano a costituire una minaccia seria, non solo per la cavalleria pesante francese, ma anche per i quadrati di picchieri svizzeri, fino allora considerati invincibili. Questo fatto era di perticolare interesse anche perche, con la sconfitta dei francesi a Pavia (1525), avvenuta 4 mesi prima del ritorno dell'Ariosto dalla Garfagnana, la diplomazia ferrarese era entrata in un periodo difficile, caratterizzato da una instabilita internazionale, che si concluse nel tragico Sacco di Roma (1527) e nelle successive guerre della Lega di Cognac. L' analisi attenta delle tracce di correzioni apportate dall'Ariosto sul Fascicolo I dei Frammenti Autografi (Canto IX) ci induce a credere che il poeta, nell' inventare la storia dell'archibugio di Cimosco, si sia ispirato all'uso di questa arma da parte degli spagnoli in una serie di battaglie contro i francesi, alleati tradizionali degli Estensi. Questa osservazione spiega bene anche la metafora della polvere da sparo usata per descrivere il comportamento di Orlando che abbatte Cimosco (IX, 78). Inoltre il processo di perfezionamento del IX Canto e il successivo ritorno sull' argomento-con la famosa invettiva contro le armi da fuoco dell'XI Canto-lasciano trasparire le tortuose vicende della diplomazia ferrarese fino all'abbandono definitivo della linea filo-francese, con la Pace di Cambrai (1529) e l'incoronazione imperiale di Carlo V (1530) Nella "invettiva" (erroneamente considerata da alcuni studiosi una coraggiosa critica del poeta al proprio signore, che si vantava della sua potente artigliereia) si puo, quindi, rilevare un forte momento creativo dell'Ariosto, insieme all'interesse per gli avvenimenti storici del suo tempo.
著者
喜多村 明里
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.56, pp.193-216, 2006-10-21

Nel libro Il Merito delle donne, scritto in volgare da Moderata Fonte verso il 1592 e stampato nel 1600 da Domenico Imberti a Venezia, si narra di sette donne veneziane colte e raffinate, di buona famiglia, che sono riunite nel bellissimo giardino rinascimentale di una villa, dove per due giorni raccontano e discutono delle virtu e dei meriti femminili in confronto a quelli degli uomini. Grazie alia ristampa a cura della Prof.ssa Adriana Chemello nel 1988, si e messo in nuova luce il concetto di donna e la cultura della scrittrice veneziana nella seconda meta del Cinquecento, che sono molto suggestivi dal punto di vista degli studi della storia della cultura e della societa nell' Italia rinascimentale. A proposito dei discorsi caratteristici del libro, che sembrano apparentemente cosi incoerenti e variati, dalla lettura interpretativa di allegorie delle statue della fontana nel giardino alle numerose citazioni delle antiche donne esemplari per affermare il merito femminile e per criticare gli uomini, cosi come dai dilettevoli e quasi dotti dialoghi sulla conoscenza della natura alia orazione fatta da Leonora, una delle sette protagoniste, che cerca di convincere i padri, i fratelli, i figli e gli amanti a rispettare le donne di pregio, Kitamura analizza innanzitutto come Fonte seguisse una lunga genealogia letteraria italiana dei discorsi sulle donne. Presentando una bibliografia cronologica dei ventisette testi piu importanti su questo argomento, da De mulieribus claris di Giovanni Boccaccio fino alla Semplicita ingannata di Arcangela Tarabotti, ed esaminando i concetti della moglie ideale e dell'educazione delle donne nell'epoca in cui essi sono stati trattati da umanisti come Francesco Barbaro e Leonardo Bruni, Kitamura interpreta l'atteggiamento di Fonte, che cita e prende ad esempio le donne illustri dell'antichita classica per difendere le donne contro la misoginia medievale e mette in scena l' orazione di Leonora-gli umanisti soprascritti non volevano donne eloquent-come un proto-femminismo nato dall'umanesimo rinascimentale-femminile. Nella societa veneziana della fine del Cinquecento la condizione femminile era spesso difficile, con situazioni problematiche come la cosidetta "dimessa" che era costretta a rimanere nubile a casa, o della "monaca forzata" nel convento, per la mancanza delle doti che dovevano essere donate dalla famiglia natale alia sposa. Quanto alle mogli ed alle figlie nubili dei ricchissimi nobili e del cittadini borghesi, si insisteva particolarmente sulla virtu dell'obbedienza delle donne ai loro mariti e padri, rinchiudendole in casa sotto la morale della famiglia patriarcale. Invece le cortigiane colte e "oneste" dell'alta societa veneziana, come Veronica Franco, godevano di una relativa liberta. Fonte forniva una ricca immagine ideale delle donne umaniste colte, in confronto alia realta sociale veneziana dell'epoca, raffigurando le sette donne veneziane differenti di eta e di posizione familiare, una figlia nubile ed una nuova sposa, due mogli, una vedova giovane ed una vecchia, e soltanto una "dimessa."
著者
根占 献一
出版者
イタリア学会
雑誌
イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
巻号頁・発行日
no.43, pp.1-27, 1993-10-20

Il mio saggio presenta, per la prima volta in giapponese, il contenuto quasi intero del dialogo De libertate, molto important e tipicamente rinascimentale, che fu scritto nel periodo del passaggio dal comune al principato. L'autore, Alamanno Rinuccini(1426-1499), visse nella societa fiorentina molto complessa, 'come ci insegnano vari studi recenti. Allievo dell'Argiropulo(l'esule greco e professore di filosofia greca nello Studio fiorentino) e notevole studioso dei greci, tradusse in latino e dedico a Cosimo, Piero e Lorenzo de'Medici le Vite di Plutarco. Ebbe importanti incarichi pubblici e diplomatici : gonfaloniere veduto di Giustizia nel'71, ufficiale dello Studio a Firenze nel '73 e ambasciatore a Roma presso Sisto IV nel '75-'76. Cercando cosi 'duplex foelicitatis genus', fu amico dei letterati e filosofi intorno agli uomini potenti e collega dei magistrati illustri al servizio dello stato. Nel '78 ci fu la congiura dei Pazzi. In questo momento esplose anche il suo malcontento di molti anni per il sorgere della signoria medicea e spero fervidamente nel loro successo. L'anno seguente scrisse il De libertate ed espresse le sue idee antimedicee. Nel dialogo discorrono i tre interlocutori, Aliteo (il veridico), Eleuterio (l'uomo libero, Rinuccini stesso) e Microtoxo (di poco ingegno, non si accorge della perdita della liberta), in una villa fuori dalla Citta di Firenze, dei congiurati antichi e contemporanei. Per natura, Aliteo e l'esaltatore della liberta e dell'attivita pubblica e politica. Ma deve riconoscere le ragioni dell'Eleuterio, che lo invita a considerare l'unica liberta che sia attualmente possibile, cioe quella della vita solitaria. Innamorato dei classici da Platone e Aristotele a Cicerone a Plutarco, il Rinuccini fu uno dei testimoni piu malinconici della crisi della Florentina libertas a causa dello svuotamento delle istituzioni tradizionali.