著者
加澤 昌人
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.65-81, 2008-03-01

本論では、従来研究対象とされてきた文書や記録、あるいはこれまで取り上げられなかった廟堂祭祀に関する記録を、宗教的な視点から見直すことによって新たな謙信像を考察した。謙信は書状や願文において、「筋目」を強調する。まず従来研究の対象とされてきた文書や記録を視点を変えて考察し、謙信の戦の「筋目」とは、王法と仏法の回復という信念であることを読み解くことができた。次に、高野山の無量光院清胤との関係と謙信の信仰を、清胤の書状と高野山からの返書三通及び関係文書を、初めて関連づけて考察することによって、伝法灌頂まで遂げた謙信の法体の実態を浮き彫りにした。さらに、景勝による米沢城本丸への謙信廟建立の過程と、藩政期における廟堂祭祀の一端を論じた。ここでは祭祀にあたる寺院の記録等により廟堂における勤行と信仰及び藩主初入部の際に謙信廟で行われる?御武具召初?から、他藩に類例のない祭祀の特色を明らかにした。
著者
戸田 雄介
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.45-59, 2007-03-01

平安時代中期に成立した宿曜道は、運命の勘申や災厄を祓う祭祀をもって院政期には貴族社会に大きな影響力を持つようになる。この院政期に活躍した宿曜師は主に珍賀と慶算の二人であった。その後時代は下り、鎌倉時代と呼ばれる時代に入っても、この二人の門流の宿曜師達が活躍するのである。平安時代、主に宿曜師の活動の場は京の貴族社会であった。しかし、鎌倉時代には京を離れ鎌倉を拠点に活動する宿曜師が現れてくるのである。本稿では、この鎌倉へ下った宿曜師珍誉の活動を考えてみたい。
著者
片山 正彦
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.41-53, 2006-03-01

豊臣政権期には、「在京賄料」といわれる知行が存在する。在京賄料とは、豊臣政権の傘下に入った諸大名が、上洛の際に必要な費用や在京中の費用を賄うための知行であるといわれる。これは豊臣政権による諸大名への上洛催促に対応していることから、諸大名統制の一環であると考えられ、天正十四年(一五八六)以降に豊臣氏と主従関係を結んだといわれる徳川氏もその例外ではないと思われる。在京賄料の宛行は、豊臣政権にとって重要な政策であることは明らかだが、これに関する研究はほとんど皆無といってよい。最近、豊臣政権が家康に宛がったとみられる近江在京賄料に関する史料(「九月十七日付家康書状」)が発見された。この史料は家康から豊臣秀吉家臣の木下吉隆・長束正家に宛てた書状である。この史料は分析の結果、天正十七年に比定され、この時点で家康への近江在京賄料が宛がわれた事実を確認できる。本稿では、天正年間における豊臣政権の在京賄料に関する分析を行うにあたって、その材料として「九月十七日付家康書状」を挙げ、この書状の分析を行いつつ、秀吉から家康へ宛がわれた近江の知行に関する考察を行いたい。
著者
中村 武夫
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.187-216, 1995-03-01
著者
谷口 勝紀
出版者
佛教大学大学院
雑誌
仏教大学大学院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
no.33, pp.33-48, 2005-03

『簠簋内伝』は「宣明暦」の注釈書として編纂され、中世における陰陽道の重要なテキストとされてきた。しかし、これまでその内容について深く論じられることはなく、巻一に牛頭天王縁起が収録されていることから、祗園社を中心とした牛頭天王信仰の側からの論考が主であった。そこで、本書が暦注の書であることからも、その暦注の部分に改めて注目し、『簠簋内伝』の牛頭天王縁起を祗園社の由来譚としてではなく、暦注の典拠として読み解いていき、そこからこれまで触れられる事のなかった『簠簋内伝』の宗教世界に迫っていきたい。陰陽道『簠簋内伝』牛頭天王暦注祗園社
著者
笹部 昌利
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.33-47, 1999-03-01

本稿は、薩長土以外の中小諸藩の個別分析が欠如するこれまで明治維新史研究に介在する問題点を明らかにするために、津山松平藩を析出し、同藩の幕末維新期の政治動向を明らかにしようとするものである。特に中央政局と地方(諸藩)の複雑な推移、対立、相互関係など多元的な政治過程のなかから、個別藩における中央への対応形態がどのように精選されていくのか、諸藩の政治運動が活発化する文久期(一八六一-一八六三)において、津山藩が諸藩の動向および攘夷問題に知何に対応していったのかを明らかにし、幕末期における藩の実像に迫る。津山藩攘夷諸藩の政治運動親兵八・一八政変
著者
室田 辰雄
出版者
佛教大学大学院
雑誌
仏教大学大学院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
no.35, pp.61-74, 2007-03

今回主題とする「文肝抄」は鎌倉後期に官人陰陽師の賀茂在材が編纂したとされる賀茂家陰陽道祭祀の次第書である。陰陽道祭祀に関しての研究は、従来、古記録や史書、道教経典、密教の儀軌書からの分析が大半であり、今まで明らかでなかった陰陽道側の言説を確認できる貴重な資料である。「文肝抄」の次第において特徴として挙げられるのは、院政期から鎌倉期の祭祀が見られる点と、地域社会との交渉であると思われる。その中でも、民俗社会における関連が見える「荒神祓」に関する分析を進める。結果、密教から荒神祓を取り込み、鎌倉中期の官人陰陽師賀茂在清が陰陽道儀礼に改編した。また、「文肝抄」における荒神は祓い清める対象であり、呪歌を詠むなど民俗社会への影響がみえる点もあった。また「文肝抄」?荒神祓?の影響を考察するために、中世末期成立安倍泰嗣編の「祭文部類」「荒神之祭文」を分析し、比較対象とした。結果、祓儀礼であった荒神祓は、荒神祭として祭られる対象となった。ただし、祭文の内容は祓の影響を受けている箇所もあり、祓から祭祀への移行した形跡を残している内容であった。「文肝抄」荒神祓賀茂家
著者
渡邊 浩史
出版者
佛教大学大学院
雑誌
仏教大学大学院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
no.31, pp.103-111, 2003-03

現在までこの「道化の華」の冒頭に用いられた「ここを過ぎて悲しみの市。」という一節は、ダンテの『神曲』からの引用であり、その翻訳としては、笠原伸生氏によっ提言された森鷗外訳『即興詩人』「神曲、吾友なる貴公子」の一節、「こゝすぎてうれへの市に」であると言われてきた。しかし、検討の結果、実はその翻訳は別にあるのではないか、という可能性が出てきた。小稿はその翻訳として、上田敏訳のテクストにあるものを一番大きな可能性とし、そこに書かれた「こゝすぎてかなしみの都へ」と「われすぎて愁の市へ」という訳稿を太宰が「道化の華」の冒頭に用いる際、一部改変し使用していたのだ、ということを提唱するものである。翻訳森鷗外上田敏ダンテ『神曲』
著者
吉成 怜子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.65-78, 2006-03-01

『欲望という名の電車』(AStreetcarNamedDesire,1947)は、いうまでもなくテネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams,1911-83)の代表作である。ヒロインであるブランチ(Blanche)について彼は、「ブランチはわたしだ」と自らが語ったように、さながらブランチを彷彿とさせるようなアルコール中毒、男性遍歴などの諸行は、決して社会に受け入れられそうもなかった。ウィリアムズが演劇界の巨人でありながら、異端者として生きてなお、彼が究極的に求め続けたものは、アメリカ南部に育まれた繊細で優雅な心情への愛着だった。われわれ現代人は経済的発展を追い求めるあまり、ともすれば他者への優しさや思いやりなどをないがしろにしてきた。その憂いをブランチのたった一人の戦いとして、ウィリアムズはこの作品を執筆したともいえる。そのブランチの負け戦だと知りながら戦う姿を本論では検証してゆきたい。ブランチアメリカ南部
著者
平松 隆円 姜 鴬燕
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.115-126, 2007-03-01

本研究の目的は,社会的機能に関して学問的関心が高まっている化粧行動を主なテーマに,当該行動と自己に関連する心理学的要因である自己概念との関連性を明らかにすることである.その方法として,学生(男性414人:M=19.19歳,女性348人:M=18.95歳)を対象として,自己概念の構造を自己について多面的にとらえているHarterのSelf-Perception Profile for Children (SPPC)を用いて検討し,次に化粧行動といかに関連しているか質問紙による調査を行った.得られた結果を要約すると,以下の通りであった.1)「自分に満足している」「自信がある」などといった自己に対する評価的側面である自己価値は,男女とも容姿という自己の外見に関する認知的側面により最も規定されていることが明らかとなった.2)自己価値と化粧行動との関連性について,男性のみの結果ではあるが,自己価値が髪加工・パックに影響力を持つことが明らかとなった.
著者
青木 京子
出版者
佛教大学大学院
雑誌
仏教大学大学院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
no.29, pp.41-51, 2001-03

「魚服記」の素材は、伝説「甲賀三郎」も重要な役割を果たしている。まず、「魚服記」には〈蛇〉の表記が四回も認められ、滝や渕の主とされる〈水神〉との関わりは深い。この〈水神〉を辿っていくと、大森郁之助氏の指摘による「八郎大明神」が想起され、そこから「甲賀三郎」があぶり出される。この題名から、「三郎と八郎のきこりの兄弟」の〈三郎〉が踏襲されているように思われる。「甲賀三郎窟物語」には、〈諏訪〉という表記が見え、母と夫の伯父の〈不義密通〉が描出される。〈諏訪〉は主人公の呼称〈スワ〉に、〈不義密通〉は、〈スワ〉と父との〈近親相姦〉に踏襲されている可能性は強い。〈スワ〉が滝に飛び込むシーン等は、伝説「龍になった甲賀三郎」に借材しているように思われる。大蛇甲賀三郎諏訪甲賀三郎窟物語龍になった甲賀三郎(伝説)
著者
新矢 昌昭
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.143-159, 2007-03-01

近年、世界的にみて宗教は社会的な場での影響力を高めている。社会的な場での影響を持つ宗教の考え方として市民宗教論や公共宗教論などがあるが、ここでは市民宗教論を考察する。何故なら、一部でわが国での神道や神社は「公共性」をもつ市民宗教として主張されているからである。だがそもそも近代日本では市民宗教として国家神道が存在していたと考えられる。そこで市民宗教としての国家神道がどのような位置づけであったのかを考える必要がある。本稿では、近代日本の市民宗教を「上から」の市民宗教と考え、更に国家神道を狭義と広義の視点から近代日本の市民宗教を検討し、現在における市民宗教としての神道のあり方を考察したものである。市民宗教国家神道
著者
吉成 怜子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.105-113, 2007-03-01

テネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams,1911-83)の『欲望という名の電車』(Astreetcar Named Desire, 1947)では、様々なコントラストが散りばめられ、それが物語をより濃密に描きだす役割を果している。中でも、主要人物であるブランチ(Blanche)とスタンリー(Stanley)のコントラストはその代表である。二人のコントラストは象徴という手法が遺憾なく発揮され、より鮮明なものとなっている。本論文では、"stain"という語を取り上げ、その"stain"が象徴的な手法として、二人のコントラストをどのように描いているかを検証していく。その手法は、観客に対して鮮明に人物像を焼き付けていながら、作者ウィリアムズにとっては、観客個々人に判断を委ねるという、複雑な要素を交錯させているということが見て取れる。ブランチスタンリーコントラストstain
著者
室田 辰雄
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.155-163, 2008-03-01

陰陽道において、儀礼や天文・暦といった知識の保証されたものは、本書、本条とよばれる典拠であった。それは時代を経るごとに増え、新たな禁忌や儀礼の典拠とされた。sの中でも鎌倉前期成立の安倍家の陰陽書『陰陽道旧記抄』には二種の神話が収録されている。一つは院政期の歌論書などに散見される「日本記」である。中世において読み替えられた「日本記」が伊勢神道や密教のみならず、陰陽道にも取り入れられ、祓の起源として説かれていることが本書の「日本記」の特徴であった。もう一方の仏典散見される「須弥四域経」は、「日本書記」ではないものの、「日本記」のバリエーションとして諸宗教に読み替えられていた言説であった。本書においても天体の起源を語る為に典拠とされていた。これらの事は陰陽道の典拠に「中世日本紀」を含むことが可能であることを示している。
著者
西 悠哉
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.19-35, 2007-03-01

綱島梁川(一八七三-一九〇七)は、哲学や倫理学に関する多くの著作を残す一方で、自らの宗教体験の告白「予が見神の実験」(明治三十八年)によって世間の注目を集めた。日露戦争の只中、多くの青年が自己・世界の意義について懐疑し、煩悶が社会現象になっていた。「見神」と呼ばれるこの体験において、「神は現前せり、予は神に没入せり、而も予は尚ほ予として個人格を失はずして在り」(「予は見神の実験によりて何を学びたる乎」)と述べられる事が注目される。このことは、本論文で示すように、宗教と倫理・社会の関わりという、より基本的な問題に梁川は身をもって答えているのである。本稿では、宗教と倫理をつなぐものとして、梁川の個我に注目し、宗教と倫理を断つ時代風潮に抗して、それらを橋渡しする個である梁川の自我を探る。
著者
山西 泰生
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.99-111, 2008-03-01

文学作品が誕生するとき、そこに作り手の思想、所属組織(集団・階層)、時代の社会状況といった大きな「背景」が存在し、それらを作品内容と完全に切り離すことは不可能であろう。むしろ「背景」から作品が発生するとしたほうが適切であろうか。これは文字が氾濫し、個人でも作品を生成できる現代と違い、限られた場所・階層でしか作品を創造することができなかった中世であれば尚更であると考える。鎌倉幕府御家人の安達氏は「秋田城介」に任官したことから「城氏」でもあった。鎌倉末期を編纂期と想定する真名本「曽我物語」は「安達氏」ではなく「城氏」として扱う。そして、それは歴史という観点からは矛盾を生じているのである。この矛盾には、真名本作者が生きた時代の社会情勢を背景とし、そこに根差した安達氏に対する作者の強い関心がうかがわれるのである。
著者
植田 喜久子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.161-172, 1999-03-01

阪神・淡路大震災後における視覚障害者の移動・情報入手の実態について視覚障害者10名に半構成的面接調査法を行い明らかにした。大震災により環境は変化し,視覚障害者は環境を把握するてがかりを失い単独での移動が不可能になり,移動時間の延長や移動範囲が狭くなっていた。また,震災後の情報の伝達方法は健常者中心であり,視覚障害者は点字,ラジオ,家族や知人の説明により情報入手していた。災害時に視覚障害者自身が自助努力のみで移動したり生活に必要な情報が入手できないため,誰もが視覚障害者の不自由について理解し対応する重要性がある。誰もが災害時に人間がどのような体験をするのかを理解し,いかなる状況においてもより豊かに生きることができるように生活のあり方について学習する必要がある。学習課題の緊急性を考慮すると災害に関する学習は,生涯学習の現代的課題である。
著者
田中 勝裕
出版者
佛教大学大学院
雑誌
仏教大学大学院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
no.33, pp.17-32, 2005-03

陰陽道で行われた反閇という作法の実態を知るための史料として、『小反閇并護身法』というものがある。この文献が発見されてから、小坂眞二氏をはじめ、陰陽道の反閇に関しての研究は進んだが、未だ不明な点はいくつか残されている。本稿ではそれらのうち、特に「天鼓」と「玉女」について考察したものである。反閇とは中国の「玉女反閉局法」を典拠にしたとされる陰陽道の作法であり、「天鼓」とはその中で行なわれるものであり、「玉女」とは作法中に現われる神格のことである。「天鼓」は今までその実態が言及されていない作法であり、また「玉女」については諸説あるものの、実態のはっきりとしない神格である。本稿はそれらについて分析したものである。反閉局法反閇天鼓玉女
著者
田中 勝裕
出版者
佛教大学大学院
雑誌
仏教大学大学院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
no.35, pp.29-43, 2007-03

陰陽道で行われた反閇に関する史料として『小反閇并護身法』という史料がある。そのうちの次第の一つである地戸呪の項には、用途によって呪の内容を変更するという記述がある。本稿ではそれらの用途に反閇が用いられる時、そこにどのような機能が期待されたのかを探る。具体的には典拠である反閉局法と小反閇作法の次第の比較や呪の解読(特に地戸呪に関する箇所)を行い、それらが何を目的にしているのかを明らかにすることで、反閇という作法の性格を探る。その上で、反閇の性格と、それが用いられた状況にどのような関係があるかについて考察する。なお、反閇に関してはいくつか表記があるが、論題など特別な場合を除いて、典拠とされる中国のものは「反閉局法」、陰陽道で用いられた場合は「反閇」に統一した。反閉局法反閇天門呪地戸呪
著者
松本 桂子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大學大學院紀要 (ISSN:13442422)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.85-95, 2005-03-01

D.H.ロレンスは、晩年を南フランスで静養に努めながらも創作を続け、価値ある諸作品を残した。中でも、刻々と迫る死を自覚しつつ書かれた詩「死の船」は、死後の魂を未知なる世界へと運び行く小さな船を象徴として、死という自然の摂理を独特の解釈と手法で描いた作品である。そこに凝縮された死生観にも通じる根本思想を追究することにより、ロレンスの最後のメッセージとして受け取りたい。方舟聖書エトルリア復活再生