著者
松崎 浩憲 玉井 信
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.543-550, 1997-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
8

1990 (平成2) 年に「多自然型川づくり」の通達が出されてからは, 多くの河川工事がこの方針に従って施工されてきている。最近では, 河川生態系についての関心が中心になってきている。しかし, この河州生態系に配慮した自然回復型河州工事に関する具体的な概念や技術的な方針が確立されていない。そのため, 目的を果たしていない施工事例も数多くあるのが現状である、本研究では, わが国おける自然回復型河川工事の変遷を概観した。これを踏まえて, 今後の河川工事の基本方針となるよう行動原理と具体的な設計方針を提案した。
著者
多田 博一
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.231-238, 1990-06-25 (Released:2010-06-15)

イギリス東インド会社は, インドの植民地領土の拡大にともない, 1820年代以降貿易よりも組織的な植民地経営に力を入れるようになった。その中心になったのは, 第一に, 歳入の柱である地租の増収のもとになる農業生産の安定・増加, 干魃の被害の軽減にとって欠かせない灌漑施設の整備, 第二に, 輪出入品および政府物資・人員ならびに軍隊の輪送・移動に不可欠の鉄道であった。技術史の立場からみて, この両者のインドにおける発展はきわめて対照的であった。灌漑についていえば, イギリス本国の農業は天水依存であり, 当時のイギリス人技術者たちは大規模な人工灌漑施設の建造・維持管理の経験をもっていなかった。これに対して鉄道は, 1825年にリヴァプール・マンチェスター間の鉄道路線が開業して以来19世紀を通じて, イギリス最大の輪出産業に成長していき, 技術的にも世界の先端を切っていた。本稿では, 19世紀中葉世界最大の用水路工事といわれた上ガンガー用水路の建造工事を追跡しながら, 当時のイギリス人にとって未知の領域であった用水路灌漑技術がどのようにして形成されていったか, を明らかにしようとするものである。(その一)では計画立案過程と事業計画概要を扱った。本稿では, 工事実施上の諸問題ならびに労働者・資材の調達の問題に触れたい。その中で, 種々の構造物の案出, インド在来技術とイギリスの近代的科学・技術知識との融合の側面に着目して, イギリスの技術者たちがインドにおける用水路灌漑技術を確立していった過程を明らかにしてみたい。
著者
上野 敏孝
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.593-598, 1997

ここ数年、鹿児島市では1840年代誕生の石橋群を守る運動が繰り広げられた。「治水」事業として、西田橋などの多連アーチが撤表され、同時代の海頭工太鼓橋が今や風前の灯火である.ことの本質は災害対策での、川の三面側溝化・直線化にある。川の直線化で水質が悪化し、人間を含む生態系が衰退しないのか。本稿ではかっての水循環システムの復活をめぐり、治水・文化・環境など、多様な側面を論じたい。
著者
金平 博樹 伊藤 学 窪田 陽一
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集D2(土木史) (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.231-236, 1994

本研究では、明治から昭和初期 (第二次大戦以前) に埼玉県内に架設された橋梁を対象に調査を行った。県管理道路台帳、本邦道路橋輯覧や橋梁史年表 (藤井郁夫編) などから212橋のデータを収集した。この半数以上は一応現存している。また、県内戦前橋梁の現状を探るため、東北・高崎線沿線地域と荒川上流の秩父地方の現地調査を行った。これらの調査結果をもとに対象期間に架設された橋梁の特徴を述べ、考察するものである。
著者
竹林 征三 皆川 朋子
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.221-228, 1995-06-09 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14

本研究では、ダム湖における景勝地指定及びその効果を明らかにすることを目的に、景勝地を評価する手法の一つとして古来より用いられている「八景」に着目してダム湖水における指定事例を収集し、分析したものである。その結果、以下の2点が明らかとなった。(1) 古くより人々が自然景勝地を八景として価値を与えたのと同様に人工湖水であるダム湖水も八景として指定されている事例をみることができ、ダム湖が周辺の自然と調和した優れた景勝地を創造してきたことが把握できる。これは日本の文化の中にダム湖水が定着したものと受けとめることができるだろう。(2) 景勝地指定は、一つ一つのダム湖水景観に価値を与える。そして重要な観光資源となりこれを題材とした版画や歌の製作、歌碑の建立等、八景巡りの遊覧船などが生まれ、観光地としての湖水名を大きくPRすることとなる。さらに、町名をはじめ各種施設にダム湖水名が名付けられる等、景勝地指定が地域へ与える影響は大変大きいことが把握できる。
著者
藤井 郁夫
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.155-161, 1997-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
31

トラス形式の橋梁は日本には明治になって導入され日本の橋の長大支間化の役割を果たした。以後のこの形式の発展を支間長を指標にして振り返ってみた。結果として, 橋形式としては単純形式から, カンチレバー形式連続形式へと変遷をしている。そして又, 長大と言える支間長を明らかにることが出来た。また何故長大橋が架けられたかさらにはその架設法についてもみてみた。
著者
藤原 康雄 奥野 博久 松岡 義幸 萱原 瑞穂
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.191-196, 1991

JR大阪環状線は戦後の復興の中から大阪市民の強い要望により1956 (昭和31) 年3月20日に着工され、1961 (昭和36) 年4月に完成した。しかしながら「の」字運転のためににそれほどの効果が期待されず、ほぼ同時に旧西成線の高架化も着工し、1964 (昭和39) 年に完成した。この年は東京オリンピック、東海道新幹線の開通と大きなプロジェクトが成功した。<BR>環状線の開通は種々の困難を乗り越え、最新の技術を酷使し、城東線と西成線をむすぶことによって旅客の流動の差を2倍程度に押さえ、大阪市の発展に多大な効果があった。
著者
西野 保行 小西 純一 中川 浩一
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.321-330, 1993

明治期のわが国の鉄道用橋梁として主力を占めたものは、プレートガーダー (鈑桁) であって、径間15ftから80ftに至る領域は、これが主力を占めており、早くから標準設計 (定規と称した) が確立していた。しかしながら、その中でも主力を占める官鉄に関するものはかなり詳細が解っていたが、それ以外の私設鉄道のものや、全部を通じての架設状況などは系統的な記録に乏しい。そこで、かなり現物が減少してきたとはいえまだそれが存在するうちに、実証的な裏付けをもとに一連の研究を行って行きたいと考えるもので、今回はその導入部とし概説を述べるものである。
著者
戸塚 誠司 小林 一郎
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-16, 1998-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
38

Many bridges have been constructed over the Shirakawa river which runs across the Kumamoto city from east to west. Because of swift-moving waters of the Shirakawa river during the rainy seasons, these bridges were demolished and reconstructed repeatedly. The writers investigated the development of these bridges from the view point of flood history. This paper describes the design concept and the process of its deveropment in bridge construction over the Shirakawa river. It is concluded that the understanding of disastrous history as well as technological, regional and sociological history is very important criteria for the evaluation for civil engineering structures.
著者
藤木 修 藤田 公典
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.451-458, 1996-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
7

今後の道づくり、地域づくりを考える上で, 道路が今まで果たしてきた役割について知ることも必要と思われる。古代の道は蝦夷に対する軍事補給路であり, また貢ぎ物の道でもあった。しかし, 同時に諸文化をも運んできた.戦国の峠は軍事上の押さえとなり, 政治, 経済の玄関口として重要な位置を占めた.近代は交通の発達に伴い急速に整備が進みました。今また時代の背景を受け「エコロード」など新たな道路整備が進められている。本調査は、秋田県の政治・経済・文化に対し重要な役割を果たして来た雄勝峠、鬼首峠の歴史的背景を調べ、21世紀の道づくりへのひとつのヒントとするものである。
著者
浅井 章治 村瀬 勝美 社本 英 水野 孝
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.319-325, 1991

納屋橋は、名古屋市の中心部を南北に流れる堀川に架かる橋長27m.幅員30mの鋼桁橋である。この橋は慶長15年(1610年)の名古屋の誕生と同時に架けられ、以後数次にわたる改築を経て現在の姿になっている。<BR>380年間ひたすら名古屋のまちの発展を支えてきた納屋橋は、明治43年から大正2年にかけての改築で、それまでの木橋から近代的な鋼アーチ橋に生れかわり、花崗岩の重厚な親柱や郷土三英傑の家紋を配した鋳物の高欄、橋の中央部に設けられたバルコニーなど、当時の社会情勢を反映した豪華なものであった。<BR>当時の名古屋市民は、この新しい橋が誕生したことを歓迎し、橋の開通式には多数の市民が参加したと記録されている。以後、この橋は名古屋のメインストリートである広小路通りとともに市民に親しまれ、周囲の街の発展にも大いに貢献してきた。<BR>橋梁景観という言葉が目新しかった昭和50年代初期に、納屋橋が当時の幅員21.8mから都市計画幅員である30mに改築されることになったが、この橋の歴史が橋の修景に大きなインパクトを与える事になった。<BR>橋梁形式はアーチから桁橋になったが、外見上はアーチ形式の飾り桁の採用や高欄の修復、親柱の復元等、明治から大正にかけて改築された当時の姿をほぼそのまま再現したものであるが、これからの橋梁景観の整備に一つの指針を与えるものである。現在の納屋橋を歴史という観点から再評価してみると、(1)技術・素材・意匠などにおいて、時代の節目を伝える土木文化財、(2)名古屋のまちの歴史を伝える記念碑であるという事ができる。また、景観整備という観点からは、(3)整備の一手法として復元の在り方を示す、(4)明治の情緒を今に伝える橋であるということができる。<BR>名古屋の堀川には納屋橋の架設と同時に六橋が架けられたが、これらの修景についても以上の経験が生かされるとともに、今後に計画されている堀川の環境整備や周辺の都市景観の整備にも生かされることが期待される。
著者
鈴木 盛明 福島 二朗 為国 孝敏 中川 三朗
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.445-452, 1998

明時期に西洋より導入された鉄道技術は、近世以来、その輸送手段を街道や河川舟運等に依存してきたわが国の運輸形態に大きな影響を与えた。明治政府が、国策として鉄道建設を推進したこともあり、鉄道は生産地と消費地、特に輸出物の産地と港を結ぶために、全国にそのネットワークを形成するようになった。そのため、従来からの舟運は、鉄道路線が並行して敷設されたこともあって、大きな影響を受け、その結果として衰退過程をたどることとなる。本研究では、巴波川舟運と両毛鉄道、および集散地としての栃木市を事例として、鉄道の開業に伴う舟運の衰退過程について実証的な分析を行い、考察を行った。
著者
是永 定美
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.499-509, 1995-06-09 (Released:2010-06-15)
参考文献数
7

関東地方では, 明治の中頃から大正中期にわたる短い期間に煉瓦造りの水門が建設された。この煉瓦造水門は, 土・木・竹を用いるわが国古来の技術で構築される水門から近代技術の鉄筋コンクリート工法で築造される水門への橋渡しであったと考えられる。このような技術的な位置づけだけでなく, 煉瓦造水門は, その使用材料の暖かさ, デザインの美しさから, 多くの人々に安らぎを与えてきたことも忘れてはならない。「めがね橋」と呼ばれ慕われていたものも多い。近年, 多くの煉瓦造水門が解体されて姿を消していき, 残存する数も極めて少なくなっている。本論文では, 現在進めている関東地方の煉瓦造水門の“戸籍簿”作成作業の進捗状況を報告し, ついで完全な形で保存されている明治30年代初頭の煉瓦造水門の設計書を紹介する。
著者
Y. Fujiwara H. Okuno Y. Matuoka M. Kayahara
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
HISTORICAL STUDIES IN CIVIL ENGINEERING (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.191-196, 1991-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
6

JR大阪環状線は戦後の復興の中から大阪市民の強い要望により1956 (昭和31) 年3月20日に着工され、1961 (昭和36) 年4月に完成した。しかしながら「の」字運転のためににそれほどの効果が期待されず、ほぼ同時に旧西成線の高架化も着工し、1964 (昭和39) 年に完成した。この年は東京オリンピック、東海道新幹線の開通と大きなプロジェクトが成功した。環状線の開通は種々の困難を乗り越え、最新の技術を酷使し、城東線と西成線をむすぶことによって旅客の流動の差を2倍程度に押さえ、大阪市の発展に多大な効果があった。
著者
小西 純一 西野 保行 淵上 龍雄
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.131-142, 1991

明治期に設計・製作されたトラス桁の歴史と現状を述べてきたこのシリーズの最終回として、日本人の手になるトラス桁について述べる。トラス桁の設計・製作は長らく外国人技術者の手によって行われてきた。標準桁が制定されていたこともあって、1909年以前は、日本人が設計したものはごく少ない。1880年代のものとしては、平井晴二郎による北海道入船町陸橋と原口要による官設鉄道の上路トラスがある。関西鉄道では1895-7年に白石直治、那波光雄の二人が英国流のトラス桁を設計した。宮設鉄道では杉文三設計の日川橋梁の上路トラス (1903年) があるのみで、あとは1910年以降の100ftクラスのものが数例あるくらいである。鉄道院が発足すると既存幹線の橋桁更新が急務となり、橋梁設計を専門とする部署が設けられ、新示方書による統一あるトラス桁の設計が精力的に行われるようになり、その後の発展につながって行く。明治末に相次いで電気鉄道が開業するが、電車荷重で設計した軽快な国産のトラス橋梁が各地に見られるようになる。
著者
小西 純一 田島 二郎
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.45-60, 1994-06-09 (Released:2010-06-15)
参考文献数
18

開通から100年、廃止から30年を経た、信越本線横川軽井沢間の旧線 (旧碓氷線) 線路敷に残る構造物の一部、5橋梁が、近代化遺産として、国の重要文化財に指定された。旧碓氷線の土木構造物は橋梁、トンネルとも、大部分が煉瓦造であることが特徴である。スパンの大きい橋梁を、アブト式急勾配鉄道ゆえに煉瓦アーチとしたのである。本論文では17橋あった煉瓦アーチ橋を従来ほとんど紹介されることのなかったものを含めて、その形態を側面図で示すとともに、現存橋の現況調査を踏まえて、技術的あるいは意匠上の特徴を明らかにし、わが国の近代橋梁史上の地位を論じた。また、トンネルについては、現存する坑門を中心に、考察を加え、旧碓氷線の構造物の、文化財的な価値について考察した。
著者
福島 二朗
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.313-321, 1997-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
28

近世から近代前期にかけてのわが国の内陸輸送の主体は、陸路の宿駅制度における人馬継立と舟運による河川交通であり、特に物資の大量輸送を担ったのは舟運であった。本稿では、近世から鉄道開通に至る間、栃木県の南西地域における大量輸送の動脈としての機能を担った渡良瀬川舟運を取り上げ、足利地域諸河岸の様相、輸送荷物の種類・集配等、足利地域を中心とした渡良瀬川舟運の大要を概観する中で、その果たした役割を整理・検討した。また、足利地域発展の大きな要因である織物産業に着目し、鉄道の開設に伴う織物輸送の舟運から鉄道への移行を踏まえ、渡良瀬川舟運の衰退過程について検討した。
著者
月岡 康一 小西 純一 和田 林道宜
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.197-201, 1992-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
10

Yodogawa bridge is rivet-connected Petited type truss bridge carrying double railway line with single span of 540ft, truss height 80ft and weighted 1, 810ton. Here, starting from historical background, basic shape (span, height), weight and design loads are compared with other railway truss bridge for the understanding of general feature of this bridge.On 1927, Yodogawa bridge was planned to cross the Uji river in the establishment of new railway line which would connect 2 old capitals Kyoto and Nara by the shortest route. For this crossing, initially, the combination of popular 70ft&40ft-span bridges is proposed, which is rejected by the army because the piers of the bridges interrupt the practice in the riverside. To solve this problem, single bridge spanning 540ft was proposed, which was almost double the maximum span of 300ft-standard bridge designed by T. Cooper of U. S.Each of the design loads (Live, Impact and Wind) applied on this bridge are compared with the corresponding loads specified in the present Japanese standard. The Combined design load-value of the most important load combination case (Dead+Live+Impact Loads) is proved to be appropriate even from the standpoint of present load conditions.After the detail inspection and planning, repair work mainly on the shoe was performed in 1983. And now, Yodogawa bridge is expected to keep working as the longest railway truss bridge of single span in Japan.
著者
小谷 俊哉 窪田 陽一
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.315-323, 1992-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
23

「オ-プンスペース」を一般に人々の往来が可能な広場的空間と定義し、これに対して一般の通行や立ち入りが困難な私有地や公有地のうちで、その敷地内に緑地あるいは非建蔽の空地を有する空間を「オ-プンスペース的空間」として位置づけ、これの江戸期から現在に至るまでの変遷を皇居周辺地区を対象地域としてその形態や特徴などから通史的に類型化することを試みた。そしてその変容を把握することによってオープンスペースとオープンスペース的空間の関係に注目し、同一地点におけるオ-プンスペース及びオープンスペース的空間の形態の変容過程について考察することを試みた。
著者
森本 浩行 西田 一彦 西形 達明 玉野 富雄 森 毅
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.263-268, 2000

1959 (昭和34) 年の「大坂城総合学術調査」において, 現大阪城が豊臣秀吉創建のものではなく, すべて江戸時代初期の徳川幕府による築造であることが判明した. またこの調査により, 本丸天守台南側で地下深く埋れた石垣が発見された. その後, ガスや水道の埋設管敷設に係わる調査において, いくつかの地下石垣が発見された. 特に, 1984 (昭和59) 年に行われた大手前配水池南側の調査において, 大規模な石垣垣の隅角部が発見された. これらの地下石垣は地上の石垣とは規模も積み方も異なり, 豊臣時代の大坂城ではないかと考えられている. 本研究では, 筆者らが提示している数値評価法を用いて, この地下石垣の特徴について考察するとともに, 石垣構築の技術的な面から構築年を推定した.