著者
伊佐 迪子
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 = The Bukkyo University Graduate School review. 佛教大学学術委員会, 文学部編集委員会 編 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.41, pp.71-88, 2013-03

本稿では二条院讃岐の四十二歳から四十四歳までの実人生を検証した。平家の都落ちは平家滅亡へと進展し、雅な平安貴族社会から関東武士社会へと世相は大きく変化した。この激変の時代の中で兼実長男良通は大納言に、次男良經は三位の中将へと昇進した兼 。実は二人に平安貴族文化の継承を託し、寿永二年は年間十一回、寿永三年にも年間十一回、元暦元年は年間二十一回の勉強会を設け、主に漢詩の勉強をさせている。催馬楽、名律例、笛、左伝などをも併せて修習させているが、俊成との間で和歌の交流と発展は見えていない。兼実は脚力がなく体調不良に悩み続ける日々である。自分の傍に居る讃岐に頼り切っており、本妻讃岐は兼実と同居である。本稿の検証結果は讃岐研究にとって大きな成果である良通良經平家滅亡貴族文化本妻讃岐
著者
南條 佳代
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.181-193, 2012-03-01

『枕草子』において、書に関する多くの記述がなされている。これは、書に造詣が深い清少納言ならではの書道観として、この時代の書風や様子を著しているのである。では、随筆である『枕草子』での書の扱われ方は、実際にこの物語が書かれた平安時代の書と、どういった関わりがあるのだろうか。本文において、紙(料紙)や消息文、添え物、書風の分析を加えながら検証していきたい。さらに、本稿では、『紫式部日記』より紫式部における清少納言の人物評について見ていき、それを踏まえた清少納言の書の捉え方、またこの時代の書の扱われ方について考察し、明確にしていくものである。
著者
金子 秋斗
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.46, pp.91-107, 2018-03-01

本稿では、院政期・鎌倉初期の摂関である九条兼実と、その弟である慈円に共通して見られる院近臣批判について、特に兼実による近臣批判の変容と、それが慈円の『愚管抄』の政治理念へと展開していく事実に着目し、当該期の摂関家の現状との関連で如何なるものとして位置づけられるかを検討する。兼実の立場の変化に伴う院近臣批判の変容は、批判が単なる不満から、内乱期以降、近臣の言動を天下の乱れの原因として認識する姿勢となって表れるようになる。この認識は兼実の実践と失脚を経て弟である慈円の『愚管抄』において、世を直すための重要な政治理念として表れることとなる。九条家を取り巻く社会的・政治的現実が変化しているにも関わらず、慈円が兼実と同様に近臣を敵視し、乱れた世を直すための重要な鍵とみなしたことは、兼実亡き後、九条家の補佐の臣としての正統性の面で近臣の存在が重大な問題であると認識されていたことを意味する。九条兼実『玉葉』慈円『愚管抄』院近臣
著者
高橋 良江
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 = The Bukkyo University Graduate School review. 佛教大学学術委員会, 文学部編集委員会 編 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.42, pp.63-74, 2014-03

1905年から1906年にかけて、当時の中国人留日学生の数は8,000人を超えた。その受け入れの中心となった宏文学院が最も力を入れたのは速成師範科であり、1906年までの4年間で学生数は3,000人に達したという。このような状況の中で学院の財政は圧迫され、教職員の質の低下が顕在化し、その結果、学生達から不満の声が学院長嘉納治五郎に続々と寄せられた。この要求に応えて、日本語担当の教授陣は分かりやすい体系的文法の教科書作りを模索した。短期間に日本語を最も効果的に教える文法教科書の必要性であった。そして1906年8月、宏文学院編纂『日本語教科書』全3巻が刊行された。そこでの改良点は日本語の中で最も複雑で学習上困難な助詞、助動詞の用法を明らかにすること、中国人留日学生にとって特に難しい副詞、接頭語、接尾語の用例を多く示すようにしたことなどであった。その編纂の中心になったのが三矢重松、松下大三郎、松本亀次郎で、後に国文法の大家や中国人留日学生教育の第一人者となった人たちである。本稿ではこれらを明らかにすることにある。速成教育日本語教科書編纂松本亀次郎三矢重松松下大三郎
著者
水谷 憲二
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.40, pp.19-36, 2012-03

地方の戦国史研究では、比較的古い時期に編纂された地方自治体史の多くが、近世に著された軍記・地誌の信憑性について懐疑なく、無差別に引用されている。しかし、地方自治体史のように、狭域的な歴史を編纂しなければならない場合、一次史料によって確認できない事象に直面すれば、同軍記・地誌の影響を完全に払拭できないジレンマがある。本稿は、一次史料が不足する地域の戦国史研究に活路を見いだすため、三重県の桑名市域に着目し、同軍記・地誌の豊富な情報量の活用を試みた。第1章では、比較的高い信憑性が評価されている太田牛一著の『信長公記』より、伊勢長島一向一揆の記事を再検証し、その有効性を実証した。第2章では、前章の結果をもとに、同書が記す天正元年の織田信長出陣において、一向一揆に加担して信長に抵抗したと言われる小領主層に着目し、それらに関する情報を、同軍記・地誌で確認した(第3章は次年度に続く)。伊勢長島一向一揆北勢四十八家信長公記軍記地誌
著者
Andassova Maral
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.38, pp.43-58, 2010-03-01

国譲り神話の末尾における「天の御饗」の記述をとりあげる。「天の御饗」を献る対象は天つ神であるのかオホクニヌシであるのかということは国譲り神話と古事記におけるオホクニヌシの性格に深く関わっている。この論文において「シャーマニズム」の視点からの「天の御饗」の考察を通して、古事記におけるオホクニヌシの位置づけを試みたい。オホクニヌシ国譲り文体一体化「天の御饗」
著者
二橋 依里子
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.45, pp.119-134, 2017-03-01

和歌山藩では慶応二年から明治四年にかけて西洋式軍隊導入を目標とした兵制改革が行われた。特に明治二〜四年には、ドイツからお雇い外国人を複数人雇用し、実際に徴兵制が施行されるなど他藩が行った兵制改革と比べると特異性が目立つ。軍隊はプロイセン式に統一され、弾丸や軍服の製造が行われていた。このような和歌山藩の兵制改革は、後の明治陸軍に影響を与えたとされる。本稿では、特に最初のお雇い外国人カール・ケッペン(CarlJosephWilhelmKoppen一八三三〜一九〇七)と、和歌山藩において施行された徴兵制を中心に考察する。その中でも当事者や目撃者である、ケッペンの日記やドイツのヘルタ号乗員の見聞録、村方の記録などを用い、和歌山藩の兵制改革の実態を考察する。和歌山藩兵制改革徴兵制カール・ケッペン
著者
北野 元生
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 = The Bukkyo University Graduate School review. 佛教大学学術委員会, 文学部編集委員会 編 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.42, pp.169-185, 2014-03

俳人であり歯科医療に携わった歯科医師であった西東三鬼が診療人とくに歯科診療人として詠んだ「診療俳句」を取りあげ、その文学性及び現代性について論考した。三鬼の俳句については、平易な用語を使用しており、その内容も明快であり、一般人にとっても理解しやすいと言えよう。彼の俳句は彼の人柄や彼の来し方を反映して貧しい人や孤児に対して情感を寄せている作品が多い。患者個々人に向けた診療行為を詠んだ俳句作品は極めて小さなものに過ぎないとはいえ、その作品が内在する本来的な人道思想や博愛思想に通ずる救済観と生命観がその句の中で沈静するものでは決してないことを明らかにした。さらに本論文では、「診療俳句」という分野が俳句の一分野であることを指摘した。「診療俳句」の輪郭をつけることの意義は決して小さいものではない。西東三鬼歯科医療診療俳句新興俳句山口誓子
著者
浅子 里絵
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.49, pp.73-88, 2021-03-31

本研究は大正14(1925)年に発生した北但馬震災について、「田結村文書」から兵庫県港村田結の震災被害の状況と救護活動を読み解いたものである。震災は震源地に近い田結の住家を倒潰させ、甚大な被害をもたらした。田結では震災直後に全戸におよぶ被害調査を実施し、詳細な記録を残している。その調査をもとにして罹災民への支援品や御救恤金・義捐金の分配といった救護活動が行われたとみられる。「田結村文書」の記録からは田結の集落の規模に合わせた震災対応の手法がみえてくる。またこの文書の存在により、こうしたミクロ単位での調査が同時代の災害において他の町村でも行われていた可能性が示唆される。ミクロ単位の調査を基として地域全体の被害状況を把握したと考えられよう。北但馬震災田結村文書震災被害救護活動
著者
清田 政秋
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.46, pp.37-54, 2018-03-01

本論文は本居宣長と悉曇学との関連を考察する。宣長は『古事記』の基は稗田阿礼の誦習の声であるとして音声を重視する。言語は音声であるとする言語観を江戸期音韻論の議論から獲得した宣長は、音声の持つ特質に注目した。音声の問題を考察して来たのは仏教、特に密教と不可分の悉曇学である。宣長は契沖と安然の悉曇学から音声の力、音楽性、真言を学んだ。真言という思想は、語り伝えは上代の実だとする『古事記伝』の考え方に繫がった。更に仏教は心と世界と言葉は相応するという。宣長はこれを契沖を介して学び「意と事と言とは皆相称へる物」という『古事記伝』の基礎にある重要な言語観を確立した。宣長契沖安然悉曇学心と世界と言葉の相応
著者
二橋 依里子
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.45, pp.119-134, 2017-03-01

和歌山藩では慶応二年から明治四年にかけて西洋式軍隊導入を目標とした兵制改革が行われた。特に明治二〜四年には、ドイツからお雇い外国人を複数人雇用し、実際に徴兵制が施行されるなど他藩が行った兵制改革と比べると特異性が目立つ。軍隊はプロイセン式に統一され、弾丸や軍服の製造が行われていた。このような和歌山藩の兵制改革は、後の明治陸軍に影響を与えたとされる。本稿では、特に最初のお雇い外国人カール・ケッペン(CarlJosephWilhelmKoppen一八三三〜一九〇七)と、和歌山藩において施行された徴兵制を中心に考察する。その中でも当事者や目撃者である、ケッペンの日記やドイツのヘルタ号乗員の見聞録、村方の記録などを用い、和歌山藩の兵制改革の実態を考察する。和歌山藩兵制改革徴兵制カール・ケッペン
著者
伊佐 迪子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.183-199, 2011-03-01

二条院讃岐は正確な実人生がこれまで解明されておらず、従って正確な年表も作成されてはいない。先行研究で提示されている二条院讃岐の生涯は、実人生からは程遠いものである。先稿では二条院讃岐の実人生前半期を解明したので、本稿とこれ以後は二条院讃岐の後半生の実人生を解明する。本妻として兼実家に入った三十三歳以後の人生は、詳細に解読した『玉葉』をもとに、当時の社会事情も考慮して実人生の解明を図り、二条院讃岐の正確な年表作成を意図している。解明された二条院讃岐の実人生には、流産により兼実の子を失った傷心の讃岐像が見えており、また病弱な兼実の傍で介護に明け暮れる日々を過ごしている姿も見えている。その一方で当時の歌人達との繋がりなども見出され、二条院讃岐の知られざる人生が明らかになるだろう。
著者
伊佐 迪子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.145-156, 2010-03-01

二条院讃岐の先行研究では、藤原重頼の系図に讃岐の名が見えるという理由で、その系図に讃岐を当てはめて讃岐の人生を推測し、更には讃岐の人生をも創出してきたようである。本稿では讃岐の前半生を系図以外の一次資料を出来る限り精査して、解明しようとするものである。既発表二編の拙稿で解明した讃岐の実人生に深く係っている藤原兼実に加えて、皇嘉門院も讃岐の実人生に大きな係わりを持っていたことが本稿で明らかになった。讃岐の前半生は高貴な人々の中にあって、二条天皇との宿縁を思わずにはいられない。本稿では兼実の青年期の動静を軸に、社会状況も十分考慮して考察を進めたので、讃岐の動静がより明確に把握出来たと思う。先行研究では讃岐の年表作成が出来ていなかったが、本稿により前半生の年表が可能な限り作成できたので、後半生を合わせたより完全な年表の作成を目指そうと思っている。
著者
石橋 丈史
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.45, pp.1-18, 2017-03-01

本稿では、『ヨーガ・スートラ』、『ヨーガ・バーシュヤ』と時代的に近く、共通する語も多い『楞伽経』との関係に注目して、その影響関係について、他の瑜伽行派の文献も視野に入れつつ、cittaの定義を中心に考察する。その結果、『ヨーガ・スートラ』と『ヨーガ・バーシュヤ』、『楞伽経』におけるcittaの定義には、共通する部分が多いことを確認でき、三者の間に密接な影響関係があっただろうということが分かった。そうした『ヨーガ・スートラ』との共通部分は、『楞伽経』の原型であり同経の素材集ともされる「偈頌品」中に比較的近い形で見られ、本文中ではそれをさらに発展させていることも分かった。以上から、『楞伽経』を作成した人物は、瑜伽行派の正統派というよりも、むしろヨーガ学派と親密な関係を持った人物であり、『ヨーガ・スートラ』と共有する部分を、唯心思想としてさらに発展させていったのではないかと推測されることが分かった。ヨーガ・スートラヨーガ・バーシュヤ楞伽経
著者
飯田 隆夫
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 = The Bukkyo University Graduate School review. 佛教大学学術委員会, 文学部編集委員会 編 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.41, pp.53-70, 2013-03

明治六年七月、権田直助は相模大山阿夫利神社の祠官としたが、神仏分離後の混乱した山内の改革を幾つか行ったが、そのうちの一つが奈良春日大社に伝わる倭舞・巫女舞を富田光美から伝習することであった。その伝習当時の倭舞歌譜が伝存されているが先行研究者はその歌譜と奥書に注目した。富田光美の家系は途絶していてこの歌譜の原本の存在は不明である。明治元年以降、春日社社伝の倭舞・巫女舞は富田光美夫妻によって全国に伝習されたが、先行研究と大山阿夫利神社・金刀比羅宮・春日社の歌譜を比較検討によって大山阿夫利神社の歌譜が原本に近いとの推定が可能である。富田光美は幕末期から明治維新の転換期に神社国家神道化の下、神社に奉納される神楽は富田家が相伝してきた倭舞・巫女舞が古儀に倣う最も相応しいものとして、白川家関東執役古川躬行や明治政府の後ろ盾で全国著名神社に伝習した。その伝習内容と背景を相模大山と関連させ論考をはかる。倭舞歌譜富田光美巫女舞東幸と雅楽制度芸能統制
著者
飯田 隆夫
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.44, pp.35-52, 2016-03-01

論考の目的本稿は、相模国の山岳寺院大山寺の支配にあった御師が、神仏分離直前、国学平田家および神祇伯白川家の関東執役古川将作とどのような関係をもち、行動を選択していたのかを安政六(一八六九)年から慶應三(一八六七)年を対象に考察することをねらいとする。研究の方法分析ツールとして、白川家「門人帳」・平田家「門人帳」と大山寺宮大工、大山寺、平田家等に残された日記類を使用する。分析の結果相模国大山寺は幕府の庇護を受け、文化・文政期、大山信仰は最盛期を迎えた。その信仰を牽引した大山御師は大山寺の強い支配下にあったが、幕末期これら御師の中に不満が蓄積され、慶応三年にはその力関係を逆転させた。本論は、以下のキーワードをもとにその検証を試みるものである。白川家教線拡大復古派国学の波及白川家・平田家重複入門相模大山の安政大火御師の身分的転換
著者
権 東祐
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.37, pp.25-42, 2009-03

『古事記』と『日本書紀』は各々独立している一つの神話テキストであり、『古語拾遺』も『記』『紀』とともに独立している神話テキストであった。そして、スサノヲという神もそれぞれのテキストの性格によって違う神格を持っていることが分った。したがって、この論文では『古語拾遺』を通して、斎部氏の儀式の現場でスサノヲ神がどのような神格として変貌し、悪神になってきたかを考えたものである。古語拾遺スサノヲ変貌斎部氏中臣祓
著者
加藤 弘孝
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.39, pp.1-16, 2011-03

唐代中期の飛錫が著した『念仏三昧宝王論』からは、浄土教、天台宗、禅宗、三階教などの諸思想が重層的に絡み合う特異な思考を見てとることができる。しかし飛錫が主題とした思想、教学は、必ずしも解明されておらず、先だって『宝王論』に見られる諸思想が互いにどのような意図をもって関連付けられたか考察する必要がある。その際、同時代の諸宗及び思想家達の動向を窺うことが最も重要になってくる訳であるが、飛錫の『宝王論』の撰述年代はおろか活動年代に関しても、未だに定説を見ないのが現状である。そこで本稿では『宝王論』の撰述年代及び飛錫の事跡に関する記述を整理し考察していく。飛錫不空『念仏三昧宝王論』安史の乱
著者
安藤 淑子
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.46, pp.1-18, 2018-03-01

古代バラモン思想においてkamaは「欲する」という心の働きを意味し、これが人間の行為の根本的動因と見なされていた。一方、原始仏教におけるkamaはこれとは異なる語義・用法を有していた。すなわち、原始仏教では最古層の経典よりすでにkamaは単なる心の働きではなく、認識と感受によって変貌した外的事物それ自体をも意味していた。言うなれば、「対象」と「心の働き」が一体となった具体的な諸現象を、kamaという語によって指し示していたのである。このような語義の特徴を反映して、原始仏教経典におけるkamaはほとんどの場合複数形で用いられている。原始仏教心の働き対象複数形
著者
森村 優太
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 = The Bukkyo University Graduate School review. 佛教大学学術委員会, 文学部編集委員会 編 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.43, pp.135-150, 2015-03

「デンドロカカリヤ」は、一九四九年八月、雑誌「表現」に掲載された、安部が最初に執筆した変形譚である。この物語は「コモン君がデンドロカカリヤになった話」と、ストーリーテラーの役割を担う《ぼく》が説明するように、四回の植物への変形を終えて、《コモン君》という主人公が植物園へ収容されるまでの経緯をまとめた話である。この作品以降、安部は同様の変形譚で様々な賞を受賞し文壇で評価を得た。本作品において先行研究では、主人公である《コモン君》や、《ぼく》などが罹っている植物病や植物への変形についての考察が多く行われてきた。本稿でも同様に植物への変形にどのような意図があったのかを考察する。特に、「デンドロカカリヤ」に登場する人物像、戦後日本の状況に焦点を絞った。本稿は登場人物の様々な言動や性格とGHQ占領下における検閲制度などの視点から植物病の正体を解明できないかと試みたものである。安部公房デンドロカカリヤ変形譚戦後文学検閲