著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.136, pp.39-113, 2007-03-30

博多祇園山笠は福岡市博多区でおこなわれる伝統的な祭礼で、山笠という作り山を博多で運行させるものである。近世を通じて、この祭礼は永享四(一四三二)年に成立したとされていた。これが近世におけるこの祭礼の唯一の起源伝承であった。ところが明治二四(一八九一)年、博多承天寺の開山である鎌倉時代の禅僧、円爾弁円がこの祭礼を始めたとする起源伝承が創出された。この伝承はその後急速に受容され、また変容されていった。まず〈永享四年祇園山笠成立説〉を検討し、これがかなりの程度史実を反映していることを示した。次に承天寺が祇園山笠と関係をもつに至った理由を次のように推定した。延宝二(一六七四)年に福岡藩を襲った飢謹のさい、承天寺において大量の粥の施与が飢民にたいしてなされ、その謝恩として博多の住民が同寺に山笠を奉納するようになったと。しかしこの史実は江戸後期には忘却されており、理由のわからないまま山笠の奉納が続けられた。そこで明治二四(一八九一)年、円爾が山笠を発明したとする伝承が創出された。さらに、この〈円爾山笠発起説〉がどのように受容・変容されたのかを通時的に記述した。記述において明らかになった事柄のうち、重要な点は以下のとおりである。①伝統的な祭礼にたいして新たに創り出された起源伝承が既存の起源伝承に優越し、祭礼の歴史と祭礼集団の歴史を再構築した。②その時々の「現在の」「実際の」祭礼の様相が起源伝承に次々と投影されて伝承の内容を変容させていき、それによって起源伝承の内容はますます祭礼の現状に近づいていった。その結果、起源伝承を史実とする認識がさらに強まっていった。③起源伝承の文字化にさいしては、先行史料・資料の積極的な読み換えまたは非意図的な誤読が積み重なっている。
著者
松尾 恒一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.119-132, 2012-03-30

伝統的な木造船には一般に「船霊」と呼ばれる、船の航海安全や豊漁を祈願する神霊が祀られているが、琉球地域の木造船(刳り舟・サバニ・板付け舟、等)の船霊信仰には、姉妹を守護神として信仰するヲナリ神信仰の影響を受けている例が少なくない。このことは、すでに知られているが、本稿では、船の用材となる樹木に対する信仰に注目して、船の守護神としての女性神の信仰とのかかわりを考察する。船大工によって行われてきた伝統的な造船は、山中における樹木の伐採から始まり進水式をもって完成するが、その間、樹霊やこれとかかわる山の神に対する祭祀が重要な作法として行われる。これは奄美大島の事例であるが、八重山地域にまで目を広げれば、船の用材となる樹木を女性と認識しているものと認められる口頭伝承(歌謡)もあり、樹木に宿る樹霊と女性神との結びつきの強さが推測されてくる。ところで、船大工による伐木の際の、樹霊や山の神への断りの際には、斧のほか、墨壺・墨差し・曲尺などが重要な役割を果たす。これは、屋普請を行う大工も同様で、建築儀礼の際には山の神や樹霊に対する祭祀が重要視された。船大工や大工は、その職と関わる祭儀において職道具を祭具として用いたのであるが、ときにこれらの道具を用いて呪詛をおこなうなど、シャーマン的な呪力を発揮したりした。結びとして、こうした琉球地方の航海や船体にかかわる女性神や、造船の際の樹霊に対する信仰を、当地域との長い時代にわたる交流のあった大陸や台湾との習俗と比較した。台湾の龍船競争における媽祖信仰や、貴州省の苗族や台湾少数民族の造船儀礼など、松尾の調査した事例を中心にあげたが、今後の比較民俗に向けての視座を定めるための試論である。
著者
李 成市
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.201-219, 2015-03-31

平壌楽浪地区貞柏洞364号墳から出土した『論語』竹簡は,1990年に初元4年楽浪県別戸口簿木牘や「公文書抄本」と共に発見されたが,2009年に至るまで,その詳細な学術的な情報がなかったため研究対象になりえなかった。本稿は,まず貞柏洞364号墳出土の『論語』竹簡の基礎的なデータが公表に至る経緯を明らかにし,そのうえで,貞柏洞364号墳の性格や遺物から被葬者の性格を検討し,被葬者が現地出身の楽浪郡属吏であることを裏づけた。また,貞柏洞364号墳に副葬された『論語』竹簡については,発掘当初に撮影された2枚の写真と,さらに発掘に関わった機関の証言に基づきつつ,出土した『論語』竹簡は,写真での確認は先進31枚(557字),顔淵8枚(144字)に止まるが,元来,先進篇・顔淵2篇の全文120枚程度が存在したと推定される。被葬者と関わって重要な『論語』竹簡のテキストとしての特徴は,竹簡への書写は,章句の冒頭に黒点を示したり,章句の末尾を余白にしたりして章句と章句の間を区分させ,『論語』の文章を連続して記述していない点にある。中原の読書人とは異なり章句の冒頭を明示し,章句の末尾を空白にして文章の切れ目を明確にしたのは,そのようなテキストの読者のリテラシーの能力を反映していたと見ることができる。貞柏洞364号墳の被葬者が平壌地域の在地の伝統を継承する人物である事実を踏まえれば,貞柏洞364号墳出土『論語』竹簡は,朝鮮半島における漢字文化の受容を検討する際の重要な定点的な資料になりえる。
著者
山田 厳子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.205-224, 2011-03-31

「障害」をもつ子どもが、家に福をもたらすという、いわゆる「福子」「宝子」の「伝承」は、大野智也・芝正夫によって、民俗学の議論の俎上に載せられた。この「伝承」は、この著作以前には、ほとんど記述されていない「伝承」であった。そのため、一九八一年の国際障害者年を契機として、新たに「語り直された」「民俗」であるという批判があった。筆者は、さきに「民俗と世相―『烏滸なるもの』をめぐって―」と題する小稿の中で、このことばの「読み替え」は、「障害」を持つとされる「子ども」の保護者の間で、一九七〇年頃には既に起こっていたこと、問われるべきは、このようなことばが「伝承」として可視化され、語るに足るものとして捉えられるという、認識上の変化・変質の方ではないか、と論じた。本稿では、この問題の残された課題について検討した。まず、この本の作者の一人、芝正夫という人の研究の背景について示した。東洋大学で民俗学研究会に属し、卒業後、障害者福祉関係の仕事に就いていた芝は、「障害」を持つ子の親の手記から「福子」「宝子」ということばを知り、このことばのマイナスの語義を知りつつも、「障害」を持つ人々が地域に当たり前に暮らすことを可能にすることばとして、再生させようとした。その結果、このことばを「昔の人の知恵」「伝承」として、人々に提示してみせた。次に「障害者」としてラベリングされる以前に、「福子」や「宝子」ということばが、どのような文脈に置かれたことばだったのかを考察した。「障害者」という概念のもとに、集まってきたことばが、「愚か者」「役に立たない者」「家から独立できない者」という語義を持つことばであったことを示し、「障害者」とは別種のカテゴリーであったことを示した。これらのことを明らかにすることで、①「伝承」や「民俗」という枠組みを、目的のために戦略的に使う人物(芝 正夫)が民俗学的「知識」の形成に関与したこと、②「障害者」をめぐる認識のかわりめにあって、過去の別種のカテゴリーにあったことばが、かつての文脈を失って再文脈化したこと、を示した。
著者
藤本 誉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.204, pp.11-30, 2017-02

本稿は、室町後期(一五世紀後期)から織田権力期(一六世紀後期)までを対象として、堺における自治および支配の構造とその変容過程を検討したものである。当該期は中近世移行期として「荘園制から村町制へ」というシェーマが示されているように社会構造が大きく変容する時期である。堺においても堺南北荘の存在や、近世都市の基礎単位になる町共同体の成立が確認されており、これらの総体としての都市構造の変容の追究が必要であった。検討の結果、堺南北荘を枠組みとする荘園制的社会構造から町共同体を基盤とした地縁的自治構造が主体となる社会構造への移行が確認され、その分水嶺は地縁的自治構造が都市全体に展開した一六世紀中期であった。そしてこの時期に、そのような社会構造の変容と連動して支配権力の交代、有力商人層(会合衆)の交代といった大きな変化が生じ、イエズス会宣教師が記した堺の「平和領域性」や自治の象徴とされる環濠の形成は、当該期の地縁的自治構造(都市共同体)の展開が生み出したものであると考えられた。そして、様々な部位で変化を遂げながら形成された一六世紀中期の都市構造が、近世的都市構造として一六世紀後期以降に継承されていくと見通した。This paper examines the feudal and autonomous regimes and their shifts in Sakai from the late Muromachi period (the late 15th century) to the period of the ascendancy of Oda Nobunaga (the late 16th century). This century was a transitional period from medieval to early modern, when the social regime changed drastically, as represented by the shift from the manorial system to the township system. Likewise, in Sakai, it has been observed that after Sakaikita-shō and Sakaiminami-shō (Northern and Southern Sakai Manors) were established, township communities emerged as the basis of the early modern city. Thus, it is important to inquire into the process of changes in the municipal regime to reveal how these basic units were integrated and developed into a new municipal regime.The results of the analysis indicate a shift from a feudal regime based on the manorial system developed under the framework of Sakaikita-shō and Sakaiminami-shō to a society characterized by territorial autonomy based on township. The watershed in this shift was the spread of the autonomous territorial regime around the city in the mid-16th century. This shift in the social regime was accompanied by major changes, such as the change of authorities and the replacement of dominant merchants (egōshū). The development of the autonomous territorial units (town authorities) at that time also seems to have contributed to the construction of moats as a symbol of autonomy as well as the development of Sakai into a "place of peace," as a missionary of the Society of Jesus described it. Moreover, this analysis suggests that the municipal regime which had been established and changed in different ways in the mid-16th century formed the basis of the early modern municipal regime in the late 16th century and thereafter.
著者
岩淵 令治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.49-104, 2016-02-29

国民国家としての「日本」成立以降,今日に到るまで,さまざまな立場で共有する物語を形成する際に「参照」され,「発見」される「伝統」の多くは,「基層文化」としての原始・古代と,都市江戸を主な舞台とした「江戸」である。明治20年代から関東大震災前までの時期は,「江戸」が「発見」された嚆矢であり,時間差を生じながら,政治的位相と商品化の位相で進行した。前者は,欧化政策への反撥,国粋保存主義として明治20年代に表出してくるもので,「日本」固有の伝統の創造という日本型国民国家論の中で,「江戸」の国民国家への接合として,注目されてきた。しかし後者の商品化の位相についてはいまだ検討が不十分である。そこで本稿では,明治末より大正期において三越がすすめた「江戸」の商品化,具体的には,日露戦後の元禄模様,および大正期の生活・文化の位相での「江戸趣味」の流行をとりあげ,「江戸」の商品化のしくみと影響を検討した。明らかになったのは以下の点である。①元禄模様,元禄ブームは三越が起こしたもので,これに関係したのが,茶話会と実物の展示という文人的世界を引き継いだ元禄会である。同会では対象を元禄期に限定して,さまざまな事象や,時代の評価をめぐる議論,そして模様の転用の是非が問われた。ただし,元禄会は旧幕臣戸川残花の私的なネットワークで成立したもので,三越が創出したわけではなかった。残花の白木屋顧問就任や,三越直営の流行会が機能したこともあって,残花との関係は疎遠になる。元禄会自体は,最後は文芸協会との聯合研究会で終焉する。また,元禄ブーム自体も凋落した。②大正期の「江戸」の商品化に際しては,三越の諮問会である流行会からの発案で分科会たる江戸趣味研究会が誕生する。彼らは対象を天明期に絞り,資料編纂の上で研究をすすめ,「天明振」の提案を目指した。しかし,研究成果は生かされず,元禄を併存した形で時期・階層の無限定な江戸趣味の展覧会が行われる。そして,イメージとしての「江戸趣味」が江戸を生きたことの無い人々の中に定位することを助長した。「江戸」は商品化の中で,関東大震災を迎える前に,現実逃避の永井荷風の「江戸」ともまた異なった,漠然としたイメージになったのである。その後,「江戸趣味研究会」の研究の方向性は,国文学や,三田村鳶魚の江戸研究へと引き継がれていくことになった。
著者
山本 光正
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.82, pp.23-58, 1999-03-31

明治二二年に東海道線が開通すると、ほとんど同時にといってよいほど、人々は鉄道を利用するようになったと思われる。鉄道の出現により東海道の旅行も風情がなくなったという声が聞かれるようになるが、一方では鉄道は新しい風景を作り出したと評価する声もあった。しかし鉄道の是非とは関係なく、徒歩による長期の旅行を容認する社会ではなくなってしまった。鉄道旅行が当然のことになると、旧道特に東海道への回帰がみられるようになった。東海道旅行者には身体鍛錬を主とした徒歩旅行と、東海道の風景や文化を見聞しようとするものがおり、東海道を〝宣伝の場〟としても利用している。身体鍛錬の徒歩旅行は無銭旅行とも結びつくが、これは明治期における福島安正のシベリア横断や白瀬矗の千島・南極探検に代表される探検の流行と関連するものであろう。探検や無銭徒歩旅行の手引書すら出版されている。見聞調査は特に画家や漫画家を中心に行われた東海道旅行で、大正期に集中している。大正四年に横山大観・下村観山・小杉未醒・今村紫紅・同じ年に米国の人類学者フレデリック・スタール、年代不詳だが四~五年頃に近藤浩一路、七年に水島爾保布、七~八年頃に大谷尊由と井口華秋そして大正一〇年に行われた岡本一平を中心とする「東京漫画会」同人一八名の東海道旅行で一段落する。昭和に至り岡本かの子は短編『東海道五十三次』を発表するが、これは大正期における東海道旅行を総括するものとして位置付けられる。失われていくもの、大きく変りゆくものに対しては記念碑の如く回顧談的著作物が多く出版される。東海道線開通後旧東海道を歩くことが行われたのもこうした流れの中に位置付けることができるが、それだけでは理解しきれないものを含んでいた。さらに東海道旅行は昭和一〇年代の国威宣揚を意識した研究につながっていく。
著者
岩淵 令治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.249-292, 2015-02

近世後期には、公家の経済的困窮と需要層としての地方文人の展開による需給関係の成立、そしてその結果としてもたらされる「伝統」としての朝廷権威の浮上という重要な展開があった。雅楽についても、楽人組織が再興され、やがて上記の状況の中で、地方に雅楽が浸透していく。今日、無形文化財に指定された各地の神社の神事における舞楽についても、その維持や伝承過程を考える上で、近世の状況は看過することはできないであろう。こうしたいわば雅楽の普及において、楽人と人々をつなぐ重要な役割を果たしたものとして、本稿では楽器師に注目した。具体的には、京都の楽器師神田家をとりあげ、楽人の日記や地方文人の史料より、以下の点を明らかにした。①神田家は、楽人に職人・商人として出入し、これを基盤として公家、さらに一八世紀後半以降は恒常的に朝廷の保管する舞楽の道具の修理・新調を請け負った。さらに、近代に入ると、正倉院宝物の複製のほか、博覧会での雅楽器の展示など、明治の国民国家形成における国楽としての雅楽の再編や、「伝統」の再発見・輸出にかかわっていった。②こうした公家・朝廷への出入・御用関係を信用の源泉としながら、武家に出入するようになり、楽器の修理・購入や、楽人への入門を仲介した。さらに、神田家の顧客は地域を越えて各地の文人層におよび、彼らの楽人への入門の取次、楽器の供給と維持に大きな役割を果たした。なお、雅楽に限らず、公家の家職とその波及を考える際には、こうした道具にかかわる商人・職人が重要な存在だったと考える。③楽器の供給においては、とくに大名家を中心とする〝古楽器〟購入の仲介が注目される。その価格や鑑定について神田家の判断が大きく作用した。今日「伝統」を体現する〝古楽器〟は、江戸時代の楽器師によって「発見」されたものが少なくないといえる。In the late early modern era, there was a significant development in Japanese culture; the financial difficulties of Court nobles and the rise of provincial literati as consumers formed supply-demand relationships, leading to the restoration of the authority of the Imperial Court as a "tradition." The same went for Imperial Court music (gagaku), which spread to provinces as musician organizations were reviving. These movements in the early modern era are too important to ignore when examining the maintenance and transmission processes of Imperial Court music and dance performances (bugaku), which has now been designated as an intangible cultural asset and delivered in shrine ceremonies all over Japan.This article pays particular attention to musical instrument dealers, who played a critical role in the spread of Imperial Court music by connecting gagaku performers and other people. More specifically, this study focuses on the Kanda family, a musical instrument maker and dealer in Kyoto, and reveals the following three points by examining diaries of gagaku performers and documents of provincial literati.1. As craftsmen and merchants, the Kanda family often visited performers. Based on the relationships, the family expanded their customer base to include Court nobles, and by the late 18th century, they had become a regular trader to repair and replace the musical and dancing instruments held by the Imperial Court. In the modern era, they became involved in the reorganization of Imperial Court music as national music and the rediscovery and export of "tradition" during the nation state building process by the Meiji government, such as reproducing Shosoin treasures and displaying Imperial Court musical instruments at exhibitions.2. Then, based on the trust built through business relationships with the Imperial Court and Court nobles, the family established connections with samurai families to sell and repair musical instruments while acting as an intermediary to help their customers hire musicians as trainers. The family's customer base even included the literati class, throughout Japan regardless of location, for whom they played an important role. The family not only supplied and maintained musical instruments but also helped literati find musicians to learn from. This study considers that instrument craftsmen and merchants were essential for Court nobles to operate and expand their family businesses, which did not apply only to Imperial Court music.3. In relation to the supply of musical instruments, it is worth paying attention to the brokerage of period instruments, which were mainly sold to daimyo families. The appraisals and prices of such antiques were influenced by the opinions of the Kanda family. Many of period instruments that embody "tradition" in today's world were "discovered" by musical instrument dealers in the Edo period.
著者
千田 嘉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.163-183, 1991-11-11

中世城館の調査はようやく近年,文献史学,歴史地理学,考古学など,さまざまな方法からおこなわれるようになった。こうした中でも,城館遺跡の概要をすばやく,簡易に把握する方法として縄張り調査は広く進められている。縄張り調査とは地表面観察によって,城館の堀・土塁・虎口などの防御遺構を把握することを主眼とする調査をいう。そしてその成果は「縄張り図」にまとめられる。このような縄張り調査は,長らく在野の愛好家によって支えられてきたため,調査の基準が不統一である。そこで本稿では,縄張り調査の意義と方法を具体的に検討した。その結果,縄張り調査は測量調査や発掘調査がおこなわれる前の,仮説的な作業としてすべきであることを示した。縄張り調査と測量・発掘調査はそれぞれ段階の違う,補い合う調査だと位置づけられる。つぎに,基準となり得る縄張り調査の方法を提示した。ここでは正確な地形図をベースに作図すること,簡易測量器や歩測などで測距を必ずすること,遺構理解のポイントになる虎口などを詳細に観察することを述べた。また成果図面の浄書など作業は,考古学の手法に従ってすべきことを述べた。そして縄張り図を地域史解明の史料として活用する方法として,織豊系城郭の虎口を中心にした編年を事例に,考え方と作成のプロセスを示した。これからの縄張り研究は,城館研究を推進するさまざまな他の研究方法との協業を,一層推進しなくてはならない。その中で縄張り調査は,城館の防御性から中世社会を解明するという視点を,より鮮明にして研究を深化させるべきである。それがはじまりつつある,総合的な城館研究の中で,縄張り研究が果たすべき役割である。それぞれの研究分野から,異なる城館像を出し合い,討議することで,多様な面をもつ中世城館は,はじめてその姿を現わすであろう。
著者
吉川 昌伸
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.81, pp.267-287, 1999-03-31

約12,000万年前以降の関東平野の層序と環境変遷史を検討し,変化期について考察した。完新世の有楽町層は,下部層は主に縄文海進期の海成層から,上部層は河成ないし三角州成堆積物から構成されるが,台地の開析谷内では上部層形成期にはふつう木本泥炭層が形成され,弥生時代以降に主に草本泥炭層に変化した。沖積低地では約4,000年前と約2,000年前には海水準の低下により浅谷が形成された。約12,000年前,冷温帯ないし亜寒帯性の針葉樹と落葉広葉樹からなる森林が,コナラ亜属を主とする落葉広葉樹林に変化した。クリは,約10,500年前以降に自然植生として普通に分布し,縄文中期から晩期(約5,000~2,150年前)には各地で優勢になった。クリ林の拡大が海退と関係することから,環境変化に起因して起こった人為的な変化と推定した。照葉樹林は,房総半島南端では約7,000年前に既に自生し,奥東京湾岸で約7,500年前に,東京湾岸地域の台地で約3,000年前に拡大したが,内陸部では落葉広葉樹林が卓越した。照葉樹林の拡大が関東平野南部から北部,沿岸域から内陸部へと認められたことから,海進による内陸部の湿潤化が関係すると考えた。スギ林は南関東では約3,000年前までに拡大し,その後北部に広がった。照葉樹林やスギ林は,弥生時代以降には内陸部の武蔵野台地や大宮台地,北関東でも拡大が認められたが,これら森林の拡大には生態系への人間の干渉も関係した。また,丘陵を主とするモミ林の拡大は古墳時代頃の湿潤化に起因して,マツ林は特殊な地域を除いては14~15世紀以降に漸増し18世紀初頭以降に卓越した。こうした関東平野の沖積低地の層序や植物化石群に基づき,約12,000年前以降にPE,HE1,HE2,HE3,HE4,HE5各期の6つの変化期を設定した。各変化期は,陸と沖積低地の双方で起こった変化であることを明らかにした。
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.167, pp.127-142, 2012-01-31

漁村から町場や農村への魚行商は、交易の原初的形態のひとつとして調査研究の対象となってきた。しかし、それらの先行研究は、近代的な交通機関発達以前の徒歩や牛馬による移動が中心であり、第二次世界大戦後に全国的に一般化した鉄道利用の魚行商については、これまでほとんど報告されていない。本論文では、現在ほぼ唯一残された鉄道による集団的な魚行商の事例として、伊勢志摩地方における魚行商に注目し、関係者への聞き取りからその具体像と変遷を明らかにすると同時に、行商が果たしてきた役割について考察を試みた。三重県の伊勢志摩地方では、一九五〇年代後半から近畿日本鉄道(以下、近鉄)を利用した大阪方面への魚行商が行われるようになった。行商が盛んになるに従って、一般乗客との間で問題が生じるようになり、一九六三年に伊勢志摩魚行商組合連合会を結成、会員専用の鮮魚列車の運行が開始される。会員は、伊勢湾沿岸の漁村に居住し、最盛期には三〇〇人を数えるほどであった。会員の大半を占めるのは、松阪市猟師町周辺に居住する行商人である。この地域は、古くから漁業従事者が集住し、戦前から徒歩や自転車による近隣への魚行商が行われていた。戦後、近鉄を使って奈良方面へアサリやシオサバなどを売りに行き始め、次第にカレイやボラなどの鮮魚も持参して大阪へと足を伸ばすようになった。それに伴い、竹製の籠からブリキ製のカンへと使用道具も変化した。また、この地区の会員の多くは、大阪市内に露店から始めた店舗を構え、「伊勢屋」を名乗っている。瀬戸内海の高級魚を中心とした魚食文化の伝統をもつ大阪の中で、「伊勢」という新たなブランドと、当時まだ一般的でなかった産地直送を看板に、顧客の確保に成功した。そして、より庶民的な商店街を活動の場としたことにより、大阪の魚食文化に大衆化という裾野を広げる役割をも果たしたのではないかと考えられる。
著者
宮田 公佳 竹内 有理 安達 文夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.321-352, 2003-10-31

今日,わが国においても観客の視点に立った博物館運営の重要性が認識されつつある。それを実現するには,観客の側からみた博物館の評価が欠かせないものとなる。これまで以上に観客について知ること,来館者の博物館体験について知ることが求められており,国立歴史民俗博物館においても,観客調査を試み始めている。本論文では,当館で実施している様々な観客調査の中から来館者の観覧行動を分析した調査を取り上げ,その結果について報告する。観覧行動の具体的な調査方法と分析方法について検討を行い,来館者の見学順路,各展示室の在室時間および在館時間,そして展示室別入室者数の時間的推移を定量的に分析することによって,博物館の建物の構造や展示室の配置が来館者の観覧行動に与える影響などを明らかにした。
著者
平川 南
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.5-24, 1996-02-29

近年、古代史研究の大きな課題の一つは、各地における地方豪族と農民との間の支配関係の実態を明らかにすることである。その末端行政をものがたる史料として、最近注目を集めているのが、郡符木簡である。郡司からその支配下の責任者に宛てて出された命令書である。この郡符木簡はあくまでも律令制下の公式令符式という書式にもとづいているのである。したがって、差出と宛所を明記し、原則として律令地方行政組織〔郡―里(郷)など〕を通じて、人の召喚を内容とする命令伝達が行われるのであろう。これまでに出土した一〇点ほどの郡符木簡はいずれも里(郷)長に宛てたもので、例外の津長(港の管理責任者)の場合は個人名を加えている。このような情況下で新たに発見された荒田目条里遺跡の郡符木簡(第二号木簡)は、宛所が「里刀自」とあり、三六名の農民を郡司の職田の田植のために徴発するという内容のものである。まず第一に、刀自は、家をおさめる主人を家長、主婦を家刀自とするように、集団を支配する女性をよぶのに用いている。宛所の里刀自は、上記の例よりしても、本来の郡―里のルート上で理解するならば、里を支配する里長の妻の意とみなしてよい。第二には、行政末端機構につらなり、戸籍・計帳作成や課役徴発を推進する里長と、在地において農業経営に力を発揮する里長の妻=里刀自の存在がにわかにクローズアップされてきたと理解できるであろう。これまで里刀自に関する具体的活動の姿は皆無であっただけに、今後、女性と農業経営の問題を考察する格好の素材となると考えられる。

3 0 0 0 OA 熊祭りの起源

著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.57-106, 1995-03-31

熊祭りは,20世紀にはヨーロッパからアジア,アメリカの極北から亜極北の森林地帯の狩猟民族の間に分布していた。それは,「森の主」,「森の王」としての熊を歓待して殺し,その霊を神の国に送り返すことによって,自然の恵みが豊かにもたらされるというモチーフをもち,広く分布しているにもかかわらず,その形式は著しい類似を示す。そこで人類学の研究者は,熊祭りは世界のどこかで一元的に発生し,そこから世界各地に伝播したという仮説を提出している。しかし,熊祭りの起源については,それぞれの地域の熊儀礼の痕跡を歴史的にたどることによって,はじめて追究可能となる。熊儀礼の考古学的証拠は,熊をかたどった製品と,特別扱いした熊の骨である。熊を,石,粘土,骨でかたどった製品は,新石器時代から存在する。現在知られている資料は,シベリア西部のオビ川・イェニセイ川中流域,沿海州のアムール川下流域,日本の北海道・東北地方の3地域に集中している。それぞれの地域の造形品の年代は,西シベリアでは4,5千年前,沿海州でも4,5千年前,北日本では7,8千年前までさかのぼる。その形状は,3地域間では類似よりも差異が目につく。熊に対する信仰・儀礼が多元的に始まったことを示唆しているのであろう。その一方,北海道のオホーツク海沿岸部で展開したオホーツク文化(4~9世紀)には,住居の奥に熊を主に,鹿,狸,アザラシ,オットセイなどの頭骨を積み上げて呪物とする習俗があった。それらの動物のうち熊については,仔熊を飼育し,熊儀礼をしたあと,その骨を保存したことがわかっている。これは,中国の遼寧,黄河中流域で始まり,北はアムール川流域からサハリン,南は東南アジア,オセアニアまで広まった豚を飼い,その頭骨や下顎骨を住居の内外に保存する習俗が,北海道のオホーツク文化において熊などの頭骨におきかわったものである。豚の頭骨や下顎骨を保存するのは,中国の古文献によると,生者を死霊から護るためである。オホーツク文化ではまた,サメの骨や鹿の角を用いて熊の小像を作っている。熊の飼育,熊の骨の保存,熊の小像は,後世のアイヌ族の熊送り(イヨマンテ)の構成要素と共通する。熊の造形品は,オホーツク文化に先行する北海道の続縄文文化(前2~7世紀)で盛んに作っていた。続縄文文化につづく擦文文化(7~11世紀)の担い手がアイヌ族の直系祖先である。彼らは,飼った熊を送るというオホーツク文化の特徴ある熊祭りの形式を採り入れ,自らの発展により,サハリンそしてアムール川下流域まで普及させたことになろう。それに対して,西シベリアでは,狩った熊を送るという熊祭りの形式を発展させていた。そして,長期にわたる諸民族間の交流の間に,熊祭りはその分布範囲を広げる一方,そのモチーフは類似度を次第に増すにいたったのであろう。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.1-15, 2003-10-31

これまで,一般的に縄文時代の家畜はイヌのみであり,ブタなどの家畜はいないと言われてきた。しかし,イノシシ形土製品やイノシシの埋葬,離島でのイノシシ出土例から縄文時代のイノシシ飼育が議論されてきた。イノシシ飼育の主張でもっとも大きな問題点は,縄文時代のイノシシ骨に家畜化現象が見られなかったことである。ところが縄文時代のイノシシ骨の中にも家畜化現象と疑われる例があることが分かった。また,イノシシがヒトやイヌと共に埋葬されている例が知られるようになり,改めてイノシシについてヒトやイヌとの共通性を議論する必要が出てきた。そこで,本論では千葉県茂原市下太田貝塚出土資料を紹介するとともに,イノシシ形土製品・イノシシ埋葬・離島のイノシシ・骨格の家畜化現象の4項目について再検討した。その結果,文化的要素からみれば,縄文時代中期以降にブタが飼育されていたことはほぼ確実である。また,離島への持ち込みという文化的項目と骨格の家畜化現象の点から見ると,縄文前期からすでにブタが飼育されていた可能性が大きいことが分かった。しかし,縄文時代のブタは,骨格的変化が小さいことから,野生イノシシと家畜のブタが交雑可能な程度のかなり粗放的な飼育であったと推測された。ブタの存在がほぼ確実になったことは,縄文時代が単純な狩猟・漁労・採集経済ではなく,イヌとブタを飼育し,ある程度の栽培植物を利用する新石器文化であったことを意味するものである。