著者
松山 正將 花渕 健一 菊地 清文 佐伯 吉勝 高橋 則雄
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.521-528, 1998-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14

仙台城 (愛称: 青葉城) とは、本丸や二の丸等を総称した平山城のことで、その立地条件の特徴として自然地形を巧みに利用した築城であることは良く知られている。本報告はその自然地形の中から本丸酉側に位置する青葉山丘陵の「御裏林」を対象に、防備性では堀切・切通を、潅漑技術ではその湧水位置と湧水量を調査し、これまでの資料と比較検討を行い、仙台城量の保全の在り方について考察する。
著者
長野 正孝 山本 修司
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.81-96, 1992-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
7

中米地峡運河は、16世紀からその必要性が叫ばれていたが、20世紀初頭になって、水路と人造湖、閘門、ダムを擁する構造物として、パナマに完成した。それに至るまで、技術の進歩と計画規模の増大という相克の歴史があった。すなわち、中米地峡運河の計画は、それぞれの時代に新しく生まれた土木技術を取り入れながら、より優れたものになってきたが、一方では、この200年間に船舶が飛躍的に大型化したことによって、要求される運河の規模が大きくなり、膨大な土量を掘削し、巨大な閘門を建設することを余儀なくさせられてきた。本論では、その歴史について、技術面に焦点をあてて、以下の点について、分析、評価を行った。第一に、18世紀までのヨーロッパの技術では、この中米地峡に、運河を建設することは不可能であったことを幾つかの角度から傍証した。第二に、レセップスの時代には、技術的な制約はほぼ解決し、中米地峡運河は、パナマにおいて、その規模は別にして、可能となっていたことを傍証した。すなわち、この時代には、連続して閘門をつなぎ大きな水位差を克服する技術や大きな水圧に耐える鋼鉄製ゲート、近代測量技術、コンクリート技術などがほぼ確立し、水路掘削に不可欠な掘削機械、浚渫船、ダイナマイトなども登場した。第三に、何故、近代運河に鋼鉄製ゲートが必要となってきたかについて分析した。すなわち、伝統的なヨーロッパの閘門式運河では、その水位差が5mになると限界に達するという経験則があったが、本論では、その原因の一つがゲートの材質にあることを明らかにし、中米地峡運河実現のためには鋼鉄製ゲートが必要であったことを傍証した。第四に、閘門をコンクリート構造にすることによって、大型の閘門と給水用のダムが可能になったことも明らかにした。すなわち、19世紀末からフランスとアメリカによって行われた現パナマ運河のプロトタイプの計画から、重力式コンクリート構造が不可欠となった背景とその技術水準を分析した。第五に、パナマ運河の最近の計画と掘削土量の変遷について評価し、将来の運河のあり方を示唆した。
著者
小見山 幸男 馬場 俊介
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.385-394, 1992

ペリーの黒船来航を機に造られた歴史的建造物である品川台場は、土木技術的に見ても、河口州という軟弱地盤に築かれたわが国最初の大規模海上構造物として価値が高い。この品川台場は、建設後130年余を経過して沈下・変形等が大きく進行しており、公園として開放されていることも関係して、安全を確保するためにも早急な保全対策が待たれている。<BR>軟弱地盤上の構造物は、長期間に渡って沈下・変形が継続するだけでなく、近辺で行われる造成工事等による影響を受けやすい特性があり、支持基盤となっている軟弱土層の沈下・変形性状を抜きにした保全対策は考えられない条件にある。また、地震の影響を大きく受ける。<BR>今回、品川台場に対して歴史的な土木構造物として保存するための総合的な調査・検討が行なわれた。その作業の一部として、今後大きく変貌しようとしている都心部の軟弱地盤に支持された土木構造物という特殊な条件を考慮して、特に地盤土の沈下・変形性状を適確に把握し、これらの特性をふまえた保全計画の検討を行なったものである。
著者
山本 功 岡村 康弘 上石 俊之
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.263-266, 1990-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
5
被引用文献数
1

JR山陽本線は、出陽鉄道によって1888[明治21]年11月1日、兵庫・明石駅間開業以来100年以上を経てきている。その間、様々な鉄道構造物が建設、改築され現在に至っているが、これらの鉄道構造物の中には古レールを用いた構造物をいくつか見ることができる。その古レールも、関西地方の鉄道会社が発注したものが多いが、中には横浜鉄道といった還隔地のものも見られる。また、初期はアメリカを中心とした外国からの輸入のみであったが、1910年以降は国産も見られ、1930年以降は国産のみとなっている。
著者
土井 勉
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.167-174, 1991-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
10
被引用文献数
1 1

京都市の公園形成史を取りまとめた論文はまだ作成されていない。ここでは、旧都市計画法制定以前の公園としては京都府・市管理のものは、わずかに4公園であったことと、それらの公園の概要の紹介を行い、次に大正~昭和初期の用地確保が園難な状況で臨機応変に代用公園の設置を行ったこと、昭和初期の京都市の都市像は「田舎に京あり」ということで風致や緑地保存の重要性が認識されてきたことを概観する。また、昭和9年にまとめられた「京都市の都市環境とその改善策に就いて」(高田景)により、児童遊園設置の必要性の整理や上地区画整理事業における児童遊園設置基準について紹介する。京都市の児童公園は市周辺部の土地区画整理事業の進展によって大きく進展したのである。一方、市内については皇太子誕生を記念事業を挺にして、児童公園整備を行ったことを明らかにする。さらに、わが国で最初に受益者負担金制度を導入して整備された船岡山公園について受益者に対する負担方法について紹介するものである。
著者
長弘 雄次 田中 邦博
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.517-529, 1996-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
13

近時の土木工事において、国土の有効利用の立場から大深度地下空間の利用が大きくクローズアップして来ている。明治以来、日本経済の近代化に大きな役割を果たした石炭産業において、通気・運搬・排水など、その操業に重要な影響を与えた土木技術としての地下空間の開発について、特に全国の主要産炭地としての九川地区の炭鉱の立坑掘鑿に関する史的研究の成果を敢りまとめた。
著者
安達 實 本江 裕之 金森 範孝 北浦 勝
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.241-246, 2002-05-15 (Released:2010-06-15)
参考文献数
22

戦前までは, 特別に重要な箇所を除き橋と云えば木造橋が殆どであった. 木造橋の主流は桁橋であるが, 渓が深いところや舟運で径間を大きくとらなければならないところには, 木造方杖形式が採られた. 特に木材の豊富なわが国においては, いろいろな形の方杖形式が生まれた.戦前の写真をもとに東日本 (北海道・東北・関東地方) の木造方杖橋について, 土木史的視点よりその構造形態について述べる.
著者
三浦 彩子
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.1-12, 2001-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
29

I chose five temples in Kamakura city, and mentioned about the historic backgrounds of the time those gardens were constructed. I especially emphasize the unique topographies, emergence of samurai, and Zen. As the first step, I refer to documents about the construction of the garden, and consider of them with the civil engineering point of view.As a result, the following points were made clear. One is that the Kencho-ji temple had realized the garden that was contrary to the main-stream methods of that period. They had managed to create several viewing-points in the narrow site. The other is that we can find several aspects between Kamakura garden and contemporary Kyoto garden such as “karesansui.” And, finally, the Kencho-ji garden is the first example where the concept of classification of the space was applied, which was already common in architecture.I had tried to capture the general ideas of how the conceptual aspects of Japanese zen garden was imported from China in this essay.
著者
原口 征人 日野 智 今 尚之 佐藤 馨一
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.213-218, 2001-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14

本研究では土木教育機関とその所在地にある土木事業の結びつきについて、教育機関の果たしてきた役割を考察する。特にこれまでの札幌農学校は、広井勇の築港事業に焦点が当てられてきたが、組織運営的な観点から多くの技術者が関わったといえる鉄道事業との関係を取り上げた。考察の結果、北海道庁の鉄道建設部署と札幌農学校で相互に人事上の結びつきがあり、一貫した教育の形成に作用していたことが分かった。
著者
青木 治夫
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.95-100, 1991-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
22

辰巳用水は、1632 (寛永9) 年、当時の先端技術であった隧道に横穴を用いて掘り、かつ末端で木管による逆サイフォン工法を用いた遺存状態のよい用水である。1981年、総合学術調査が行われた際、隧道区間の実測が行われ、区間別の建設年代が明らかにされ、鉱山との関係が論じられた。その実測図によると、相互横穴間にある隧道は、主として三線からなり、それを結んだ線形が特長のある折線形状を示していた。近世初期わが国では、方向は磁石で求めていたから、寛永期隧道で隧道方向設定の基凖とした横穴の中心線実測方向角によって、用いられた磁石の伝来系統と方位数を調べてみた。それには地磁気偏角値が必要であり、実測値ではないが、考古地磁気学による寛永期の金沢における偏角、東偏8.3°を用いて試算してみたところ、中国系の48方位刻み磁石を用いていたことが分かった。近世中期になって、鉱山技術が記述され始めたが、その史料によると、鉱山では中国系磁石を使用していたことが明らかで、両者の技術の類似性が確かめられた。隧道中心線の折線の集合は、48方位の7.5度刻みの磁石で方向設定したため生じたものであろうが、隧道設定に関する文献にも論究を加え、かつ試算法の応用について述べる。
著者
石井 千万太郎 清水 浩志郎 菊池 豊 所 輝雄
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.451-460, 1993-06-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
18

雄物川放水路は秋田市とその付近の平野の洪水氾濫防止と、流送土砂の堆積による港の機能障害に苦しんでた土崎港 (現秋田港) を雄物川本川から分離することを目的として開削された.本文は、秋田県民による雄物川改修事業の要望から、放水路事業の計画策定とその採択・着工に至る経緯、さらに、放水路工事と関連事業、特に土崎築港と放水路掘削土砂の埋め立てによる工場用地の造成事業の展開の経緯を時代背景や秋田市発展との関道から記述したものである.
著者
知野 泰明 大熊 孝
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.97-110, 1992-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
10

Modernization of civil engineering techniques began during the industrial revolution. At the beginning of this modernization in Great Britain, one of the famous men had achieved great works. His name is Thomas Telford. He had constructed many bridges, roads, canals and harbours. Likewise, he was elected the first President of the Institution of Civil Engineers in Great Britain.Although his name is familiar to Japanese Civil Engineers, his works, however, are not. So, this study researches on his works, and considers how he introduced new civil engineering techniques. Likewise, this study researches on the paper titles that garnered Telford Medals and Premium. These prizes, proposed by Telford, are the highest award offered to outstanding papers in the Institution of Civil Engineers until today. Using this paper title list, this study is also aimed at tracing the development of modern civil engineering techniques in Great Britain.
著者
松村 博
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.125-137, 1994-06-09 (Released:2010-06-15)
参考文献数
36

There were three kind of river-crossing styles-wading, ferrying, and bridges-along the Tokaido (an old trunk road) in the Edo era. the reason why the difference among three styles was occured has not been discussed very much, though many researchs was done on each style individually.It is generally accepted that the Oigawa wading system has been developed under the military purpose of defending an old capital Edo, or under the political purpose of supporting relay stations. However, it can be pointed out that both technical and socio-economic factors affected even more significantly in the process of each river-crossing style formation.As for tecnical considerations, river bed slope, depth of water, and geological feateres, and others have come to confirm the difference of rivercrossing styles.As for the socio-econdmic considerations, the formation of the wading styles was inferred through assessment with the number of days forbidden to wade, the fare system depending on the depth of water, and the fare system of other river-crossing styles. Nevertheless, the wading system itself is assumed to be economically irrational. From the economic point of view, it is analysed that due to a small number of passengers at that time, constructing the long spanned bridge was uneconomical.
著者
T. Sumata M. Tuboi
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.333-344, 1997-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
24

巨大な前方後円墳は3世紀の古代日本に突如として建造された。これらの古墳がどのような人達によって、どのような技術内容と思想・理念を背景に設計されたのか、未だ明らかにされていない。本稿は18の古墳を検討の対象に選び、設計者が図面に最初に描く古墳天端の平面形状から、設計の理念・使用尺度について検討, 考察した。
著者
藤井 郁夫
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.381-386, 1998-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
42

明治期に架けられた鋼 (鉄) 道路橋の国内の製作工場を調べたものである。明治初期の国産道路橋は宮営工場で一橋毎に加工製作されている。これが明治中期になると「よろずや的」と称される機械工場で製作され, 加工製作の国産化が完成した明治後期になると専門化した機械工場の他に, 造船または鉄骨製作と兼業した橋梁專門工場での製作が始まっていることがわかった。又, 鋼 (鉄) 橋の加工製作についても, 機城・造船と同様に官設工場の影響は大きく, そして赤羽工作分局と三田農具製作所を核とした東京港区三田・田町地区は明治中期頃は鉄橋製作についてもその中心地ともいえる状況であったことがわかった。
著者
増渕 文男
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.119-122, 1991-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
5

日本の歴史に「横浜」が登場するのは江戸時代の幕末期で、港を中心とした横浜北部地域が中心であり、これが今日の横浜のイメージとして広く定着している。しかし南部地域にはこれより古い遺構がみられるようで、本研究は横浜南部の土本遺構を調べ、石橋の一橋「昇龍橋」について報告するものである。昇龍橋の架設位置は横浜市南部にある栄区の狙川上流部で、この河川には土木遺構として石橋の他に溜池、堰、及びずい道などがある。しかし、これらの遺構は付近の住民一部が知るだけで、一般的にはあまり知られていない。石橋の構造形式といえば九州の石橋があげられるが、昇龍橋はそれと類似性が少なく、何処の石工が建造したものか不明である。石材は当地の鎌倉産「今泉石」を使用しており、軽快な感じと独特な趣をもつ石橋である。架設年代は親柱に大正四年の刻印があり、かすかに読み取れるが、親柱と石橋本体とは石材が異なるので、まだ明確にはなっていない。石橋の建造には高度な技術が必要であるが、何故この地にその技術が展開されたかなど追究すべき点が多い。この周辺には江戸時代を中心に土木遺構が多く存在し、高度の技術力と文化、それを支える経済力を温存してきたが、近年になり衰退し開発事業の影響が心配される地域である。
著者
遠藤 光一
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.221-226, 1997-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14
被引用文献数
5

二級河川夏井川の中流部に位置する磐域小川江筋取水堰 (福島県いわき市) は1654 (慶安4) 年に築造され、河川の曲線部で平面的には斜形、縦断的に多段式、構造的に木工沈床という国内に現存する数少ない大規摸な「斜め堰」であり、歴史的にも最も古いものである。これをケーススタディーとして、史料や「斜め堰」の類似例 (第十堰吉野川 (1752) 年、山田堰筑後川 (1790) 年) から河川工学的に比較評価し、流れを見極め、流れに逆らわない河川構造物の設計視点を提言したい。
著者
為国 孝敏 榛沢 芳雄
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.289-297, 1990-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14

東京の副都心ターミナルである渋谷は、現在では若者とファッション・文化の街として個性的な顔を持っている。そのような渋谷の中核となっている駅空間は、どのような変遷をたどってきたのか。渋谷についての文献・資料を基に駅空間形成の変遷・特徴・性格等に史的考察を試みた。その結果、初期では自然派生的に、中期では鉄道事業者の理念によりターミナルの基礎が確立され、その後は地域発展とともに駅空間形成は質の充実へと性格付けられる。
著者
是永 定美
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.37-48, 1997-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
7

The history of sluices and weirs which were built of brick and stone in Saitama Prefecture in the Meiji Era is described in this paper. In Saitama Prefecture, the brick sluice and weir construction industry lasted from 1887 until 1921. During these years, more than 190 brick sluices and weirs were constructed, and more than 12 million bricks were used in their construction. In contrast, stone sluices and weirs were constructed from the Edo period to the Meiji Era.