著者
生井 裕子
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A 教育研究 = Educational Studies (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.51-60, 2014-03-31

日本人にとって,「ふつう」という言葉は,文脈により多義的な意味を内包している。また「ふつう」の捉え方は,適応と深く関わりを持つことが指摘されている。しかしながら,個々の「ふつう」の捉え方の違いのあり方や要因については,これまでの研究において十分明らかにされてこなかった。そこで本研究では事例検討を通じて,適応的な「ふつう」概念について,いくつかの視点を提示することを目的とした。面接過程の検討より,適応的な「ふつう」概念について,以下の視点を提示した。1)自己を客観視する視点を持てている。それは,「ふつう」を適応的な「仮面」として用いることを可能にする。2)自己の内的感覚を明瞭に捉え,健全な自尊心を持っている。また自己の否定的感情を抱えられるため,仮面としての「ふつう」を防衛的に使用する必要がない。3)「周囲と調和している」といった,安定した主観的感情と共に「ふつう」が体験されている。
著者
マーハ ジョン C
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.189-202, 2002-03

童謡(nursery rhymes:ナースリーライム)とは子供向けの短い詩歌のことで,通常,一つのストーリーを示すものである.童謡は,反復や言葉遊びを使ったり,風刺的だったり,特に意味のない音を使うなどの特徴をもつ,確立した言語類型である.文体的には,子守唄,指や手を使った遊び歌,なぞなぞ,数え歌や何かを覚えるための歌,早口言葉,言葉を重ねていく歌など,異なった種類の文体が存在する.音声構成についても,童謡ならではの特徴があり,例えば,形容詞はほとんど使われず動詞が多く用いられたり,強弱格や跳ねるようなリズムを持ったりする.子守唄には,わざと子供には発音しにくい音を用いたりするなど音声学上の「トリック」も使われている.童謡はまた,親と子供の会話も促す.童謡の歌詞には,パラドックスがあったり意味的に矛盾していたりするものもある.そしてさらに,例えば「牛が月を飛びこえた」など,通常の観念で理解できる「言葉と世界」とのつながりでは成立しないような,ぶつかり合いを含んだ言葉の世界観へ子供達を誘うのである.また,童謡は,様々な差異や同一性を含み,これによって,子供は,時間,場所,社会関係などの構造を理解していく.童謡の世界では,「なにか言う価値のある事を言うために発話する」という通常の言語行動の前提は成立しない.一つの世代から次の世代への電報ともいえる童謡は,独特の子供の文化を産み出すための言語や伝承的知識を含むものである.口頭伝承の童謡がもつ一つの重要な要素は,それがしばしばすでに絶滅してしまった言語の残存例を含んでいるということである.(例えば南アフリカのKukasiなど).童謡には方言の違いが反映されていることもある.また「子守り」文化の中には,童謡の形を借りて,辛いしかしユーモラスな部分も含んだ,あざけりに近い歌が歌われることがあるが,これは,社会批判を含む一つのディスコースである.すなわち,童謡が文盲や社会的弱者にとっての抵抗の武器となるのである.本論では英語,日本語,アイヌ語,フランス語,そしてドイツ語の童謡を例にとり,童謡は社会言語学的に研究されるべき,独立した言語の一類型であることを論ずる.
著者
バックリー 節子
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A 教育研究 = Educational Studies (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
no.62, pp.79-85, 2020-03-31

現在,日本は生活水準向上のため,高度な知識,スキルを必要とする知識基盤,実力主義社会である。 一方,日本では少子高齢化が急速に進み,雇用不足の撤回,高年齢者介護福祉が必須とされる。しかし, 男性中心の雇用,社会システムおいて,女性差別は深刻な問題である。1985 年の雇用機会均等法施行以 来,政府は雇用,社会システムにおける男女平等に全力を尽くしているが,教育の機会均等にもかかわ らず,日本の雇用,社会システムは依然として,男女不平等である。本稿は,まず雇用,社会システム における女性差別問題を明確にする。次に,政府がどのように女性差別問題に取り組んでいるかを探索 する。さらに,心理学的,社会学的立場から,日本女性の社会進出への可能性を探索する。本稿は特殊 文化を持つ日本社会における女性差別問題を論理的に提起し,女性の社会進出を社会の公生及び人権レ ベルで捉えることにおいて,有意義であろう。 Today Japan is a knowledge-based and performance-based society where demonstrating advanced knowledge, information, and skills are critical to success. Meanwhile, Japan is facing a sharp declining of the birthrate as well as societal aging, a combination which causes a labor shortage. In spite of the equal opportunity for education for all in Japan, the labor and social system stressing Japanese traditional gender roles certainly reveals gender inequality. Consequently, labor shortage and gender inequality in the labor and social system is a critical issue. The question is how to change a distorted gender perspective and take action for equity and human rights. Since the Equal Opportunity Law was enacted in 1985, the Japanese government has been striving to attain gender equality in the labor and social system. This paper will 1) clarify the gender issues in the labor and social system; 2) examine the government measures to attain gender equality in Japan; and 3) examine gender equality for equity and human rights from a psycho-sociological perspective. Advanced knowledge, information, and skills are needed to enhance equity in the labor and social system. Furthermore, there is a need for empowering the relationship between men and women that may help them to build a gender-equal society. Without a change of men's consciousness about gender equality, there is no solution. This approach could benefit educators to find ways to attain gender equality and to empower the relationship between men and women in the labor and social system, which could result in attaining human rights in Japan.
著者
水口 洋
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A 教育研究 = Educational Studies (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
no.55, pp.43-53, 2013-09-01

学校教育を構成する特別活動の中で,学校行事は生徒の帰属意識を培うために有効な手段となっている。それぞれの学校の特色は行事の中に見られる。しかし,学校行事の一部に位置づけられる儀式的行事は,多くの生徒・卒業生にとって印象の薄いものとなってしまっている。それは式典の意味がきちんと伝えられていないからであろう。歴史的に見ても,式典の形式や内容については,様々な議論が展開されてきた。とりわけ,式典における国旗・国歌の用い方を巡って政治的・社会的問題が繰り返されてきたが,肝心の生徒に対する式典の意義は議論されずに,例年通りに踏襲されているに過ぎないことが多い。本稿は学習指導要領に見られる特別活動の意味を視野に入れつつ,式典等の儀式的行事の持っている教育的意味について考えてみたい。児童・生徒にとっての,「節目体験」になる区切りの行事の大切さについて考察してみたい。School events are an effective means of giving students a sense of belonging. The characteristics of the school are also evident in various school events. Unfortunately “ceremonial” events have, over time, lost significant meaning for students. Historically, the form and content of ceremonies have created various problems. Problems concerning the national flag and the use of the national anthem in the school ceremony have repeatedly created political and social dispute, although there has been no debate in the educational sphere on its meaning. I will consider the meaning of school ceremonies in this paper and consider the meaning of the events that are important in students’ social development.
著者
栗山 容子
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.79-96, 1989-02

前回の報告(1987)では,過去8年間のICUに於ける教育実習生の成績評価の資料分析を通して,実態調査の結果を報告した。本報告では,問題をさらに明確にするために,次の視点から検討を加える。第一に,教育実習生の教授スキルに関する評価項目の検討である。従来の評価項目は,実習校の指導教諭に記入してもらう評価項目が9項目(Q1.勤務状態,Q2.児童生徒に対する理解・愛情,Q3.児童生徒の取り扱い・評価の公平さ,Q4.学習指導の計画する能力,Q5.学習指導技術,Q6.研究的態度,Q7.学級・ホームルーム管理能力,Q8.学校ならびに教師に対する協力的態度,Q9.教師としての適性)である。前回の報告にあるように,これらの評価項目の因子分析の結果,1因子のみが抽出され,いずれの項目においても因子負荷量が高かった。特に,教師としての適性の因子負荷量が最も大きく,相対的に勤務状態のそれが最も小さいことから,教師の適性に関する一般因子と考えられた。これらの評価項目は教師としての適性の一面を捉らえているにしても,個々の項目が概念的レベルで記述されているために教育実習生に対する具体的なフィードバックとなりにくく,評価項目の検討の必要性が示唆された。また,9項目のうち,Q5.学習指導能力はQ7.学級・ホームルーム管理能力に次いで実習校教諭の評価が低かった。Q7.学級・ホームルーム管理能力については,実習生に学級を任せないケースが多いことからその理由を述べた。しかし,Q5.学習指導技術については,大学における各教科教授法等で指導が行われているが,この評価項目だけでは具体的にどのような点において教育実習生の指導技術に問題があるのか,その内容が明確になっていないので,指導に生かしにくい。そこで,一つの試みとして,教授スキルに観点を絞って,より具体的な行動のレベルでの評価を可能にする評価項目を作成し,これらを用いて教育実習生と実習生を指導した実習校教諭のそれぞれに実際の授業の結果を評価してもらい,評価項目の検討を加える。同時に,これらの結果から教授スキルの具体的内容を検討する。その際,各教科にはそれぞれ独自のスキルが必要とされるが,ここではどの教科にも必要とされる基本的な教授スキルを問題にする。また,教授スキルの内容が明らかになったところで,教育実習生の自己評価と指導教諭の評価の違いについて検討する。第二に,前回の報告で実習校が中学校の場合と高校の場合で指導教諭の評価に違いが見られ,中学教諭の方が9項目すべてにおいて有意に評価が低いという傾向があった。しかし,学習指導技術については,他の項目と比べると,実習校間の評価の差は最小であり,ともに評価が低いという傾向もみられた。そこで,教授スキルに関する具体的な行動レベルでの評価では,どのような違いがあるか,またその具体的内容を検討する。第三に,教授スキルに関する新しい評価項目と従来の評価項目の関連を検討する。いずれも,教育実習生の授業の事後評価を狙ったものであり,特に,従来の評価項目のQ5.学習指導技術,Q9.教師としての適性と教授スキル項目とは強い関連があると考えられる。
著者
マーハ ジョン C.
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A 教育研究 = Educational Studies (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.117-123, 2011-03-31

あだ名とは、個人に属する名前の代わりとして、もしくは、個人の名前に付け加える形で、個人を特定する参照表現である。それは新しい分類化である。名前を作り出す方法が存在する。あだ名は語彙を増やす。あだ名とは、他人の先入観や、性的、人種的ステレオタオプや、集団の規範の強化などを明らかにする。あだ名とは、社会管理の一つの形である。あだ名は、同族意識と集団の連帯感覚、つまり団結心を強めることができる。あだ名はしばしば、社会的、言語的な行動に影響を与える。個人は、あだ名を持つことにより、自分の行動の特徴や、話すアクセントや体型や日常の習慣を変えようとすることがある。同じ集団にいる人々を特定し、明確にすることもできる。あだ名をつけることは、こども時代に、そして学校において、広く普及している。男性は女性より、あだ名をつけられたり使ったりすることが多い。男性のあだ名は、強さや大きいことという意味を含むことが多い。たとえば、野球の松井秀喜選手をゴジラを呼ぶといったものである。女性のあだ名は、軽蔑的あだ名であるよりは、愛情のこもったものであることが多く、身体的・個人的特徴 (美しさ、親切)を示す傾向がある。学校の教師にあだ名を付ける慣行は広く普及している。教師は、教員としてのステレオタイプなイメージを自ら投影する。この教室でのペルソナは、子どもたちから教師を守り、また教師のプライベートな生活を守る防御手段となる。一般には親しさや、あるいは不満や軽蔑を表明するために使われる名付けの工夫を生徒がこっそりと使うことは、おそらくは強力な人物の地位を対処できる程度にまで矮小化する方法である。こういう形で、生徒であることからくる無力感が和らげられるのである。ここで使用するデータは、2008年から2010年における東京西部のある中学校の2.3年生のものである。
著者
臼井 直人
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.277-303, 2000-03

本論は一部の英語教育研究者およびコミュニケーション学者が議論している「英語帝国主義への反論」に見られるイデオロギーを批判的に分析することを目的とする。これら研究者達は日本人の英会話に対する熱のいれ方、日本人の欧米文化の取り入れ方、学校英語教育の方向性などを一種の「英語帝国主義のイデオロギー」に毒された病理であると見なし、英語帝国主義を批判している。しかしその一方でこの帝国主義に対抗する手段として「コミュニケーションの平等」の名の下に日本国内における英語の使用の否定、「美しい日本語」の保持、日本人としてのアイデンティティの確立などを提案する向きがある。本論はこのような19世紀的国家イデオロギーにも似た思想が、果たして真のコミュニケーションの平等、国際人の養成に健全な形でつながるのか、多言語主義・多文化主義の立場から理論的考察を試みるものである。
著者
武田 清子
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.22-79, 1956-12

Since Meiji Restoration the Emperor system was re-established and re-emphasized by the government along the line of the national policy to establish the absolute monarchy, and in order to mold the Japanese people as the obedient subjects of the Emperor, education was nationally organized under the authority of the Imperial Rescript on Education of 1890. Thus for the majority of the people the Emperor system has become not merely a political system but a kind of idol or absolute authority which gives the centre of value and meaning of life, and has determined the way of thought and the nature of personality development. Through the history of Protestantism in Japan, for Christianity the Emperor system has been one of the most serious obstacles to penetrate into the heart of the Japanese culture. Even the Christians themselves have been often tainted by this earthly authoriity in their way of thought and attitude towards community or national life, though at this point many felt contradiction and were impelled to struggle. Therefore how the Japanese Christians have struggled with and found solution to this problem is one of the crucial points in examining the nature and problem of their thinking. In order to examine this question I prepared questionnaire on this subject and asked about 200 the Japanese Christians of all generations (from those who were born in the early part of Meiji period to the post-war generation) and of various kinds of profession to answer. Fortunataly there was a very good response, and I recieved both answers to the questionnaire and the general remarks and opinions on Emperor system. Besides this I had personal interviews with some outstanding Christian leaders and common church members. The present paper is an analysis of the ideal types of the way of thought of the Japanese Christians with the use of these materials. Three general types were distinguished: (1) Traditional affirmative type (2) Co-existential type (a) Affirmative type with Christianity as medium (b) Negative type with Christianity as medium (3) Confrontational negative type.
著者
アルベール ギヨーム
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A 教育研究 = Educational Studies (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.25-32, 2016-03-31

大学生が高等教育レベルを学ぶ時,基礎的な要件となるのは論文の書き方である。しかし,常に問題とされるのは,彼らが中等教育で論文の書き方を既に学んでいることを求められている点である。ただし,そのような知識を要して論文を書いている学生は稀である。同時に筆記試験が基本という教育制度において論文を書くための知識を中等教育の時から高めるたとしても得られる価値は少ないのである。本稿はKuhlthau のInformation Search Process(情報検索プロセス)を使い論文作成の最初のステージに焦点をあてる。研究を理解する上で重要なWord Knowledge(言葉知識)について主にスポットライトをあてる。ICTの発展により,データベースにアクセスしやすくなったことで,文献レビューの機会が多くなり研究の幅が広がった。しかし,それらデータベースを使いこなすためには,Word Knowledge(言葉知識)が必須であるが,その概念を理解し咀嚼することは難しい。本稿は,理論的観点と実践的観点の二つのアプローチを取る。
著者
向井 敦子 深谷 澄男
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.83-125, 1991-03

Figure 1 shows singular and plural forms of English personal pronouns and their corresponding present forms of be verb. An inexperienced student of English said there was something unacceptable in the figure. Please look over the figure to guess his question. His question is why the singular form in the second person is identical with the plural, though the singular form in the first and the third person is distinguished from the plural. Another question is why 'Are' is used after 'You' even in the singular form. Shouldn't 'Are' as a be verb follow the plural form of a subject? These questions given by the innocent student have strongly stimulated the authors. If the singular form of 'You' simultaneously implies plurality, who and who are held in the mind of a speaker? Let's suppose the interpersonal situation, where Jack and Betty are in the discourse. When Jack is conscious of himself as a speaker, 'You' for Jack is naturally Betty. When Jack is aware that Betty expresses herself as a speaker, Jack inevitably stands as 'You' for Betty. This implies that the two persons' discourse begins with the complementary consciousness of 'You', and goes on with the recurrent exchnage of 'You'. The use of 'You' is well correspond to the use of Japanese word 'Jibun'. 'Jibun', as well as 'You', has two aspects. In one aspect, 'Jibun' expresses oneself as an actor. And in the other aspect, 'Jibun' realizes oneself as a mediator that makes it possible for the other person to express oneself. When 'Jibun' becomes conscious of expressing oneself as the second person, 'Jibun' gets aware of realizing oneself as the first person. Therefore, 'Jibun' or 'You' can be recognized as a complementary and recurrent unity, which is ready to express oneself in one context, and which is ready to realize oneself in the other context. The singular form of 'You' may reflect the unity of recurrence, and the sense of plurality of 'You' may reflect the complementarity of the two possible aspects. Next, let's take a view of the interpersonal situation, where Betty, Jack, and Tom are in the discourse. Here, the singular form of the second person will be symbolized as 'You', and the plural form as 'You'. When Betty calls herself as 'I', Jack or Tom is 'You', or Jack and Tom are 'YOU'. In the three persons' discourse, 'You' for Betty remains uncertain till Betty decisively points out either Jack or Tom. When Betty chooses Jack as 'You' or 'WE', Tom is inevitably signified as 'not You' or 'THEY' in her mind. From this, 'YOU' can be recognized as a possible state which may divide into 'WE' or 'THEY'. In this sense, 'I' is the first person or a subject, and 'YOU' is the third person or an object. Because 'YOU' judged as 'WE' is subordinate to the subjectiveness of 'I', and 'YOU' judged as 'THEY' is opposed to the subjectiveness. Both subordinates and opponents are not 'You' after all. Then, we can define 'Self' as 'i' who recurrently and complementarily generates from 'You', and 'Ego' as 'I' who subjectively and decisively classifies 'YOU' as subordinates or opponents. In other words, the consciousness of 'You' is a process of self-expression, and the signification of 'YOU' is a processing of ego-realization. These two aspects are also complementarily integrated into 'Jibun'. Hypothesis 1 takes the point of view of a baby in the interaction with its mother, and gives some assumptions on how to realize its 'demanding-ego'. Reversely, hypothesis 2 takes a point of view of a mother in the interaction with her baby, and gives some assumptions on how to express her 'contacting-self'. The demanding-ego illusionary develops its internal subjectiveness in the support of 'You', so that 'I' can dependently occupy the center of its phenomenal world. On the other hand, the contacting-self realistically acquires its external objectiveness for the support of 'You', so that 'i' can dependently share its ecological world. 'I' demands and expects how the world should go on, and so 'I' must be very conscious what might be assimilated by 'YOU' in the reflection. This process is called as feedback' in the figure 4. 'i' contacts and foresees how the world can go on, and so 'i' must investigate what can be accommodated by 'You' in the trial. This process is called as 'feedforward' in the figure 4. 'YOU' demonstrates standards to be accommodated for regulating the demanding-ego. And 'You' illustrates clues to be assimilated for planning the contacting-self. These recurrently on-going processes are integrated and illustrated into a kind of cybernetic system in the figure 4.
著者
呉 恵卿
出版者
国際基督教大学
雑誌
教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
no.56, pp.119-127, 2014-03

本稿の狙いは,韓国の都心大型市場という空間が言語の芸術性を実現する場であり,ことば共同体として機能していることを明らかにすることである。市場に見られる談話型のうち,本稿では商品と関連した単純な情報を繰り返す「叫び型」談話に着目した。SPEAKINGモデルを援用して韓国の市場で収集した「叫び型」談話を提示し,他の談話型との違いについて述べた。さらに,「叫び型」談話をバーバルアートの側面から考察し,特定の音韻や文法,意味,韻律構造の反復によって実現される言語的並列構造が市場談話の中にどのように現れているのかを分析したところ,韓国の市場における「叫び型」談話は一定の押韻パターンを持ち,遊戯性に優れる詩的構造を持つことが示された。また,音律パターン,同一音韻の反復,語彙的・統語的変異という談話レベルの装置によって音楽性をもった一つのバーバルアートになっていることが明らかになった。Current research reveals that urban marketplaces function as specifically contextualized spaces that encourage linguistic creativity. Among the number of discourses performed in the Korean marketplace, the author focused on Vendor-Call, where sellers repeatedly cry out simple bits of information about the goods and prices in a loud voice. In Vendor-Call, the sellers use limited communicative resources, including both lexicon and syntactic structure. First, the author offers a definition of Vendor-Shouting discourse based on the ethnographic description of naturally occurring Vendor-Call in Korea using the SPEAKING model proposed by Hymes (1972). Next, the author considers the viability of Vendor-Call as a verbal art (Bauman 1977) by analyzing the way in which linguistic parallelism appears through the repetition of a specific phoneme, syntactic structure, specific meaning, and prosody. Consequently, the author elucidated the poetic verse structure of Vendor-Call with its specific rhyme, musical elements, and prosody patterns, repetition of like phonemes, variation in vocabulary and grammatical structure, and other linguistic devices, which are characterized by elements of linguistic play. Finally, the rhythmic structure created through repetition, linguistic parallelism, and musical effects strengthened through the co-occurrence of a nonverbal performance, such as rhythmical clapping and verbal performances accompanied by the tapping of feet, transforms Vendor-Call in the Korean marketplace into a verbal art.
著者
石川 勝博
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.11-20, 2008-03

本稿の目的は,大学生のケータイ・メールによるコミュニケーションでの相手との親密度(親しい友人,それほど親しくない友人,メル友)と自己開示との関連を探索的に明らかにすることであった,その検討のために,茨城県と埼玉県の大学生548名を対象とした調査を2004年1月と2月に実施した.そのうち,542名が分析対象者となり,「メル友がいる」回答した者は106名であった.彼らについて,親しい友人,それほど親しくない友人,メル友それぞれに対する自己開示的なコミュニケーションを一元配置分散分析によって,探索的に明らかした.今回の調査は,基礎的なものと位置づけられ,今後も検討を進めることが必要である.
著者
張 瓊華
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.177-187, 2008-03

義務教育が提唱されてから100年間以上も経過しているにもかかわらず,多くの発展途上国においては,それがいまだに普及されていない.それはなぜだろうか.本稿では,それを解明するために,途上国の中国を取り上げ,中国における義務教育の政策とその展開を検討した上で,中国西部辺境地域のK県で行ったインタビュー調査とアンケート調査の結果に基づいて,子どもたちを取り巻く教育環境や学齢児童の就学状況に焦点をあてて,分析する.
著者
安原 実
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.97-102, 2008-03

大学生に中学生時代の学校の思い出を尋ねると答えは実に多様である.人間関係でつらかった体験も少なくないがよい思い出としてはクラスでの生活や修学旅行・合唱コンクールなどが上位にランクされることが多い.教育課程の分類で見てみるとそのほとんどが中学校の「特別活動」に係ることである.それだけ「特別活動」が成長期の中学生に与える教育的インパクトは大きい.この「特別活動」を学校において構成・実施していくにあたっては,学級担任や学年の担当者任せにすることなく,学校内外の「教育資源」を最大限有機的に組み合わせ計画的に実施することが大切である.学ぶ意欲の衰退やいじめの続発という教育課題に対してもこれを克服する力を生徒に培うきわめて有効な実践が「特別活動」である.
著者
高林 友美 佐々木 輝美
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.137-146, 2015-03-31

現在のICT社会においてますます注目をあびる自律的学習の研究は,教育心理学,言語教育,成人教育,など,いくつかの領域に分かれて行われている。本研究はこれらの研究を領域横断的にまとめることで自律的学習に重要な要素を明らかにしようとした。各領域の代表的な特徴としてモチベーション,対人コミュニケーションの積極性,自己理解といった要素を発見し,それらに関係する新しい要素として学習のためのメディアという視点が導かれた。更に,この視点に関して関東圏の大学生300人を対象とした調査を行ったところ,メディアリテラシーやイノベーティブネスといった学習メディアの利用の傾向と自律的学習の間にある程度の相関が認められた。Studies of autonomous learning are attracting increasing attention in current ICT society, and are spreading into various disciplines and domains such as educational psychology, language education, and adult education. Summarizing the results of autonomous learning studies in these disciplines, this study explores the elements of autonomous learning. The results indicate the positive attitudes toward personal communication, self-understanding, and motivation constituting the representative characteristics of each discipline; in addition, a new viewpoint emerges called ‘learning media.’ This new viewpoint was researched in a survey of 300 university students in the Kanto area. The results revealed a moderate positive correlation between autonomous learning and learning media usage, measuring with media literacy and innovativeness.
著者
荻本 快
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A 教育研究 = Educational Studies (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.81-88, 2014-03-31

父親と幼児によるRough-and-Tumble Play(RTP:乱闘遊び)は,幼児が自らの攻撃性を制御する能力の発達に寄与することが示唆されてきた。本論は,父子のRTPに関する幼児の発達理論に基づき,介入プレイ観察法による事例検討をもとに理論的考察を行うことで,父子のRTPにおける幼児の自己制御の発達要件について,その変数間関係を考察した。その結果,RTPにおいて優位性を保つ父親が攻撃性を制御する態度と行為を示し,それを幼児が模倣することで,攻撃性の制御の内在化を促進する父子の協調が生じることが見出された。そして,幼児の攻撃性の制御が安定化する過程で,RTP中に幼児が自らの限界を超えようと挑戦することと,それに対する父親からの賞賛と誇りの表現によって幼児の父親への同一視が強化されることが考察された。
著者
中嶋 佳苗 磯崎 三喜年
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A 教育研究 = Educational Studies (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.61-69, 2014-03-31

本研究は,「ふたりきょうだい」に焦点をあて,「きょうだい」関係における対人魅力の検討を行った。研究1では,日本の大学生96名を対象にきょうだいにおける対人魅力尺度を作成し,研究2では,研究1で作成した尺度を用いて性格の社会的望ましさと類似性がきょうだいの魅力に与える影響を検討した。研究1より,きょうだいにおける対人魅力尺度は「交流因子」「信頼因子」「誇り因子」の3因子全15項目の構造であり,高い信頼性があることが示された。研究2では,先行研究より,性格の社会的望ましさの方が性格の類似性よりもきょうだいの魅力に与える影響が大きいという仮説をたて検討を行った。その結果,仮説を支持する結果が得られ,きょうだい関係においても類似性の効果よりも社会的望ましさの効果の方が魅力判断における影響が大きいという,これまでの知見と一致する結果が得られた。
著者
金 玉泰
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.29-39, 2008-03

日本では明治期(1868〜1915),韓国では旧韓末期(1876〜1910)に,近代的学校体育が始まったが,特に軍事主義的な体操が勃興したのは,当時の民族主義的な時代状況によるのであった.かつて,明治維新を通して近代化を成した日本は,学校体育に兵式体操を導入し,更に振興させるようになった.初期には,軍事的なことと関係がなかったが,富国強兵の国家主義的な思想とともに,体育の軍国主義化への道を歩くようになり,兵式体操は軍事主義的な性格に変わるようになる.相対的に,近代化の遅れた韓国は,日本を通して兵式体操を導入し,発展させた.当時の国家的な状況によって,強靭な体力の大切さを認識し,特に,私学を中心に兵式体操をより強化しようとしたが,日本の保護下に入るようになった状況では,不如意になり,活発した兵式体操も,続けることができなかった.つまり,純粋な学校体育が政治的な目的に利用される結果になったのである.
著者
コンラッド クリフトン F. ジョンソン ジェイスン
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 = Educational Studies (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
no.50, pp.103-118, 2008-03-31

自由な学術の教育を促進するにはどうすべきか.有力なアイデアは,現存の文献にも多数見いだされ自由な学術の教育を促進するにはどうすべきか.有力なアイデアは,現存の文献にも多数見いだされるが,しかしリベラルアーツ教育論には三つの大きな弱点がつきまとっている.第一に,リベラルアーツ教育論は,個々の大学の多様な事情を抜きにした,万能な解決策で満ちあふれている.第二に,リベラルアーツ教育論は,カリキュラムの変容過程に比して,カリキュラムの内容の方を法外に重視することで,焦点の中心がズレている.第三に,リベラルアーツ教育論は,歴史的な試みに無頓着である.こうした事情を踏まえて構築された本論は,自由な学術の教育の改革において,有意義な改善と革新とを導くための,三つの試金石を提示する.第一は,変容的な改善という運動を奨励すること.続いては,将来性のある定義や実践を探求し続けること,そして最後に,形成的な評価に照らして,カリキュラム・モデルを実験し,改造してゆくことである.
著者
森住 史
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.223-235, 2002-03

本研究の目的は大きく分けて次の二点である.1)女性の方が男性よりも外国語学習をする傾向にあり,さらに女性の方が男性より外国語学習において優れている,という,しばしば当然の事のように人々が信じていることが,実際に正しいのかを検証する.2)上記の点に関して,女性と男性が外国語と外国語学習において異なる傾向をしめすならば,違いが出る要因に何があるのか検証する.幅広い分野(ジェンダー学,社会心理学,社会言語学,言語教育,教育学など)の先行研究ならびに新聞雑誌の記事に加え,統計上の数字を検証(イギリスのGCSE/GCE,東京外国語大学の入学志願者/入学者数,国際基督教大学での語学クラスの登録状況とTOEFLの成績)した結果,男性より女性のほうが外国語学習に熱心で,しかも成績がいい,という一般的な考え方を確かめるものとなった.そこで次に外国語学習者自身に焦点をあて,アンケートとインタビューによる調査をエディンバラ大学(パイロットスタディ)と国際基督教大学で行った.その結果,まず卒業後の進路とその前段階での高校での理系文系の進路に決定により,語学科目が「女性のもの」という規範が学生達によって認められていることが確認された.更にインタビューから分かったことは,語学学習を取り巻く環境のなかで,学生達が自分の信じるジェンダーアイデンティティやエスニックアイデンティティと社会規範に沿って行動していることが多い,ということである.つまり,「女/男であること」「日本人であること」の意識が外国語学習に対しても影響を与える要素であり得るのである.これは今までの言語学習におけるジェンダーの研究のなかで,ほとんど触れられてなかった点である.本研究は,言語学習におけるジェンダーの有り様をより良く理解する鍵が,インタビューの語りにおける言語学習者達の生きた声のなかに見つかる可能性を示している.