著者
宮寺 晃夫
出版者
一般社団法人 日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.79, no.2, pp.144-155, 2012

義務教育段階から、子どもの教育機会を個人で取得する傾向が強まるなかで、教育機会の実質的な平等を確保するのが難しくなってきた。個人化の時代に、「校区の学校」を統合学校として維持していくには、平等性の価値を自己正当化するのではなく、「自由な教育」に対する「平等な教育」を正当化する議論が必要である。本論は、「正義」の原理の含意を検討し、統合学校の維持に不可欠な親の双務性の承認を求めていく。
著者
朴澤 泰男
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.14-25, 2014-03-31

女子の大学進学率の都道府県間の差を、大学教育投資の便益の地域差に着目して説明する仮説の提起を試みた。地方に大学進学率の低い県が存在する理由は、大卒若年者の相対就業者数の少ない県ほど(相対就業者数は、大卒の相対賃金の高い県ほど少ない)、また、(先行世代の就業状況から期待される)出身県における将来の正規就業の見込み(正規就業機会)の小さな県ほど、(進学率全体の水準を左右する)県外進学率が低いためである可能性がある。
著者
山住 勝広
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.79, no.4, pp.367-379, 2012-12-30

学校における教師と子どもたちの震災学習は、深い傷痕を残す悲痛の記憶をいかに語り互いに共有することができるのかという根源的な矛盾に直面し、それに挑戦するものになる。本論文では、このような矛盾を乗り越えてゆく教育実践は可能かという問いへアプローチするために、震災体験からの学習と教育の事例分析を、活動理論の枠組みにもとづき行った。分析の結果、子どもたちが、学校における震災学習を通じ、学校外のさまざまな「学びの提供者」と出会い、結びつながることによって、新たな支えあいの文化と生活を創造してゆく可能性が明らかとなった。
著者
福島 賢二
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.1-14, 2010-03-31

これまで教育における平等の議論は、「標準」と「異なっている(差異)」という理由で不利な扱いを受けてきた人への補償主義的な資源分配に基づいてなされてきた。しかしながら、こうした分配的正義は、既存の社会・文化と親和的な価値を再生産するというアポリアを抱えている。本稿では、マーサ・ミノウの「関係性」アプローチと竹内章郎の「共同性」論を対象として、分配的正義に内在する支配的価値の再生産構造とそこからの脱却的視座を得ることを目的とする。この検討を通じて、分配的正義が人々の「差異」を本質的・帰属的なものと同定していたことが明らかとなるだろう。これは、「差異」が社会的に構築されたものであるという視角から分配的正義を鍛え直す必要性を示唆するものである。
著者
寺崎 恵子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.454-462, 1999-12-30

演劇批判論として執筆された『ダランベール氏への手紙』のなかで、J.-J.ルソーは、共和国には劇場演劇よりも祭りが必要であると述べた。彼の議論はその根底としてinstructionを意味深い問題点としているのだが、このことはこれまでにあまりよく把握されてこなかった。本稿は、祭りの競技や気晴らしがinstruction publiqueをなしていたという内容の彼の言説の意味を理解し、ルソーが使うinstructionの語の意味内容をあきらかにすることを目的とする。 ルソーは、二つの対象から論を構成している。ひとつは、自身の演劇観と同時代の理論家たちの演劇観との対照である。理論家たちは、舞台上の芝居と観客とのあいだにおける伝播という相互作用をみている。つまり、芝居は感情の模範的な配列を示し、観客がその模範を身につけるというものである。好ましい上演は習俗や人びとの感情を改良し、人びとによいふるまいをするように伝授することになる。理論家たちはこうして劇場演劇には教育的な効果があると考えた。ルソーは彼らの見解に賛同しなかった。彼の見解では、演劇の上演は感情の理想的なあり方を提示することではなく、感情の本質を現実的に見せることである。観客は感情が反映することをたのしんでいるのである。ルソーは、劇場演劇における観客のこのような経験がinstructionとなるとは考えなかった。もうひとつの対照は、劇場演劇における観客と祭りにおける参加者との感情の状況の対照である。ルソーは、劇場演劇における観客の感情が投影することの快さにあるとみた。つまり、観客は自身を不動で不活動の状態において、自身を登場人物にひたすら同化するのであり、そして舞台上の似姿に見入ることをたのしむのである。その結果、観客それぞれは孤立する。一方、祭りにおける感情は、調和することの快さであるとルソーはみた。つまり、すべての参加者は調和のとれた競技のなかで一緒の状態を鋭敏にかつ心深く楽しむのである。ルソーは、祭りにおける参加者の経験がinstructionをおこすとみている。 以上のようなルソーの議論の内容から、ルソーのinstructionの語の意味を次のように解釈することができる。(1)instructionは教えることと学ぶことを意味しているわけではない。それはつまり、二つの部分、すなわち見せる側と見る側または対象と主体のあいだの伝播という相互関係からおこるのではないということである。(2)instructionは、視覚のみによっておこるのではなく、総感覚によっておこる。このような実際的な経験のなかで、人びとは不可視ではかりしれない自然(本性)をそして精神の奥底の自然(本性)を直感的に感知することができる。そして(3)instructionは、間接的にではなく直接的に起こる。つまり、それは現実的な対象もしくは模擬を媒介として個人的に考えるという経験ではなく、和やかな交遊のなかで自然に動きが生まれるという経験によるのである。
著者
古野 博明
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.65, no.3, pp.214-222, 287, 1998-09-30

教育基本法の成立ということについて、通説は、当時の文相、田中耕太郎の発意と熱意からこれを説明している。が、彼の教育改革案には、もともと国民教育の倫理化と教育権独立の憲法的保障という二つの力点があった。教育目的の法規化に否定的なそのような構想から教育基本法の着想が自動的に生まれるかどうかは一つの問題であろう。ところで、教育基本法成立史の研究は、戦後教育改革資料の調査研究の飛躍的発展によって新しい段階に立ち至っており、田中(耕)に加えて、二人の人物に注目を要することが判明している。一人は、被占領期教育改革立法の立案を担っていた文部省の審議室参事事務取扱、田中二郎で、もう一人は、教育政策の策定に重大な影響力のあった、教育刷新委員会の副委員長、南原繁である。そこで、教育基本法の成立を説く鍵は、どの点に見いだしうるか。第一に、教育基本法立案の起点は、1946年9月11日の文部省省議にあった。教育基本法の構想は、事実上この会議において、法律専門家である田中二郎が発案したものである。教育刷新委員会第一特別委員会の審議過程や審議室・CI&E教育課の協議過程の原案になったのも、彼の1946年9月21日付教育基本法要綱案であった。教育基本法に異例の前文を付す構想も彼のアイデアである。田中(耕)文相は、こうした構想を支持しそれを国策として確定することに重要な役割を演じたのである。第二に重要なのは、南原繁もまた教育基本法の立案に少なからず影響を及ぼしていることである。教育及び文化の問題についての、8月27日の貴族院における彼の質問演説には注意を払うべきだろう。彼は田中(耕)文相の教育立法政策と教育権独立論を批判し、新憲法に教育の根本方針を規定するよう要求するとともに、教育の国民との直結性と政治教育の重要性を説いていた。さらに教育刷新委員会が教育基本法制定方針の大綱を採択したのは、第一特別委員会報告に対する南原の厳しい批判に負うところが大きい。その際、彼は教育の目的は人間性の開発ではなく、あくまで人格の完成でなければならないと力説し、倫理教育において宗教にまで飛躍することに反対した。このような彼の思想は、結果として教育基本法成文のいくつかの条項に生きたのである。今後は、こうした諸点を熟慮して、教育基本法の成立の歴史的意義と限界を読み取っていかなければならない。
著者
田中 昌弥
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.411-422, 2011-12-29

従来の教育学では、教育における「フィールドの論理」の把握が必ずしも中心に据えられず、教育の目的や研究方法論の根拠も、しばしば教育外に求められてきた。それに対し、Narrative inquiryは、「個別性」「関係性」「身体性」「応答性」の価値を基盤にしつつ、ストーリーの観点から「フィールドの論理」の把握を可能にする。これを日本の教育実践研究と結合することで、教育的価値の根拠や教師の専門性の内実を明らかにし、他の学問分野との接続を実現する新たなパースペクティブを開くことができる。
著者
古賀 正義
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.46-54, 2008-03-31

「学校が消える!」2008年の年明け、衝撃的な記事を目にした。読売新聞の調査(1月11日付)によれば、全国で今後数年間に一千校以上の公立小中学校が廃校になる見通しだという。急激な人口減少と補助金抑制の影響などで、東京都でも約50校(2.5%)が廃校になる勘定だ。教育機会の均等を実現してきた義務教育制度にあっても、社会変動の波は容赦なく地域社会を襲っている。学校選択制や中高一貫校など市場型改革の導入が進めば、一層、「生き残る学校」と「消え去る学校」とが出現する状況である。 「学校」を自明の教育機関とみなしてきた教育学者にとっても、学校とはいかなる特徴を持った教育の場で、そこで何が達成され、今後何を成し遂げることが可能なのか、いわば「学校力」(カリキュラム研究会編2006)を再度検証しなければならなくなっている。そうでなければ、教師や保護者、地域住民などを巻き込んで、学校に対して体感される不安やリスクは増大していく一方なのである。そもそも学校とは、不可思議な場である。教育学で、学校を念頭におかない研究はほとんどないし、教員養成にかかわらないことも少ない。そうでありながら、学校の内実に長けているのは現場教師であって、研究者はたいてい余所者として外側からその様子を眺め批評する立場にある。マクロレベルから教育政策や学校制度を講じることもできるし、ミクロレベルから授業実践や学級経営を論じることもできるが、学校の実像を客観的総体的に把握し切れているという実感は乏しい。 『教育学研究』を紐解いても、「学校」は学会シンポジウムのテーマに度々取り上げられてきた。「学校は子どもの危機にどう向き合うか」(1998年3月号)、「学びの空間としての学校再生」(1999年3月号)、「21世紀の学校像-規制緩和・分権化は学校をどう変えるか」(2002年3月号)など、教育病理の深刻化や教育政策の転換など、教育関係者の実感と研究者の思いが交錯する時、学校がたびたびディベートのフィールドとして選択された。今日なら、学力低下やペアレントクラシー、指導力不足、いじめ事件など、学校のガバナンスやコンプライアンスにかかわる諸問題が、個々の学校やさまざまな種別の学校、制度としての学校など、各層にもわたる「学校」について論議されることだろう。急激な改革と変化のなかで、問題言説の主題としての「学校」は隆盛であるのに、現実分析の対象としての「学校」は不十分。学校研究の10年は、こうしたねじれ状態と向き合い、その関係を現実的・臨床的にどのように再構築し、教育学の公共的使命を達成するかの試行錯誤の期間だったといえる。
著者
柳沢 昌一
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.423-438, 2011-12-29

実証主義論争におけるJ.ハーバーマスの社会科学方法論批判、C.アージリスとD.A.ドナルド・ショーンのアクション・セオリーの認識論・方法論の省察、そして堀川小における50年を超える授業研究の展開の跡づけを通して、外部からの実践への介入としてのアクション・リサーチの限界を超えて、実践の内部において長期にわたる実践と省察を持続的に組織し、その省察を領域を超えて交流・共有していくことをめざす実践研究のあり方を探る。