著者
熊谷 大輔
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.21-37, 2017-03-21

近年、人口減少や高齢化の進行する地方では小地域福祉活動が活発化してきている。一方、それら活動には継続が困難となる場合も少なくない。これら小地域福祉活動における継続要因は、(1)柔軟な参加と活動の仕組み、(2)利他意識の醸成、(3)人との出会いとつながり、(4)地域への理解と愛着の生成、(5)活動に対する誇りと自信、の5 つの論点にまとめることができる。本論文では、福祉をめぐる「場づくり」を目指すF団体に所属するメンバー6 名に実施したインタビュー調査をもとに、活動の継続要因や望ましい活動のあり方について、5 つの論点との関連性と活動メンバー個々人に生じる変化を踏まえて検証した。そのうち、(1)「柔軟な参加と活動の仕組み」は活動の「条件」に当たるものであり、(2)以降の4つの論点は活動の「成果」に当たるものであり、「成果」の実感と活動「条件」の整備との間には困難な調整が求められることが示唆された。さらに、これら「成果」と「条件」は「一般化」と「特殊なものとの融合」という2 つの志向が影響していると考えられ、活動主体のずれは多様な人びとが活動に参加することによる多様性が増せば増すほど活動主体は個々に異なる方向に純化させようとする考え方を生成しやすいことが示唆された。以上を踏まえると次のように結論づけられる。(1)活動メンバーは「活動の仕組み」以上に「人との出会いやつながり」を重視する傾向がある。(2)したがって、小地域福祉活動の継続には、「共同・実践ありき」と呼ぶべき「活動姿勢」の実現が重要な鍵を握る。(3)さらに言えば、「柔軟な参加態度と活動の仕組み」という最低限の「条件」と活動の多様な「成果」との調整が不可欠である。In recent years, small local welfare activities have increased in depopulation and aging regions.However, most of those activities cannot continued. Through my short bibliographic survey, Iconclude the primary factors of continuation of those activities as follows: 1) organization for flexibleparticipation of members and decision of activities, 2) fostering of altruistic awareness of members,3) encounters with the unknown and connections with members, 4) fostering of understanding ofand attachment for local community, and 5) self-confidence and pride of the activities.Therefore, in this paper I studied the interrelationship between these factors, paying attention topersonal changes of members, through the interviews with six members of Group F which aims tochange the negative image of welfare work in Akita City.At first, I analyze that the first factor corresponds to the activities "conditions," and the otherfour factors correspond to the "results." Consequently, the members of group need to difficultcoordination between the first conditional factor and the other resultant factors. In addition, I findout that in the conditional factor "respect for the peculiarity" is oriented and in the resultant factors"generalization" is valued. Accordingly, I guess the latent conflict between members has beenoccurred from this inconsistency of orientations.Lastly, I conclude as follows : 1) the members of groups tend to make much more of the resultantfactors, especially "encounters and connections", than the conditional factor. 2) this "encountersand connections" factor can be called the activity principle for "cooperative practice". 3) thoughtthis principle the group could solve the conflict between organizational condition and resultant fulfillment of members.
著者
福岡 裕美子 駒井 裕子 林 成蔚
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.57-63, 2016-03-18

社会的なつながりがほとんどない中高年化したニートを支える高齢の親の心配事を高齢者ケアに携わる専門職への実態調査から把握することを目的とした。S市社会福祉協議会が運営する介護保険サービス事業所で働くケアワーカーを対象にアンケート調査を実施した。調査期間は平成27年1月末から2月末。調査対象者数は146名。アンケート調査の内容は、①65歳以上の親(両親あるいは父親あるいは母親)と中高年化したニートが同居しているケースの担当の有無、②担当ケース数、③担当ケースの概要(自由記載)、④65歳以上の親の心配事(自由記載)の自記式質問紙にて実施した。倫理的配慮は、ケアワーカーが所属する事業所長への同意を得て、各ケアワーカーへのアンケート調査は回収をもって同意とみなした。倫理申請はT 大学研究倫理審査の承認を得た。アンケート調査の結果は、ここ1年で中高年化したニートがいるお宅を担当したことがあるケアワーカーは32名(43.8%)だった。担当ケースの概要が記載されていたのは23件だった。自由記載の内容は意味内容を変えずに1文節化してコード化し類似性のあるものにまとめた。その結果、親の心配事の内容は【親の年金に依存した生活】【ニートの病気の心配】【心理的負担感】【親の死後の生活の心配】【親戚への負い目】【親の過剰な保護】【助けてもらえる存在】【日常生活の不自由さ】というカテゴリに分類された。ケース概要の中にはニートから受けた相談の内容も含まれていた。内容は【親の介護の負担】【生活費の工面】というカテゴリに分類された。親以外の家族からの相談内容は【妹の行く末の心配】というカテゴリに分類された。ニートを支える高齢の親の心配事を把握することができた。また、親の心配事に関する調査であったが、ニート本人から受けた相談の内容も含まれていた。その内容から、親の介護のために離職し、そのまま社会との接点を失ってしまったケースがほとんどであると推察された。
著者
金目 哲郎
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.45-56, 2021-03-24

本稿の課題は、新型コロナウイルス感染症がもたらす日本経済および地域経済へのダメージに対して、地方自治体がどのように対応していくのかを検討し、ポスト・コロナ時代における地方自治体の政策課題を提示することにある。本稿の構成は次のとおりである。第1節では、新型コロナウイルス感染拡大がもたらしている日本経済や地域経済の悪化の現状を、いくつかの指標で捉える。第2節では、近年に経験した経済的危機と、新型コロナウイルス感染症とでは、危機の性質が異なり、ゆえに地域経済の活性化に向けた、地方自治体の対応のしかたも異なることを指摘する。そのうえで、コロナ禍にあって、まずは地域経済の崩壊を防ぐための初期対応として緊急的に打ち出された地方自治体の政策の事例を紹介する。第3節では、現在のコロナ禍で、人びとや企業が大都市圏に集中する「東京一極集中」に変化の兆しがあることに言及する。ポスト・コロナ時代では、人びとや企業が地方圏に分散する、「地方分散型社会」に向かっていく可能性を指摘し、これを後押しするための地域経済活性化政策のあり方や、国と地方自治体との財政関係をめぐる課題を展望する。
著者
下田 雄次
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.11, pp.132-154, 2015-03-18

日本の民俗芸能研究では、民俗芸能(以下、芸能とも記す)を地域的・社会的な文脈から切り離し「舞台上」の芸術として捉えるような考え方が長らく支配的であった。また、芸能については主にその起源や意味、伝播や系譜が問題にされてきた。このような傾向は眼前にある芸能の姿を捉えようとする視野の欠如をもたらした。民俗芸能に対するこのような観念は我が国における文化財行政の思想的基盤にも影響を与えてきた。本論は民俗芸能や日常における人々の身体の用い方に着目し、民俗芸能を日常とのつながりのなかで捉え直そうとするものであり、近代化による日本人の身体性の変容も視野に入れながら、同時代的な観点に基づいて考察を行うものである。方法としては、青森県津軽地方の岩木山南山麓に伝承される獅子踊りや、同じく当該地域で行われてきた民間の技術を題材にした。いずれの観察対象においても論者自ら参与し実体験に基づく具体的な情報の収集に努めた。また参考事例として、弘前市内に藩政時代より伝わる古流武術の学習・実践によって得られた知見なども加えた。日常における身体活動のレベルから民俗芸能を捉えてみることにより、日常の諸技能を実践する身体のあり方が芸能の所作にとっての文化的な資源になっているという構図が見えてくる。旧来の身体のあり方が残存している一方で、近代以降変容を経た我々の身体がある。そして民俗芸能自体もまた変容を経ている。芸能をとりまく現在の社会には、旧来の事象に適した身体と近代化を経験した身体という二つの身体性が混在していると考えられる。
著者
丹野 正
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.3, pp.37-47, 2006-12-28

一般に狩猟採集民の社会は徹底した平等主義社会であると位置づけられている。リー(1979)が記載したクン・サンのハンターたちが交わす「きついジョーク」は、このことを端的に示す事例として多くの人類学者たちが紹介している。また、リーが調査地のクンたちへのクリスマス・プレゼントとして購入してきた大きな雄牛が、彼らによって酷評されてしまったというエピソードも、同様の例として引用される。私はムブティやアカのハンターたちが仲間の殺した獲物をけなす「きついジョーク」を聞いたことがなかった。そこで、クンはなぜそのようなジョークをあえて言うのかという疑問をもった。また、リーはハンターたち自身による「きついジョーク」と雄牛のエピソードのどちらを先に経験したのだろうか。本稿では、リー自身は雄牛の一件をどのように受けとめ、そこから何を理解するに至ったのか、さらに、ハンターたち自身が交わすとされる「きついジョーク」は実際にはいつ、どこで、どのような状況のもとでリーが知ることができたことなのかを、リーの叙述をもとに明らかにする。これらのことは、彼の著書の以下のような目的に直接に関わっているからである。「・・・また調査者たちがクンの生活に、そしてクンたちが調査者たちの生活に及ぼした相互のインパクトを跡づける。その目的はフィールドワークの経験なるものを(読者に)お伝えすることにある。」
著者
岩森 譲
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.3, pp.1-25, 2006-12-28

明治初年に実施された神仏分離は地域の宗教を論じる上で、重要な問題である。神仏分離令は明治新政府によって全国に布達されたとはいえ、近世期の領内宗教の形態、あるいは神仏分離政策を進める為政者の意識等によって、地域差が見られる。そこで、本稿ではこの点に着目して、盛岡藩の神仏分離の特質について考察した。幕末維新期の盛岡藩では宗教者の多くを修験者が占め、神職は少なかった。慶応年間には、下斗米石見守を中心にした神職組織が形成されたが、各宗教組織の成熟度にも差があった。戊辰戦争中には、宗教者は藩に対して献金を行う。またこの時、修験隊が組織されるなど藩の軍事にも宗教者は積極的に協力していった。このような状況背景を持ち、盛岡藩領内における神仏分離が進められていく。盛岡藩では戊辰戦争中に本格的に神仏分離を進めることはできなかった。戊辰戦争後、神仏分離を進める際には、近世期に国学者で藩校の教授も務めていた江刺恒久とその門人を中心とした領内神祇体制を構築していった。藩も領内宗教者も、戊辰戦争の汚名返上を目指し、藩を挙げて神仏分離を行っていった。神仏分離は明治政府の方針に沿った形で、一村一社の原則のもとに実施された。神仏分離によって僧侶・修験者の神職への転向が進むが、この時、藩は神職に転じた僧侶・修験者に、従来、別当として管理していた持宮をそのまま与え、その神主に任命していくのである。そのため、神仏分離が僧侶・修験者の生活の基盤を直接奪うことはなく、彼らは宗教者としての職から離れずに済む状況であった。また、尾去沢銅山を対象として、神仏分離による在地の信仰の変化について考察した。在地の人々は、明治四年段階までを見る限り、近世期と同様の信仰生活を送っており、神仏分離が在地の人々と諸寺社との関係に大きな変化を及ぼすことはなかったと考えられる。
著者
張 修志
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.23-38, 2022-03-24

1990年代以降、中国政府は社区の建設を大いに推進しはじめた。「社区」とは、「一定の地域範囲に居住する人々が構成する社会生活共同体」であり、一般的に「居民委員会とその管轄区域」を指す。中国では改革開放に伴う国営企業の解体などによって、社会構造の末端が職場=単位制から社区制に転換しつつある。そこで本研究ではまず、「単位制から社区制へ」という現代中国の社会構造の変化を捉える概念化を、単位制に遡りながら明示する。そのうえで、単位制とは異なり社区制はまだ模索の段階にあり、特に政府が主導するかたちで「ガバナンス」のモデルが模索されている段階にあることを整理する。すなわち上海、瀋陽、江漢、塩田(深圳)、銅陵、南京などを素材として、(1)政府主導型、(2)社区自治型、(3)協力型に分類し、住民参加の焦点や行政機構改革の力点の相違を明らかにする。最後に、これまでの社区ガバナンスの模索で集合住宅管理の問題が残されていることを指摘したい。
著者
柴田 彩子
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.51-62, 2017-03-21

農山漁村においては、そこに居住する人々自身の手で集落環境の整備を行なう村仕事の慣行が見られる。人口減少や高齢化によりこうした作業が続けられなくなる事態へは、他出した子どもや孫、また外部のボランティアに作業を手伝ってもらう、移住者を迎え入れる、といった対応が始まっている。一方で、集落環境の整備や祭りの準備といった共同作業の場は、移住者がコミュニティへ入り込んでゆくための有効な手段であるということが現場で実感されている。そこで本研究では、山梨県早川町薬袋の「道つくり」と呼ばれる村仕事の参与観察を行い、道つくりという場が他出者や移住者、非定住者を含めたそこに参加する人々にとってどのような意味合いを持つのか検討した。薬袋の道つくりには、地元の人のほかに孫ターンの若者や新旧の移住者、他出者、さらに必ずしも出席の義務はない集落内の事業所の関係者および移住予定者などが出席していた。参加者は、それぞれの慣れや技能などを鑑みて6 つのグループに分けられ、作業を割り振られた。参与観察の結果、道つくりは、まず、作業を通じてあり合わせのものを創意で使うといった知恵や技術を活用し、それを来たばかりの移住者や非定住者に共有・継承する場であった。また、作業の合間にかわされる会話などを通して、集落の時間的・空間的広がりを実感し再認識する場であった。そして、参加する義務を果たす中で、「村仕事に参加するのは当然の義務である」という感覚自体を獲得し定着させていく場でもあるといえる。以上から、道つくりをはじめとする共同作業の場は、正統的周辺参加者である移住者や非定住者が、集落という実践共同体の一員になっていく過程の学習の場なのであると捉えることができる。なお、非定住者が道つくりという実践に参加し学習していく過程では、他出者や移住者といった「半よそ者」と呼びうる人々が媒介役となっており、この「半よそ者」の役割についてはさらに考察をかめる必要がある。 In many villages in the rural areas of Japan, we can observe the custom of maintaining the villagesurroundings on their own. In some situations where such work cannot be continued due to the declining and aging population, children or grandchildren living other places or outside volunteershave been asked for assistance, and migrants have also been welcomed. Meanwhile, communitieshave effectively integrated newcomers through collaborative work such as communal work onpublic spaces in the village and preparing for the festivals.The aim of this paper is to figure out the meaning of this collaborative work for its participants.The data is based on participant observation of “Michi-tsukuri (Making a way)” event in Hayakawacho,Yamanashi prefecture, in which the entire village participated.Participants were divided into six groups of mixed migrants and non-inhabitants (formerinhabitants, visitor and commuter) according to their skills.My participate observation revealed that through work, it became a space of improvisation wherein knowledge and techniques shared and passed on newcomers and non-inhabitants. In addition,through the conversation and interactions in interstices between work, participants experiencedsome for the first time and recognized the temporal and spatial extent of the village.Using J.Lave and E.Wenger’s “Legitimate Peripheral Participation (LPP)” theory would positthis as a place of learning where newcomers and non-inhabitants are able to begin to legitimatelyparticipate in a peripheral way in the village understood as a community of practice.Furthermore, in the process of non-inhabitants’ participate in “Michi-tsukuri” and “learning”, thosewho might be called “semi-outsiders”, such as former inhabitants and migrants, act as intermediaries.
著者
熊谷 大輔
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.3-14, 2016-03-18

少子高齢化・人口減少社会において福祉への需要は高まっているものの、福祉に対するイメージは都市・地方問わず悪化する傾向にある。しかもその傾向は、今後、福祉を担うことが期待される若年層を中心に広がりを見せている。そこで本論文では、福祉をめぐる「場づくり」を目指すF団体による、福祉と美容を組合せ、参加者どうしの対話を促すイベントへの参加者のうち3名に実施したインタビュー調査をもとに、福祉に対するイメージの転換と主体性が醸成される過程を検証した。まず、当初は世間が抱く一般的な福祉に対するネガティブなイメージの転換に注目していたが、それぞれの参加者が想定する福祉が「従事するもの」か「利用するもの」かにより、イメージが転換する構造に違いが見られた。このうち「従事する福祉」である場合、たしかに世間のネガティブなイメージの内面化が観察されたが、それは福祉に従事すること自体によってもたらされており、単に世間のイメージが問題であるとは言えなかった。他方、「利用する福祉」である場合には、ネガティブなイメージから進んでタブー意識があったりそもそも無関心であったりした。次に、異なるイメージの転換だけでなく主体性の醸成の気づきがあり、しかもそれらが互いに不可分に関連していると考えられた。すなわち「従事する福祉」が想定されていた場合、「相互扶助」や「利他」といった福祉の本来的な魅力の再確認がイメージの転換と主体性の醸成をともに促していた。これに対して、「利用する福祉」が想定されていた場合は、参加者の「自己体験化」が双方の過程で鍵を握っていた。以上を踏まえると、福祉に対するイメージ転換と主体性醸成をともに目指す今後の地域活動においては、福祉が「支え合い」よりも「利用し利用される」ものになっている現実を踏まえ、より「利用者」目線に立った戦略が必要だと言えよう。
著者
飯田 清子
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.11, pp.45-56, 2015-03-18

本稿では、地域の経済発展の差の一部を教育水準の違いで説明することができるかを考察する。地域の教育水準すなわち、人的資本蓄積の違いが、経済成長へどの程度影響を及ぼしているかを、学歴別労働者の構成比率と賃金、地域間の所得の格差によって説明する。地域間の所得の格差が、どの程度教育によって説明できるかの検証は、Weil(2010)に倣い、人的資本を考慮したソローモデルに基づいて、地域の経済成長の要因分析を行う。そこで、地域経済において生産要素としての人的資本がどの程度経済発展の牽引をしているのか、「県民経済計算」や「国勢調査」、「賃金構造基本統計調査」のデータを用いて考察を行った。次のような結果が得られた。① 通学年数により、1 人当たりの県民所得のある程度の変動を予測することが可能である。② 労働投入量の差比、すなわち人的資本蓄積における地域格差は、生産高比率によって示される地域格差よりも大きくなる地域と、小さくなる地域があり、地域の状況を表している。③ 東京都といくつかの特徴のある県以外の県では、平均通学年数、生産高比率において、大きなばらつきがない④ 相対的な賃金をみると、一般に男性よりも女性労働者で、通学年数の増加による賃金の増加が大きい。
著者
丹野 正
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.6, pp.3-30, 2009-12-28

今西錦司は、生物のそれぞれの種ごとに、「種個体」たちから成る「種社会」が存在すると提唱した。多くの生物(動物)の種社会は、個体維持能力と種属維持能力を兼ね備えた種個体たちから直接に構成されているだけで、種社会の内部に複数の種個体たちから成る持続的な集団(群れ)を形成していない。彼は野生ニホンザルの種社会の中に社会的単位としての群れの存在を認めたが、ニホンザルの群れのメンバー構成が非常に安定しており、群れ間は対立していることが明らかになるにつれて、無意識のうちにその「群れ」と「種社会」とを重ね合わせてしまい、群れはそれ自身で個体の再生産を果たしている閉鎖的で自己充足的な集団であると見なしてしまった。 その後、ニホンザルの群れは、雌は生まれ育った群れにとどまるが、雄は生まれ育った群れを離脱して他の群れに移籍する、「半閉鎖系」であることが明らかになった。伊谷純一郎はこのことおよび他の霊長類の群れも閉鎖系ではないことを重視し、群れを霊長類の種社会を構成している「単位集団」と位置づけた。ただし彼は、単位集団間の雄または雌の移籍を、インセストの回避機構なのだと解釈した。しかし、種社会が単独生活の種個体たちからではなく、単位集団から構成されている場合、単位集団間に種個体のなんらかの交流ルートが存在すること、すなわち単位集団なるものは通世代的な閉鎖系でありえないことは、種社会論からの論理的帰結であり、この事実は「種社会の実在」を証明する発見だったのであって、インセストの回避機構と解釈すべきものではない。 ヒトの祖先の種社会も最近縁のチンパンジーと同様の単位集団(雌が集団間を移籍する)から成っていたとすれば、こうした種に固有の単位集団から原初の人間社会の居住集団と家族への転換は、血縁関係の相互認知の持続とそれに基づくインセストの自然な回避が他集団に移籍した血縁者にも及ぶようになり、集団間に拡張された親子関係と兄弟姉妹関係のネットワークを頼って女性のみでなく男性も集団間を移動し得るようになって、はじめて実現したのだと考えられる。この意味で「インセストの禁止」は人間社会のすべてに普遍的な制度なのではなく、原初の人間社会の起原よりもずっと後の時代に、「制度上の血縁者たち」とその集団を創出する原理として、そして複数の出自集団・クランから成る「部族」というまさに「制度に基づいた社会」を編成する原理として、打ち立てられたものである。
著者
杉山 祐子
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.11, pp.95-103, 2015-03-18

大都市圏と地理的に隔たっているにもかかわらず、津軽地域の農村は比較的早い時期から現金経済に巻き込まれていた。明治期には出稼ぎとよばれる労働移動の形態が一般化し、第二次世界大戦後の高度経済成長期になると、大都市部への出稼ぎによって得た多額の現金が機械化を含む急速な農業の近代化と生活の大きな変化をもたらした。しかし同時に、地域コミュニティにおける小規模で対面的な関係に依拠した共同性は再生産されつづけ、地域の暮らしを形作ってきた。この地域では国やグローバルレベルの社会経済システムに、地域レベルの共同性を保った生活システムが接合した、いわば「二重システム」が、地域の生計戦略の中心になってきたといえる。1990年代以降、青森県でも多くの農産物直売所が作られ、農村部の人びとがいわゆる規格外の生産物や加工品などを直接販売するルートが確保された。これらの直売所では、いずれも商品の多様性と季節性の高さがきわだっている。また、それらが地域の環境や食文化を色濃く反映していることも指摘できる。農産物直売所は2 つの異なる機能をはたしている。ひとつは、地域外に販売するための生産物(地場産品)を開発すること、いまひとつは、地域の人びとの日常生活に必要な品物を提供すること、である。これが直売所の品揃えの多様性につながっている。熱心に「勉強」し、域外の人びとにアピールする新しい作物の試作をしたり、共同で加工品を工夫したりする生産者がある一方、少量ではあっても、季節ごとの地域の食生活に欠かせない農作物を売る生産者もある。直売所は現金を得る場としてだけでなく、出会いの場となり、「勉強」や「工夫」、「楽しみ」を生み出す場ともなる。これらがあいまって、農産物直売所の商品にみられるような多様性や新たなローカリティ生成の揺籃となる。それは、今後の地域のありようを検討するときに重要な可能性を示している。
著者
高畑 美代子
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.5, pp.75-95, 2008-12-26

Unbeaten Tracks in Japanは1878年に来日した英国の女性旅行家イザベラ・バードの日本旅行記である。初版は1880年にロンドンのジョン・マレー社から出版されて当時のベストセラーとなった。これに対して、トーマス・W・ブラキストンとホーレス・ケプロンはそれぞれの著書で、厳しくイザベラ・バードの記述を批判した。 1885年にジョン・マレー社から初版の半分以上を削除した省略新版(『日本奥地紀行』)が出たが、日本では、この省略版が作られたのは、彼らの厳しい批判に配慮したものだとされてきた。 しかし、Unbeaten Tracks in Japanの省略版の計画は、初版刊行の前からあったことを証明する手紙が、ジョン・マレー社には保管されていた。また「統計を削除して冒険と旅行の本を作る」という省略版の目的の記述も見つかった。これらから彼らの批判と省略版の関係はあったのかという疑問が生じた。 そこで、本研究では彼らの批判箇所と省略版での削除箇所の関係を精査検討した。批判の対象となった記述が「覚書き」や「一般事項」などの説明的項目に含まれていて、一括して削除されたもののほかにも、個別の信書中にあってほとんど残されているものや、数項目の事項のうちの一つを削除したものなどもあり、批判箇所への対応には一貫性がみられなかった。 また、省略版では関西旅行や居留地などの西洋人のよく行く地域や日本の近代化を記した部分が削除されたが、そのほとんどは彼らの指摘とは関係がなかった。これらのことから、省略版は、ブラキストンらの批判に配慮した結果であるとはいえないとの結論に至った。 省略の結果として、当初の目的どおりに未踏の地の冒険と旅行の本として改編されて、UnbeatenTracks in Japanの題名に即した本になったといえる。
著者
熊谷 大輔
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.11, pp.33-43, 2015-03-18

少子高齢化・人口減少社会において、財政危機下で増大しつづける福祉需要に対応すべく地域の相互扶助に期待が集まっている。しかし都市・地方問わず、地域の人間関係の希薄化と福祉イメージの悪化が進んでおり、地域や福祉に対する無・低関心層の巻き込みは容易ではない。そうした無・低関心層と地域や福祉を結びつける試みとして注目されているのが「場づくり」である。「場づくり」とは、多様な人びとの自由な相互作用を促すハード・ソフト両面の環境を生み出すことである。そこで本報告では、福祉をめぐる「場づくり」を目指すF団体による、福祉と美容を融合させ参加者どうし対話を促すイベント(2013年11月30日)を取り上げ、参加者に対するアンケート調査をもとに、「場づくり」の効果と参加に至る認知経路を検証した。まず、認知経路としては、認知においてもまた参加の契機においても、「友人・知人」が有意に多かった(認知の7 割、参加の5 割)。とりわけ、組織所属3 年以上の者で、そうした傾向が強かった。効果については、参加前後で福祉イメージの変化が見られた者が6 割を超え、自由回答からその変化はポジティブなものだと推測された。さらに、「友人・知人」を介した参加者においてその傾向が強まっていた。また、福祉イメージがポジティブに変化した者の8 割が、今後地域活動を希望すると回答していた。この結果から、認知・参加を促すうえでも福祉イメージの転換を図るうえでも重要だということが確認された。ただし、「友人・知人」という認知経路の有効性はその後の当事者にとっての有効感に左右されるという知見もあり追跡調査が必要である。また、福祉イメージの転換が福祉を支える「つながり」や主体の形成を現実にどう帰結しうるのかも今後の検証が求められる。
著者
白石 睦弥
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.5, pp.176-156, 2008-12-26

岩木山は青森県津軽地域に聳そびえる標高一六二五メートルの独立峰である。火山としても知られているが、近世期を通じて火山活動は見られるものの、大規模な被害や死者をともなう火山性災害を引き起こしていない。 岩木山の活動の中に硫い おうやま黄山出火というものがある。硫黄山は岩木山南西の嶺、湯治場として知られる嶽だけ温泉の上部にあり、岩木山を描いた絵図などにその位置を確認できる。硫黄山出火は火山性の水蒸気爆発などによって露出した硫黄が延焼するというものであったが、実際的に城下町や在方の、人が居住している地域にほとんど影響は無い。それにもかかわらず弘前藩はこの出火に対応し、領民は動揺を見せながらもその消火に自主的に加わった。この様子は「金木屋日記」に記されている。硫黄山出火の特徴は、他の火山性災害と異なり、領民の尽力と藩主の威光によってコントロールできると考えられていたことである。岩木山が壊滅的な災害を引き起こさず、鎮火に至ったことは、弘前藩の権威を維持する上で大いに役立ったと考えられる。 また、岩木山に対する弘前藩の信仰は代々厚いものがあり、それは、当時下おりいのみや居宮と呼ばれた岩木山神社と別当寺である百ひゃくたくじ沢寺の維持管理といった面にもよくあらわれている。四代藩主信政は自ら神式で岩木山に葬られ、このことも岩木山信仰と弘前藩の結びつきを強めた。現在も岩木山信仰圏が津軽領と重複しており、近世期から連綿とその信仰が続いていたことが理解できる。このような信仰の対象である岩木山が青く燃える様は、弘前城下からも確認でき、領民には動揺が広がった。 このような岩木山の変事をはじめとし、地震などの災害、蝦え ぞち夷地出兵などの国家的危機に際して、下居宮や百沢寺で行われた祈祷は、弘前藩と岩木山が内外の危機から藩領すなわち藩国家を守ることを明示し、それは藩体制の強化にも繋がった。
著者
長谷川 成一
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.6, pp.1-63, 2009-12-28

本稿では、近世津軽領を素材として、新たな絵図の解析と同藩の森林台帳・沢絵図の分析から、近世津軽領の林政・森林経営を探る上で基本的な研究素材となる領内の植生を復元し、十七世紀から十八世紀にかけての約百年間にわたる植生景観の変容について考えてみたい。 「津軽国図」によって復元した十七世紀末の領内植生から、津軽領では、斫しゃくばつ伐が比較的やりやすく、岩木川などを活用した、材木の大消費地である都市や港湾へ運搬の利便性の高い山地に開発の集中する傾向があった、と言えよう。寛政期津軽領の植生復元図によると、十八世紀後半から末にかけての津軽領における植生景観は、十七世紀末の「津軽国図」に見られたそれと比較して、大きな変化は認められない。ただし、いくつかの地点で明らかに檜・杉などの森林が消滅した形跡はあり、開発の手は次第に奥山へ延伸していったと推定される。津軽半島の陸奥湾に面した山々や八甲田の南部境、碇ヶ関の秋田境など、市場において高価格での販売が可能な、檜・杉など高質の針葉樹の伐採と搬出の可能な限定された地域にあって、過伐→荒廃→休山のサイクルを繰り返す状況にあったようだ。 弘前藩では、天明大飢饉を契機として、領内にかつてないほどの広範な御おすくいやま救山の設定がなされた。御救山が森林資源の枯渇を誘発したことから、十八世紀末に至って、弘前藩には、領内山林に大幅な手を加える財政的な余力はすでに尽きており、森林景観を変更するような政策を打ち出せなかったと考えられる。秋田藩のように森林資源の枯渇を防ぐために、藩が主体となって植林を実施した形跡は、弘前藩には認められない。弘前藩では、藩庁の手による植林によって山勢回復を図ることなく、民衆に植林を促す仕立山の制や天然更新による森林資源の回復を待つ方策だったことから、十七世紀末から十八世紀末にいたる約百年間の植生には、大きな変容は認められなかったのである。
著者
長谷川 成一
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.6, pp.1-63, 2009-12-28

本稿では、近世津軽領を素材として、新たな絵図の解析と同藩の森林台帳・沢絵図の分析から、近世津軽領の林政・森林経営を探る上で基本的な研究素材となる領内の植生を復元し、十七世紀から十八世紀にかけての約百年間にわたる植生景観の変容について考えてみたい。 「津軽国図」によって復元した十七世紀末の領内植生から、津軽領では、斫しゃくばつ伐が比較的やりやすく、岩木川などを活用した、材木の大消費地である都市や港湾へ運搬の利便性の高い山地に開発の集中する傾向があった、と言えよう。寛政期津軽領の植生復元図によると、十八世紀後半から末にかけての津軽領における植生景観は、十七世紀末の「津軽国図」に見られたそれと比較して、大きな変化は認められない。ただし、いくつかの地点で明らかに檜・杉などの森林が消滅した形跡はあり、開発の手は次第に奥山へ延伸していったと推定される。津軽半島の陸奥湾に面した山々や八甲田の南部境、碇ヶ関の秋田境など、市場において高価格での販売が可能な、檜・杉など高質の針葉樹の伐採と搬出の可能な限定された地域にあって、過伐→荒廃→休山のサイクルを繰り返す状況にあったようだ。 弘前藩では、天明大飢饉を契機として、領内にかつてないほどの広範な御おすくいやま救山の設定がなされた。御救山が森林資源の枯渇を誘発したことから、十八世紀末に至って、弘前藩には、領内山林に大幅な手を加える財政的な余力はすでに尽きており、森林景観を変更するような政策を打ち出せなかったと考えられる。秋田藩のように森林資源の枯渇を防ぐために、藩が主体となって植林を実施した形跡は、弘前藩には認められない。弘前藩では、藩庁の手による植林によって山勢回復を図ることなく、民衆に植林を促す仕立山の制や天然更新による森林資源の回復を待つ方策だったことから、十七世紀末から十八世紀末にいたる約百年間の植生には、大きな変容は認められなかったのである。
著者
竹内 健悟
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.21-36, 2005
被引用文献数
2

岩木川下流部のヨシ原は、絶滅危惧種であるオオセッカをはじめとする野生鳥類の繁殖地であり、また地域の人によって古くからヨシ産業が行われてきた場所でもある。そのため、ヨシ原では毎年採取作業や火入れが行われている。このような攪乱は野生鳥類の繁殖を脅かすものとして危惧されているが、このヨシ原はオオセッカの繁殖地として約30年間持続してきた。そこで、この偶然成立していたといえる共存を計画的なものに転換することを目的に、オオセッカの繁殖とヨシ産業の実態、並びに両者の関わりを調査し、ヨシ原管理のあり方を検討した。調査は2002年から行い、オオセッカは多い年で300羽ほどの生息が推定された。オオセッカは、繁殖初期には非火入れ区に分布し、ヨシが生長するにつれて火入れ区にも拡がっていくこと、当初利用した非火入れ区は多くの個体によって利用され続ける傾向があることなどがわかった。また、先行研究と同じような植生の選択も確認され、植生・地形的要因と人為的要因によるオオセッカの繁殖への影響が明らかになった。中里町の岩木川沿いの地域では、武田堤防保護組合によるヨシ産業が行われている。ヨシ産業の場と形態は、岩木川河口部の治水・干拓事業によって大きな変化を遂げ、ヨシ採取の方法も集落総出の作業から業者委託へと転換していったこと、ヨシ原は今なおタイトな規範を有するコモンズとして受け継がれていることがわかった。以上から、今後ヨシ原管理をするにあたっては、自然科学的知見と社会システムの実態をふまえた保全と利用の調整、柔軟な管理を行える「順応的管理」が望ましいと考えられ、そのためのゾーニングモデルを作成した。
著者
櫛引 素夫 北原 啓司
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.79-95, 2005

東北新幹線盛岡-八戸間は2002年12月に開業を迎え、新幹線が青森県に到達した。同区間の利用者は在来線当時に比べて51%増加し、首都圏から青森県内への入り込み客数も大幅に増えて、新幹線開業は経済面で地元に恩恵をもたらしている。しかし、新幹線の経済的効果が及ぶ地域や業種はまだ限定的である上、JR東日本から経営分離された並行在来線の沿線では、運賃の上昇などによって新幹線と並行在来線双方の利用者が伸び悩んだ。高校進学予定者の進路が狭められる不利益も発生している。さらに、新幹線建設費の一部を地元県が負担する建設スキームは、青森県財政の最大の圧迫要因となっている。これらの大きな原因として、整備新幹線構想自体が持つ問題点と、地元側の開業準備態勢の問題が考えられる。2010年度の東北新幹線全通・新青森開業、2015年度の北海道新幹線新函館開業を控え、新幹線によるメリットを最大化し、デメリットを最小化するための対策はますます重要になっている。地域振興のために効果的な対策を講じるには、沿線の鉄道利用実態や新幹線がもたらすとみられる利害を早急に調査するとともに、行政や経済界、NPOなどによる議論や調整の場を設けるべきである。
著者
齋藤 捷一 高畑 美代子
出版者
弘前大学
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.37-61, 2004

英国の女性旅行家イザベラ・バードの書いた『日本奥地紀行』( Unbeaten Tracks in Japanの一部)の青森県碇ヶ関村での記述を当時の公文書やそれに近い時代に書かれた紀行等を読みながら辿っていく。彼女が越えた矢立峠を、江戸時代にそこを通り過ぎて行った人々(菅江真澄や吉田松陰等)の紀行と比較対照して、西欧文化を基盤にした視点と日本文化に基づいた視点の差異を考察した。 またバードが記したオベリスクを検証し、オベリスクと青森県大鰐町にある「石の塔」との関係について検討した。次に、彼女が青森県に入った日の大雨を公文書や当時の家日記等の文書を用いて、事実確認をした。 さらに、当時の村の宿屋や産業、公共施設などの状況を調査した。同時に、万延元年(1860)に書かれた紀行等から彼女の止宿先を後の葛原旅館と認定し、江戸時代の旅籠宿葛原から彼女の止宿した其の後までを追跡できた。また、彼女の碇ヶ関でのコミュニケーションを考察する資料を発掘し、宿の亭主(house-master)や彼女の出会った戸長(Kôchô)の人物像に迫ることができた。バードの記述から出発し、江戸末期から明治時代にかけての碇ヶ関を文書資料と多角的視点で、当時の碇ヶ関の復原を試み、再びその情報をバードに返すことにより、より深いイザベラ・バードの理解に繋げられると考えた。