著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.217, pp.29-45, 2019-09-20

倭と栄山江流域の交流史を考える場合,文献的に問題となるのは,まず全羅南道および耽羅の百済への服属時期を確定することが必要と思われる。そのうえで北九州系および畿内系などに細分化される倭人の移住集団の活動内容の分析が必要となる。さらには加耶地域への移住集団との対比も必要となる。以下ではこの問題を考える素材として『日本書紀』欽明紀に散見する倭系百済官僚を中心に検討した。現在,栄山江流域の前方後円墳被葬者についての諸説は,大きくは在地首長あるいは土着勢力とする説,倭人あるいは倭系の人物を被葬者とする説に分かれている。本稿では在地的な首長系列とは異なる地点に突如出現する点を重視して,後者の可能性を指摘した。結論として,憶測を述べるならば五世紀後半以降の一時期に限定される栄山江流域の前方後円墳被葬者像として,百済王族たる地名王・侯の配下で,県城以下クラスの支配を任された,北九州を含む倭系豪族と想定した。彼らはやがて,百済の都に集められて官僚化し,倭国との外交折衝などに重用されたために,一時的な現象として古墳は消滅したのではないか。栄山江流域にのみ前方後円墳が集中する理由や,移住の詳細なプロセスなどについては不明であり,今後も検討する必要がある。
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.121, pp.199-222, 2005-03-25

徳川幕府の後身たる静岡藩が明治初年に設立した沼津兵学校が、士官養成機関としての進化という、きわめて限定された範囲において、幕末に幕府によって推し進められた軍制改革の最終到達点であるとする評価に誤りはない。しかし、一地方政権である静岡藩と中央政府である幕府との根本的な違いにより、軍制全般においては決して直線的な継承関係をなしていなかった。脱走・壊滅し自然に消え去った海軍は別として、陸軍については、幕府時代に生み出された膨大な兵力は静岡藩では不要とされ、大規模なリストラが実施された。幕府の軍備増強政策は、静岡藩では一転して軍縮路線へと変更されたのである。量的な問題のみならず、質的にも継承されなかったものが少なくない。本稿では、まず、沼津兵学校と、幕府が幕末段階で設立した三兵士官学校との継承関係の有無について検討する。そして、前者が、フランス軍事顧問団の指導により生まれた後者とは、人的にも組織的にも継続性がないことを明らかにする。次に、慶応四年(一八六八)五月・六月以降に始まった旧幕府陸軍の解体と再編の過程=静岡藩軍制の成立過程を点検する。幕府瓦解後、とりわけ慶応四年五月以降の陸軍組織の変遷については、『続徳川実紀』、『柳営補任』、『陸軍歴史』といった既存の諸文献には記載がない。つまり、旧幕府陸軍が静岡藩軍制へ接続する途中経過については、文献上空白であったといえるが、本稿ではその時期の実態を明らかにする。また、生育方・勤番組という不勤・無役者集団を維持しながら常備兵を擁さないという特殊な軍事体制を採用した静岡藩の特徴を、沼津兵学校との関わりの中で考察する。明治三年(一八七〇)沼津兵学校に付置された修行兵という存在が検討対象である。これは、政府の命令によって設置することとされた常備兵三〇〇〇人に相当するものと思われるが、その実態は、定数にはるかに足りなかったばかりでなく、単なる兵卒ではなく下士官候補者であった。静岡藩は、幕府陸軍時代の多くの遺産を切り捨てざるをえなかったが、一部の良質な部分については的確に引き継いだ。また、旧幕府陸軍にはなかった新たな人脈と発想を付け加え、したたかに明治政府に対した。それが、沼津兵学校であり、修行兵の制度であった。徴兵という形で庶民を軍事に取り込めたか否かという点においては、政府・他藩に遅れをとった静岡藩であるが、士官教育、さらには普通初等・中等教育という非軍事面において、全国をリードする先進性を示したのである。つまり、軍事部門よりも教育部門において近代化が先行したのであり、沼津兵学校は、「兵」学校であるよりも、兵「学校」であることを象徴する存在であった。
著者
鈴木 由利子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.157-209, 2017-03

水子供養が、中絶胎児に対する供養として成立し、受容される経緯と現状についての調査と考察を行った。水子供養が一般化する以前の一九五〇年代、中絶胎児の供養は、人工妊娠中絶急増を背景として中絶手術を担った医療関係者によって散発的に行われた。一九六五年代には、中絶に反対する「いのちを大切にする運動」の賛同者により、中絶胎児と不慮死者を供養する目的で「子育ていのちの地蔵尊」が建立され、一般の人びとを対象とした供養を開始した。一九七一年になると、同運動の賛同者により、水子供養専門寺院紫雲寺が創建された。同寺は中絶胎児を「水子」と呼び、その供養を「水子供養」と称し、供養されない水子は家族に不幸を及ぼすとして供養の必要を説いた。参詣者の個別供養に応じ、個人での石地蔵奉納も推奨した。この供養の在り方は、医療の進歩に伴い胎児が可視化される中、胎児を個の命、我が子と認識し始めた人びとの意識とも合致するものだった。また、中絶全盛期の中絶は、その世代の多くの人びとの共通体験でもあり、水子は不幸をもたらす共通項でもあった。胎児生命への視点の芽生えを背景に、中絶・胎児・水子・祟りが結びつき流行を生みだしたと考えられる。水子供養が成立し流行期を迎える時代は、一九七三年のオイルショックから一九八〇年代半ばのバブル期開始までの経済停滞期といわれたおよそ一〇年間であった。一方、水子供養の現状について、仏教寺院各宗派の大本山・総本山を対象に、水子供養専用の場が設置、案内掲示があるか否かを調査した。結果、約半数の寺院境内に供養の場が設置されているか掲示がみられ、明示されない寺も依頼に応じる例が多い。近年の特徴として、中絶胎児のみならず流産・死産・新生児死亡、あるいは不妊治療の中で誕生に至らなかった子どもの供養としても機能し始めている。仏教寺院を対象とした水子供養の指針書の出版もみられ、水子供養のあるべき姿やその意義が論じられている。This paper examines how the memorial services for babies died as a result of abortion was established and accepted as well as what it is like now. At the post-Second World War period, the number of abortions rapidly increased, and memorial services for aborted babies were performed intermittently by medical workers involved in abortions. Subsequently, supporters for the Pro Life Campaign (an anti-abortion movement in the 1960s) contributed to the creation of a Statue of Kosodate Inochi no Jizōson (the Guardian Deity of Child-rearing and Life) in 1965 and started to hold memorial services for the general public. The services were held not only for aborted babies but also for children died from accidents. In 1971, Shiun-ji Temple was established as a special temple for memorial services for aborted babies. As soon as the temple started to hold memorial services for aborted babies (called as Mizuko Kuyō), the services prevailed. It is considered because the advancement of obstetrics technologies made it possible to recognize the fetal life and because people tried to resolve the domestic problems arising through drastic social changes during the rapid economic growth period by attributing them to aborted babies. The majority of the head temples of Buddhist sects expressly offer memorial services for aborted babies. Many temples without places for memorial services for aborted babies also hold such services when requested. Thus, memorial services for aborted babies seem to generally prevail today.
著者
藤沢 敦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.441-458, 2009-03-31

日本列島で古代国家が形成されていく過程において,本州島北部から北海道には,独自の歴史が展開する。古墳時代併行期においては,南東北の古墳に対して,北東北・北海道では続縄文系の墓が造られる。7世紀以降は,南東北の終末期の古墳と,北東北の「末期古墳」,そして北海道の続縄文系の墓という,3つに大別される墳墓が展開する。南東北の古墳と,北東北の続縄文系の墓と7世紀以降の「末期古墳」の関係については,資料が豊富な太平洋側で検討した。墳墓を中心とする考古資料に見える文化の違いは,常に漸進的な変移を示しており,明確な境界は存在しない。異なる文化の境界は,明確な境界線ではなく,広い境界領域として現れる。このような中で,大和政権から律令国家へ至る中央政権は,宮城県中部の仙台平野以北の人々を蝦夷として異族視する。各種考古資料の分布から見ると,最も違いが不明確なところに,倭人と蝦夷の境界が置かれている。東北北部と北海道では,7世紀以降,北東北の「末期古墳」と北海道の続縄文系の墓という違いが顕在化する。この両者の関係を考える上で重要なことは,「末期古墳」が,北海道の道央部にも分布する点である。道央部では,北東北の「末期古墳」と強い共通点を持ちつつ,部分的に変容した墓も造られる。しかも,続縄文系の墓と「末期古墳」に類似する墓が,同じ遺跡で造られる事例が存在する。さらに,続縄文系の墓の中には,「末期古墳」の影響を伺わせるものもある。道央部では,「末期古墳」と続縄文系の墓は密接な関係を有し,両者を明確な境界で区分することは困難である。このような墳墓を中心に見た検討から見ると,異なる文化間の境界は,截然としたラインで区分できない。このことは,文化の違いが,人間集団の違いに,簡単に対応するものではないことを示している。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.249-268, 2008-12-25

近年、神社史研究が活発化しつつあるが、その分析対象となる多くの神社史料がもつ歴史的特徴や問題点について留意されることが少ない。そこで神社史料についての資料学的検討を行った。第一は、現存する神社や現任の神官層の保管下にある神社史料群はむしろ限定された文書群にすぎず、むしろより多くの関係史料群が社家文書として個人所蔵に帰しており散逸の危機に直面し、史料群の全体像はなお不明の状態のものが多いといわなければならない。社家文書の群としての全体的構造を理解することは、神社資料に対する史料批判を厳密にするうえで必要不可欠な作業である。第二に、個別神社史料群は、明治の廃仏毀釈によって仏事関係史料群が流出し、史料群の構成は大改変を受けている。そのため、現存史料群から描く神社史像は歴史実態から乖離してしまうという問題に直面することになる。改めて、廃仏毀釈の実態解明や旧聖教類の所在についての史料調査が重要な課題になっている。第三は、現存する神社史料群は、とくに近世・近代の神官層による神道書や縁起の編纂・改変という諸問題を抱えている。しかし、それらの解明は今後の課題であり、史料学的な問題点として論じられていない。神道史というものが近世国学や近代国家神道によって、「近代日本的な偏見」を受けていることが指摘されてきた。近世・近代の国家神道の下で神道書や神社史料がどのようなイデオロギー的変容を遂げたのかをあきらかにすることは、神社史料研究の一研究分野としなければならない。こうした神社史料ももつ諸問題や特質をトータルとして論じる多面的な資料学的研究が必要になっている。
著者
菊地 暁
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.141-172, 2011-03-31

従来の「民俗学史」が抱えてきた「柳田中心史観」「東京中心史観」「純粋民俗学中心史観」ともいうべき一連の偏向を打開すべく、筆者は「方法としての京都」を提唱している。その一環として本稿では国民的辞書『広辞苑』の編者・新村出(一八七六―一九六七)を取り上げる。新村は柳田国男と終生親交を結び続けたが、その学史的意義が正面から問われたことはこれまでなかった。その理由の一端は、両者の交流を跡づける資料が見つからなかったことによるが、筆者は、新村出記念財団重山文庫ならびに大阪市立大学新村文庫の資料調査から、柳田が新村に宛てた五〇通あまりの書簡を確認した。これらは便宜的に、a)研究上の応答、b)資料の便宜、c)運動としての民俗学、d)運動としての方言学、e)交友録、に区分できる。これらの書簡からは、明治末年から晩年に至るまで、語彙研究を中心とした意見交換がなされていること、柳田の内閣書記官記録課長時代に新村が資料閲覧の便宜を得ていること、逆に柳田が京大附属図書館長の新村に資料購入の打診をしていたこと、柳田が「山村調査」(一九三四―一九三六)の助成金獲得にあたり、新村に京大関係者への周旋を依頼していること、一九四〇年創立の日本方言学会の運営にあたって、研究会開催、学会誌発行、会長選考、資金繰りなど、さまざまな相談していること、等々が確認される。こうした柳田と新村の関係は、一高以来の「くされ縁」と称するのが最も妥当なように思われるが、その前提として、「生ける言語」への強い意志、飽くなき資料収集、言語の進歩への楽観、といった言語認識の基本的一致があることを忘れてはならない。さらには、二人の関係が媒介となって、京大周辺の研究者と柳田民俗学との交流が促進されたことも注目される。
著者
井上 隆弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.142, pp.257-291, 2008-03-31

近年、神楽祭儀の根底にある死霊祭儀としての側面に光があてられている。筆者も前著『霜月神楽の祝祭学』において、静岡県水窪町の霜月祭と呼ばれる湯立神楽の深層にある死霊祭儀としての性格について明らかにした。そうした知見をふまえるなら、同じく死霊祭儀としての性格をもつ念仏踊と神楽の比較研究は必須のものといわなければならない。本稿は、こうした立場から、水窪における霜月祭と念仏踊の祭儀の構造比較をとおして、両者に共通する死霊祭儀の特徴的な性格を明らかにし、三信遠における神楽や念仏踊の研究に資することを意図したものである。まず霜月祭についてみると、そこには特有な二重性が見られる。神名帳には一般の神々と区別される形で、ともすれば崇りやすい山や川などのさまざまなマイナーな神霊の名が挙げられ、また死霊の名が公然と記されているのが水窪の特徴である。また、この二重性は湯立や神送りの祭儀にも見られる。死霊を祀る湯立や死霊を送る神送り祭儀が、一般の神々のそれとは明確な区別をもって執行されているのである。念仏踊について見ると、霜月祭と同様の神名帳を読誦する大念仏などと称される踊りが行われるのが水窪の特徴である。新盆踊においては新霊供養の和讃が重視されるが、それ以外の施餓鬼踊、送り盆などでは神名帳を読誦する念仏のウエイトが高い。このように念仏踊は、神々を祀り鎮めるものでもあるのである。その神々のなかには、在地のマイナーな崇り霊とともに、さまざまな死霊も挙げられている。このように霜月祭と念仏踊でともに祀り鎮められる死霊のなかでもとくに重視されたのは禰宜死霊である。禰宜死霊は神名帳のなかでも特別の存在であり、念仏踊の送り盆においては、一般の死霊と区別される形で、まず最初に禰宜死霊が送られるのである。このような禰宜死霊の存在は、村社会における呪的カリスマとしての禰宜の存在の反映であった。禰宜はそのような存在として、さまざまな崇り霊を鎮めたり憑き物を落したりする祈祷を行い、村人の日常生活に欠かせない存在であったのである。このように禰宜死霊が特出した位置をもっているのが、水窪に代表される三信遠における死霊祭儀の特徴といえるであろう。
著者
吉水 眞彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.199-228, 2013-11-15

天智天皇の近江大津宮は667年,後飛鳥岡本宮から遷都され,5年数ヶ月を経た672年の壬申の乱によって廃都と化した短命の宮都である。7世紀代の宮都で大和以外の地へ宮都が移されたのは前期難波宮と大津宮だけである。その一つである大津宮跡は,現在,琵琶湖南湖南西岸の滋賀県大津市錦織に所在することが判明している。大津宮の実像を知るために宮の構造や白鳳寺院の実態,周辺の空間構造を発掘調査で確認された遺構や出土遺物である第一次資料を再評価することと新たな発掘資料も加えて検討した。その結果,大津宮の特殊性が見えてきた。すなわち,対高句麗外交や軍事上の拠点整備を推進するために陸上・湖上交通の整備に重心が置かれ,大津宮の形が短期間のうちに推進されていた点である。大津宮遷都前夜までの比叡山東麓地域は,渡来系氏族の大壁建物や掘立柱建物の集落が営まれ,また各氏族による穴太廃寺や南滋賀廃寺などの仏教寺院も建立されており,周辺には萌芽的な港湾施設も存在していたものと推定される。このように遷都を受け入れる環境が一定程度整備されていた地域に大津宮は移されたのである。そして遷都の翌年,錦織の内裏地区の北西方の滋賀里に周辺寺院の中では眺望の利く最も高所に崇福寺を新たに造営し,対照的に宮の東南方向の寺院の最低地にあたる現在の大津市中央三丁目付近の琵琶湖岸にほぼ同時期に大津廃寺を建立した。つまり崇福寺跡と大津廃寺は川原寺同笵軒丸瓦を共通して使用していることから,大津宮と密接な関係がみられ,前者には城郭的要素があり,後者には木津川沿いの高麗寺と「相楽館」のような関係を有する港湾施設を近隣に配置し,人と物の移動ための機動力を重視して造営された。これらに触発されたかのように周辺氏族は穴太廃寺の再建例にみられるように再整備を行なっている。このように大津宮の内裏地区や,大津廃寺を除いた仏教寺院は高燥の地に立地し,かつ正南北方位を意識した配置がみられるのに対して,木簡などを出土した南滋賀遺跡の集落跡などは低地に営まれ,かつ正南北方位を意識しない建物を構築している。おそらく内裏地区や白鳳寺院,諸機能を分担した各施設は整斉に計画され,その周辺には地形に左右された集落などが混在した空間を呈していたものと思われる。近江朝廷の内裏や寺院・関係施設などを短期間に新設し,ハード面を充実させていくにつれて渡来系集落的景観から大津宮の交通整備重視の未集住な空間へと変遷していったものと考えた。
著者
佐藤 孝雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.107-134, 1993-03-25

アイヌ文化の「クマ送り」について系統を論じる時,考古学ではこれまで,オホーツク文化期のヒグマ儀礼との関係のみが重視される傾向にあった。なぜならば,「アイヌ文化期」と直接的な連続性をもつ擦文文化期には,従来,ヒグマ儀礼の存在を明確に示し,かつその内容を検討するに足る資料が得られていなかったからである。ところが,最近,知床半島南岸の羅臼町オタフク岩洞窟において,擦文文化終末期におけるヒグマ儀礼の存在を明確に裏付ける資料が出土した。本稿では,まずこの資料を観察・分析することにより,当洞窟を利用した擦文文化の人々がヒグマ儀礼を行うに際し慣習としていたと考えられる6つの行為を指摘し,次いで,各行為について,オホーツク文化の考古学的事例とアイヌの民俗事例に照らして順次検討を行った。その結果,指摘し得た諸行為は,オホーツク文化のヒグマ儀礼よりも,むしろ北海道アイヌの「クマ送り」,特に狩猟先で行う「狩猟グマ送り」に共通するものであることが明らかとなった。このことは,擦文文化のヒグマ儀礼が,系統上,オホーツク文化のヒグマ儀礼に比べ,アイヌの「クマ送り」により近い関係にあったことを示唆する。発生に際し,オホーツク文化のヒグマ儀礼からいくらかの影響を受けたにせよ,今日民族誌に知られる北海道アイヌの「クマ送り」は,あくまでも北海道在地文化の担い手である擦文文化の人々によってその基本形態が形成されたと考えるべきである。
著者
坂井 久能
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.315-374, 2008-12-25

旧軍が軍用地または艦艇内に設けた神社を、営内神社・校内神社・艦内神社などと称した(以下、営内神社等と総称する)。営内神社等は、今まで殆ど顧みられず、研究もされてこなかった。それは何故なのか、という記録と記憶の問題ととともに、収集したデータから営内神社等とは何なのかという基本的・概略的な大枠を捉えようとしたものである。営内神社等は、法令上は神祠として扱われ、広義には軍施設内に設けられた神祠と定義することができる。稲荷神などを祀る事例が初期に散見することから、邸内神祠・屋敷神の性格を持つもので、艦内神社の船霊がそれに相当するであろう。しかし、やがてこの稲荷祠を天照大神などを祀る神祠に変えた事例が示すように、いわゆる国家神道下に天照大神や靖國神社祭神、軍神や殉職者などを祀る神祠に大きく変貌を見せるようになり、このような神祠が昭和に入ると盛んに創建された。後者を狭義の営内神社等とみることができる。その性格は多様である。戦死病歿者を祀った場合は、靖国神社・護國神社と共通する招魂社的性格をもちながらも、特に顕彰において役割の違いがあったと思われる。殉職者を祀った場合は、靖國神社と異なる招魂社的性格をもったものといえよう。神祇を祀り武運長久等を祈る守護神的な性格、敬神崇祖の精神を涵養し、神明に誓い人格を陶冶するいう精神教育の機能なども見られた。招魂社的な神祠も、慰霊・顕彰とともに、尽忠報国を誓う精神教育の役割を備えていた。また、営内神社等は近代の創建神社の範疇に入るべき性格や、海外の駐屯地に営内神社を遷座・創祀したことからは、海外神社に含めるべき性格ももっている。このように多様な性格を持つ営内神社は、軍が管理した神社として、近代の戦争と宗教を理解する上で極めて重要な神社であるといえる。今や数少なくなった軍の経験者の記憶の中から、また僅かに残された資料から、営内神社等とは何なのかを探る。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.1-17, 2003-10-31

本稿の目的は、近現代における女帝否認論の主要な根拠とされている「男系主義は日本古来の伝統」あるいは「日本における女帝の即位は特殊」という通説を古代史の立場から再検討することにある。女帝即位の要件として、即位年齢・資質・宮経営・経済的基盤・大王の嫡妻=大后制などの要素を再検討したうえで、性差や王権構造を組み込んだ女帝論が現在求められている。令制以前には現キサキと元キサキの区別が存在せず、そのうちで最上位の者を示す称号が「大后(オオキサキ)」であった。現大王即位による生母への追号が例外なく「皇太后(オオキサキ)」とされるのは、単なる令制の『日本書紀』への反映ではなく、実子の即位が最有力化の大きな条件であったからである。実子の即位により尊号は変化するものであり、『古事記伝』以来の嫡妻=大后から大御母への拡大という通説は疑問となる。ただし、大王と同じく大后の身分は終身であり、その死により入れ替わるので、元キサキが死没すれば現キサキのなかから大后(嫡妻)が二次的に出現する可能性は存在した。実子の即位という結果を重視して嫡妻の地位が遡って明確にされたのであり、欽明朝以降、生母・嫡子の関係が一つの血筋に限定化することによって王族の観念が歴史的に発生した。大后(現大王の実母)または皇祖母(皇統譜上の母)という王族内部における女性尊長としての立場と、キサキ宮経営の実績により、執政能力が群臣に承認されれば、次期大王の指名や一時的な大王代行を経ることにより、女帝の即位は、有力な王族たる大兄・皇弟が若年の場合より優先された。結論として「女帝中継ぎ説」の根拠は薄弱であり、「皇位継承上困難な事情」とは男性による即位ができないという以上の説明しかなされていない。性差や王権構造を組み込んだ女帝論ではなかった。草壁-文武-聖武と持統-元明-元正の即位は宣命や律令により同じレベルで正統化されており、父子継承のみを強調するのは一面的な評価と考えられる。
著者
相川 陽一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.169-212, 2019-03-29

成田空港の計画・建設・稼働・拡張をめぐって長期にわたって展開されてきた三里塚闘争は,学問分野を問わず,運動が興隆した時期の研究蓄積が薄く,本格的な学術研究は1980年代に開始され,未開拓の領域を多く残している。先行研究を概観すると,歴史学では近年の日本通史において戦後史の巻等に三里塚闘争に関する言及が複数確認でき,高度成長期における諸社会矛盾に異議を申し立てた住民運動の代表例や住民運動と学生運動の合流事例として位置づけられている。近年は,地域住民と支援者の関係に着眼して運動の歴史的推移を論じた研究も発表されている。だが,運動の盛衰と運動展開地域の政治経済構造の変容を関連づけた研究は手薄であり,地域社会の構造的把握と反対運動の歴史的推移の連接関係を明らかにする研究が必要である。そこで,本稿では,三里塚闘争に関する既存研究や既存の調査データの整理と検討を行った後に,空港反対運動の展開による地域社会構造の変容と空港開発の進行による地域社会構造の変容の2視点から,三里塚闘争の歴史的推移を跡づけた。反対運動が実力闘争化する1960年代末には,空港建設をめぐる衝突が繰り返されたが,同時期の運動展開地の議会において反対派が多くの議席を獲得するなど多様な抗議手段が試みられており,空港反対運動の開始以前から農民運動等の経験をもつ住民層が参画した。しかし,1970年代後半からは空港開発の進行とともに交付金や税収増などによる空港城下町化が進行し,地方議会選挙における多数の候補者擁立といった制度的資源を介した抗議が困難化する傾向も認めることができる。地域社会内の政治経済構造の変容をふまえた運動の歴史的推移をまとめた後には,空港建設にかかる利害を直接に共有しないにもかかわらず多数の支援者が参入した経過や支援者の動員構造を明らかにする課題が残されている。
著者
菱沼 一憲
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.147-165, 2014-01

上野国桐生下広沢村の彦部家の足利将軍家旧臣活動の分析を通じて、近世の身分制における由緒の機能を明らかにし、旧臣活動の背景にある社会運動を浮かび上がらせる。彦部家は同村の有力百姓で、村役人に任じられていた。しかし高階姓で、室町・戦国期には、足利将軍家の近習の武士として京都で活動し、戦国末期に同村へ土着したと伝える。戦国期、同地へ土着するに際し、戦国大名由良氏より広沢郷内に千疋を宛行われたという領主としての由緒、関ヶ原の合戦で旗絹・旗竿を献上したという桐生領五四ヶ村の由緒は、それぞれ村支配、絹織物産業を支える理論として機能した。いわゆる「家の由緒」「村の由緒」である。これに対して足利将軍家の旧臣として会津藩士坂本家と交流した活動は、その目的が必ずしも明確ではない。坂本家は足利義昭の曾孫で牢人であった義邵が、神道学・軍学・有職故実に通じて会津藩主保科正容に求められて同藩に仕官した。足利鑁阿寺がこの坂本家と、彦部家を仲介し旧臣関係が構築され、それにより御目見・御見舞・裃や感状の下賜・一字拝領といった恩賞給付がなされた。そもそも彦部家は、京都西陣から高度な織物の技術を導入し、また文芸の面では、江戸の国学者を桐生へ招き、また出府して中央の文化を吸収し、桐生国学を興隆させるなど、中央の文明・文化を積極的に導入・吸収することにより家の繁栄をもたらしてきたのである。坂本家との旧臣活動もまた、同家に蓄積されていた先進的で高度な文化に触れ、それに倣ってゆくことが一つの目的であったと考えられる。幕末期、彦部家は嫡子を幕臣とし、武家へ養子に入れており、同家が身分の上昇に執心していたことは明らかであるが、これを単に、幕藩体制での身分秩序を下支えするものと理解することは正しくない。武家による政治・経済・文化の一元的な独占体制への抵抗であり、独占されていたそれらを獲得してゆくという積極的な面を評価すべきである。こうした動向は、幕府支配体制の相対化という意味で、草莽運動と質的な共通性を見出すことができ、また彦部家のみならず東関東で広く確認される社会的動向といえる。Through an analysis of the activities of a former retainer of the Ashikaga Shogunate, the Hikobe family of Shimo-Hirosawa Village, Kiryu, Kozuke Province, this paper clarifies the importance of a family history in the early-modern class system, and brings to the fore a social movement that lay behind this former retainer family's activities.The Hikobe family were prominent and influential farmers in Shimo-Hirosawa village, and were appointed as village officials. According to legend, however, in the Muromachi and Warring States period, the family under the surname of Takashina served in Kyoto as attendants of the Ashikaga Shogunate family, and at the end of the Warring States period, the family settled in Shimo-Hirosawa village. The family history as feudal lords shows that in the Warring States period, they were granted the Senbiki area within the Hirosawa Village by the Yura warlord clan. In addition, the historical records of 54 villages in the Kiryu domain state that for the Battle of Sekigahara, the family presented flag silks and flagstaffs. These records are a so-called "family history" and "village history," and supported their right to rule the village, and control the silk textile industry. On the other hand, as a former retainer of the Ashikaga Shogunate family, the purpose of their fraternization with the Sakamoto family, who were Aizu domain retainers, is not exactly clear. With regard to the Sakamoto family, Yoshiaki, a wandering samurai and a great-grandchild of Yoshiaki Ashikaga, was finally accepted into government service in the Aizu domain. He was appointed by Masakata Hoshina, the lord of the domain, because of his good knowledge of Shinto studies, military science and tactics, and studies in ancient court and military practices and usage. Ashikaga Bannaji Temple acted as an intermediary between the Sakamoto family and the Hikobe family to establish a former retainer relationship, resulting in the granting of the following rewards: omemie ( privilege of having an audience with the shogun) , omimai ( visiting rights) , grant of kamishimo ( Edo-period ceremonial dress of the warrior class) and a letter of approval, and ichiji hairyo (receiving one character from their lord's personal name to be incorporated in their name) . Originally, the Hikobe family introduced advanced textile techniques and skills from Nishijin in Kyoto, and in the field of literary art, they invited scholars of the Japanese classics from Edo to Kiryu, and visited the capital to absorb its culture and to encourage the flourishing of the Japanese classics in Kiryu; they actively absorbed and introduced the civilization and culture of the capital and thus brought prosperity to the family. It can be considered that as a former retainer, one of the purposes for the Hikobe's activities with the Sakamoto family was to make contact with and follow their go-ahead and advanced culture. In the last days of the Tokugawa Shogunate, the heir of the Hikobe family became a vassal of the shogun, and also the heir of a samurai family. It is apparent that the family was devoted to improving their status in society; however, it is not correct if this is understood as simply providing support for the class system encouraged under the Shogunate administration. In fact, it was actually a form of resistance to the centralized exclusive system of politics, economy, and culture maintained by the samurai families, and it should be acknowledged that it was a positive aspect of this class trying to gain more control of these monopolized areas. For such trends, a qualitative commonness with the commoner movement can be found in the sense of relativization of the ruling system by the Shogunate, and it is also a social trend broadly confirmed in the East Kanto region as well as by the Hikobe family.