著者
山下 好孝
出版者
北海道大学留学生センター = Hokkaido University International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.9, pp.79-90, 2005-12

In this brief report, I will present three rules that decide where the accent falls in Japanese compound words. First I will distinguish three types of compound word depending on how many moras the second part of the word includes.: Those that have more than five moras in their second part, those that have three or four moras, and those that have one or two moras. These rules are useful for foreign learners in mastering the Japanese accent. Finally I insist on introducing accent exercises in Japanese teaching.
著者
池上 素子
出版者
北海道大学留学生センター = Hokkaido University International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.3, pp.15-29, 1999-12

「けれど」も「のに」も逆接確定条件を表す接続助詞とされている。しかし、両者は完全に交替可能ではなく、固有の性格を持っている。本稿では、両者に共通の機能を「話し手の発話の前件から導かれる聞き手の『(「PならばQ」から導かれる)PだからQ』という推論を制限すること」とし、相違点は、その推論「PだからQ」の前提となるP、Qの捉え方から導かれるものという考えに沿って両者の比較検討を行う。すなわち、「のに」文の場合は「PならばQ」が必要十分条件であるため、そこから導かれる推論は「当然~であるはずなのに~」という当てはずれの感情を伴うが、「けれど」文の場合「PならばQ」は可能性のある一つの条件に過ぎないためそのような感情は伴わない。また、他にも可能性があるがその中の一つを選ぶ結果、「けれど」文には聞き手の思惑を計るという聞き手中心の傾向が現れるが、「PならばQ」を必要十分条件と見なす「のに」文の場合聞き手の思惑を計る余地はなく、話し手中心の傾向が出る。さらに、「けれど」文に前置きなどの周辺的な用法があり、「のに」文に周辺的用法がないのは、そのような各々の性格が背景にあるためと考える。
著者
池上 素子
出版者
北海道大学留学生センター = Hokkaido University International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-17, 2000-12

本稿では、3分野の論文(フルペーパー)コーパスの分析に基づき、変化を表す「なる」が学術論文においてどのように用いられているかを考祭した。分析の結果明らかになったことは主に次の3点である。1)理科系である機械工学・農学では「なる」に前接する語が偏っているが、文科系である社会科学ではかなり分散して多様な語が用いられている。2)理科系の中の機械工学と農学でも、ナ形容詞で頻出する語、動詞の形態などの点で違いが見られる。これは、自ら働きかけて何かを作り出したり改善したりすることが主である人間制御型の機械工学と、ある現象を長期間にわたって観察することが主である現象観察型の農学との、基本的な研究姿勢の違いによると思われる。3)その一方で、3分野に共通して現れる語や句も幾つか見られる。上記1)~3)から「なる」に関して2つの可能性が示唆される。一つは、語レベル、句レベルでそれぞれの分野の研究姿勢を反映した違いがあるという事実から -文章が有機的に結びついているものである以上- 文レベル、談話レベルにおける分野毎の特徴が存在する可能性があることである。二つ目は、その一方で、全ての分野に共通して現れる語や句があることなどから、分野を超えて学術論文が共通して持つ特徴が存在する可能性があることである。
著者
中村 重穂
出版者
北海道大学留学生センター
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.11, pp.56-75, 2008-03

小論は、2002年度目本語教育学会春季大会シンポジウムに端を発する安田敏朗と松岡弘の「論争」を批判的に検討したものである。松岡は、安田が日本語教育史研究の「これから」に対して行った批判に反批判を加え、コメニウスと山口喜一郎の言語教育観・教授法の類似性を根拠に言語教育の普遍性を主張し、日本語教育を論難する安田に反論する。しかし、筆者は、この反論に於ける松岡による安田の見解の不当な矮小化、歴史的文脈を無視したコメニウスと山口の対比の不的確性、松岡のテキスト解釈の狭さを指摘し、さらに、こうした松岡の解釈が安田や、同様に日本語教育を批判する駒込武に対する"報復感情"に起因することを批判した。また、松岡や関正昭の駒込・安田批判が、日本語教育の部外者に向けられながら内部者には為されない不徹底さを指摘し、その閉鎖的な体質を批判するとともに、歴史研究者からも学ぶこと及び日本語教育に無理解な言説に対する批判の必要性を提唱した。
著者
阿部 保子
出版者
北海道大学留学生センター
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1-12, 1998-12

思考動詞「思う・考える」等は、一人称主語の文中、ル形で主語の現在の思考、すなはち発話時を表す。それは、発話時で話者の内的思考を認識できるのは、話者以外にはいないからである。発話時を基準として、発話行為と思考行為とが別々の人によって行なわれ、話者は他者の思考を直接認識することができない二・三人称主語の文では、思考動詞の語彙的意味が変化する。この場合、思考動詞は「食べる・見る・読む・蹴る」等の動作性動詞に、意味上近づく。思考動詞の意味上の変化が原因となって、二・三人称主語の文で発話時を示すには、「思っている・考えている」等のテイル形になる。本稿では、思考動詞の意味上の変化がル形とテイル形というアスペクト対立を無くすことを、またなぜ動作性動詞に近づくかを明らかにしたい。日本語教育の場でも、「思う」の語彙的意味の変化を使って、三人称主語と「思っている」の関連を説明することができる。本稿では、「ラオさんは明日晴れると思う」の誤用例を図を用いて説明した。
著者
中村 重穂
出版者
北海道大学留学生センター
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
no.6, pp.106-114, 2002-12

In this paper, the author points out some methodological problems in historical studies of Japanese language teaching, namely, a tendency towards studies focused on particular individuals and on the Euro-American origins of teaching methods as well as hasty generalizations of research in this field. Finally, the author advocates the necessity for a joint study between scholars of history and teachers of Japanese language towards further investigations in this field and suggests some new perspectives.
著者
池上 素子
出版者
北海道大学留学生センター
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.8, pp.14-27, 2004-12

本稿では、レポート作成の予備教育としての作文教育に生かすことを目的として農学系論文コーパスを分析し、原因用法を中心に「ため」と「ために」の使用実態の相違を明らかにすることを試みた。その結果明らかになったことは以下の通りである。1)「ため」は主に原因・理由用法に、「ために」は主に目的用法に用いられる。2)「ため」は原因にも理由にも用いられるが、「ために」は原因に用いられることはあっても、ほとんど理由に用いられることはない。3)原因を表す「ために」にはいくつかの特徴が認められた。それは、(1)「ため」より連体修飾節内に収まるものが多い。(2)談話レベルにおいて「ために」が用いられやすい文脈がある、ということである。談話レベルにおいて用いられやすい文脈とは、a)ある現象を述べ、その原因を後から記述する文脈、b)ある現象を述べ、それがいくつかの原因の連鎖の結果起きたことであることを記述する文脈、c)対比・逆接の文脈、の三つである。これらa)~c)の特徴は、原因を表す「ため」では「ために」ほど顕著に現れず、また「ため」に独自の特徴も認められなかった。「ために」に上記の特徴が「ため」よりも顕著に現れた原因は、いずれも焦点化によって説明ができる。これらの知見を作文教育に生かせば、学習者の疑問に応え、より適切な文章の産出の一助となると思われる。
著者
石井 治恵
出版者
北海道大学国際本部留学生センター
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.19, pp.36-45, 2015-12

本稿は、2014年度の北海道大学国際本部相談室における活動内容、実績、および今後の課題についてまとめたものである。2014年度の活動内容は、伺人面接、危機対応、心理教育的活動、留学生を指導・支援する教職員向けコンサルテーシヨン研修であった。個人面談における年間実利用者数は57件、延べ利用者数は542件であった。相談内容とその割合は、心理的な悩みに関する相談が30%、精神障害に関する相談が26%、修学・進路に関する相談が17%、対人関係の問題に関する相談が16%、 事故、経済、生活に関する問題等の相談が11%であった。また、教職員向けコンサルテーションでは、年同延べ21件の利用があった。最後に、2012年度活動報告で挙げた課題のその後と、危機対応における言葉の問題について触れた。
著者
中川 道子 二村 年哉
出版者
北海道大学留学生センター = Hokkaido University International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.4, pp.18-37, 2000-12

日本語学習者の漢字読みテストの誤答にみられた短音化と長音化の傾向が、学習者の聴覚的な音の長短の認識の違いに起因すると推測し、その確かな傾向を探るために2音節語の聞き取り調査を行った。その結果、長母音を短母音と聞く誤り(短母音化)には(1)前音節より後音節に起こりやすい、(2)前音節では拗音を含む長母音が短母音化しやすい、(3)前音節では平板アクセントに、後音節では頭高アクセントに起こりやすい、の傾向があった。短母音を長母音と聞く誤り(長母音化)には(1)前音節より後音節に起こりやすい、(2)「よ」音を含む音節は含まない音節より長母音化率が高い、(3)前音節ではアクセントによる差はあまりないが、後音節では頭高アクセントより平板アクセントに多い、の傾向が見られた。さらに、聞き取り調査に用いたテスト語の持続時間を測定し、前音節と後音節の持続時間の割合を調べたところ、この割合は学習者の誤聴傾向と高い関連性があった。よって前音節と後音節の持続時間の違いが母音の長短の認識のずれの一因となっていると考えられる。An analysis of errors in kanji reading tests showed vowel shortening and vowel lengthening by beginning learners of Japanese. A listening comprehension test focussing on phonological length showed tendencies for vowel shortening to occur more often in the first syllable than in the last syllable of two-syllable words, and vowel lengthening to occur more often in the last syllable than in the first syllable. It also showed that differences of accent and the presence of palatalized sounds affected learners' perception of length contrasts. To investigate the cause of these tendencies in errors of auditory perception, the actual duration time of Japanese sounds was measured and analyzed in comparison with errors made by learners. The results showed that there appears to be a close relation between the tendencies of errors in auditory perception by learners and actual duration time.
著者
中川 道子 二村 年哉
出版者
北海道大学留学生センター
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.4, pp.18-37, 2000-12

日本語学習者の漢字読みテストの誤答にみられた短音化と長音化の傾向が、学習者の聴覚的な音の長短の認識の違いに起因すると推測し、その確かな傾向を探るために2音節語の聞き取り調査を行った。その結果、長母音を短母音と聞く誤り(短母音化)には(1)前音節より後音節に起こりやすい、(2)前音節では拗音を含む長母音が短母音化しやすい、(3)前音節では平板アクセントに、後音節では頭高アクセントに起こりやすい、の傾向があった。短母音を長母音と聞く誤り(長母音化)には(1)前音節より後音節に起こりやすい、(2)「よ」音を含む音節は含まない音節より長母音化率が高い、(3)前音節ではアクセントによる差はあまりないが、後音節では頭高アクセントより平板アクセントに多い、の傾向が見られた。さらに、聞き取り調査に用いたテスト語の持続時間を測定し、前音節と後音節の持続時間の割合を調べたところ、この割合は学習者の誤聴傾向と高い関連性があった。よって前音節と後音節の持続時間の違いが母音の長短の認識のずれの一因となっていると考えられる。
著者
中村 重穂
出版者
北海道大学留学生センター = Hokkaido University International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.9, pp.1-21, 2005-12

小論は、時に関わる表現「~なり」と「~たとたん」の意義素を國廣(1982)の意味分析の方法を用いて分析し、その語義的特徴と統語的特徴を解明したものである。その結果、両表現とも<時間的直後>と<同時性>を語義的特徴として有する一方、「~なり」は、「外→内」の移動動詞の前接、及び後件または後続文に於ける前件または後件の動作主体の発話の出現という統語的特徴を、また、「~たとたん」は、動作・作用・変化を表す動詞の前接、及び変化を表す動詞群や前件の動作主体が意志的に制御できない事象を表す表現の後続という統語的特徴をそれぞれ有することが認められた。最後に今後の課題として、両表現の後件に於ける「意外性」というimplicationの有無の考察の必要性を述べた。
著者
山下 好孝
出版者
北海道大学留学生センター = Hokkaido University International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.8, pp.1-13, 2004-12

本稿は、日本語教育におけるテンスとアスペクトの導入で、これまで留意されなかった点を指摘する。動詞「た」形にはテンスとアスペクトの両方の機能が認められる。それが疑問文に用いられ、答えの文で否定形が現れる際、テンスとしての「過去」、アスペクトしての「完了」の解釈が顕在化する。従来は過去の一時点を示す時の副詞と共起する場合、および当該事態が過ぎ去ったこととして解釈される場合は、過去否定形「~なかった・~ませんでした」が使われるとされてきた。しかし、二人の外国人の日本語学習者がそれに対して疑問を呈した。過去を示す副詞と共起する場合でも、これらの形式が使われず、「~ていません・~てないです」というような形式が否定の答えに現れると報告している。上記の報告をデータとして、「過去否定形」が生起する条件を考祭した。そして話し手と聞き手の間に「過去の場の共有」が存在することが、過去形の生起の引き金になると結論づけた。
著者
阿部 保子
出版者
北海道大学留学生センター = Hokkaido University International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1-12, 1998-12

思考動詞「思う・考える」等は、一人称主語の文中、ル形で主語の現在の思考、すなはち発話時を表す。それは、発話時で話者の内的思考を認識できるのは、話者以外にはいないからである。発話時を基準として、発話行為と思考行為とが別々の人によって行なわれ、話者は他者の思考を直接認識することができない二・三人称主語の文では、思考動詞の語彙的意味が変化する。この場合、思考動詞は「食べる・見る・読む・蹴る」等の動作性動詞に、意味上近づく。思考動詞の意味上の変化が原因となって、二・三人称主語の文で発話時を示すには、「思っている・考えている」等のテイル形になる。本稿では、思考動詞の意味上の変化がル形とテイル形というアスペクト対立を無くすことを、またなぜ動作性動詞に近づくかを明らかにしたい。日本語教育の場でも、「思う」の語彙的意味の変化を使って、三人称主語と「思っている」の関連を説明することができる。本稿では、「ラオさんは明日晴れると思う」の誤用例を図を用いて説明した。The purpose of this study is to identify the differences between the "teiru" and "ru" forms of verbs of thinking, omou/kangaeru/shinjiru/wakaru, used in first-person vs second- or third-person subject sentences. In first-person subject sentences, where the speaker is the thinking person, "ru" forms are commonly used. In second- or third-person subject sentences (except question sentences), where the speaker is not the thinking person, the verbs change their meaning and behave similarly to action verbs such as "taberu/miru/yomu/keru" etc. With action verbs, the "ru" form does not refer to the time of speaking; this is done by the "te iru" form. The "te iru" form of thinking verbs, in second- or third-person subject sentences, similarly refers to the time of speaking. This difference leads to the use of the "te iru" form in sentences like "Rao-san wa ashita ame da to omotte iru".
著者
池上 素子
出版者
北海道大学留学生センター = Hokkaido University International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.5, pp.31-47, 2001-12

筆者は池上(2000)で、変化を表す「なる」の使用実態について社会科学、工学、農学の3分野の論文コーパスを分析した。その結果、分野を超えて共通して使われる語や句がある一方、各々の研究姿勢を反映した分野による違いもあることが観察された。本稿では、「なる」との比較の観点から、対象の変化を他動詞的に表す「する」の使用実態について学術論文コーパスを分析した結果を述べる。今回は「する」に前接する語について行った。その結果明らかになったことは以下の5点である。1)全体的に「する」文の総数は「なる」文より少ない。しかし、工学のように、自ら働きかけて何かを達成することが主目的である分野においては、「なる」文の出現数との差は大きくないことから、「する」文についてもないがしろにすることなく指導する必要がある。2)しかし、「する」文の総数自体は「なる」文に比べて少ないため、授業活動においてはまず「なる」文の定着を優先させるべきである。3)しかも、全体的に見て「なる」文よりも偏った特定の語と共起して使われる傾向が見られる。特にナ形容詞の場合、共起する語の偏りが顕著である。かつ頻出語の多くが上記3分野に共通していることから、分野を問わず語の結びつきが固定化していることが窺える。4)また、前接する語が名詞の場合、変化を表す表現というよりも慣用的な定型表現に近い用いられ方が多い。5)上記3)・4)、及び(工学を除けば)ナ形容詞、名詞がイ形容詞、動詞よりも圧倒的に共起することが多いことを考えると、論文における「する」は、「なる」よりも固定化した用法が多いと考えられる。以上のことから、実際の日本語教育の授業活動においては、典型的な変化を表す「する」の説明とともに、回定化していると考えられる使い方の説明も入れることがより有益であることが示唆された。This article examines the use of SURU expressing change in Japanese through an analysis of a corpus of theses. In this article, I attempt to analyze the words preceding SURU. In the analysis, the following results were found: 1) The total number of SURU is fewer than the total number of NARU. But There is no great difference between the two in theses on engineering. 2) On the whole, the words preceding SURU are more restricted than the words preceding NARU. 3) NA-adjectives and nouns which appear frequently preceding SURU seems to be used like set expressions. 4) From 2), 3), and from the fact that NA-adjectives and nouns appear preceding SURU much more frequently than I-adjectives and verbs, it is possible to think that SURU-sentences with NA-adjectives and nouns are used as set expressions rather than as expressions of change. However, this is not the case in the area of engineering. In these points, it is suggested that it is useful to teach not only SURU which expresses typical change but also SURU which is used like a set expression in Japanese Language classes.
著者
髙橋 彩 青木 麻衣子 鄭 惠先
出版者
北海道大学国際本部留学生センター = Hokkaido University, Office of International Affairs, International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
no.15, pp.80-89, 2011-12

「ホリデーイン日高」は毎年留学生センターと国立日高青少年自然の家が共催で行う国際交流行事である。2011年は「ホリデーイン日高」のプログラムを、留学生への支援サービス的なものから多文化交流に比重を置いた、より教育的なプログラムに改訂した。日高の夏祭りである「樹魂まつり」への参加が主な内容となるプログラムのため、限られた時間と従来からの活動の中に、どのような交流のための「しかけ」を盛り込めるかが課題であった。参加者同士の積極的なかかわりをつくるため、バーベキューやワークショップ等の活動を入れたほか、グループでの活動を通した様々な交流場面を作ることで、異文化コミュニケーションを促した。終了時のアンケートではグループの仲間と交流ができたと回答した参加者が9割を超え、多文化交流の目的は概ね達成された。しかし、関係教職員の振り返りやアンケートから、いくつかの課題も浮かび上がった。この稿では、今年度の改訂の意図から、その過程、実施状況と今後の課題・展望について報告する。Holiday in Hidaka is a cultural-exchange program, co-organized by International Student Center, Office of International Affairs, Hokkaido University and National Hidaka Youth Outdoor Learning Center. The program has been a support program for international students, designed to offer them the opportunity to enjoy a trip and learn about Japanese culture. International students have been considered to have difficulties with going on trips for financial reasons and language barriers. However, there has been a change in the situations of international students: English sings for international travelers are now seen around Sapporo, and there are various exchange events for international students offered by other organizations. This year, therefore, the organizer decided to change the character of the program from the event to support international student life to a program for cross-cultural understanding, focusing more on interaction between participants. This is a work in progress report of our effort to develop an international exchange program for multi-cultural education.
著者
小池 真理
出版者
北海道大学留学生センター = Hokkaido University International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.8, pp.99-108, 2004-12

While many Japanese teachers place great importance on their knowledge and methodology of teaching Japanese, a paradigm shift stressing self-development has taken place in recent years. This shift has emphasized the nccessity of teacher introspection. As well as reflecting on their own resources as teachers, teachers need also to consider learner resources, so that they can understand learners' beliefs, learning styles, and feelings as well as learners' needs and readiness. This paper identifies the most important roles expected of teachers by learners, based on semi-structured interviews. The results show that learners expect teachers to encourage learners in finding appropriate learning methods and in the acquisition or development of independent attitude and motivation, as well as to understand learners' individual and affective conclitions. The paper demonstrates the importance of understanding learners' beliefs and of developing observational skills.
著者
池上 素子
出版者
北海道大学留学生センター = Hokkaido University International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.1, pp.18-38, 1997-10

逆接確定条件を表す接続助詞「のに」「ながら」「ものの」「けれども」を取り上げ、それらの使い分けの条件を考えつつ各々の意味と用法を考える。最後に焦点化を基準として四つの助詞の相互関係をまとめる。「ながら」には大きく分けて2つの用法がある。一つは「のに」の用法に近く、今ひとつは「ものの」の用法に近い。便宜上、前者を「ながらA」、後者を「ながらB」と呼ぶ。「けれども」は必ずしも評価を伴わないという点は異なるが、それ以外の点では「ものの」「ながらB」に近い。又、今尾(1994)の方法を援用して、強調、質問、修正という視点から、各々の焦点がどこにあるかを検証する。その結果、「のに」「ながらA」は前件に焦点を置き、「ながらB」「ものの」「けれども」は後件に焦点を置いていることを示し、上記の分類(即ち「ながらA」と「のに」、「ながらB」と「ものの」「けれども」が各々近いということ)の妥当性を確認する。I describe the meanings and usages of "NONI", "NAGARA", "MONONO", "KEREDOMO" in this paper considering how to use properly them. After that, I define their mutual relationships by the view of the focus. "NAGARA" has two usages. One of them resembles that of "NONI", I call it "NAGARA (A)" in this paper. The other resembles the usage of "MONONO", I call it "NAGARA (B) ". "KEREDOMO" also resembles "NAGARA (B)", "MONONO", except that "KEREDOMO" doesn't imply estimations necessarily. Finally, by using of Imao's (1994) means, I verify the position of their focus on the point of view "emphasis", "question", "correction". By which, I prove that "NONI", "NAGARA (A)" focus on the antecedent while "NAGARA (B)", "MONONO", "KEREDOMO" do on the consequent, and confirm the appropriateness my classification, that is, "NAGARA (A)" resembles "NONI", and "NAGARA (B)" resembles "MONONO" and "KEREDOMO".
著者
池上 素子
出版者
北海道大学留学生センター = Hokkaido University International Student Center
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.3, pp.15-29, 1999-12

「けれど」も「のに」も逆接確定条件を表す接続助詞とされている。しかし、両者は完全に交替可能ではなく、固有の性格を持っている。本稿では、両者に共通の機能を「話し手の発話の前件から導かれる聞き手の『(「PならばQ」から導かれる)PだからQ』という推論を制限すること」とし、相違点は、その推論「PだからQ」の前提となるP、Qの捉え方から導かれるものという考えに沿って両者の比較検討を行う。すなわち、「のに」文の場合は「PならばQ」が必要十分条件であるため、そこから導かれる推論は「当然~であるはずなのに~」という当てはずれの感情を伴うが、「けれど」文の場合「PならばQ」は可能性のある一つの条件に過ぎないためそのような感情は伴わない。また、他にも可能性があるがその中の一つを選ぶ結果、「けれど」文には聞き手の思惑を計るという聞き手中心の傾向が現れるが、「PならばQ」を必要十分条件と見なす「のに」文の場合聞き手の思惑を計る余地はなく、話し手中心の傾向が出る。さらに、「けれど」文に前置きなどの周辺的な用法があり、「のに」文に周辺的用法がないのは、そのような各々の性格が背景にあるためと考える。Both KEREDO and NONI are disjunctive subordinate conjunctions, but they show several differences. The purpose of this paper is to claim that there is a function common to these particles, namely, to restrict the hearer's inferences, and to examine certain differences between the two from the viewpoint of inference preconditions. NONI regards a precondition as a necessary and sufficient condition, while KEREDO regards a precondition simply as one condition. The following differences are examined from this perspective. First, NONI has a nuance of disappointment, surprise, dissatisfaction and so on, but KEREDO does not. Second, while NONI has a tendency to lay emphasis on the speaker's expectation, KEREDO has a tendency to lay emphasis on the hearer's expectation. Third, NONI has only one usage as a disjunctive, but KEREDO has several, including preface, hesitation, supplementation and so on.
著者
中村 祐理子
出版者
北海道大学留学生センター
雑誌
北海道大学留学生センター紀要
巻号頁・発行日
vol.6, pp.21-36, 2002-12

本稿は中級学習者の受け身の誤用例を採集し、分析したものである。その結果、誤用の原因として以下のことが考察された。1)文体と受け身の不適切な関連 2)自動詞に関する不充分な理解 3)自動詞と他動詞の不充分な識別 4)利害性と受け身の主体の共起に関する不充分な理解 5)主語の省略における誤解と話者の視点の不統一 この考察を元に効果的な指導を行うために四つの留意点を示した。・受け身の主体における誤用の産出を避けるためには初級学習の段階から視点の概念を導入することが必要である。・文のねじれを回避させるためにテキストに基づいた主語の省略やテキスト内の話者の視点の統一に留意することを指導する。・文体に関連すると思われる受け身文、能動文の意味機能を考えて使い分けができるようにする。・等価の事象を叙述する他動詞受け身文と自動詞文の区別ができるように白動詞文の効果的な指導を行う。