著者
平井 一臣
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.11-37, 2019-03-29

1965年4月に発足したベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は,戦後日本における市民運動としての反戦平和運動の展開のなかで大きな役割を果たした。このベ平連の運動を牽引した知識人が,ベ平連の「代表」となった小田実だった。これまでのベ平連研究のなかでも小田の思想と行動はしばしばとり上げられてきたものの,彼がベ平連に参入した経緯や,難死の思想や加害の論理という小田の思想の形成のプロセスについては,依然として未検討の部分が残されている。本稿では,企画展「『1968年』無数の問いの噴出の時代」に提供された資料のなかのいくつかも利用して,ベ平連に参入するまでの小田の行動の軌跡,ベ平連発足時の小田起用の背景,難死の思想と加害の論理の形成のプロセスや両者の関係といった問題を検討する。このような問題意識の下に,本稿ではまず小田の世代的な特徴(「満州事変の頃」に生まれた世代)に着目したうえで,この世代特有の経験と結びつきながら難死の思想がどのように形成されたのか,その軌跡を明らかにする。次に,ベ平連発足に際しての小田の起用について,小熊英二や竹内洋に代表される従来の説明を検討し,ベ平連の代表として「小田実か石原慎太郎か」という選択肢は存在しなかったこと,60年代前半の小田の言論活動の軌跡は戦闘的リベラルに近づく軌跡であり,ベ平連に結集した知識人のなかでの小田に対する一定の評価が存在していたこと,などを明らかにする。さらに,これまで1966年の日米市民会議と結びつけて説明されてきた小田の加害の論理について検討する。実は,加害の論理はベ平連参加以前の段階で小田の問題意識のなかに存在していたが,むしろ回答困難な課題と小田は捉えていたこと,この問題に小田が積極的に向き合うきっかけとなったのが沖縄訪問での経験であったこと,そして加害の論理は当時の小田特有の考え方というよりも,当時の運動のなかで練り上げられていったものであったこと,などを明らかにする。
著者
榎村 寛之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.134, pp.27-46, 2007-03-30

宝亀三年(七七二)、光仁天皇の皇后井上内親王が天皇を呪誼した罪で廃された。この事件は有名ではあるが、これまでは単なる政治闘争の一形態として理解されてきた。先帝で、井上の姉妹の称徳天皇は、女帝であることを除けば、最も律令制的な手続きを踏んで即位した天皇であった。しかも皇后的な権威をも有し、武力で復位しており、さらに出家者であったため仏法主導の元で神々が王権を守護するというイデオロギーで支えられていた。彼女は権力そのものの象徴であり、男女を超え、律令体制下で天皇権力の専制性を究極にまで押し進めたと理解できる。光仁天皇・井上皇后段階の政治課題は、天皇を、どのように律令体制下に位置づけなおすか、ということであった。しかし光仁天皇は、聖武天皇の娘である井上の婿として即位しており、その没後には、井上が皇太后臨朝、または即位する可能性があった。そして井上には、元・斎王という経歴があり、伊勢神宮と深い関係を持っていた。井上の皇后在位期に、斎王が未定のままで称徳朝に途絶していた斎宮が造営されたが、この斎宮の、斎王の住む内院は、一つの区画の中で塀によって区分された生活空間と儀礼空間で構成されており、周辺に未整理の付属施設を伴った宮殿的な施設であった。続く桓武天皇段階の斎宮では、官衙区画を構成する方格地割の設計が優先され、内院は区画の中に組み込まれる。この改造では、長岡京の造営を意識しつつ、儀礼環境の整備、確立と継承など、斎王の権威より斎宮の都市化、定型化を押し進めたもので、「システムとして受け継がれるべき斎宮と斎王」へと転換したと考えられる。このように井上は「元・斎王」の皇后として、伊勢神宮を背景に特殊な権力を有しており、もし即位することがあれば、再び聖俗混交した専制王権が復活する可能性が高かった。井上廃后事件は、こうした「皇后」「女帝」「斎王」の権力を無化するために行われたイデオロギー闘争だったのである。
著者
井上 智勝
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.269-287, 2008-12-25

本稿は、近世における神社の歴史的展開に関する通史的叙述の試みである。それは、兵農分離・検地・村切り・農業生産力の向上と商品経済の進展など中世的在り方の断絶面、領主による「神事」遂行の責務認識・神仏習合など中世からの継承面の総和として展開する。一七世紀前半期には、近世統一権力による社領の没収と再付与、東照宮の創設による新たな宗教秩序の構築などが進められ、神社・神職の統制機構が設置され始めた。兵農分離による在地領主の離脱は、在地の氏子・宗教者による神社運営を余儀なくさせ、山伏など巡国の宗教者の定着傾向は神職の職分を明確化し、神職としての自意識を涵養する起点となった。一七世紀後半期には、旧社復興・「淫祠」破却を伴う神社および神職の整理・序列化が進行し、神祇管領長上を名乗る公家吉田家が本所として江戸幕府から公認された。また、平和で安定した時代の自己正当化を図る江戸幕府は、国家祭祀対象社や源氏祖先神の崇敬を誇示した。一八世紀前半期には、商品経済が全国を巻き込んで展開し、神社境内や附属の山林の価値が上昇、神社支配権の争奪が激化し始める。村切りによって、荘郷を解体して析出された村ではそれぞれ氏神社が成長した。また、財政難を顕在化させた江戸幕府は、御免勧化によって「神事」遂行の責務を形骸化させた。一八世紀後半期には、百姓身分でありながら神社の管理に当たる百姓神主が顕在化した。彼らを配下に取り込むことで神職本所として勢力を伸ばした神祇官長官白川家が、吉田家と対抗しながら配下獲得競争を展開し、復古反正の動向が高まる中、各地の神社は朝廷権威と結節されていった。また、神社は様々な行動文化や在村文化の拠点となっていた。明治維新に至るまでの一九世紀、これらの動向は質的・量的・空間的に深化・増大・拡大してゆく。近代国家は、近世までの神社の在り方を否定してゆくが、それは近世が準備した前提の上に展開したものであった。
著者
北條 勝貴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.72, pp.41-80, 1997-03-28

古代最大の規模を有する氏族の1つである秦氏については,現在,各集団における在地的特徴・個別的性格の解明が要請されている。そのための方法として,氏族の有する歴史性――文化全般の蓄積が顕著に反映される,種々の氏神に対する信仰形態の検討が重要視される。山背国葛野郡を本拠とする秦氏の集団は,古来同氏族の族長的地位を保持してきた。その勢力範囲には幾つかの神社が存在するが,中でも松尾大社は隣接する愛宕郡の賀茂社に並ぶ巨大勢力を築いており,その創祀や信仰の展開には注意を要する。同社の祭神には2柱あり,大山咋神と市杵嶋姫命という男女の神とされている。前者は秦氏渡来以前より同地に奉祀されていた農業神らしいが,後者は筑前国宗像郡に鎮座する胸肩君の氏神――宗像三女神の1神で,元来沖ノ島にあって渡来人や海人集団から特別な崇拝を受けた海洋神であった。松尾大社の周辺に立地する葛野坐月読神社や木嶋坐天照御魂神社も,それぞれ玄界灘に由来し,海人系の壱岐氏・対馬氏によって奉祀されていた神格である。その分祀は,渡来人や海人集団の移動に伴うものと考えざるをえない。海岸部から内陸部へ,北九州地域から畿内諸国への海人集団の東遷は,考古学的にもある程度立証されている。それは彼らの主体的行動に基づく場合もあるが,多く5世紀後半以降は,半島との交通権・制海権を掌握・独占しようとするヤマト王権によって促進された。半島よりの秦氏の渡来も,そのような社会状況を背景に移動と停留を繰り返しつつ,海人集団との繋がりを持って行われたものと推測される。松尾大社に鎮座する市杵嶋姫命も,胸肩氏と血縁的・文化的に接触した秦氏の1集団により,玄界灘より分祀されてきたものと想定される。元来松尾山には大山咋神と一対の普遍的女性神(神霊の依代たるタマヨリヒメ)が祀られており,市杵嶋姫命はその神格に重複し限定を加える形で鎮座したものであろう。

4 0 0 0 OA 夢とまじない

著者
花部 英雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.57-67, 2012-03-30

四五〇〇もの俗信を集めた「北安曇郡郷土誌稿」は、日本の俗信研究の先駆けとなる資料集である。その中の「夢合せ」の項に二〇〇ほどの夢にかかわる俗信がある。まずはこの俗信のうち「夢の予兆」にあたる内容を分析し、民俗としての夢の一般的傾向を明らかにする。次に、「夢の呪い」について、夢を見る以前、以後とに分けてその内容を検討し、夢をどのように受けとめ、それに対応しているかを確認する。さらに呪いのうち韻文形式をとる三首の歌を話題にして、全国的事例からその内容、意味を分析する。そして、この呪い歌の流通の背景に専門の呪術者の関与があることを例証し、呪術儀礼の場で行なわれ、やがて民間に降下してきたことを跡づける。続いて、呪文の「悪夢着草木好夢滅珠玉」を話題にする。福島県の山都町史に悪夢を見た朝、北に向かい「悪夢ジャク、ソラムク、コウムジョウ」と三回唱えればよいという。前述の呪文を耳に聞いた形で伝えてきたものと思われる。この呪文が求菩提山修験の符呪集にあり、修験山伏がこの祈祷にかかわってきたことがわかる。同じ呪文が、陰陽道系の呪術を記した南北朝時代の『二中歴』にあり、ここでは人形に悪夢を付着させて水に流したり、焼却したりする作法が記されている。宮廷の陰陽道儀礼の中で、「悪夢は草木に着け」の呪文が唱えられてきたのであろう。平安時代の『簾中抄』や『口遊』では、桑の木に悪夢を語るとある。なぜ桑の木に悪夢を語るのが悪夢祓いになるのか。現行の民俗を見ていくと、奄美のクチタヴェ(呪文)に好い夢は残り悪い夢は草の葉に止まれというのがある。また、南天に夢を語り、揺するという例もある。南天は「難転」の語呂合せであり、さまざまな呪術儀礼に用いられるが、古くは桑が悪夢消滅の草木であった。桑は蚕の食物であり、悪夢を桑の葉に付着させ、蚕に食べてもらうことで悪夢を消滅させるというのがその原義にあったのではないか、というのが本稿の結論となる。
著者
福島 雅儀
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.172, pp.357-414, 2012-03-30

縄文時代中期から後期に移る期間,土器型式で4型式程度である。土器編年の相対的時間からみれば短い時間幅である。ところが炭素年代測定による絶対年代によれば,それは500年以上の時間であるという。これが正しいとすれば,これまでの考古学的解釈は大きく見方を変えなくてはならなくなった。そこで小論では,阿武隈川上流域の柴原A遺跡と越田和遺跡の発掘調査成果をもとに当時の集落変化について考えてみた。縄文時代中期末葉の集落の中心施設は,複式炉をともなう竪穴住居である。このほか水場遺構と土器棺墓が検出される程度である。後期初頭には,石囲炉をともなう4本主柱の竪穴住居が造られ,屋外土器棺墓が増加する。また掘立柱建物も受容される。続いて,掘立建物が増加するとともに,柄鏡形敷石住居・石配墓も導入される。さらに後期前半でも新しい段階の柴原A遺跡では,平地式敷石住居,広場,石列,石配墓群,焼土面による集落に変化した。東北地方に広く分布するとされた複式炉も,上原型に限定するとそれは阿武隈川上流域から最上川上流域,阿賀川流域に特徴的な炉であった。また石囲炉を伴う4本柱穴の住居は,阿武隈川上流域に限定的に分布している。敷石住居においても,柄鏡の柄が大きく発達した平地式敷石住居は,やはり阿武隈川上流域を主な分布圏としている。そして,集合沈線による地域色を持った土器が作られている。阿武隈川上流域は,仙台湾沿岸地域と関東平野を結ぶ通路ではあったが,この時期,南北の両地域とは異なる特異な生活様式を創造していたといえよう。また,この期間土器型式が連続していた遺跡でも,営まれた集落は断続をくり返していた。集落の規模も20名程度であった。大規模に見えた集落も小集落の重複による累重の結果であった。
著者
安室 知
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.181, pp.165-204, 2014-03

人は自然をいかに認識するか。また,その認識のあり方は,人と自然との関係のなかでどのような意味を持つのか。人が自然物を眺めるとき,その眼差しは多様である。そのなかでも分類と命名のあり方は,もっともストレートに人がいかに自然を認識し,また利用してきたかを表すことになろう。本論文は,古くから高い商品価値を持ち続ける貝=アワビに注目して,分類・命名のあり方とその変遷を通して民俗分類の持つ文化的意味を考察し,それが現代生活といかに関わるのかを明らかにすることを目的としている。一言でいえば,生活文化体系における民俗分類の存在意義を問うことである。「学名」や「標準和名」のような生物学的なレベルの命名体系とは別に,「地方名」がある。従来,民俗分類の研究ではこの地方名が分析対象とされてきた。しかし,魚が自然界から人の手に渡って以降,商品として流通する段階でも,実はさまざまに分類・命名がなされている。それが「市場名」と「商品名」である。これまで民俗分類の研究において市場名や商品名が注目されることはなかった。しかし,現代を射程に入れた民俗研究をおこなうとき経済活動の中でどのような論理のもと分類・命名され,消費者の段階に至るのかという問題は避けて通ることはできない。調査地の佐島(神奈川県横須賀市)では,通常,ケー(貝)というとアワビを指す。また,それはナミノコ→ケーという2段階の成長段階名を持つ。さらにケーはクロッケ,マタケェ,マルッケという3種に民俗分類される。この民俗分類は生物学に基づく種の分類と一致する。こうした佐島漁師におけるアワビの分類・命名のあり方は地域の生活文化体系を反映し,かつそれ自体を構成する主な要素でもあった。それに対して,漁業協同組合や市場における分類・命名のあり方は,市場名・商品名として示されることになる。市場名・商品名は伝統的な漁師の分類・命名のあり方を受け継ぎながらも,漁協の販売戦略,流通上の便宜,仲買側の要請また消費者の嗜好といったことを受けて商業性を強く反映したものに変化していく。そのときその変化は,商品として消費者に誤解のないよう,より汎用性のある分類・命名に統一される傾向にあった。しかし,それと同時にブランド化のような差別化を図るなど,分類・命名はより細分化・複雑化される傾向も認められることが分かった。How do people recognize nature? What does the recognition mean in the relationship between nature and man? People have diverse viewpoints when they see natural objects. Especially, how to classify and name them may show in the simplest way how people have recognized and exploited nature.This paper investigates the realities and changes of grouping and naming of natural objects, mainly abalone and a shellfish that has been regarded highly valuable for a long time, to examine the cultural meaning of folk taxonomy. Moreover, this study is aimed at revealing how they are related to the modern life. In one word, the objective of this study is to assess the significance of folk classification in life and cultural systems.In addition to biological names such as scientific names and standard Japanese names, there are regional names, on which the studies of folk taxonomy have focused. On the other hand, there are a variety of classifications and names used in the commercial distribution stage after fish are transferred from nature to man. They are regarded as market names or commercial names. Although the studies of folk taxonomy have paid little attention to them, investigating how fish are classified and named through economic activities by the time they are delivered to consumers is essential for the folklore studies that also cover modern times.In the research target area, Sajima (Yokosuka City, Kanagawa Prefecture), "kê (kai)" usually means abalone. It has two different names, naminoko and kê, according to its stage of growth. Moreover, according to folk taxonomy, kê is further classified into three types: kurokke, matakê, and marukke. This classification agrees with biological taxonomy.The grouping and naming of abalone by Sajima fishermen reflect their life and cultural systems as well as constitute them. On the other hand, the classification and naming by fisheries cooperatives and markets are used for market or commercial names. While following traditional classifications and names by fishermen, market and commercial names have been established after changes that clearly reflect commerciality such as sales strategies of fisheries cooperatives, convenience in the distribution system, needs of brokers, and preference of consumers. There has been a tendency that more versatile grouping and naming methods that are easy for consumers to understand can survive the changes. It is discovered, however, that at the same time, they also tend to become more fractionated and complicated for differentiation and branding purposes.
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.293-303, 2015-02

地域の開発に際して文化をどのように位置づけ、利用するか、という問題は実は言語戦略の問題でもある。本稿はそうした地域開発のキャッチフレーズとも標語ともとれる術語についての予備的考察である。ここでとりあげる術語とは〈民話〉である。〈民話〉はしばしば、民俗学の領域に属する語のように思われるが実はそうではない。〈民話〉は民俗研究のなかでは常に一定の留保とともに用いられる術語であり、またそれゆえに広がりを持つ言葉であった。一九五〇年代の日本民俗学において〈民話〉は学術用語としては忌避されていた。それは戦後歴史学のなかで、民話が検討対象となり、民衆の闘いや創造性を示す語として扱われていたことと関連し、民俗学の独立の機運とは裏腹のものであった。そうした留保によって〈民話〉はかえって多くの含意が可能になり、地域社会とも結びつく可能性が残されていった。特に「民話のふるさと」岩手県遠野市では口承文芸というジャンル成立以前の『遠野物語』と重ね合わされることによって〈民話〉が機能した。その結果として、遠野は「〈民話〉のふるさと」となったのである。How to evaluate and utilize culture in community development is also considered as a matter of linguistic strategies. This article provides a preliminary consideration of the terminology used as a catchphrase or slogan for community development. More specifically, this study focuses on folktales. The word "folktale (Minwa)" is often mistaken as a technical term of folklore studies. In reality, folklorists always use the term in a reserved way, which gives it a wide range of meanings. In the 1950s, Japanese folklorists rarely used "folktale" as an academic term. This was partially because after World War II, historians studied folktales using the term to represent creativity or a struggle of people, which was contrary to the trend of independence of folklore studies. Due to the reserved attitude of folklorists, however, the term could have many connotations, leaving the possibility to be linked with local communities. In particular, in Tōno, Iwate Prefecture, a city also known as the Home of Folktales, folktales played a role in relation to "the Legends of Tōno (Tōno Monogatari)" years before the establishment of oral literature as a genre. This is the very reason why the city has become the Home of Folktales.
著者
義江 明子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.35-65, 1992-03-31

日本の伝統的「家」は、一筋の継承ラインにそう永続性を第一義とし、血縁のつながりを必ずしも重視しない。また、非血縁の従属者も「家の子」として包摂される。こうした「家」の非血縁原理は、古代の氏、及び氏形成の基盤となった共同体の構成原理にまでその淵源をたどることができる。古代には「祖の子」(OyanoKo)という非血縁の「オヤ―コ」(Oya-Ko)観念が広く存在し、血縁の親子関係はそれと区別して敢えて「生の子」(UminoKo)といわれた。七世紀末までは、両者はそれぞれ異なる類型の系譜に表されている。氏は、本来、「祖の子」の観念を骨格とする非出自集団である。「祖の子」の「祖」(Oya)は集団の統合の象徴である英雄的首長(始祖)、「子」(Ko)は成員(氏人)を意味し、代々の首長(氏上)は血縁関係と関わりなく前首長の「子」とみなされ、儀礼を通じて霊力(集団を統合する力)を始祖と一体化した前首長から更新=継承した。一方の「生の子」は、親子関係の連鎖による双方的親族関係を表すだけで、集団の構成原理とはなっていない。八~九世紀以降、氏の出自集団化に伴って、二つの類型の系譜は次第に一つに重ね合わされ父系の出自系譜が成立していく。しかし、集団の構成員全体が統率者(Oya)のもとに「子」(Ko)として包摂されるというあり方は、氏の中から形成された「家」の構成原理の中にも受け継がれていった。「家の御先祖様」は、生物的血縁関係ではなく家筋観念にそって、「家」を起こした初代のみ、あるいは代々の当主夫妻が集合的に祀られ、田の神=山の神とも融合する。その底流には、出自原理以前の、地域(共同体)に根ざした融合的祖霊観が一貫して生き続けていたのである。現在、家筋観念の急速な消滅によって、旧来の祖先祭祀は大きく揺らぎはじめている。基層に存在した血縁観念の希薄さにもう一度目を据え、血縁を超える共同性として再生することによって、「家」の枠組みにとらわれない新たな祖先祭祀のあり方もみえてくるのではないだろうか。
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.155, pp.1-19, 2010-03-15

旅の大衆化が進んだ江戸時代の後期、主体的に旅を楽しむ女性が多く存在したことは、近年とくに旅日記や絵画資料などの分析から明らかになってきた。しかしながら、講の代参記録のような普遍化した史料には女性の旅の実態が反映されないことから、江戸時代の女性の旅を体系的に理解することは難しいのが現状である。本稿では、個人的な旅日記を題材に、そこに記された女性の旅の実態を通して、旅を支えたしくみを考える。題材とした旅日記は、❶清河八郎著『西遊草』、❷中村いと著「伊勢詣の日記」、❸松尾多勢子著「旅のなくさ、都のつと」の3点である。❶は幕末の尊攘派志士として知られる清河八郎が、母を伴って無手形の伊勢参宮をした記録である。そこには、非合法な関所抜けがあからさまに行われ、それが一種の街道稼ぎにもなっていた事実が記されており、伊勢参宮を契機とした周遊の旅の普及にともない、女性の抜け参りが慣例化していた実態が示されている。❷は江戸の裕福な商家の妻が知人一家とともに伊勢参宮をした際の日記で、とくに古市遊廓での伊勢音頭見物の記録からは、旅における女性の遊興と、その背景にある確かな経済力を確認することができる。❸は、幕末期に平田国学の門下となった信州伊那の豪農松尾家の妻多勢子が、動乱の最中にあった京都へ旅をし、約半年にわたって滞在した記録である。特異な例ではあるが、身につけた教養をひとつの道具として、旅先の見知らぬ土地で自ら人脈を築き、その人脈を故郷の人々の利用に供したことは注目に値する。女性の旅人の存在は、街道や宿場のあり方にさまざまな影響を及ぼしたと思われる。とくに、後年イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが明記した日本の街道の安全性は、女性の旅とは不可分の関係にあり、江戸時代後期の日本の旅文化を再評価するうえで、今後さらに女性の旅の検証を重ねていくことが必要である。
著者
鈴木 正崇
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.186, pp.1-29, 2014-03-26

伝承という概念は日本民俗学の中核にあって,学問の成立の根拠になってきた。本論文は,広島県の比婆荒神神楽を事例として伝承の在り方を考察し,「伝承を持続させるものとは何か」について検討する。この神楽は,荒神を主神として,数戸から数十戸の「名」を単位として行われ,13年や33年に1度,「大神楽」を奉納する。「大神楽」は古くは4日にわたって行われ,最後に神がかりがあった。外部者を排除して地元の人々の願いを叶えることを目的とする神楽で秘儀性が強かった。本論文は,筆者が1977年から現在に至るまで,断続的に関わってきた東城町と西城町(現在は庄原市)での大神楽の変遷を考察し,長いサイクルの神楽の伝承の持続がなぜ可能になったのかを,連続性と非連続性,変化の過程を追いつつ,伝承の実態に迫る。神楽が大きく変化する契機となったのは,1960年代に始まった文化財指定であった。今まで何気なく演じていた神楽が,外部の評価を受けることで,次第に「見られる」ことを意識し始めるようになり,民俗学者の調査や研究の成果が地域に還元されるようになった。荒神神楽は秘儀性の高いものであったが,ひとたび外部からの拝観を許すと,記念行事,記録作成,保存事業などの外部の介入を容易にさせ,行政や公益財団の主催による記録化や現地公開の動きが加速する。かくして口頭伝承や身体技法が,文字で記録されてテクスト化され,映像にとられて固定化される。資料は「資源」として流用されて新たな解釈を生み出し,映像では新たな作品に変貌し,誤解を生じる事態も起こってきた。特に神楽の場合は,文字記録と写真と映像が意味づけと加工を加えていく傾向が強く,文脈から離れて舞台化され,行政や教育などに利用される頻度も高い。しかし,そのことが伝承を持続させる原動力になる場合もある。伝承をめぐる複雑な動きを,民俗学者の介在と文化財指定,映像の流用に関連付けて検討し理論化を目指す。
著者
山田 康弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.214, pp.285-302, 2019-03-15

本稿では博物館の展示において,ヒトの遺体,特に縄文時代の人骨(以下,縄文人骨)を展示するにあたって,それはどのような場合に「許される」と考え得るのか,そしてその場合どのような配慮が行われるべきか,考察を加えた。はじめに各地の博物館における人骨資料の展示状況を概観し,人骨展示がセンシティヴなものであることを指摘した。その後,死体を直接的に展示した『人体の不思議展』についての議論を踏まえて,考古学的資料としての人骨の取り扱い方,展示の際の原則を取り決めたヴァーミリオン協定とタマキ・マカウ・ラウ協定について概観し,縄文時代の人骨を展示するにあたって,それはどのような場合に「許される」と考え得るのか,そしてその場合どのような配慮が行われるべきか,という点について検討を行った。結論として,縄文人骨の場合,1)その直接的な血縁関係者,子孫をたどることは不可能であること。2)千年以上も昔の事例であり,すでにパーソナルメモリーやソーシャルペルソナが消失しているとみて良いこと。3)長きにわたって研究資料として利用されてきていること,などの点から,特別な事情が無い限り,これを展示資料として取り扱うことは許されると判断した。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.145-158, 2016-02-29

本稿は筆記環境の近代化と消費文化の様相を万年筆を通して考えようとするものである。ここではまず,明治の日本において万年筆が販売に際してどのような位置づけであったか,について,丸善における広告宣伝を確認し,特に夏目漱石が書いた「余と万年筆」(1912)をはじめとする万年筆関係の文章を分析した。さらに三越百貨店における万年筆の販売の様相を『三越』『三越タイムス』からうかがい,その特徴について考察した。その結果として,万年筆は筆記の近代化のシンボルとして,明治末から大正の初めにはかなり普及したが,特に三越では舶来品としての万年筆の販売に尽力し,さらに関連する商品も視野にいれ,商品そのものばかりではなく,関連する知識や使用法の啓蒙にも努めていたことが明らかになった。日本における万年筆の歴史,筆記文化の近代を考えるためには,ここで論じた以外にも国産化の過程をはじめとする複眼的な考究が必要であろう。
著者
市 大樹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.65-99, 2015-03-31

日本最古級の木簡の再検討、法隆寺金堂釈迦三尊像台座墨書銘の再釈読、百済木簡との比較研究などを通じて、日本列島における木簡使用の開始および展開について検討を加え、次のような結論を得た。①日本列島における木簡使用は、王仁や王辰爾の伝承が示唆するように、百済を中心とする朝鮮半島から渡来した人々を通じて、早ければ五世紀代に、遅くとも六世紀後半には開始された。具体的な証拠物によっては裏づけられないが、『日本書紀』の記事やその後の状況などを総合すると、王都とその周辺部、屯倉を中心とした地方拠点で、限定的に使用されるにとどまったと推定される。当該期には、主として物や人の管理に関わって、音声では代用できない事項を中心に、記録木簡が先行する形で使用されと推測される。②六四〇年代頃になると、ある程度木簡が普及するようになり、発掘調査によって木簡の存在を確かめることができるようになる。しかし、木簡が出土している場所は、基本的に飛鳥・難波といった王都とその周辺部にとどまり、依然として大きな広がりは認められない。出土点数も微々たるものにとどまっている。とはいえ、文書・記録・荷札・付札・習書・その他の木簡が存在しており、その後につながる木簡使用が認められる点は重要である。ただし、木簡の内容を具体的にみると、その後の木簡と比べて、典型的な書式にもとづいて記載されたものが少なく、やや特殊な場面で使用された木簡の比率が高い。これらのことは、日常的な行政の場で木簡を使用する機会が、のちの時代よりも少なかったことを意味している。③天武朝(六七二-八六)になると、木簡の出土点数が爆発的に増大し、紀年銘木簡も天武四年(六七五)以後連続して現れるようになる。木簡が出土する遺跡も、王都とその周辺部に限られなくなり、地方への広がりも顕著に認められる。木簡の種類・内容に注目すると、荷札木簡が目立つようになり、前白木簡など上申の文書木簡も多く使用されている。また、記録木簡や習書木簡も頻用された。ただし、下達の文書木簡はあまり使われなかった。こうした木簡文化の飛躍的発展をもたらした背景として、日本律令国家の建設にともなう地方支配の進展・文書行政の展開があった。天武朝とそれに続く持統朝(六八七-九七)には、日本と中国(唐)との間に国交はなく、新羅との直接交渉を通じて、さらに渡来人の子孫や亡命百済人などの知識を総動員しながら、国づくりが進められた。そのため、当該期の木簡には、韓国木簡の影響が色濃い。④大宝元年(七〇一)になると、約三〇年ぶりとなる遣唐使の任命(天候不順のため、派遣は翌年に延期)、大宝律令の制定・施行、独自年号(大宝)の使用などがおこなわれ、従来のような朝鮮半島を経由して中国の古い制度を学ぶのではなく、同時代の最新の中国制度を直接摂取しようとする志向が強くなっていく。これにともなって、木簡の表記・書式・書風などの面で、同時代の唐を模倣する動きが現れ、かつての朝鮮半島からの直接的な影響がやわらぐ。
著者
吉良 芳恵
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.285-305, 2003-03-31

本論考は、満州事変・日中戦争、アジア太平洋戦争期をとおして、国家、特に軍が、兵士の見送りと帰還にどのような方針で臨んだのか、また兵士はどのようにして戦場へ送り出され、あるいは帰還したのかという点について、徴兵・兵事史料等を用いて考察したものである。満州事変期、軍は入営兵への餞別や除隊兵の返礼等旧習の打破、冗費の節約に力を入れた。その後日中戦争が勃発し、多くの兵士が動員されるようになると、応召兵の出征を祝す壮行会や歓送会、激励会、武運長久を祈る祈願祭等が盛大に行われ、「赤紙の祭」が始まった。戦争が長期化すると、軍は防諜を理由に入営・応召兵の盛大な歓送迎会や見送り等「別れ」の儀式の簡素化を試み、特に帰還兵士の歓迎には神経をつかい自粛を求めるようになった。ところが、一九四一年七月の「関特演」は、こうした「別れ」の儀式を一変させた。軍は防諜を理由に、地方行政機関に召集業務を極秘に遂行するよう指示した。当初は軍側の方針の不統一により、行政機関に少々混乱をもたらしたが、その後は軍の執拗な要請により、神社や学校での歓送迎、駅での見送り、送別会、祈願祭など種々の儀式が制限・禁止され、また応召兵も軍服着用を禁止され、私服で密かに出征することになった。これは「赤紙の祭」の終焉を意味し、兵士や民衆の志気を弱め、戦意を喪失させた。こうした軍の方針自体、戦争の遂行に矛盾するものであった。そのため軍は、一九四一年一二月の日米英開戦後、銃後の鬱屈した気分を一掃し戦意を昂揚させるため、歓送や見送り等を許可し、種々の制限を緩和せざるを得なくなった。「赤紙の祭」の復活である。とはいえ、根こそぎ動員がすすむ中では、増え続ける戦死者をどのように祭るかが最大の課題であり、防諜を心配せざるを得ないほどの「赤紙の祭」の熱狂は、どこにも見あたらぬ時代が到来した。
著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.132, pp.287-326, 2006-03-25

本稿の目的は,岩手県中央部における寺院への額の奉納習俗の変遷を取り上げ,死者の絵額や遺影などの表象のあり方について,国民国家形成過程との関連を考慮しつつ近現代における死への意味づけについて考察することである。盛岡市や花巻市など北上川流域と遠野地方にまたがる岩手県中央部では,江戸末期から明治期にかけて,死者の供養のため大型の絵馬状の絵額が盛んに奉納された。絵額は来世の理想の姿を複数の死者とともに描いており,死者を来世に位置づけ安楽を祈るという目的を持ったものであった。しかもその死者は夭折した子供や若者,中年が多く,または一軒の家で連続して死者を出した場合など,不幸な状況ゆえにより供養をし冥福を祈ったものであった。しかし明治後期になると従来の絵額とは異なるモティーフを持つようになり,絵額から肖像画や写真などの遺影に変化していった。こうした変化は特に軍人に関して顕著であり,御真影や元勲の肖像,戦死者の遺影と類似の構図をとるようになる。こうした遺影への変化は,表象のあり方が現世の記憶を基盤にしただけでなく,不幸な死者へのまなざしから顕彰される死者へとその視線は変わることになったのである。一方で,写真それ自体が死者そのものの表象として使われるようになり,人々の遺影への意味づけは多義的になっている。こうして近代の国民国家形成の過程において,とくに戦死者の祭祀との関連から,死者の表象のあり方が大きく変わるととともに,死の意味づけを変えていったことがわかる