著者
加澤 昌人
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.48, pp.93-110, 2020-03-01

米沢城本丸の上杉謙信を祀る御堂(みどう)は、藩政期をとおし藩の安泰を祈る場として崇敬された。明治時代になりその祭祀は仏式から神祭へと転換する。そして旧藩士の発願によりすべて民費によって上杉神社が建立される。明治維新後、職を求めるなどして米沢を離れた旧藩士は少なくない。本論では、彼らの新天地におけるこの神社に対する崇敬のかたちを、『米澤有爲會雑誌』の記事を中心にとらえていく。ひとつは屯田兵として北海道厚岸郡太田村に渡った人々による上杉神社の遥拝式と神社の建立、もうひとつは全国各地の米澤有爲會支部が上杉神社の祭典に合わせて行った遥拝式から明らかにしていく。そこには具体的にその崇敬のかたちが表現されている。米沢の上杉神社の建立に関わった後に米沢を離れた彼らが、遠隔の地に神社を建立し、あるいは遥拝した米沢の上杉神社への思いは、単なる望郷の念ではなかった。彼らの先祖代々から精神的な支えとして受け継がれてきた、謙信の義勇と鷹山の民政に対する強い崇敬の念によるものであった。上杉謙信上杉鷹山上杉神社太田村屯田兵米澤有爲會
著者
谷口 潤
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.48, pp.111-126, 2020-03-01

『古事記』・『日本書紀』に見える草薙剣は、従来三種の神器のうちの一つとして、受け継ぐことで王権の正統性を保証する神璽の剣であるとされてきた。しかし神野志隆光によってそうした草薙剣の姿は『記』・『紀』には見られないことが明らにされ、『古語拾遺』がそうした言説を生み出したことが示された。本稿ではこれを受け、『古語拾遺』を編纂した斎部広成の側から『古語拾遺』の草薙剣を読み解き、『古語拾遺』の草薙剣をめぐる言説が、九世紀における天皇即位儀礼とどのように関わっていたのかを見ることで、草薙剣と神璽の剣の同一視が斎部氏の固有の祭祀実践によるものであったことを明らかにする。また、『古語拾遺』の神武天皇即位の場面に登場する殿祭の記述から、そうした斎部氏の実践が九世紀における即位儀礼の変化に対応するものであったことを示す。草薙剣『古語拾遺』斎部氏即位儀礼神璽
著者
山口 希世美
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.48, pp.163-180, 2020-03-01

本論は、院政期天皇の乳母の役割の歴史的変化を論じる。そのためには、乳母が何を目的として任命されたかを明らかにし、任命された時期に注目する必要がある。その視野に立ち、第一章において天皇それぞれの乳母を考察する。その過程で明らかとなった天皇の乳母の定員化・官職化、及び、皇子の乳母から天皇の乳母への分断についてを第二章で論じる。それが顕著に表れる、乳母の交代や践祚後に任命される傾向として、特定の行事がきっかけとなっている。第三章では、乳母典侍が行うことが多い、八十島祭使、賀茂祭女使、即位時の褰帳命婦、立后時の理髪役について検討し、乳母典侍が行うことの意義を論じる。乳母典侍乳父八十島祭平安時代鎌倉時代
著者
原口 善一郎
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.121-130, 2012-03-01

本稿において,佐賀県武雄市に保存されている江戸寛政期の資料を中心に紹介する。この資料は,旅日記の形式による雑記帳(寛政七年),薬の資料(天保九年)など多様である。今回,廃棄を免れ現存する資料の全てにおける資料撮影許可をいただいた。撮影できた分の内,寛政期の生きた歴史資料としての部分と薬の材料の部分を中心に資料を公開するものである。
著者
星 優也
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.109-125, 2018-03-01

『妙覚心地祭文』は、弘法大師空海作と伝わる祭文で、その書名自体は平安末期の嘉応二年(一一七〇)写とされる初期両部神道書『三角柏伝記』に確認できる。鎌倉期以降、各所に伝本が存在しているが、近世以降に空海仮託の偽書と見なされたことで研究は進まなかった。近年は中世神道研究において注目されており、再評価の機運が高まりつつある。本稿は以上の研究史を踏まえ、『妙覚心地祭文』前半部の祭文について、<本尊>である「尊神」「冥道」(冥衆)、そして祭文の詞章に登場する「陰陽師」、さらに弘法大師作という言説に注目し読解を試みる。初期中世神道書である『三角柏伝記』にその名が見え、平安後期以降に密教や陰陽道の神々として展開される冥道や星宿を<本尊>とし、さらに祭文に「陰陽師」が登場する『妙覚心地祭文』。本稿は、中世神道と中世仏教、中世陰陽道をクロスさせる『妙覚心地祭文』研究序説として位置づけるものである。『妙覚心地祭文』冥道陰陽師弘法大師中世神話

3 0 0 0 IR 牛久助郷一揆

著者
大久保 京子
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.167-179, 2016-03-01

文化元(一八〇四)年に牛久宿で起きた牛久助郷一揆については、小室信介編『東洋民権百家伝』の第三秩に掲載されたことで世に出るまで、その地域ですらほとんど知られることがなかった。また掲載された後も、顕彰活動が起こることもなく、研究もいまだ地域的なものにとどまっているのが現状である。本稿は牛久助郷一揆の紹介と、義民として近代以降も活用されていくのに必要な条件について考察する。牛久助郷一揆牛久助郷騒動佐倉宗五郎東洋民権百家伝
著者
木元 英策
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.117-133, 2011-03-01

平安期や鎌倉期に「得分」といえば、「領主之得分」を指していた。それは、12世紀半ばの史料に現れる余剰生産物が、官物や地子、それから開発領主が収取する得分のみであったことからも窺われる。ところが戦国期になると、領主層が収取する年貢部分の固定化や生産力の向上にともない、さらなる余剰を生みだすようになる。戦国期の「得分」は主にその余剰部分を指し、土豪・富農層を中心に集積された。ところが、これまでその戦国期の「得分」について曖昧に捉えられる面もあり、定義付けおよび問題提起が不十分であった。そこで数多く伝存する北近江・和泉地域の売券・寄進状をつぶさに検討し、戦国期の「得分」を分類整理した結果、存在形態によっては、領主層が収取すべき部分にまで踏み出して、土豪層が得分を成立させている例を呈示するに至った。
著者
プレモセリ・ジョルジョ
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.45, pp.89-100, 2017-03-01

従来の研究では、泰山府君は病気治療や延命長寿から昇進や栄達といった現世利益の神として言われていた。さらに、最新の研究では、泰山府君は陰陽道諸神とともに、仏菩薩の変化・垂下とする顕密仏教の世界観のなかにあり、その秩序に組み込まれる存在として指摘された。しかし、このように描かれた陰陽道では、仏教を補完する信仰として存在しており、独自の世界観を持っていないように捉えられた。本論はこういった問題意識から出発し、『朝野群載』永承五年(一〇五〇)成立の都状と『台記』康治二年(一一四三)成立の都状に焦点を当てながら、泰山府君祭の生成と展開を分析した。その結果、泰山府君は、十世紀末に密教儀礼を取り組んだ上で、はじめて陰陽道神として生成したことがわかった。さらに、陰陽道は密教と競合することで、院政期において独自の世界観を維持しようとしたことを指摘した。その世界観では、泰山府君は顕密仏教の一環を担う存在には解消できない神格であった。陰陽道泰山府君都状台記祭祀泰山府君祭
著者
宮澤 早紀
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.48, pp.145-162, 2020-03-01

本研究では「現在」と向き合い、いまを生きる人々と民俗を記述することが民俗学に必要な視点であるという立場をとっている。これまで「過去」を起点とし、「現在」までの変化を分析する方法を用いてきた。しかし前提となる「過去」を設定し「現在」を分析することで、「現在」を固定化して理解してしまう危険性がある。こうした点を踏まえ、近年の民俗学研究の成果から「照合」という方法を用いた。これは「現在」を起点として「過去」にさかのぼり、いまを生きている人々が持つ「現在」と「過去」とのつながりを発見する方法である。本論文では東京都青ヶ島の巫俗に関わる人々の語りを分析し、人々がいかに「現在」と「過去」のつながりによって生きているのかを明らかにすることを目的としている。分析を通して、巫俗の時代変化による衰退という結論にとどまらない、巫俗に関わる人々の「現在」を支えるものが明らかになった。青ヶ島巫俗現在照合語り
著者
中村 一晴
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.73-89, 2009-03-01

本稿は、中世から神仏分離に至るまで仏教的神号として通用していた大明神号が何時頃誕生し、どのような過程で仏教と結びついてきたのかを、同時代の仏教から見た神祇信仰を追いながら考察したものである。第一章では、十世紀には大明神号が存在していたことを、『住吉神社神代記』以下の史料から明らかにすると共に、『門葉記』所引史料や東寺観智院旧蔵本『三宝絵』に見える大明神号が何時頃成立したのかについて考察する。第二章では、『御堂関白記』の中で他の神とは違う地位を与えられていた大明神とはいかなる神であったのかという点について考察し、十一世紀の神にはすでに仏菩薩の化身とする信仰が存在していたが、仏菩薩のように直接衆生を救済するのではなく、護法の役割が期待されていたことを明らかにする。第三章では、十二世紀に成立した史料を扱い、『悲華経』を典拠として釈迦が末法中に大明神として現ずるという説が『注好選』に見えており、そこでは神が仏菩薩の垂跡として認められながらも、仏菩薩と同じ救済の機能は認められておらず、結局は神を信仰することが否定されているということを述べた。その上で、同じく十二世紀前半に成立した『今昔物語集』でも神は積極的に認められていないが、その一方で神の「本地」である具体的な仏菩薩が設定されるのがこの時代であって、神が仏菩薩と同様に結縁し、往生を願う対象となっていくことを明らかにした。
著者
堀岡 喜美子
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.49, pp.99-115, 2021-03-31

日本の歴史上、神仏や霊との意思伝達者(託宣者)はミコと称されその多くが女性である。柳田國男はその理由を古代からの「女性の特性」にあると説いている(「ミコ女性論」)。しかし、古代からの史料を概観すると、女性が「託宣者」として「特化」するのは摂関期であると推定される。摂関政治隆盛期の公卿藤原実資の日記『小右記』に記された託宣者を検証したところ、その特性は女性による直接言語によるものと判明した。なぜ、摂関期に託宣者が女性に特化されたのか、当時の貴族女性が置かれた状況を社会史、精神医学から検証した。結果、女性の苦難、葛藤からの脱却手段として現れる憑依現象が、託宣者として認識された可能性を導き出した。「ミコ女性論」摂関政治女性の苦悩直接言語託宣者憑依現象
著者
古賀 瑞枝
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.1-18, 2013-03-01

福岡県久留米市の筑後川畔に鎮座する水天宮は、全国の水天宮の総本宮である。文政元年(一八一八)、時の久留米藩主有馬頼徳が江戸へ勧請、以後江戸の人々に篤く信仰された。江戸の流行神と見るむきもある。現在、水天宮は安産の守護神として信仰されるが、本来は水難除けの神であった。水難よけの神が、なぜ安産の神となったのか。また、高度に医療が発達した現代にあって、安産の神が信仰されるのはなぜか。これを明らかにするため、まず、久留米での初期の水天宮信仰について紹介する。次に江戸での信仰、近代に入ってからの信仰、当時の家族と社会について考察する。資料として江戸時代の随筆や日記、明治からは戯作・小説・新聞記事などを使用する。より庶民に近い資料を用いることで、市井の人々が水天宮によせた思いに迫れると考えるからである。その結果、人々の願いをすくいあげて変容していく神の有り方が浮かび上がったのではないかと考える。
著者
濱田 幸子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.103-118, 2011-03-01

16世紀後半、キリスト教布教・伝道を目的に来日した宣教師によって伝えられ、日本語に翻訳され国字文語体で書かれた『伊曾保物語』は、江戸時代初期、一般に広く普及した。『伊曾保物語』が刊行当初から出版され読み続けられたのは、それが寓話であり、その寓意がその時代にふさわしい教訓として受け入れられたからと考えられる。『伊曾保物語』の翻訳原典は先行研究によって15世紀後半に出たシュタインヘーヴェル本『イソップ』であるとされているが、『伊曾保物語』には序文も後書きもないため、成立の事情がわからない。そこで、同時期にキリシタンによってローマ字口語体で出版された『イソポのハブラス』と比較しながら『伊曾保物語』を読むことで、この書がどういうねらいで翻訳編集され、どのような経緯を経て、一般の日本人を対象とした教訓書として出版されるに至ったのか、その一端を明らかにしようとする。
著者
清田 政秋
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.46, pp.37-54, 2018-03-01

本論文は本居宣長と悉曇学との関連を考察する。宣長は『古事記』の基は稗田阿礼の誦習の声であるとして音声を重視する。言語は音声であるとする言語観を江戸期音韻論の議論から獲得した宣長は、音声の持つ特質に注目した。音声の問題を考察して来たのは仏教、特に密教と不可分の悉曇学である。宣長は契沖と安然の悉曇学から音声の力、音楽性、真言を学んだ。真言という思想は、語り伝えは上代の実だとする『古事記伝』の考え方に繫がった。更に仏教は心と世界と言葉は相応するという。宣長はこれを契沖を介して学び「意と事と言とは皆相称へる物」という『古事記伝』の基礎にある重要な言語観を確立した。宣長契沖安然悉曇学心と世界と言葉の相応
著者
田阪 仁
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 = The Bukkyo University Graduate School review. 佛教大学学術委員会, 文学部編集委員会 編 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
no.42, pp.119-136, 2014-03

伊勢斎宮は伊勢神宮祭祀のために都から発遣された斎内親王の居住施設とその運営に当たる役所があった所である。本稿はそれがなぜ皇大神宮(内宮)から遠く離れた神郡の西端に置かれたのかを考察する。それには、(1)水害の心配なく最も安定した土地、(2)恒例の禊に至便な河川に近い事、(3)官道に接し、かつ外港が発達して、人と物資の移動・運搬に適した水陸交通の要衝であることが不可欠の条件であった。この三条件を満たすのは宮川左岸と多気川右岸に当たる洪積台地の縁辺部しかない。それが後者に置かれた理由は、多気川流域には遅くとも六世紀以来の王権による土地開発があり、すでに天武の即位段階には八〇町もの土地を高市大寺(後の大官大寺・大安寺)へ施入し得るだけの政治経済的基盤がそこにあったからである。そしてそれは、斎宮跡の発掘調査においてこれまでに検出された官衙的遺構がすべて七世紀後半を上限としている事実と見事に符合しあうものである。斎宮的形(円形)天武胸形(宗像)氏金銅装頭椎大刀
著者
田中 実マルコス
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.33-48, 2011-03-01

黄檗宗萬福寺開山隠元禅師(以下諸師敬称略)とともに来日した獨湛は、後に萬福寺の第四世となる。獨湛は日本で『勧修作福念佛図説』を上梓し、念仏教化の資糧とした。それは昭和初期まで十刷も刊行されるほど用いられた。『勧修作福念仏図説』の左右には長文があり、その典拠は蓮宗九祖の一人に数えられる明代の雲棲.宏のものであると伝えられているが、今回はそれを証明し、さらに『勧修作福念佛図説』が近世日本の念仏教化にどのような影響を及ぼしたかを考察する。
著者
伊佐 迪子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.151-168, 2014-03-01

本編では二条院讃岐の四十五歳から四十六歳までの実人生を検証した。鎌倉幕府成立後の朝廷は頼朝の意向に従い、頼朝の度重なる意向で兼実に摂政が宣下された。それにつれて兼実息の良通には内大臣を、次男の良經は二位の中将へと昇進し、兼実家は家門の繁栄を見ることになった。一方では姫君の入内を念頭に、兼実は入内の際に対応できる兼実家の家経営を整えた。篤い信頼を置く讃岐の働きに期待して、対内的には「家宣旨」に付け、対外的には女房政所の長として「北政所」に付けた。このように内外ともに兼実の秘書役として、讃岐は期待され大役を担うことになった。しかし、兼実の体調不良に加えて良通の健康状態もまた不安定であり、兼実家を支える讃岐は更に重責を負うことになった。それらを見通しているのであろうか、讃岐と良通との間柄はお互いに相手を思いやって接触を保っているように見受けられる。
著者
村田 典生
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.95-107, 2012-03-01

民間信仰のなかで、ある時期急激に参拝者が増加する現象を流行はやり神がみと呼ぶ。この流行神の近世京都における展開過程を考察する。今回事例として取り上げるのは『月堂見聞集』という随筆に登場する山科妙見である。享保期に流行をみた山科妙見であるが、そこには当時よりさらに二〇〇年以上も前に没した日蓮宗の高僧、日親の名が現れる。そこでまず日親の人物像と功績を抽出し、山科妙見との関連を明確にする。その後山科妙見の流行について検討する。その方法としては当時の随筆や京都府や京都市に残る文書を利用するとともに、妙見参詣路を実際に歩き、また現在は寺院となっている妙見寺やその周辺での聞き書きという方法をとった。そうすることで日親から山科妙見へと続く流行の変化を時系列的に捕捉することができると考える。その結果流行神の祀り上げられる過程とそこにある社寺側の運営戦略や市井の人々の信仰と遊山の関係、さらには流行神の土着化の進行を明らかできたのではないだろうか。
著者
田阪 仁
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.53-69, 2016-03-01

『日本書紀』等の諸書に見えるわが国の「斎宮」は複数の訓義をもつ汎用語である。中国の「斎宮」は皇帝祭祀や民間の水神祭祀に登場するも一貫して施設名である。日本へ受容される以前の中国古代の民間信仰にみる「斎宮」を検討し、かつそこにわが国とも類似した文化的要素を抽出すると共に、その伝承される故事の部分的な虚構性についても指摘する。斎宮いもゐ(ひ)屋人身犠牲西門豹河伯
著者
八木 みどり
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.125-138, 2009-03-01

形容詞「おぼつかなし」の用字として現在では「覚束なし」が使われることが多いが、鎌倉時代に成立し、その後さまざまな人びとによって改変され、増補されていったとされる平家物語諸本ではこの語が数種類の文字で表わされている。その中に辞書などにもあまりみられない「■」という文字がある。管見では現存作品のなかでは平家物語諸本でしか見ることができない。また字書類の中では、鎌倉時代に成立したと考えられる『字鏡集』を初見として、江戸時代後期には日常つかう字書から消えてしまう。倭字は、字書では慣習的にその文字の出典を書かない傾向があるのでその来歴が不明であることがある。本稿ではこの「■」という文字がどのようにして生まれ、倭字として成立し、消えていったのかを、中国、韓国、日本の古辞書、また平家物語諸本から探ってみたい。(本稿では国字という語の代わりに、日本で作られた漢字に似た文字をあらわすことを明確にするために倭字という語を用いることにする。)