著者
為国 孝敏 榛沢 芳雄
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
no.13, pp.221-231, 1993

本稿は、東京の拡大に伴なう地域の変容と郊外鉄道との関連を考察した。対象とした東京西南部地域は、山の手として1923 (大正12) 年の関東大震災以降急激な人口流入による都市化が進展した地域である。その中で玉川電気鉄道は東京西南部地域に初めて出現した、東京市域から郊外へ向けた鉄道として開業した。そこで、この玉川電気鉄道の変遷とその沿線地域である世田谷町、駒沢町、玉川村の変容との関連を解明することとした。その結果、玉川電気鉄道は地元有志が中心となって設立したことから地域の開発・発展に積極的であったこと、流入してきた通勤層を中心に鉄道を利用した新しいライフスタイルが創生されたこと、これらが有機的に結合して質の高い住宅供給地としての性格を有することになったこと、が分かった。
著者
川上 征雄
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.61-70, 1995-06-09 (Released:2010-06-15)
参考文献数
6

The purposes of this article are to review an origin of the national planning policy in Japan, to describe its change in that doctorine up to an enactment of the Comprehensive National Land Development Act in 1950, and to examine how basic thoughts of policies are like.I conclude that there were two big streams of the thoughts on national planning policies, such as the Board of Planning descent one vs. the Ministry of Interior descent one during the war, and the Economic Stabilization Board descent vs. the Ministry of Construction descent in the almost same way after the war.The former stream is rather function-oriented, designed from above and the latter is space-oriented, designed from below.Furthermore, the present Comprehensive National Land Development Act is influenced and guided by General Headquarters of the Allied Powers which made much of resource development.
著者
岡松 泰弘 新谷 洋二
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.513-520, 1998-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
16

現在の皇居はかつての江戸城である。1590 (天正18) 年に徳川家康が居城として以来、孫の家光の代まで約40年をかけて築かれた。しかし完成後、明治維新までの約240年間に絶えず災害等により被害を受け、その都度復旧されてきた。明治以降も大正12 (1923) 年の関東大震災で大被害を受けている。前回、宮内庁書陵部公文書係に保存されている図東大震災後の復旧記録を調査できたところ、地震対策のため石垣の内部は練積石垣が用いられたが、外観上は皇居を囲う堀ということから、あたかも空積のように見せて築かれていることが明らかになった。しかし前露の調査で明らかになったのは資料の一部であった。そこで今回は前羅の発表に続いて、新しく閲覧できた資料に基づいて、前回の発表内容と比較検討しながら後旧状況の全貌を明らかにした。
著者
藤川 謙 福田 敦
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
no.14, pp.139-148, 1994

The experience on the infrastructure projects in the developing country will give us the enormous information so as to make a policy on the technical assistance for the other developing country, as well as in the developed country.<BR>From the said view point, this paper firstly briefed the history on the development of land transport networks and evidenced the role of foreign assistance which performed on the land transport development in Thailand from late 19 century, which is the one of most successful developing country in the world and has received a great amount of assistance.<BR>On the second part, the economical impact of the national highway development on the agriculture production was measured by applying the imputed value added model to the case of route 2 and 24 which have been developed with the foreign assistance such as USAID and connected the Northeast region to Bangkok. Also, the damages on the forest coursed by the highway development and regional development was analyzed as the case of one of disadvantage of land transport development.<BR>Finally, the problem on the transport project appraisal and the way of its assistance was discussed.
著者
新居 忠彦
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
no.11, pp.265-268, 1991
被引用文献数
1

大阪にある、仁徳陵、応神陵、履中陵、河内大塚古墳の全長300メートルを越す超巨大古墳について、この様な超巨大古墳を構築する為に必要な長年月と膨大な作業員。しかも超巨大古墳で4基、全長100メートルを越すものは数十基にも及び築造を可能ならしめた社会経済的構造を支えた技術。その中心的技術である土器製作技術、この技術の核心部分である土質工学的知識として可塑性の「のび」と「腰」。コンシステンシー限界の、液性限界、塑性限界、収縮限界などについて述べた。縄文時代の大阪としての「森ノ宮遺跡」及び弥生時代の大阪平野の稲作農業、土器製作に必要な窯の技術と金属製作。金属製作による農機具の鉄製化と、灌漑と稲作農業の発展が、超巨大古墳築造可能な経済の基礎作りになる事について述べた。
著者
戸塚 誠司 小林 一郎
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.25-36, 1997-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
39

Kato Kiyomasa became the Load of Higo (northern half of Kumamoto prefecture) in 1588 and the development of Kumamoto city began from that period. Choroku bridge was constructed under the direction of Kato Kiyomasa and it is believed to be the first bridge over the Shirakawa river which runs across the Kumamoto city from east to west. Because of swift-moving waters of the Shirakawa during the rainy season, this wooden bridge was demolished and reconstructed repeatedly. From the second half of Meiji era, people wished eagerly for a strong steel bridge against the flood and the former Choroku bridge was realized in 1927 as the largest steel tied-arch of Japan.This paper describes the design concept of the former Choroku bridge. The contextual meaning of the bridge site is discussed based on the research of documents and local news papers about the successive Choroku bridges and citezen's activities for the realization of the steel bridge. It is concluded that the understanding of regional sociological history as well as technological history are very important criteria for the evaluation for civil engineering structures
著者
藤本 廣 中澤 隆雄 瀬崎 満弘
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
no.18, pp.479-489, 1998

現在、宮崎市と宮崎県南那珂郡北郷町を結ぶ主要地方道宮崎北郷線の大部分は、天正-慶長年間 (1574-1615年) に当時の飫肥藩が飫肥城下より宮崎の赤江湊に至る最短距離の街道として開設した "旧飫肥街道" を、明治中期に宮崎県が整備した旧県道宮崎北郷線 (通称 "飫肥街道" の主要区間) からなっている。この旧県道のほぼ中央部の出仮屋峠に開鑿された "山仮屋トンネル" は、1891 (明治24) 年に着工され、1892 (明治25) 年に竣工した延長約56mの小規模トンネルで、現在、当該路線の改良により廃道区間となっているが、トンネル覆工には極めて良質の煉瓦巻工が施工され、今日に至るも殆ど損傷がなく、宮崎県北郷町所管の有形文化財として保存されていて、当時の地方部における道路トンネル築造の技術水準を推測するうえでの貴重な土木遺構となっている。本文はこの弱山仮塵トンネルを中心とした当該路線の一連の道路改良工事に関する技術吏的意義について、「宮崎県古公文書」を主にした文献学的考察と現地調査とで検討したものである。
著者
五島 寧
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.1-14, 1994-06-09 (Released:2010-06-15)
参考文献数
59
被引用文献数
2 1

The purpose of this paper is to analyze the construction of street network in HEIJO (PYONGYANG; at present) between 1910-1945 under Japanese rule. HEIJO was one of the most important and traditional city through Korean history, for the capital city of PYONG-AN-DO in Lee Dynasty Era, or HEIAN-NANDO in Japanese Colonial Era. The following characteristics have been clarified.(1) Street network under Japanese Colonial Era, had been constructed without utilizing the traditional street network from Lee Dynasty Era.(2) The construction had not been so positive in comparison with that in KEIJO (SEOUL; at present).(3) The construction had been related to laying tracks of streetcar.
著者
安達 實 室 譲 前川 秀和 小堀 為雄
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.279-284, 2001-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
11

明治維新後の城下町金沢において、藩政期から架かっていた浅野川大橋と犀川大橋はともに北国街道の重要な橋であった。大正期にそれぞれコンクリートアーチ橋と鋼トラス橋になったが、それまでは木橋であった。明治期のこの木橋について、これまで写真や新聞記事でしかその概要を知ることはできず、木橋構造の詳細を記したものはなかった。今回その資料の一部を見る機会があったので紹介したい。
著者
増渕 文男 安達 万里子
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.511-516, 1995-06-09 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14

我が国では横断歩道橋が出現してから30年以上を経ており、架け替えなとによる新たな時代を迎えようとしている。しかし、横断歩道橋の変遷についてはまだ不明な部分が多く、研究を必要としている。本報は全国統一の設計基準が整備される以前の、昭和30年代に建設された横断歩道橋についての調査研究をおこなった。岐阜市では昭和37年から3年間で19橋を建設しており、先駆的な存在であった。しかし、その詳細は不明な点が多く、そのため構造形式や建設背景を調べた。また、比較事例として東京オリンピック開催時に多数の歩道橋を建設した東京都と、新設された国道43号線上に歩道橋を架けた兵庫県を対象とした。その結果、岐阜市においては実行力のある市長によって通学児童生徒の保護を目的として建設を進めていた。東京都と兵庫県においては、交通の円滑化を目的として短期間に建設されていた。岐阜市の場合はコンパクトな構造で現在も使用されており、構造形式及び意匠は優れたもので貴重な歩道橋が多数あった。当時は各都市独自で設計の基準を作成し、歩道橋として独特な構造形式をしていた。そして建設費削減及び、工事期間短縮のため標準化が行われていた。標準形式には岐阜市においてはトラス、東京都は単径間ラーメン、兵庫県は2径間ラーメンが採用されていた。
著者
西形 達明 西田 一彦 玉野 富雄
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.69-74, 2002-05-15 (Released:2010-06-15)
参考文献数
6

我が国の古墳内部の石室は歴史的情報の宝庫とも言うべきものであり, 古墳盛土とともに現在もいたる所で精力的な調査がなされている. その中で石室構造はその歴史的情報の他に, 石組み構造としての地盤工学的に重要な情報も数多く有している. とくに, 上部の古墳盛土重量を支持する石室の力学的構造とその安定性について考察することは, 石室の維持補修に対しても貴重な資料を与えるものと考えられる, そこで, 本研究では石室の石組み構造と安定性について, 個別要素法を用いて基礎的な解析を行った結果について報告する.
著者
神吉 科夫
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.153-164, 1998-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
33

In this paper, the abolishment of 4 waterworks (Aoyama, Se Dkawa, Mita and Honjo) at Edo in 1722 is chazussed by use of historical literatures on Kyoho Reformation, the disasters (fire, flood damage) occurred during 1590-1722 at Edo and the old maps related to the water supply districts. The abolishment of 3 waterworks (Aoyama, Senkawa and Mita) was carried out for the agricultural development at Musasino hill and in thes water supply districts people could get drinking water by the wells. The abolishment of waterworks (Honjo) was carried out for the reduction of the governmental mense.
著者
浅井 章治 村瀬 勝美 社本 英 水野 孝
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.319-325, 1991-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
4

納屋橋は、名古屋市の中心部を南北に流れる堀川に架かる橋長27m.幅員30mの鋼桁橋である。この橋は慶長15年(1610年)の名古屋の誕生と同時に架けられ、以後数次にわたる改築を経て現在の姿になっている。380年間ひたすら名古屋のまちの発展を支えてきた納屋橋は、明治43年から大正2年にかけての改築で、それまでの木橋から近代的な鋼アーチ橋に生れかわり、花崗岩の重厚な親柱や郷土三英傑の家紋を配した鋳物の高欄、橋の中央部に設けられたバルコニーなど、当時の社会情勢を反映した豪華なものであった。当時の名古屋市民は、この新しい橋が誕生したことを歓迎し、橋の開通式には多数の市民が参加したと記録されている。以後、この橋は名古屋のメインストリートである広小路通りとともに市民に親しまれ、周囲の街の発展にも大いに貢献してきた。橋梁景観という言葉が目新しかった昭和50年代初期に、納屋橋が当時の幅員21.8mから都市計画幅員である30mに改築されることになったが、この橋の歴史が橋の修景に大きなインパクトを与える事になった。橋梁形式はアーチから桁橋になったが、外見上はアーチ形式の飾り桁の採用や高欄の修復、親柱の復元等、明治から大正にかけて改築された当時の姿をほぼそのまま再現したものであるが、これからの橋梁景観の整備に一つの指針を与えるものである。現在の納屋橋を歴史という観点から再評価してみると、(1)技術・素材・意匠などにおいて、時代の節目を伝える土木文化財、(2)名古屋のまちの歴史を伝える記念碑であるという事ができる。また、景観整備という観点からは、(3)整備の一手法として復元の在り方を示す、(4)明治の情緒を今に伝える橋であるということができる。名古屋の堀川には納屋橋の架設と同時に六橋が架けられたが、これらの修景についても以上の経験が生かされるとともに、今後に計画されている堀川の環境整備や周辺の都市景観の整備にも生かされることが期待される。
著者
岡林 隆敏 鯨津 佳久
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.493-499, 1993-06-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
3

写真資料を歴史資料として活用するためには、膨大な写真の保存・管理と共に、効果的な検索が必要である。近年のパーソナルコンピュータの性能の向上と低価格化が著く、中でも画像処理能力の進歩はめざましい。このような、状況の中でパーソナルコンピュータよる画像データベースが可能になってきた。本研究では、画像処理能力に優れた性能を有するMcintoshを用いて、市販のデータベースソフトウェアを適用して、歴史的写真の管理と検索のための画像データベースの開発を行なった。この論文では、画像データベースのシステム、ハードウェアおよびソフトウェアについて説明し、いくかの画像データベースの適用事例を示した。
著者
岡林 隆敏 林田 幸誠
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.183-190, 1994-06-09 (Released:2010-06-15)
参考文献数
10

近代都市の形成史を明らかにするためには、都市の骨格となる道路網の形成を明確にする必要がある。長崎市は江戸期においては、西洋との唯一の貿易港として繁栄し、明治から昭和初期にかけては、西日本の主要都市として発展してきた。しかし、軍事要塞都市と市役所の火災により、長崎市における近代道路網整備についての歴史は明確でない。本研究は、幕末から明治期、明治期から昭和初期に至る長崎市の道路網の整備の歴史を調査し、さらに、道路景観の変遷を古写真および絵葉書より示したものである。
著者
五島 寧
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.53-62, 1999

This study clarified about the block formation at Báng-kah and Töa-tiü-tiâ <SUP>n</SUP> in Tâi-pak under Japanese rule. Old Tâi-pak (Taipei; at present) was constituted by three urban districts; Sia-lai (walled city), Báng-kahand Töa-tiü-tiâ <SUP>n</SUP> Inside Sia-lai, the existing streets were utilized by improvement. In contrast, the existing streets and the planned streets was lack of relation in the two another urban districts. In Töa-tiü-tiâ <SUP>n</SUP> that was clearness comparatively, utilized existing street prescribed the north and south axial block formation, but dirty Bang-kah streets were remodeled into standardized grid pattern. The aim of blockformation in Báng-kah was hygiene environment improvement by application of existing facilities instead of accession of traditional urban district structure.
著者
山田 晴利 青木 英明
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.69-76, 2000-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
23
被引用文献数
1

Traffic priority at roundabout entries has played an important role in the history of roundabouts. When roundabouts were proposed and implemented at the beginning of the 20th century, the importance of the priority rule was not well recognized and the nearside priority rule was applied. However, the smaller traffic volume at that time did not reveal this problem until the increased traffic flow caused a locking-up problem at roundabouts. This was same in Japan where roundabouts were used before the World War II. After the World War 11, offside priority rule was proposed in some countries, and in 1958 this rule was tested on public roads in the U. K. In Japan, a traffic engineer proposed the offside priority rule in 1953, but this was ahnost neglected and roundabouts were removed. After the offside priority rule was made mandatory in the U. K. in 1966, the advantages of roundabouts were well recognized and this type of intersection was adopted in many countries including Australia, France, Germany and others. In this paper, the history of the priority rule at roundabout entries in Japan is reviewed in comparison with those of other countries.
著者
小西 純一 水口 正敬 瀬川 俊典
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
no.20, pp.349-358, 2000

長野県における歴史的橋梁の現況調査結果を述べる.県内の道路橋, 鉄道橋, 水路橋で, 1960年代までに建造されたものを対象としたブ現地調査を行った橋は178橋である.<BR>ラチス桁, 道路鉄道併用橋, 上路曲弦プラット・トラスなど, 全国的に見て希少価値のある鋼橋が存在する一方, ここ10年の間のトラス橋, アーチ橋は急激であった.<BR>鉄筋コンクリート橋は95橋と多いが, アーチ橋がその半数を占める. 平野部では下路アーチ, 山間部では上路アーチが多い. 1930年代に建造されたアーチはよく現存している. 下路アーチの大部分はローゼ桁であり, 発祥の地にふさわしく, 1950年以降のものを含め29橋現存している.<BR>鉄道橋あるいは鉄道橋を道路橋に転用したものについては26橋であるが, 鉄道橋の発達史上重要なものが一通り揃っている. また. 森林鉄道用の立派な橋が存在する.<BR>水路橋には比較的大規模のものと, 石煉瓦アーチの小規模のものが存在する.
著者
小西 純一 水口 正敬 瀬川 俊典
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.349-358, 2000-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
7

長野県における歴史的橋梁の現況調査結果を述べる.県内の道路橋, 鉄道橋, 水路橋で, 1960年代までに建造されたものを対象としたブ現地調査を行った橋は178橋である.ラチス桁, 道路鉄道併用橋, 上路曲弦プラット・トラスなど, 全国的に見て希少価値のある鋼橋が存在する一方, ここ10年の間のトラス橋, アーチ橋は急激であった.鉄筋コンクリート橋は95橋と多いが, アーチ橋がその半数を占める. 平野部では下路アーチ, 山間部では上路アーチが多い. 1930年代に建造されたアーチはよく現存している. 下路アーチの大部分はローゼ桁であり, 発祥の地にふさわしく, 1950年以降のものを含め29橋現存している.鉄道橋あるいは鉄道橋を道路橋に転用したものについては26橋であるが, 鉄道橋の発達史上重要なものが一通り揃っている. また. 森林鉄道用の立派な橋が存在する.水路橋には比較的大規模のものと, 石煉瓦アーチの小規模のものが存在する.