著者
今井 真士
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.36, no.1, pp.1-27, 2020-08-31 (Released:2021-09-30)

To appropriately understand and operationalize the concept of “personalist rule,” this article separates the institutional arrangements of the (de)centralization of executive power into three components: the organizational foundation of the ruling elites, executive-legislative relations, and constitutional authority and partisan power. This article is divided into four sections. First, it indicates that previous studies on “personalist rule” have focused on its two primary features: the long-standing rule and centralization of executive power. Second, based on the above three aspects of the (de)centralization of executive power, it explores the institutional arrangements of the Egyptian third republic, which was established in the 2014 constitution and reformed in 2019 to coexist with the second chamber, the vice presidency, and presidential term limits under semi-presidentialism. Third, it discusses the institutional implications of extensive constitutional reform and suggests that the introduction of the vice presidency and second chamber, with the simultaneous relaxation of presidential term limits, can give an impression of strengthening the decentralization of executive power when in fact weakening it. Finally, it concludes that such an argument contributes to broadening the institutionalist perspective on authoritarian regimes and constructing a measurable and reproducible indicator of “personalist rule.”
著者
臼杵 陽
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.28, no.2, pp.59-84, 2012

本論文は大川周明の生涯を通して彼のイスラームへの関心の変化を論じる。大川は右翼のアジア主義者として知られているが、イスラーム研究者でもあった。彼は東京帝大時代スーフィズムに関心をもった。しかし、彼は 1913年、内的志向の精神的イスラームから外的志向の政治的イスラームその関心を転換させた。同時期、「コーランか剣か」を預言者ムハンマドの好戦的表現だと考えていた。しかし、オスマン帝国崩壊後はイスラームに関して大川は沈黙を保った。約20年後の1942年、大川は著名な『回教概論』を刊行した。同書は読者の期待に反して、日本の戦争宣伝を意図するものではなかった。同書は日本的オリエンタリストの観点から理念型的なイスラームとイスラーム帝国絶頂期の理想化されたイスラーム国家の姿を描いたものだったからである。戦後、東京裁判の被告となったが精神疾患のため免責された。大川は松沢病院でクルアーンの翻訳を行なう一方、完全な人格としての預言者ムハンマドへの崇敬を通してイスラームへの関心を取り戻した。晩年の大川は開祖を通してキリスト教、イスラーム、仏教などの諸宗教を理解する境地に達したのである。
著者
ケネス・ M・クーノ
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.32, no.2, pp.5-20, 2017

イスラーム法(シャリーア)は、法学的な解説や注釈を通じて理解されるが、ファトワー(法的意見書)集とイスラーム法廷文書(記録)は、イスラーム法が日常生活においてどのように適用されていたかを明らかにする。だが法廷文書でさえ、社会生活のありのままの記録とはいえず、そこになにが書かれていないかを問いかけなければいけない。本論文は、ファトワー、法学書、近年の法社会史研究を用いながら、19世紀エジプトのシャリーア法廷に出現した故人の債権をめぐる訴訟が、原告の相続人としての地位を確立するための戦略であったことを明らかにする。相続人は、彼らの相続権が争われるときに、このような間接的な方策をとる。たとえば、家長や村長は、法廷外で財産を分割するときに、女性や年少者の正当な権利を奪い取ることができた。複婚(多妻)と生前の離婚のために、ひとりの男性の複数の妻と前妻と異なる母の子どもたちとの間で、紛争が生じることがあった。これらの訴訟は、それまで証人による証言が証拠とされてきたシャリーア法廷において、1856年と1880年の訴訟法によって、法廷文書や文書証拠があれば有効(勝訴あるいは提訴不受理)とするシャリーア法廷の新しい訴訟手続きの影響でもあった。故人の債権を請求する訴訟は、必然的に婚姻や親子関係を通した原告の相続権を法廷で確認し、文書記録を作成することになるからである。相続権をめぐる訴訟は、1860年代から90年代初頭に頻繁にみられたが、以後消滅する。1897年の訴訟法は、婚姻や離婚をめぐる死後の請求訴訟は、文書証拠がないかぎり受理しないと定めた。この時期に、エジプトでは、ハナフィー派の法理にもとづく、イスラーム法と法廷組織の一元化が進行する。1860-90年代の訴訟は、女性や子どものような不利な境遇にある人びとが、彼らの権利を法システムのもとで確立する可能性と、新たな訴訟法の規定を緩和する法的な戦略を示すものである。
著者
浜中 新吾
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.71-87, 2018-06-01

軍隊は社会的価値の生成と内面化にとって重大な役割を果たす組織である。イスラエルは国民皆兵を採用しており、若者の国民統合に大きな役割を果たしている。しかしながら国民皆兵の建前にも関わらず、市民の三人に一人は兵役を免れているという。本稿は兵役免除という事実を利用して、兵役の政治的社会化機能を分析した。すなわちイスラエル国防軍への従軍が市民の政治的態度に与える影響を実証的に検討している。ここでは軍務の国民統合機能に関する理論から導出した仮説を検証した。その仮説とは、軍隊への従軍経験が国防意識を高め、パレスチナ占領地域を護持しようとする非妥協的な態度を生み出す、というものである。仮説検証に用いたデータはユダヤ人市民を対象に2007年2月に実施された民主主義サーベイである。リサーチ・デザインでは疑似ランダム的に従軍経験を持つ処置群と従軍経験を持たない統制群を同数になるよう生成するため、プロペンシティ・スコア・マッチングを行った。これにより兵役を免除される属性(性別、宗教的アイデンティティ、旧ソ連邦からの移民)を統制し、属性の面で差異のない二群を創り出すことで比較分析を可能にした。本稿の分析では、徴兵されたユダヤ人市民と徴兵されなかったユダヤ人市民の間で、民主主義への満足度、シオニスト・アイデンティティ、リーダーシップやナショナル・プライドについての意見に差異は見られなかった。しかしながら、軍隊経験を持つ市民はアラブ人の強制追放政策に反対し、紛争解決のために西岸地区の領土的譲歩を支持する、という反直感的な結果を得た。この結果は軍務の国民統合機能に関する理論に再検討を迫ると同時に、パレスチナ問題の二国家解決案に望みを繋ぐものでもある。なぜならイスラエル市民の多数派である従軍経験者は少数派である非経験者に比べて中東和平問題の解決に向けてより穏健であり、過剰な政策に反対する姿勢を示していると言えるからである。
著者
佐藤 友紀
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.35, no.2, pp.1-32, 2020

This essay aims to reveal the relationship between religion, freedom, and nation state powers in the early constitutional kingdom Era in Egypt. To do so, the author investigates the historical processes that resulted in Ṭāhā Ḥusayn being banished from public office by mainly analyzing parliamentary records.In conclusion, the state powers that intervened into issues of religion and freedom cannot simply be regarded as secular political applications of state power. The form of such powers can vary according to perceptions of religion, morals, order, and law, the 1923 constitution, and the relation between state authorities. This presents a complicated image of the relationship between religion and politics in Egypt that transcends the simplistic framework by which the two were considered either segregated or unsegregated.
著者
Bukhary Essam
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.39-84, 2007

本論文は、サウジアラビアと日本の戦略的なパートナーシップという枠組みの中で、両国の技術協力の現状と今後のあり方についての一見解を提示している。経済を中心に、サウジと日本の関係は非常に深いものとなっている。まず、サウジと諸外国における貿易では、日本は第2位の相手国である。とりわけ石油については、日本への最大の供給国はサウジとなっている。また、2005年の段階では、諸外国の中でも最大の直接投資国となっていた。同時に、日本はODA(政府開発援助)予算に基づくJICA(国際協力機構)を通じて、サウジに対して最も活発に技術支援を行ってきたのである。しかしながら、近年の石油価格の高騰とサウジの個人所得の増大により、2007年からサウジはOECD(経済協力開発機構)の下部機関であるDAC(開発援助委員会)が作成するリスト、すなわち被援助国リストから卒業する予定である。それはJICAがプロジェクトを終えることを意味しており、今後の両国間の技術協力の関係強化に関して、新しいアプローチを考案する必要が生じているのである。まず、サウジにおける経済発展の諸問題を振り返りつつ、石油に依存している経済を多様化する努力と、人口の55パーセントを占める若年層に向けた雇用創出の努力を支える恒常的な要因として、戦略の重要性を論じている。同時に、高等・技術教育制度の改善のために国際的協力の重要性を指摘する。次に、サウジにおけるJICAのプロジェクトを分析し、技術協力の現状を明らかにする。1970年代、それは開発調査に比重が置かれていたの対して、90年代には、技術訓練や職業研修へ比重が移されるようになった。最近は、サウジ側の意向もあって、プロジェクトの種類とその受益者の多様化が図られてきている。また、SJAHI(サウジ日本自動車高等研修所)およびHIPF(プラスチック加工高等研修所)の例に明らかなように、両国間が技術協力して実施した共同プロジェクトにおいて、両政府の支援が重要な役割を果たしたことが本研究で明らかとなった。一方、155力国におけるJICAの予算やプロジェクト数の統計分析によると、アジアや南米に比べて、中東は必ずしも最優先されている地域ではない。さらに、中東諸国の中で、サウジはJICAの予算と実施中のプロジェクト数で見れば第6位だが、石油輸出国の中では第1位であった。これに関して、関係者へのインタビューから、JICAは貧困国を重視してきており、サウジは豊かな国と見なされたことも、この結果を招いたということがわかった。さらに、サウジ側と所要経費を共同で負担するのみならず、将来的にはサウジ側の全額負担による技術協力の可能性も検討されてきていることが明らかになった。視点を改めて、両国間における技術協力の将来的な課題を取り上げている。そこでは、JCCME(中東協力センター)指導のもとで、中東諸国と日本の間の文化的交流や人材育成を推進するジャパンプログラムという新しい形態の事業が開始された。たしかに、2006年にはサウジを始め、その他の湾岸諸国も当プログラムがもたらした最大の恩恵を享受できた。しかしながら、当センターの予算とスタッフの制約もあり、JICAのプロジェクトの代替として考えるのは困難であることも判明した。また、両国の大学による学術協力にも光を当てている。今後、両国の大学間における学術協力や学生交流促進のために、インターネットによる両国間の講義の実施や、サウジの諸大学における英語による人文科学やイスラーム学の授業、また、日本の諸大学においても同じく英語による情報技術など工学関係の授業を実施することなどが提案できるだろう。結論として、サウジと日本の戦略的パートナーシップは、サウジから日本への安定的な石油の供給と、日本からサウジへの高水準の人材開発と技術移転をもたらすものとして理解されるだろう。それは、両国で持続的な経済発展を達成するためである。それは「石油と技術の交換」と換言できるだろう。つまり、サウジが求めているのは援助ではなく、パートナーシップと相互利益に基づく技術協力であるということを、日本側ははっきり認識することが重要であることを確信している。その一方で、サウジは最大の石油埋蔵量を誇り、世界で唯一の石油生産調整能力を持つ国である。日本は世界第2の経済大国であり、同時に技術帝国である。双方はそれぞれの状況を鑑みて、この戦略的なパートナーシップを成功に導くことができると言えよう。
著者
大渕 久志
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.34, no.1, pp.1-33, 2018

イスラームの哲学的神学(philosophical theology)についてイブン・スィーナー(アヴィセンナ、1037年没)の影響力が一般的に強調されるが、哲学的神学形成の立役者とされるファフルッディーン・ラーズィー(1210年没)は、イブン・スィーナーおよびアブルバラカート・バグダーディー(1152年没)の哲学のみならず、占星術や魔術のようなオカルト諸学にも造詣が深かった。これまでの研究は、これらオカルト諸学が自然学系の哲学として当時見なされていたにもかかわらず、ラーズィーの神学において占めるその価値を評価してこなかった。本論文は13世紀初頭における哲学的神学の実態を明らかにする研究の一部として、オカルト諸学を含む哲学がラーズィーの神学へどのように摂取されているかを考察する。第Ⅰ節の序論に続き、第Ⅱ節において彼の神学著作を時系列に沿って精査し、彼自身がどのような思想体系を哲学と認め、実際に受容したのかを検討する。すでに知られているように、ラーズィーはシャフラスターニー(1153年没)がその代表作『諸信条と諸宗教』(<i>al-Milal wa-l-niḥal</i>)においてサービア教徒内の分派、霊魂崇拝者のものとして記述していた宇宙論を、預言者を天使の下位に位置づける「哲学者」の教説として批判していた。霊魂崇拝者はヘルメスという神話的存在の権威を認め、占星術や宇宙霊魂を仲介とした魔術などのオカルト諸学を実践していたが、彼らの宇宙論をラーズィーが最晩年の『神学における崇高な課題』(al-Maṭālib al-'āliya min 'ilm al-ilāhī)では一転して自らの学説として採用している事実を筆者は新しく指摘する。第Ⅲ節では、ラーズィーが受容したところの「哲学者」すなわち霊魂崇拝者の由来を問う。近年の研究が明らかにしているように、サービア教徒と関連づけられてきたヘルメスという神話的人物が、シャフラスターニーを端緒としてイスラーム思想に積極的に取り入れられた。ラーズィーもこのアラビア・ヘルメス主義の興隆という時代に活動していた点を筆者は確認し、彼が認めた「哲学者」はこうした秘教的由来を有していることを指摘する。最後に第Ⅳ節では『神学における崇高な課題』をさらに読み、先の霊魂崇拝者の宇宙論のみならず、占星術や関連する天体魔術('ilm al-ṭilasmāt)などオカルト諸学の理論を神学へ受容していること、また彼がここで天体魔術師(aṣḥāb al-ṭilasmāt)を「古代の哲学者」と呼びあらわしていることを示す。ラーズィーは天体魔術師の思想を彼自身の神学へと受容した結果としてイブン・スィーナーと対照的に、流出(fayḍ)ではなく痕跡(athar)を鍵概念にする普遍霊魂論を採用し、人間のあいだの種(naw')を認める。霊魂崇拝者と天体魔術師はともにヘルメスの権威を認め、宇宙霊魂を仲介として地上に魔術的事象を実現することができると信じる。ラーズィーが両者を同一視していたか否かは断言できないが、彼はアヴィセンナ哲学の構造・概念をある程度保持しながらも代替となるべきものとして、オカルト諸学と通常呼ばれるような「哲学」を「神学」に統合したのである。
著者
崔 昌模
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.28, no.2, pp.27-50, 2012

It is to explore possibilities of a new interpretation in the <i>Honil kangni yŏktae kukto chido</i> (hereafter referred to as the <i>Kangnido</i>) by focusing on discourses of map and map contents. For this it will be provided a general historical background knowledge of maps, such as intentions of map-making, the process of map-making, geographical information reflected on map, and map-makers etc, in the context of how political power has shaped those elements of map-makings. And also I attempt to grasp the perception of the 'external world,' which is in particular Arabia-Africa region by focusing on Arabia-Africa geographical and topographical characters and place-names, identified with about seventy-one names consisted of twenty-four names of places in Arabia and forty-seven names of places in Africa. A history of map can be interpreted as a historical discourse or a form of representation. Cartography is theoretically related to literary criticism, history of art, the sociology of knowledge. Map is never value-free, rather value-laden. Map knowledge is a social product. Any history of cartography which demeans the politico-social significance of its expression and description in the map would be an 'ahistorical' history.
著者
渡部 良子
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.185-216, 1997-03-31 (Released:2018-03-30)

During 13-14th century in Iran under the Ilkhanids, it has been noted that Iranian local societies were independent because Mongols were unable to control their settled societies. This was in particular emphasized in the south-west part of Iran, where many local ruling families had semi-independent dominance. But, what kind of administrative policy and system the Ilkhanids had toward such local societies is still obscure. Fars, one of the south-west regions of Iran, had some noticeable characteristic which were different from such a general understanding. First, it was financially important for the Ilkhanids. Second, the local ruling family Salghurids, was abolished in its earlier stage. And lastly, after collapse of the Ilkhanids, a new ruling family, the Injuids appeared. Although the Ilkhanids fiscal administration in Fars was studied by Dr. A. K. S. Lambton, her study was limited to listing of the confused aspects of Mongol fiscal control. Therefore in this paper, I have presented the analysis of (I) the processes of establishment of Ilkhanids' administrative system and policy in Fars, (II) the characteristics of the system and policy, (III) the background of the emergence of the Injuids, and (IV) the relationship between the Ilkhanids' rule and Shiraz society. Mongol administrative and fiscal system were first introduced to Fars by Salghurid atabeks, who were recognized their rule and established the relationship with the Ilkhans' family by marriage; Then various new taxes which the Mongols introduced to Iran, and the crown land inju were established. After the diminishment of the Salghurids' power, Fars was put under control of the governors(hakims) who were sent from the central government. But those who played the most important role in controlling Fars were the merchants of the Indian Ocean trade, the Sawamilis, rulers of Qays Island in Persian Gulf. They emerged because of the importance of Shiraz (the capital of Fars) in trade route between the Indian Ocean and inland regions of Iran, and Ilkhanids' strong interest in commercial wealthes. On their cooperation, muqata' ah system, the Ilkhanids' basic tax-collecting method had a great effect. But on the other hand, the relationship between the Sawamili who were the outsiders in the local society of Fars and other diwan officers who were in charge of tax-collecting was never free from hard conflicts. During the reign of seventh Ilkhan Ghazan, Ilkhanids' policy to Fars changed. First, though fiscal reform in Fars failed, Fars got more importance because its inju lands were Ghazan's own property. Second, since Sawamilis' Qays was defeated by Hurmuz which administratively belonged to Kirman, Sawamilis' contract got less effective in controlling the wealth of the Indian Ocean trade. Because of these changes, after the Sawamilis lost their position in Fars, the Injuids (inju administrators in Fars and bureaucrats of high office in the central government) finally held domination over Fars. In the background of the rise of the Injuids, there were the strict controls over Fars by the central government, and the financial importance of inju land system in the Ilkhanids. Then, the question is what kind of influence such a administrative policy of Ilkhanids had over Shiraz society. We can observe it in the appointment of the qadi al-qudat, and in the charitable activities toward public institutions of Shiraz. The change in three families of the qadi al-qudat of Shiraz in Mongol period, the Tabataba' is, the Baydawis and the Falis, reveals that the Ilkhanids made a lot of the request from Shiraz notables in the appointment of the qadi al-qudat. But Majd al-Din Fali's close and personal relationship with Rashid al-Din, the prime policy maker of the later Ilkhanids, suggests the political role of intellectual circle which Rashid al-Din organized in Ilkhanids'(View PDF for the rest of the abstract.)
著者
森 千香子
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.20, no.2, pp.323-351, 2005-03-31 (Released:2018-03-30)

The <<fear of Islam>> is not a new subject in France : this country's geographic location, in permanent contact with the Arab Islamic world, always brought complex relations, both close and strained, with the Islamic world. A combination of different reasons has led to the present situation : ancient history (France is a catholic nation, particularly active during the Crusade), recent history (the Iranian revolution, increasing number of <<fundamentalist's terrorist acts>> in Algeria, the September 11 attacks...), and France's sociological situation itself (with an important Muslim community). However, since several years, a sort of mutation has been taking place in Islam's representation, while the number of anti-Muslim acts is on the rise. What does this mutation consist of? What is exactly the <<new anti-Muslim phenomenon>> in French society? To answer these questions, we analyze the new anti-Islam discourses and focus on its promoters, in order to grasp the crucial issues and the underlying ideas of this phenomenon in French socio-political context. First of all, this paper will outline some of the principal characteristics of Islamophobia in France, especially the relations between ultranationalist xenophobia and current Islamophobia. Then, new forms of critical discourses towards Islam are to be studied and their relations with new Islamophobia's logics. The objective of this paper is to analyze if the latest outbreak of anti-Islamic attacks is only a variation of <<traditional>> anti-Arab racism, or if current Islamophobia presents, on the contrary, some new peculiarities, partly or entirely distinct from traditional xenophobia. Our analysis will clarify two points : first, ultranationalist racist ideology plays a nonnegligible part in the contemporary Islamophobia. This point of view, systematically amalgamating <<terrorists>>, <<fundamentalists>>, <<Muslims>> and <<immigrants>>, consists in considering the Islam as a <<potential threat>> to the French nation and, on the basis of an essentialist ideology, in excluding Islam from the phantasmagoric fabrication of a so-called <<French identity>>. Secondly, the present-day Islamophobia is nevertheless clearly irreducible to the ultranationalist anti-Arab racism : <<criticism of Islamic fundamentalists>> by several actors (experts of <<New anti-Semitism by Muslims>>, defenders of <<universal values>> or even <<Moderate Muslims>>), also exercises sometimes-in its own ways- some vicious influences on the reinforcement of anti-Muslim stereotypes, potentially leading to some latent legitimatization of its overstepped forms.
著者
ステケヴィチ ヤロスラヴ
出版者
Japan Association for Middle East Studies (JAMES)
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.29, no.2, pp.145-169, 2014-01-15 (Released:2018-03-30)

20世紀のアラブモダニズムと何世紀にもわたる古典アラブ詩の伝統との複雑な関係を提示する試みの1つとして、本研究は2人のモダニスト詩人による、同一の表題タルディイヤ(狩猟詩)を持つアラブ詩を考察する。2人とは、アラブ自由詩の草分けともいえる、イラク人のアブド・アルワッハーブ・アルバヤーティー(1926-1999)とエジプト人のアフマド・アブド・アルムゥティー・ヒジャージー(1935-)である。両詩人は詩をタルディイヤと名付けることによって、その文学的な決まり事や形式的・主題的な期待とともに、同名の古典アラブ詩の様式(genre)を喚び起こしている。第1部では、まず序論において狩猟の主題になくてはならない背景を提示する。初期(西暦6~7世紀)の古典アラブ詩(カシーダ)において狩猟は主題的に2つの主要な役割を持つ。1つ目は最初の移行的な旅の部分で、そこでは獲物―オリックスあるいはオナガー―が主人公であり、狩人と彼の猟犬は必死で獲物を追うものの、逃がしてしまうという詩の伝統である。2つ目は馬上の勇敢な追跡を祝う最終の部分である。短編の抒情的様式(genre)である狩猟詩(タルディイヤ)が初めて現れたのはウマイヤ期(西暦8世紀初頭)の終わりであり、それが形式的、審美的頂点に達したのはアッバース朝最盛期(西暦9~10世紀)のことであった。主要部分において成功をともなう英雄的狩猟がカリフ時代の宮廷アラブ・イスラーム文化へと形を変えたのである。そこでは、狩猟遠征の装具や狩猟に関わる動物―猟犬、ハヤブサ、ヒョウ、そして獲物―は、ガゼル、野ウサギ、キツネ、サケイなどまで含まれる。数世紀の間、忘れられた後に、狩猟詩は2人のモダニストアラブ自由詩人、アルバヤーティーとヒジャージーによってよみがえったのである。第2部は、アルバヤーティーによる1966年の革新的なモダニスト詩集Alladhī Ya’tī wa lā Ya’tī〔来たりて来たらざる者〕に収録されているタルディイヤのテクストとその翻訳で始まる。この第2部で主張することは、詩人が、古典的伝統に則った様式(genre)と形式に束縛される脚韻と韻律を備えた抒情詩を、獲物である野ウサギの劇的で悲劇的なイメージの形式的に自由な探求へと変容させたということである。この野ウサギのイメージは近代に生きる者の政治的、文化的苦境へのメタフォーである。このメタフォーを通して、アルバヤーティーはヘミングウェイからガルシア・ロルカまでの20世紀モダニズムを特徴づける、これと同様の近代における実存的悲劇の表現を成し遂げたのである。第3部では、自ら課したパリでの異郷生活を送る間に、ヒジャージーが1979年に作詩したタルディイヤを考察する。このタルディイヤは1989年の詩集Ashjār al-Isman〔セメントの木々〕の一部として、al-Bārīsiyyāt〔パリの詩〕に収録された。詩のテクストと翻訳で始まる第3部は、伝統的狩猟詩に表された身を切るように辛い抒情を、詩人がいかに自分の政治的国外追放と詩的着想にもとづいた個人的経験の表現へと変容させているかを提示している。巧みに逃れるがゆえに最後まで捕らえきれないサケイを止むことなく追うという伝統的狩猟モティーフを用いながら、ヒジャージーは国外追放者として、そして詩人としての実存的疎外感を映す夢物語を作り上げたのである。アルバヤーティーのタルディイヤは、追い回され、迫害される獲物が詩人として近代人としてのメタフォーとなっている。一方で、ヒジャージーのタルディイヤではメタフォーが逆である。話し手すなわち狩人が詩人を表し、サケイすなわち獲物が手に入れることのできない政治的、詩的な夢のメタフォーである。
著者
松本 ますみ
出版者
Japan Association for Middle East Studies (JAMES)
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.147-171, 2005-09-30 (Released:2018-03-30)

中国ムスリムに対するキリスト教宣教は、19-20世紀半ば、福音主義宣教会の中では大きな課題となった。中国のムスリム人口は当時3000万人とも言われ、インドについで第2位といわれた。植民地主義の時代、他地域のムスリムの大多数が西欧の支配下、すなわち、「キリスト教徒の支配者」の下にあったが、「異教徒」の政権下の中国ムスリムは、福音から最も遠いという点において「問題」であると考えられた。植民地主義がピークに達した1910年のエジンバラ世界宣教会議以降、中国ムスリムに対する宣教も本格化、さまざまなパンフレット、宣伝文書、ポスターの作成が行なわれた。それに対し、ムスリム側も、論駁書、啓蒙書の発行、学校設立などイスラーム復興に着手して対抗を図った。ただ、両者の対立が深刻化しなかったのは、多文化多宗教の共存を旨とする中国ムスリム側の伝統による所が大きい。また、宣教師にもイスラームに深い共感を示した者が存在したことも大きい。
著者
臼杵 陽
出版者
Japan Association for Middle East Studies (JAMES)
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.1-35, 1994-03-31 (Released:2018-03-30)

本論は,1950年から1951年の2年間にほとんどがイスラエルに移民したイラク・ユダヤ人に関して,1941年にバグダードで起こったファルフードと呼ばれているユダヤ人襲撃事件,ファルフードが契機となって活発化したイラクにおけるシオニスト地下運動,共産主義者とシオニストとの相互関係,そしてイラクからイスラエルへのユダヤ人大規模移民の研究動向を整理する試みである。議論の際に依拠するのは,主にイスラエルにおけるヘブライ語および英語による最近の研究成果であるが,必要に応じてアラビア語による研究にも言及することになろう。イスラエル人研究者(圧倒的にイラク出身者)による研究および記述は概して,シオニズムのイデオロギーを前提として議論を展開する。すなわち,ユダヤ人はファルフードを契機としてイラク社会への同化は不可能となり,ファルフードのような「ポグロム」の再発に対する防衛措置としてシオニスト地下運動が展開された。しかし,パレスチナ問題の展開に対応してイラク政府がユダヤ人に対して抑圧的な政策をとったため,結局,ユダヤ人はイスラエルへの移民の道を選ばざるを得なくなったという説明である。ところが,約12万人のユダヤ人が移民せざるをえなくなった事態はイラクのユダヤ人コミュニティ内部を見ただけでもより複雑な過程を取ったといえる。そこで,大量移民への過程の一端を明らかにするため,シオニスト地下運動のみならず,ユダヤ人共産主義者とシオニストの関係をも検討する。シオニズム以上に若いユダヤ人知識人を動員することのできた共産主義運動はシオニストが提唱するような,移民によってユダヤ人の直面する問題を解決することには反対し,イラク社会への同化による問題解決の方向性を堅持した。しかし,ソ連による国連パレスチナ分割決議への支持(1947年11月)を契機に共産主義者とシオニストとの協力関係の土壌が生まれた。結局,共産主義者はイスラエル国家設立(1948年5月)を機にシオニストと協力してイラクのユダヤ人コミュニティの防衛に当たり,そのほとんどがイスラエルに移民した。イラク社会への同化の立場は伝統的なユダヤ人指導者屑にも共通した考え方であった。しかし1950年3月のイラク政府による国籍剥奪法の制定を契機として,多くのユダヤ人が出国登録をした。その最中,ユダヤ人に対する爆弾爆発事件が起こった。この事件はユダヤ人の出国登録を加速度的に促進することになったが,本論の最終章でこの事件をめぐる議論を紹介して,イラク・ユダヤ人におけるシオニズム運動,共産主義,そして大量移民に関する今後の研究課題を提示したい。巻末に,今後の研究の便宜のため,イラク・ユダヤ人のシオニズム運動,共産主義運動,および大量移民に関するヘブライ語,アラビア語,英語による主要な関係文献のリスト(論文も含む)を,筆者が実際に入手しえた範囲内で付すことにする。
著者
早川 英明
出版者
Japan Association for Middle East Studies (JAMES)
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.33, no.2, pp.41-69, 2018-01-15 (Released:2019-03-15)

本稿は、レバノンのマルクス主義思想家マフディー・アーミル(Mahdī ‘Āmil, 1936-1987)による宗派主義に関する理論を、アーミルがいかに国家というものを捉え、その宗派主義との関係を論じたかに特に注意しながら辿る。その上で、レバノンの左派における「世俗主義」の意味を巡る議論、およびアラブ知識人によるアラブ文化をめぐる議論の文脈に位置付けることで、新たな示唆を得ることを目指す。 アーミルはレバノン共産党の重要な知識人として主に1970-1980年代に活躍した。1975年にレバノン内戦が勃発し、共産党も宗派主義廃絶を掲げて参戦すると、アーミルは宗派主義や内戦について論じる著作を多く発表する。 アーミルは宗派主義を「ブルジョアジーが階級支配を実践する政治体制の特定の歴史的形態」、宗派を「従属諸階級と支配階級を結びつける政治的関係」と定義する。彼によれば、宗派主義はブルジョワ国家の体制であるから、宗派主義廃絶は社会主義への移行によってしかあり得ない。従って、内戦において宗派主義廃絶を掲げ戦った共産党の行動も、反ブルジョワ国家的行動と理解される。アーミルはまた、レバノンの資本主義の発展の遅れによって宗派主義が旧時代から残存したという見方を否定し、むしろ、資本主義的な社会構造において、ブルジョワ国家の体制としての機能を果たすことによって存在しているとした。旧時代の遅れた要素と考えられていた宗派主義が、実は近代ブルジョワ国家によって維持されていると主張したのである。 アーミルの宗派主義論を読むことで二つの示唆が得られる。第一に、レバノンの左派の「世俗主義」を、単なる「政治と宗教の分離」という主張ではなく、近代レバノン国家の再編成を目指すものとしても理解できる。これにより、レバノンの左派における「世俗主義」と「宗派主義」「近代」との複雑な関係も認識できるだろう。第二に、多くの現代アラブの思想家によってしばしば「後進的」と捉えられたアラブ地域の文化と、近代以降の国家との関係を批判的に再検討し、「近代」と「文化的遺産」を同時代の互いに絡み合ったものとして捉えるという、現代アラブ思想史におけるアーミルの位置付けを見出すことが出来るだろう。