著者
山中 清次
出版者
佛教大学大学院
雑誌
仏教大学大学院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
no.36, pp.83-98, 2008-03

近世期の町場(都市) に依拠した修験者の研究は、修験道の全体像を捉える上で不可欠である。本稿では、町場の修験を「町修験」と規定して、彼らの姿を再構成しようとするものである。政治・法制史や宗教史学等の成果を取り入れつつも歴史民俗学的な立場に立ち、修験の置かれた社会状況を考慮に入れて、町修験の生活実態や宗教活動からその特性や背景を追及した。都市に生きる民間宗教者の一類としての修験は、地方の百姓から転身したものが多く、弟子入りして修験の職分を身につけ渡世した。その住居生活から見ると「地借」「店借」の修験が圧倒的多数を占める。彼らは市中に雑居し妻帯の家族を持ち、祈祷やト占の活動の僅かな収入で、下層民と同様のその日暮らしていた。そうした生活を支えたのは祈祷師的渡世である。また、町方の信仰全般に関わり、町民の信仰的な要求に応えられる職分と験力を持っていたことによる。修験が町廻りをして祈願祈祷ができたのは、依頼者による選択自由という「帰依次第」の慣行が認知されていたからである。町修験店借修験帰依次第市中雑居
著者
平田 毅
出版者
佛教大学大学院
雑誌
仏教大学大学院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
no.28, pp.191-204, 2000-03

この小論は,カルチュラル・スタディーズにおける文化概念について概観し,その可能性および問題点を批判的に検討しようとするものである。カルチュラル・スタディーズの潮流は,既存の学問(ディシプリン)の伝統的なあり方に対して異議申し立てをしているともいえる。これは,カルチュラル・スタディーズの〈文化〉の捉え方自体が,サブカルチャーや対抗文化へのコミットメントを通じて形成されてきたことに起因するといえる。このカルチュラル・スタディーズの文化概念をS.ホールの主張から「大文字の文化と小文字の文化」のせめぎ合う場としてとらえ,従来の社会学における文化理論の中にも位置付けて,その有効性を論じてみた。反ディシプリン文化の政治学「折衝」コード大文字の文化と小文字の文化
著者
伊佐 迪子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.113-126, 2008-03-01

源家出身の二条院讃岐の歌には「出自」が大きく影響している。讃岐が歌を詠出する土壌について考察する必要から、伝記的・社会的背景の反映として讃岐歌を読み解く。若い頃の讃岐を「歌仙落書」が高く評価しているが、讃岐の人生は明らかではなかった。「玉葉」を詳細に検討した結果、かなり解明されたので伝記を背景に讃岐歌を読み解いていく。讃岐の生涯のうち、摂政・関白藤原兼実の秘書・「北政所」を勤めた社会的役割は大きい。摂政家の家経営の中枢にあって仕事に専念し、「沖の石の讃岐」として女流歌人の地位も確保しており、讃岐の果たした社会的役割と讃岐歌との関わりを考察する。讃岐は藤原兼実の支援を受けて、六十歳で歌壇に復帰した。「出自」「伝記的背景」「社会的背景」の三つの要素から、讃岐の詩的世界は構築されていると解釈する。
著者
西田 晴美
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
no.27, pp.43-54, 1999-03-01

ジョイスは言葉の魔術師であったといわれている。彼は言葉による美の創造を希求し,言葉の持つ可能性を信じて,それを引き出すことに成功した。本稿で取り上げるのは,実験小説『ユリシーズ』の以前に書かれた,まだ若干写実主義の香りが残る『若き日の芸術家の肖像』である。ジョイスの芸術的目的である美の創造がこの作品でどのように成就したのか,その文体的特徴を究明していく。そしてこの作品から取り入れられた「意識の流れ」の手法が文体に及ぼした影響も合わせて考察する。多様な文体意識の流れ文体の音楽性
著者
呉 世榮
出版者
佛教大学大学院
雑誌
仏教大学大学院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
no.33, pp.223-236, 2005-03

本稿では、1973年「福祉元年」体制のもとでの老人医療無料化制度の形成過程と、制度の実施が国民医療費に与えた影響を考察した。その結果、老人医療無料化制度の実施は、経済・社会的要因というよりは政治的要因によって強いられたものであったことが明らかになった。また、老人医療無料化制度は、国民医療費増加の根本的及び構造的原因を提供し、1980年代入ってから始まった強力な医療費抑制政策の契機となった。福祉元年老人医療無料化国民医療費福祉元年
著者
後中 陽子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.69-82, 2007-03-01

〈永遠〉はディキンスンの詩の重要なテーマの一つである。詩人は、712番の詩のなかで、死出の旅は「永遠へ向かう」('toward Eternity')旅であると歌っている。それでは、彼女にとっての〈永遠〉とはどこにあるのか、本稿はこの疑問についての解明を目的とする。511番の詩は、恋人を待ちわびる恋愛詩のようにも解せるが、これを宗教詩として読むことで〈永遠〉の在り処が明らかになってくる。ディキンスンの詩は多義的であり、さまざまな解釈が可能である。この小論においては、聖書からの引喩に着目して、宗教詩としての見地からこれら二つの詩を解釈していく。
著者
山本 千鶴子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.93-103, 2007-03-01

ディラン・トマス(1914-1953)は南ウェールズのスウォンジーに生まれ、幼、少年時代はそこで過ごした。1934年にロンドンに住むようになったが、後に終生愛したウェールズに戻って、作品を生みだした。彼の詩は、初期、中期、そして後期と大別される。中期の詩は、詩人が幸せな幼、少年時代を過ごした地方の自然や四季などを通して体験した回想詩である。本稿では、中期の作品に当たる`Reminiscences of Childhood'(First Version,1943),`The Hunchback in the Park'(1941),`After the Funeral'(1938)をとりあげ、これらの作品中に描かれる<Sense of Place>について考える。トマスの心の故郷である<スウォンジー>、彼と共に成長したクムドンキン公園、彼が詩人として想像力豊かに歌っているその公園内でのせむし男と色々なものとの共感、そして田園的な環境のアン伯母の農場で体験した愛別離苦と彼自身が詩人としての復活などには、どのような<Sense of Place>が含まれているのか、本稿はこの点についての考察を目的とする。
著者
内山 淳子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.79-93, 2006-03-01

少子化傾向が続く現在、その根本理由として、女性の子どもを産むことに対する心の問題が考えられる。主体的にライフスタイルを選択する女性の生き方は、結婚や家庭に対する固定的な考えを新たにし、子どもを産み育てる意識を変化させるものとなった。本稿では、エリクソンが成人の発達課題として掲げる「世代性(生殖性)」を中心的な視点として、社会文化的背景の推移による家庭教育と女性のライフコースの変化について検討し、子育て後の女性、子育て中の母親、および男女大学生に対して、子育ておよび家庭教育への意識を問う質問紙調査を行った。その結果、各世代の女性は共通して子どもをもつことに対する普遍的な価値を感じているが、実際の子育ての時期には否定的感情や孤独感を感じる母親が多くみられた。女子大学生では子どもをもつことに肯定的だが仕事との両立を希望する人が多く、大学生は家庭教育を基礎的な人間形成の場として重要視していた。これらから、子育て環境の整備により、本来子どもをもち育てたいと考える女性への支援の可能性がうかがえた。
著者
青木 京子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.67-81, 2003-03-01

『人間失格』の「コキュ」の問題については、志賀直哉の『暗夜行路』を想定した作品だと指摘されている。「コキュ」そのものを追及した論文もみられ、示唆的ではある。しかし、『人間失格』と『暗夜行路』の詳細な比較を通し、その根拠を提示した論文は見られない。『人間失格』の草稿には、「コキュ」の場面に「暗夜行路」の記述が見られ、『暗夜行路』を想定した作品であることは明確である。が、「コキュ」の問題だけではなく、母の欠落、醜い女や淫売婦の造形、代理母のような年上の女性との接触等、双方には多くの共通点が見られる。従って、『人間失格』は『暗夜行路』をかなり意識した作品であるといえる。『暗夜行路』は多くの女性と接触することにより、「暗夜」を乗り越え、「明るい」世界へと向かう作品であるが、『人間失格』は、徐々に女給や淫売婦との深みにはまり、全幅の信頼を寄せた内縁のヨシ子にも裏切られ、破滅してゆく。太宰は晩年には志賀直哉を辛辣に批判しているが(「如是我聞」)、志賀直哉の作品をかなり視野に入れ、作品を構築している(「懶惰の歌留多」、『津軽』等)。太宰は『人間失格』を構築するのに、志賀直哉の集大成ともいえる『暗夜行路』をかなり意識していたのではなかろうか。
著者
松本 桂子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.53-64, 2006-03-01

「ハイビスカスとサルビアの花」は、ロレンスの詩集「鳥・獣・花』に収録されている長詩である。新約聖書の『ヨハネの黙示録』に登場する赤い竜を、隠れた題材として扱っているこの難解な詩を探究するには、同じくロレンスのエッセイ『アポカリプス』を無視する事はできない。両作品には、彼の思想、特にヨーロッパのキリスト教観が必然的に相対しているからである。『アポカリプス』との綿密な照合により、詩中で謳い上げる詩人ロレンスの内面の声に耳を傾けながら、そこに浮かび上がる赤竜の真意を解き明かすことを本稿での目的とする。ハイビスカスサルビア主義者怒り赤い竜
著者
中西 晴子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.281-292, 2003-03-01

茶道とは何かという問いに答えるためには多くの方法がある。文化としての茶道、芸術としての茶道、礼儀作法の一つとしての茶道、遊びとしての茶道などがそれである。ここでは茶道を所作という点にしぼって社会学的に考察したい。なぜ所作に注目するかというと、茶道はまず茶を点て、それを飲むという行為から始まるからであり、茶会はこのような行為を重視する人々が集まって行う社会的・社交的な行為であるといえるからである。このような社会性・社交性に重点を置く場合、茶道を社会学的に考察することは自然であり、そこから茶道を見ることも新しい茶道の見方に通じるのではないかと考える。まず「飲む」という行為は生活のなかで一般的であり、普通の行為である。茶を「飲む」という行為も生理的な渇きを潤す行為である。つまり、茶と飲むという行為は、日常的であり生理的な欲求を満たす行為である。しかし茶の湯の点前で「飲む」という行為は、単に生理的欲求を満たすものではない。それは文化的、社交的な行為である。ではどのような点で文化的、社交的なのか。そのことを所作という動きを通して論じたい。
著者
新矢 昌昭
出版者
佛教大学大学院
雑誌
仏教大学大学院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
no.28, pp.165-180, 2000-03

「経済的個人主義」「宗教的個人主義」を二つの柱とする近代個人主義は,近代化によって非西洋の社会にもたらされることになった。しかし,その場合の多くは,経済的個人主義という自己充足的な個人であり,宗教的個人主義の非西洋社会での確立は非常に困難をともなうものであった。その困難を体言している人物の一人として夏目漱石を取り上げてみる。彼は,自己の「個人主義」を「淋しい」ものとして位置付けている。この「淋しさ」を論及することによって,非西洋社会における個人主義の確立の困難さを示せると思われる。夏目漱石個人主義「淋しさ」「自然」
著者
船引 一乗
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.57-70, 2004-03-01

清末以降、中国では様々な問題が発生した。その中の一つに"国語"の問題がある。その当時の知識人達は、どのようにこの問題に対処し、解決を模索していったのであろうか。この論文では民国初期にこの問題で活躍した二人の知識人、胡適、黎錦熙が、どのようにして"国語"を生み出そうとし、普及させようとしたのか、またその"国語"は一体誰の為のものであったのかを、その当時に二人が発表した文章、論文に沿いながら、検討していきたい。国語国文語体文注音字母
著者
黒沼 精一
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.175-188, 2007-03-01

本稿は、自然が美しい北海道において展開されている道州制議論と市町村広域合併議論の展開に関連づけ、北海道の特殊性を活かしたウェルフェアミックスの可能性を模索するものである。英国保守党政権における行財政改革、NPMと民営化政策を比較検討しながら、農村社会に必要な道州制議論における北海道型ウェルフェアミックスの提案を総括したものであり、コンサーバティズムの潮流を再認識していくものである。本稿の構成は、1ではウェルフェアミックス理論の形成過程から近年に至るまでの経緯を分析し、2では北海道における道州制議論と市町村広域合併議論の展開を把握するために地方政府と中央政府の主張を分析し、3では英国保守党政権における行財政改革からニューレイバー労働党改革路線への歴史的変遷、民営化政策、財政の健全化について分析し、北海道の農村社会に必要と思われる政策の<coreからsolution>の比較と関連性を述べた。4では農村社会に必要な道州制議論における北海道型ウェルフェアミックスの提案と北海道型リベラルアーツを総括するものである。本稿の特徴は、第一に北海道におけるインフォーマルセクターの活動を補完的に支援する福祉ビジネスを非営利セクターと営利セクターに類型化し、<コアコンピタンス(特殊性や長所)を伸ばして、社会貢献(地域貢献・国際貢献)に結びつけいていく地域振興>を<coreからsolution>として捉えていくところにある。第二に本来的なリベラルアーツ(自由七科)を北海道型リベラルアーツにアレンジして、道州制議論における北海道型ウェルフェアミックスに必要な七つの課題について総括するところにあり、北海道あるいは北海道の農村社会の発展に寄与するものである。
著者
渡邊 浩史
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.103-111, 2003-03-01 (Released:2008-08-14)

現在までこの「道化の華」の冒頭に用いられた「ここを過ぎて悲しみの市。」という一節は、ダンテの『神曲』からの引用であり、その翻訳としては、笠原伸生氏によっ提言された森鷗外訳『即興詩人』「神曲、吾友なる貴公子」の一節、「こゝすぎてうれへの市に」であると言われてきた。しかし、検討の結果、実はその翻訳は別にあるのではないか、という可能性が出てきた。小稿はその翻訳として、上田敏訳のテクストにあるものを一番大きな可能性とし、そこに書かれた「こゝすぎてかなしみの都へ」と「われすぎて愁の市へ」という訳稿を太宰が「道化の華」の冒頭に用いる際、一部改変し使用していたのだ、ということを提唱するものである。 翻訳 森鷗外 上田敏 ダンテ『神曲』
著者
渡邊 大門
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.71-84, 2006-03-01

宇喜多氏に関する研究については、直家期を中心にして、既にいくつかの論文が公表されてきた。それらの主要学説は、宇喜多氏が浦上氏の被官人であったか否かという問題をはじめ、宇喜多氏の大名権力がいかなる条件のもとで形成されたか等々、戦国大名論を検討するうえで重要な論点を提示している。近年では、地域権力論・戦国期国衆論に関しても活発な議論が展開されており、宇喜多氏の研究はその好素材であると言えよう。そこで、小稿では能家以前の宇喜多氏-文明-大永年間を中心に-について、発給文書およびその動向を改めて検討し、浦上氏との関係を論じたものである。その結果、宇喜多氏は金岡荘を基盤として領主権を確立しており、浦上氏とは軍事的なレベルなおいて従属にあったことを指摘した。つまり、宇喜多氏は、被官人あるいは家臣として浦上氏配下に組み込まれておらず、領主間の緩やかな提携関係にあったのである。
著者
大塚 晴郎
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.109-124, 2002-03-01

本論は先に発表した「文化領域にみる芸術の自律性について」(本紀要第28号)に続くものである。芸術の自律性に基づく芸術界特有の秩序を考察することになる。ここでは先に研究した文化的価値が、意味的根拠となり、個人によって内面化され、個人の行為に意味一貫性をもたらすことが期待される。また集団における価値の共有化によって、個人の立場を擁護し、集団の凝集力を高めることが期待される。しかし文化的価値は各領域におけるそれぞれの価値と複雑に関係し、現実的な問題を生じる
著者
三好 達也
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.159-171, 2003-03-01

今日、日本におけるボランティアは地縁関係を中心とした従来の互助的なボランティアから個人の興味・関心によっておこなわれるものへと変化している。そこで、依然として根強い地縁関係をもつコミュニティである一方で「世界遺産」に登録され、観光地化されている「白川郷・五箇山の合掌造り集落」に焦点をあて、「重要伝統的建造物群保存地区」及び「史跡」指定から「世界遺産」登録後のボランティアに関する意識変化について調査し、過疎地域のおけるボランティア精神の特色やその変化について、萱葺きの葺き替えや冠婚葬祭などの互助的な慣習である「結(ゆい)」の果たしてきた役割を中心に考えてみたい。調査方法としてはインタビュー調査を用いた。テンニースの理論をもとにした分析の結果、「結」を中心とした互助的なボランティアと観光客を対象とするボランティアが混在していることが明らかになった。つまり、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」におけるボランティア精神はゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと移行しつつあり、そこには「結」によって互助関係は継続され、観光地化によって近代化が進むことで独特なボランティア精神を形成しているといえる。
著者
近藤 裕子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.61-67, 1999-03-01

人間を対象とする看護等の職業においては,人間をどのようにとらえれば,人間全体を把握できるかの検討は重要である。日本では古来から「身心一如」の考えから,心身一元論的なとらえ方が一般に行われてきた。しかし人間は,身体的にはとらえやすくても心理的にはとらえにくい。人間をどのようにとらえるかは,それぞれの人によってまた,どのような視点でみるかによっても異なってくる。人間の姿や心を,能楽を通して演じた世阿弥によって記述された,さまざまな人間の姿から,看護学における人間のとらえ方への応用を考察する。