著者
高本 條治
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.16, no.2, pp.467-483, 1997

川端康成「伊豆の踊子」の中に,表現として顕現していない主格動作主の解釈が曖昧な文がある。この解釈事例には,結束性と一貫性の双方が関わっている。小論では,結束性・一貫性という言語学用語について確認的な概観をした上で,関連性理論の枠組みに基づいてこの事例の分析を行う。分析にあたっては,川端自身がその文の解釈について書き残しているエッセイを利用する。分析を通じて,結束性解釈が語彙統語構造から受ける強い制約,結束性解釈と一貫性解釈との連携性,結束性解釈と一貫性解釈の衝突などの問題を議論する。In Izu no Odoriko (The Izu Dancer) written by Yasunari Kawabata, there is a sentence whose covert subject is interpretively ambiguous. This interesting case of interpretation involves several pragmatic problems related with both 'cohesion' and 'coherence'. In this paper, first, I gave an overview in terms of the distinction between 'cohesion' and 'coherence', as well as the definitions of each two terms. After that, using the essay work in which Yasunari Kawabata himself wrote about his own intended interpretation, I look at these problems from the viewpoint as follows : (i) how cohesion and coherence restrict each other, (ii) how cohesion and coherence cooperate with each other, and (iii) how cohesion and coherence conflict with each other.
著者
加藤 雅啓
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.163-172, 2008-02

英語には,統語構造上,文の焦点が特定の位置に生じる構文がある。it分裂文は,学校文法でもit-thatの強調構文として知られているように,主節(it節)と従属節(that節)の複文構造から成り,焦点が主節のbe動詞の後の位置に固定した構文である。この焦点位置に生起できるのは,典型的には名詞句と前置詞句であるとされているが,これら以外の文法項目も焦点として生じることができることが知られている。本稿は,このうちQuirk et al.(1985)における付加詞,及び下接詞をとりあげ,その焦点位置での生起可能性について,中右(1994)のモダリティ理論の枠組みによって一般化を試みるものである。
著者
中里 理子
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.20, no.2, pp.574-562, 2001

明治後期の小説二〇作品を対象に、和語系・漢語系オノマトペの使用状況を調査し、前期からの流れを考慮しながら両者の関係を具体的に考察した。後期になると和語系オノマトペの割合が増え、漢語・漢字を宛てずに単独で使われるようになったことから、俗語である和語系オノマトペが小説の言葉として抵抗感なく取り入れられるようになったことが窺われた。また、漢語系のオノマトペとしての意識について、和語系に漢語系を対応させる宛て字の面から、特に多く見られたそれぞれのオノマトペの型を中心に考えた。和語系に宛て字されていた漢語系は、和語系が独立すると、一般語彙として「オノマトペ」性を失ったが、音構成が和語系のものと同じ「-々」型は、限られた文脈で多用されたものが音のイメージを連想させるようになり、「オノマトペ」として捉えられるようになると思われる。This paper attempts to discuss how onomatopoeias originated from Japanese are related with those from Chinese in the second half of the Meiji era. For this purpose twenty stories were investigated in the study. In the second half of the Meiji era, a large proportion of onomatopoeias became Japanese origin, and they were used independently without the assistance of substitute character. It means that Japanese originated ones were used more positively even in the novels, although they were considered as slung in those days. Regarding the Chinese originated onomatopoeias, it is neccessary to examine the relations with kana written at the right side of kanji which was those of Japanese-origin, and the main types of onomatopoeias. The onomatopoeias of Chinese origin which were used as substitute character for those of Japanese origin, came to lose the features as onomatopoeias. But one type, which was the same sound type of Japanese origin, obtained the sound image and was possibly recognized as onomatopoeias.
著者
高本 條治
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.189-216, 2001

太宰治の有名な小説作品『斜陽』には「トロイカ」という名が記された「文庫本」が登場する。『斜陽』は,太田静子の『斜陽日記』に依拠して書かれたものとされるが,『斜陽日記』の該当個所にもやはり「トロイカ」という「小さい本」が出てくる。しかし,「トロイカ」というタイトルをもつ文庫本の存在を確認することはできなかった。もしそうした本が実際には存在しないなら,読者は文脈に応じてその本に関する想定を創造的に構成しなくてはならないことになる。小論では,「トロイカ」は,チェーホフの戯曲作品『三人姉妹』を示す符牒ではないかという解釈を提示する。また,そう解釈した場合に,どのような効果が文脈上達成されうるのかを具体的に考察し,「トロイカ」を『三人姉妹』の符牒であると見る解釈が十分に可能であるということを語用論の観点から述べる。In Osamu Dazai's most famous novelette Shayo, we find the description of a paperback labeled Troika. It is well known that Dazai wrote this novelette on the model of Shizuko Ota's Shyo Nikki. Also in its corresponding passage, we can find almost the same description of a small book labeled Troika. However, it has been unsuccessful to identify the actual entity of the paperback-type book titled Troika. If there are not such a book, every reader has to creatively construct some assumptions for the book according to her contextualization. In this paper, I bring up one interpretative possibility that Troika could be the secret code for Chekhov's drama Tri Sestroy (The Three Sisters). I argue how contextual effects can be achieved under this way of interpretation, and claim from the viewpoint of linguistic pragmatics that my interpretation regarding Troika as the code for Tri Sestroy must be convincing enough.
著者
中里 理子
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.207-218, 2010

岩波古典文学大系本『狂言集』上下巻(大蔵流山本東本)に見られるオノマトペを収集し, その特徴を整理した。浄瑠璃や歌舞伎の脚本に見られたオノマトペとは性格が異なり, 次のような特徴が認められた。1)擬音語は, 動物の鳴き声に音マネ的な性格がある。物音の場合は, 慣用的なオノマトペにより舞台上の効果音として用いている。2)擬態語は, 心情を表すオノマトペがほとんど見られない。また, いくつかの定型的表現により, 類型的な劇の構造, 典型的な舞台背景, 典型的な人物像を観客にイメージしやすくさせている。強調表現を効果的に使っている。3)オノマトペに関する言葉遊びとしては, 同音を導くもの, 対句的な使われ方のものが見られ, おかしみを誘う効果がある。I collected the onomatopoeia seen in the Noh farce script of Ookuraryu Yamamotoazuma-bon, and put those characteristics in order.A character was different from the onomatopoeia seen in the play of the joruri and the kabuki, and the following characteristics were admitted.1) The onomatopoeia of the animal's song has the character which imitates sound. The onomatopoeia which shows sound is being used as the sound effect on the stage by the idiomatic onomatopoeia.2) The onomatopoeia which expresses its feeling is hardly seen with mimesis. Typical stage scenery is making an audience make easy to image concerning some fixed forms by the expression, the structure of the play concerning a type. An emphasis expression is being used effectively.3) The play at word which does a used method concerning the play at word which it leads the same sound to, and the antithesis is seen, and play at word about the onomatopoeia has the effect which arouses a funny laugh and amusement.
著者
佐藤 淳一 今井 恭平 大西 愛美 岩田 嘉光 齋藤 真結子 星野 光紀 小出 奈津子
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.123-132, 2011-02-28

本研究は、不登校の児童生徒への臨床心理学的援助の基礎的研究として、国内におけるこれまでの学校恐怖症、登校拒否、不登校に関する文献を整理し概観し、それを通して不登校問題の理解と対応を深めることを目的とした。関連文献は膨大な量にのぼるため、今回は国内における70年代までの文献を対象とし、当時の不登校を指す名称である「学校恐怖症・登校拒否」の時期とした。具体的には、データベースCiNiiを用いて、「学校恐怖症・登校拒否」に関する臨床心理学の学術論文を検索ならびに収集した。そして、入手した学術論文を「事例研究」と「調査研究」にわけ、さらに前者については「来談者中心療法/力動的心理療法」、「行動療法」など、後者については「心理査定」、「心理面接・治療過程」、「要因・類型化」、「予後」にわけ、それぞれの分類ごとに内容を検討した。
著者
小埜 裕二
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.24, no.2, pp.856-866, 2005-03

「二十六夜」の結末に、賢治が信奉した『法華経』の教えとは異なる浄土教的色彩を見ようとする読み方がある。本論文では、「二十六夜」の浄土教的色彩の是非を検討し、むしろ<法華文学>として読みうる可能性があることを指摘したうえで、日蓮宗と浄土宗が同じ仏教として重なりをもつ部分、すなわち業感をふまえ衆生に救いをもたらそうとする部分において共通する要素を賢治は作品化しようとしたと述べた。「二十六夜」に示されるのは、題目と念仏がともに祈念する救いの世界へ目をそそぐ、慈悲のまなざしのありようである。さらに、死にいたる穂吉の思いを語りえない語り手について言及し、人間が立ち入ることのできない世界の存在が語り手につつましやかな受動性を与えていると述べた。In conclusion of Nijurokuya, there is a reading which is going to look at different Jodokyo-color from the instruction of the "Lotus Sutra" in which Kenji believed. This paper examined the right or wrong of the Jodokyo-color of Nijurokuya, and on the other hand it pointed out that it is the possibility of being able to read as "Lotus Sutra Literature", and then it pointed out that Kenji tried to insist the element which is common in the portion in which the Nichiren sect and the Jodo sect have a overlap as the same Buddhism. The matter which is shown in Nijurokuya is the look of the mercy which pours the eye to the world of rescue which the Nichiren sect and the Jodo sect pray together. Furthermore, after referring to the storyteller who cannot talk about the feeling immediately before Hokichi's death, it is pointed out that the existence of the world where the human cannot enter has given a calm passive characteristic to the storyteller.
著者
増井 三夫
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.47-61, 1995

1989年のベルリンの壁解放から始まったドイツ転換期は,その時代状況の激しさを反映するかのように,ネオナチ・ユーゲントにそのラディカルな行動を示威する舞台を提供したかのようであった。もちろん観客も揃っていた。その観客は若者たちの難民収容所への襲撃に潜在的な支持を表明した。さすがに世論は,この行動が一部の若者の一犯罪としてすますことができなくなった。抗議のデモが続いた。その一方で,ネオナチの登場は失業等の社会的な危機と精神的な危機に起因するといった従来の行動格率を通用することによって説明されていた。そこでは危機の要因が多数指摘されているが,そこから明かとなった点は,その要因の数だけネオナチ・ユーゲントの行動生成の過程が複雑であったということである。この複雑な過程に一つの解釈をあたえるために,ネオナチの行動へはしる若者の日常生活世界に注目したのが本小論である。だがそのデータが極めて不足しており,この試論は今後の研究の進展によって修正を不可欠とするものである。Was ist die Ursache von der Entstehung der Neonazi-Jugend im Modernen Deutschland? Man versteht die folgeden Punkten als dis Ursache davon : (1) die Krise der Identitat und Verlust des Lebensziels, (2) das zusammenbrechende Familienleben, (3) die schlechte Anpassung des pluralistischen Werts. Aber konnen wir die Entstehung der Neonazi-Jugend durch der deri Punkte als entsprechend verstehen ? Ist es denn moglich, dass die zweckmasslichen Taten, die den Antisemitismus, Grossdeutschismus und Gewalt anrichteten, im psychologischen Vakuum und somit ohne den starken Werken hervortreten ? Das alltagliche Lebenswelt der Jugend um Wende bringt uns das ganz anderen Resultat als das schon oben Verstandene.
著者
杉浦 英樹
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.87-99, 2010-02-28

明石女子師範学校付属校園は主事及川平治のもとに大正自由教育の実践を展開したことで教育史上有名である。同校園では1904(明治37)年の創設当時からすでに幼小間に職務上、研修上の交流があり、1924(大正13)年には及川の指導によってプロジェクト法に基づくカリキュラム連携が試みられようとしている。筆者の目的はその経緯を明らかにすることにある。本稿では「保育方針並ニ幼稚園内規」を含む付属幼稚園所蔵史料の内容をめぐる解釈を通して、明治期における幼稚園カリキュラムの開発過程を保姆の視点から記述する。そして幼小教員が対等に交流するという当時としては稀有な状況で、同園のカリキュラムがどのようなものであったかについて、付属小学校の教育方針や及川の見解との関係において検討する。
著者
鈴木 敏紀
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.16, no.1, pp.207-229, 1996

貨幣の諸機能については,マルクスが『資本論』 において価値尺度,流通手段,蓄蔵手段,支払手段,世界貨幣という順でかなり詳細に分析している。マルクス経済学においては,この貨幣機能論が基本をなしている。しかしこの貨幣機能論の解釈は必ずしも一致して理解されているわけではない。例えば,世界貨幣は貨幣機能の範疇に入るものなのかどうか。また蓄蔵手段の機能から支払手段の機能への機能的発展はどのような論理内容で展開されなければならないのか。価値と価格との乖離の問題と貨幣の機能との矛盾はどのような論理で解決されるべきか。そもそも貨幣とは何か。これらの諸問題に対して多くの研究がなされてきたのであるが,岩井克人の 『貨幣論』 はこれまでの研究の成果に非論理的で非科学的な見過ごすことのできない論理をもってマルクス貨幣論を批判している。岩井は価値形態論における貨幣の必然性についても貨幣機能論においても「宙吊りの無限の循環論法」なる論法でマルクスの貨幣の必然性と貨幣の機能論とを一刀両断しているのであるが,岩井が循環論的貨幣機能論を展開すればするだけ,その非論理性と非実証性が明らかになるのである。本論文は,マルクス貨幣論が基本的に正しいことを追加的な概念装置を使って論証することを目的とする。貨幣機能の追加的概念装置とは,価値実現手段としての貨幣,使用価値実現手段としての貨幣,価値擬制手段としての貨幣および「信用の二重性」である。とくに「信用の二重性」とは,「本来的信用」と「擬制的信用」という信用の二重構造を意味する。「本来的信用」とは,貸付信用,商業信用,及び銀行信用における信用を実体とするものであり,その形態は商業手形およびそれから発展した「究換銀行券」を含む「信用貨幣」である。「擬制的信用」とは,国家の「法の支配」による「法的権威」を信用の実体とする「権威的信用」であり,その形態は「不換紙幣」であるところの「不換銀行券」と「政府紙幣」である。岩井が強調する「薄汚れた紙切れ」であるこの「不換紙幣」が永続的に流通する「秘密」を解くカギは,「宙吊りの無限の循環論法」が錯綜する宇宙にあるのではなく,「信用の二重性」が錯綜する現実の場に隠されているのである。本論文はこれを明らかにする。Karl Marx analyzed the functions of money in his "Das Kapital" in great detail. They are measure of money, means of circulation, means of hoard, means of payment, and world money. Marxist economics is based on this theroy of money. But we have some interpretations of this theory of money. For example, is world money included or not in the category of functions of money? What is the logic of the development that means of hoard switch over to means of payment? What is the logic which solves the contradictions that price estranges itself from value? What on earth is money? We have the outcome of many years of the study. But Katsuhito Iwai critisises the Marxist theory of money with his preposterous logic that we cannot pass over. Iwai cuts the necessity of money in the forms of value and the functions of money in hanging in two with a single stroke of the sword with the logic of "infinite circular argument hanging in midair"; however, his logic is not logicaly and positive definitely. The purpose of this paper is to demonstrate with the device of added conceptions that Marxist theory of money is correct basically. The added conceptions are means of realization of value, means of realization of value of use , means of fiction of value, and duality of credit. The last conception i. e. duality of credit means dual struture of credit in which "primary credit" and "fictitious credit" exist. Primary credit means the credit which is based on the relations of credit. The money which circulates in the place of the relations of credit is "credit money" which have developed from commercial papers. Fictitious credit means "authoritative credit" which is based on the credit of "a legal authority" which originates from "the cotrol of the law" by the state. The money which circulates in the place of the relations with "authoritative credit" is "inconvertible notes" which are represented by inconvertible notes of bank and notes of government. The key to the solution of the "secrecy" that the inconvertible notes which are "filthy papers" emphasized by Iwai circulate perpetually does not exist in the space of "infinite circular argument hanging in midair", but in the real place of "duality of credit".
著者
井上 久祥 益子 典文
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.43-54, 2008-02-28
被引用文献数
1

学校に基礎を置くカリキュラム開発の考え方にもとづいた情報教育のための授業改善のモデルを構想し、実際に地域の学校と連携して、情報教育の授業づくりや学校の情報化についての支援を行っている。本研究では、これら一連の活動が地域貢献に留まらず、大学講義の改善にも効果のあることを示す。具体的には、学校-大学間の連携で得られた実践知を大学の講義において伝達することを試みた。そして評価の結果、実践知のもつ「地域性」が講義受講者に影響を及ぼしていることが示唆された。We conceived the model of class improvement for ICT education which establish as a concept of School based curriculum. Through the supporting schools on Joetsu area, we obtained the effects of not only the support for teachers in school, but also the improvement of teacher training program for university students. The result of experiment in practice transmitting implicit knowledge from school teachers to university students, the effectiveness for understanding the school teacher's authentic activity was suggested.
著者
高本 條治
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.14, no.2, pp.307-323, 1995

副題に示した川端茅舎の俳句について,(a)「カワセミは飛翔している」,(b)「カワセミは静止している」という2つの解釈が行われている。また,(a)と(b)を併用する解釈も見られる。本稿では,Sperber&Wilson(1986a)の関連性理論の枠組みで,この句の解釈になぜ不確定性が生じるのかを,次の点から語用論的に分析し,考察を加える。(1)この句についての従来の句評には,どのような解釈上の問題点が内包されているか。(2)「こんこんと」という副詞によって,どのような曖昧性がもたらされているのか。(3)「翡翠」への指示対象付与の問題と,この句の解釈とはどのように連関しているのか。(4)一見相反するように見える2つの解釈が多重に併存できる理由は何か。Some critics have pointed out that this haiku has at least two possible readings as follows: (a) this kingfisher is flying in the air. (b) this kingfisher is settling on a bough or a stake. But, why does this ambiguity occur? Can we determine which reading is more suitable or sufficient for this haiku? To answer these questions, using the framework of 'Relevance Theory'(Sperber and Wilson 1986a), I analyze this haiku text and describe following issues from the viewpoint of linguistic pragmatics. (1) the interpretive indeterminacy in which the critics have been involved. (2) the interpretive ambiguity which the adverb 'konkonto' may bring in. (3) the interpretive effects of the reference assignment for the noun 'kawasemi'. (4) the interpretive interaction between two inconsistent readings as mentioned above.
著者
丸山 昭生 小杉 敏勝 奥泉 祥子
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.119-135, 2008-02-28

新潟県立高田養護学校は,昭和43年5月1日に創立された知的障害児のための養護学校である。新潟県内においては,知的障害児の養護学校としてすでに新潟県立月ヶ岡養護学校(三条市)が開校(昭和40年9月1日創立)していた。知的障害児のための最初の養護学校創設について,当時の塚田県知事は当初上越地区を考えていたが,その後の政治的な動きの中で三条市に決定した。このような動きの中で,「上越地区にも養護学校を」と,その創立に中心となって活躍したのが上越婦人協議会長をしていた徳山ミサヲである。徳山は,脳性まひ児である孫の就学への叫びを直接の引き金とし,上越地区連合婦人会の組織を背景に養護学校創立のために壮絶な運動を繰り広げ,その夢を実現させた。この運動が成功した要因は多々あるが,徳山の自己犠牲の精神(捨身の願い),小さな力(一粒の麦)の結束力,誰もができる運動(米1升運動),労を厭わないねばり強さ(執念),共感し運動を手助けしてくれる人との出合い(仏恩)などである。その結果,新潟県立高田養護学校の開学を迎えることとなり,徳山は子どもらの殿堂(学校)の創立に喜びの極みの涙を流したのである。徳山のこの活動は,新潟県特別支援学校の開学に尽くした大森隆碩(高田盲学校),金子徳十郎(長岡聾学校),結核療養教師の笹川芳三ら(柏崎養護学校)に勝るとも劣らない功績であるといえる。Takada school for children with intellectual disabilities was established on May 1st 1968. At the time, Niigata prefecture had already Tsukigaoka school for children with intellectual disabilities in Sanjo city, which was set up on September 1st 1965. People made a movement toward the foundation of the school for children with intellectual disabilities in Joetsu area. MISAWO TOKUYAMA, the president of Joetsu Women's Council was playing an important role in that action. She had a grandchild with cerebral palsy. She made the movement for learning opportunities for him and similar children. She expanded the acts for foundation of the school with Joetsu Women's Council. Finally their dreams came true. There were some factors for this success, which were the mind of self-sacrifice, solidarity of power of Women's Council, Movement of Kome Issho everyone could do easily, her tenacity, encounter with many supporters and so on. When the first anniversary of a founding of the school was held, she made tears of joy. It was founded that her actions are equivalent of achievements of pioneers who served to establish special schools in Niigata prefecture, RYUSEKI OOMORI, TOKUJURO KANEKO and YOSHIZO SASAGAWA.
著者
大前 敦巳
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.17, no.1, pp.31-47, 1997

小論は,フランスの大学人学資格に相当するバカロレア試験を主題に取り上げ,近年の改革に伴う試験の内容と,その準備のために望ましいと考えられている勉強法について検討する。バカロレア試験の実施過程にはリセの教員が多く動員され,またほとんどの試験は授業内容に関連した論述と口述からなるため,バカロレアの主たる試験準備の方法は,リセの授業で受けた内容の復習を行うことが中心になる。復習のために推奨される最も一般的な方法は,授業でノートに記入したことをカードに整理することである。さらに,模範解答集や模擬試験の問題を解くことを通して,過去に作成したカードを補足・修正することが勧められる。フランスでもバカロレア受験がユニバーサル化したのに伴って,日本の受験勉強に見られるのと同様の問題が指摘されている。今日の進学競争について論じるためには,高等教育の大衆化という多くの国に共通の現象を踏まえた上で,各国に固有の問題を明らかにしていくことが重要であると考える。Le sujet de cet article est l'examen du baccalaureat. En France, comme au Japon, le taux de reussite au baccalaureat a augmente rapidement pendant une dizaine d'annees. En reference a ce changement social, ma recherche a porte sur deux points; premierement sur la facon d'executer des examens d'aujourd'hui, et deuxiemement sur les methodes de travail les plus appropries a la preparation des epreuves. J'ai trouve trois caracteristiques sur le baccalaureat. (1) La plupart des examens consistent en des exposes ecrits et oraux. (2) De nombreux professeurs de lycees participent a la mise en oeuvre du baccalaureat. (3) La preparation la plus importante est la revision des cours de lycee. Une methode de travail que l'on recommande souvent est la redaction de fiches dans lesquelles les eleves ont resume les notes prisent pendant les cours. Ensuite, on leur conseille d'ajouter et de modifier leurs fiches en abordant les sujets des annalles et des examens blancs. Par ailleurs, avec l'<universalisation> des candidats du baccalaureat, on peut trouver les memes problemes qu'a l'examen d'entree a l'universite au Japon; par exemple, le probleme du <bachotage> des eleves, la difference du niveau d'excellence entre des etablissements par les taux de reussite au baccalaureat .... Donc pour comparer les examens de nos jours entre la France et le Japon, il est important de tenir compte des affaires propres a chaque pays, mais aussi du phenomene commun de massification de l'obtention des diplomes.
著者
時得 紀子 小林 田鶴子 内海 昭彦
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.265-274, 2011-02-28

今次改定の小学校学習指導要領解説音楽編では、共通事項(1)のアで、音楽的な感受の能力の内容を具体的に示し、音楽の要素や仕組みについて気づき、感じ取ること、具体物の操作や言葉のやり取りを通して新たな考えをもつようにすることが求められている。このような音楽を通じて思考・判断する活動では、楽曲を聴き、その要素や仕組みについて聴きとらせ、根拠をもって価値判断をさせることや、要素や仕組みへの具体的な根拠をもった「気づき」等を通して、「思いや意図」をもった表現の活動へのつながりをもたせることが重要である。そのためには、音や音楽に含まれる要素や仕組みの特徴を楽譜や映像を通して「可視化」したり、他の要素と区別して聴き取らせたり、仕組みについて具体的に理解したりさせるような、教師の側の工夫が有効な手段となる。また、言語や具体物などの可視化した情報を使って学習者が意見交換し、新たな価値を見出したりすることの効果も大きいと考える。筆者らは、このような「活用型」の音楽学習では、音楽の要素や仕組みについて具体的に且つ視覚的に捉えることが容易となるICTによる授業支援の方策が有効ではないかと捉え、実践を試みた。その結果ICTによる支援が音楽の知覚・感受に効果的な役割を果たし、思考力・判断力・表現力を培う成果が見られることが明らかになった。
著者
森川 鉄朗 西山 保子
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.16, no.2, pp.651-659, 1997
被引用文献数
2

現行の高等学校教科書や最近の教育誌では,物質量の単位モルを個数としてあつかうとか,アボガドロ定数(測定値にすぎない)に相当する原子や分子の集団を1モルの物質量と定義している。これらは,国際単位系(SI)からみると,混乱あるいは誤解と思われる。そこで,本稿ではSIを肯定する立場で,物質量という物理量やその単位であるモルを,さらに,モルを用いる物質量の測定法などを考察し,問題点を明らかにする。それらの結果をもとに,科学教育におけるモルの新しい導入法を提案する。この導入法の特徴は,単位(モル)は基準として選ばれた物理量であるとし,さらに,物質量測定法の原理は異種の要素粒子間の一対一対応にあるとして,いろいろな物質の縦横展開図を用いる点にある。In high-school textbooks and education journals there are descriptions of the concept of mole such that the amount of substance is treated as a numerical value and such that one mole is defined by use of the Avogadro constant. It seems that such statements are confusions and/or misunderstandings from the point of view of the International System of Units (SI). This paper discusses what the amount of substance as a physical quantity is and how the amount of substance is measured in terms of the mole. We propose an arrangement of chemical symbols, called a sheet of substance, written in rows and columns, in which every elementary entity for one standard substance (i.e., carbon-12 in SI) is aligned in row form, and each elementary entity for another substance has one-to-one correspondence to the carbon-12 atom. This sheet of substance would become a useful tool for us to teach students physical quantities (mole, molar mass, Avogadro constant, Faraday constant, relative mass, etc.) and the principle of measurement of the amount of substance.
著者
丸山 良平 小林 秀智
出版者
上越教育大学
雑誌
上越教育大学研究紀要 (ISSN:09158162)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.229-242, 2005-09-30

本研究の目的は幼稚園5歳クラス児が自発的に制作した物語絵本の内容と,その活動の開始を助け展開を支えた保育者の援助の実態を明らかにすることである。これまでに観察した幼児が偶然はじめた自発的な物語絵本の制作活動を分析し,その条件を洗い出した。その条件の一つである手作り絵本を準備して,筆者の一人が担任教師をする幼稚園5歳クラスで読み聞かせしたところ,幼児たちは自発的に物語絵本の制作をはじめた。この園では特別な文字教育といわれる指導は行われていないが,幼児たちは2ヶ月に渡って積極的に熱心に物語を創り文章にした。幼児が制作した絵本の内容とその制作活動を支える教師の援助の実態を分析し,幼児が自発的に文字で文章を書く条件と教師の援助の在り方を考察した。