著者
高橋 敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.149-164, 2003-10-31

生命の危機にさらされたとき人々はどのようにこれに立ち向かうのか。日本歴史上人々は天変地異の大災害や即死病といわれる伝染病の大流行に直面した。文明の進歩、医学の革新等、人々の生命に関する恐怖感は遠のいたと一見思われがちの現代であるが、二〇〇三年のSARSの大騒動は未だ伝染病の脅威が身近に存在することを思い知らしめてくれた。本稿は安政五年(一八五八)突如大流行したコレラによって引き起こされた危機的状況、パニック状態を刻明に実証しようとしたものである。人々は即死病といって恐れられたコレラが襲って来る危機的状況のなかでどのようにこれに対拠したのか、本稿は駿河国富士郎大宮町(現富士宮市)を具体例として取り上げる。偶々大宮町の一町人が克明に記録した袖日記を解読することから始める。長崎寄港の米艦乗組員から上陸したコレラ菌は東へ東へ移動し次々と不可思議な病いを伝染させ、未曾有の多量死を現実のものとした。コレラに対するさまざまな医療行為が試みられるが、一方で多種多様、多彩な情報を生み出し、妄想をまき散らしていく。まさに、現実の秩序がくつがえる如く、人々を安心立命させていた精神(心)の枠組が崩壊し、人々はありあらゆる禦ぎ鎮魂の呪術を動員し救いを求めていく。コレラ伝染の時間的経過と空間的ひろがりに対応して人々の動きは活発化し、非日常の異常に自らを置く方策を腐心していく。コレラの根源を旧来の迷信の狐の仕業、くだ狐と見なして狐を払うため山犬、狼を設定し、三峯山の御犬を借りようとする動きやこの地域に特に根強い影響力を有する日蓮宗の七面山信仰がコレラを抑える霊力をもつとして登場する。極限状況の人々の動向にこそ時代と社会の精神構造があらわにされるのである。
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.203-236, 2012-03-01

本稿は,近年の戦後民俗学の認識論批判を受けて,柳田國男が構想していた民俗学の基本であっ た民俗の変遷論への再注目から,柳田の提唱した比較研究法の活用の実践例を提出するものであ る。第一に,戦後の民俗学が民俗の変遷論を無視した点で柳田が構想した民俗学とは別の硬直化し たものとなったという岩本通弥の指摘の要点を再確認するとともに,第二に,岩本と福田アジオと の論争点の一つでもあった両墓制の分布をめぐる問題を明確化した。第三に,岩本が柳田の民俗の 変遷論への論及にとどまり,肝心の比較研究法の実践例を示すまでには至っていなかったのに対し て,本稿ではその柳田の比較研究法の実践例を,盆行事を例として具体的に提示し柳田の視点と方 法の有効性について論じた。その要点は以下のとおりである。(1)日本列島の広がりの上からみる と,先祖・新仏・餓鬼仏の三種類の霊魂の性格とそれらをまつる場所とを屋内外に明確に区別して まつるタイプ(第3 類型)が列島中央部の近畿地方に顕著にみられる,それらを区別しないで屋外 の棚などでまつるタイプ(第2 類型)が中国,四国,それに東海,関東などの中間地帯に多い,また, 区別せずにしかも墓地に行ってそこに棚を設けたり飲食するなどして死者や先祖の霊魂との交流を 行なうことを特徴とするタイプ(第1 類型)が東北,九州などの外縁部にみられる,という傾向性 を指摘できる。(2)第1 類型の習俗は,現代の民俗の分布の上からも古代の文献記録の情報からも, 古代の8 世紀から9 世紀の日本では各地に広くみられたことが推定できる。(3)第3 類型の習俗は, その後の京都を中心とする摂関貴族の觸穢思想の影響など霊魂観念の変遷と展開の結果生まれてき た新たな習俗と考えられる。(4)第3 類型と第2 類型の分布上の事実から,第3 類型の習俗に先行 して生じていたのが第2 類型の習俗であったと推定できる。(5)このように民俗情報を歴史情報と して読み解くための方法論の研磨によって,文献だけでは明らかにできない微細な生活文化の立体 的な変遷史を明らかにしていける可能性がある。
著者
日比野 光敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.162, pp.271-295, 2011-01-31

ドジョウは人間にとってたいへん身近な存在である。ドジョウというと子どもたちは,丸い頭と口のまわりのヒゲ,そして丸い尻尾を描くことであろう。大人にとっても,ドジョウすくいなどで親しみ深く扱われてきた。ドジョウ鍋やドジョウ汁,あるいは蒲焼きなどとしてドジョウを食べることも,全国各地で見られた。また,めずらしいと思われるかもしれないが,ドジョウをすしにすることもあった。そのいくつかは,まだ健在である。ところが,その多くは,じゅうぶんな記録もされぬままに,消えてなくなろうとしている。本稿はドジョウずしを取り上げ,これらの正確なレシピを書きとどめることを第一目標とする。筆者はこれまでに,ドジョウ(マドジョウ)のすしを長野県佐久市,愛知県豊山町,滋賀県栗東市,大阪府豊中市,兵庫県篠山市で調査した。また,シマドジョウやホトケドジョウのすしを栃木県宇都宮市で,アジメドジョウのすしを福井県大野市,岐阜県下呂市で調査した。その結果言えることは,ひと口に「ドジョウのすし」といっても,その作り方は一様ではない。それはすしの種類からみても,実に多くの形態に及んでいることがわかった。その上で,ドジョウずしが消えてゆく理由,さらにはドジョウが語るものを考えてみる。ドジョウはほかの淡水魚に比べ,特殊な存在である。体型は,われわれが食べ慣れているフナやモロコとは違って細長い。多くの大人たちが「魚は食べるもの」という情報は知っていても,その姿かたちはフナやモロコのように「魚の形」をしているものであって,ドジョウのように細長いものではない。それゆえ,食べることには,よくも悪くも,抵抗感がある。加えて,子どもたちはドジョウを可愛らしく描く。保育園や学校では,日記をつけて観察させることもある。そんな「可愛い動物」を,なぜ食べなければならないか。ドジョウを食べることは,罪悪感まで生み出してしまう。かつては,自然に存在するものすべてが,われわれの「餌」であった。ドジョウだって同じである。ゆえに,自然に対して感謝したり恐れおののいたりする崇拝まで生まれた。だが,現在はどうか。自然に対する畏敬の念が,子どものみならず大人でさえも,なくなってしまった。結果,ドジョウは「可愛いもの」,もしくは逆に「普通の魚とは違う,異様な魚」となり,少なくとも「食べる存在」ではなくなってしまったのではあるまいか。ドジョウずしが消えてしまった原因は,あくまでも人間が作り出したものである。ドジョウは,静かにこのことを物語っているのではないだろうか。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.73-86, 1995-01-20

縄文時代は狩猟・漁撈・採集活動を生業とし,弥生時代は狩猟・漁撈・採集活動も行うが,稲作農耕が生業活動のかなり大きな割合を占めていた。その生業活動の違いを反映して,それぞれの時代の人々の動物に対する価値観も異なっていたはずである。その違いについて,動物骨の研究を通して考えた。まず第1に,縄文時代の家畜はイヌだけであり,そのイヌは狩猟用であった。弥生時代では,イヌの他にブタとニワトリを飼育していた。イヌは,狩猟用だけではなく,食用にされた。そのため,縄文時代のイヌは埋葬されたが,弥生時代のイヌは埋葬されなかった。第2に,動物儀礼に関しては,縄文時代では動物を儀礼的に取り扱った例が少ないことである。それに対して弥生時代は,農耕儀礼の一部にブタを用いており,ブタを食べるだけではなく,犠牲獣として利用したことである。ブタは,すべて儀礼的に取り扱われたわけではないが,下顎骨の枝部に穴を開けられたものが多く出土しており,その穴に木の棒が通された状態で出土した例もある。縄文時代のイノシシでは,下顎骨に穴を開けられたものは全くなく,この骨の取り扱い方法は弥生時代に新たに始まったものである。第3に,縄文時代では,イノシシの土偶が数十例出土しているのに対して,シカの土偶はない。シカとイノシシは,縄文時代の主要な狩猟獣であり,ほぼ同程度に捕獲されている。それにも関わらず,土偶の出土状況には大きな差異が見られる。弥生時代になると,土偶そのものもなくなるためかもしれないが,イノシシ土偶はなくなる。土器や銅鐸に描かれる図では,シカが多くなりイノシシは少ない。このように,造形品や図柄に関しても,縄文時代と弥生時代はかなり異なっている。以上,3つの点で縄文時代と弥生時代の動物に対する扱い方の違いを見てきた。これらの違いを見ると,縄文時代と弥生時代は動物観だけではなく,考え方全体の価値観が違うのではないかと推測される。これは,狩猟・漁撈・採集から農耕へという変化だけではなく,社会全体の大きな変化を示していると言える。弥生時代は,縄文時代とは全く異なった価値観をもった農耕民が,朝鮮半島から多量に渡来した結果成立した社会であったと言える。
著者
富田 正弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.192, pp.129-170, 2014-12

早川庄八『宣旨試論』の概要を章毎に紹介しながら少し立ち入って検討を加え,その結果に基づいて,主として早川が論じている宣旨の体系論と奉書論に対して,いくつかの感想めいた批判をおこなってみた。早川の宣旨論は,9・10世紀における諸々の宣旨を掘り起こし,その全体を誰から誰に伝えられたかという機能に即して整理をおこない,その体系化を図ろうとしたものである。上宣については,「下外記宣旨」・「下弁官宣旨」・「下諸司宣旨」に及び,上宣でないものについては,「検非違使の奉ずる宣旨」,「一司内宣旨」,「蔵人方宣旨」まで視野に入れて,漏れなく説明し尽くしている。ここに漏れているものは,11世紀以降にあらわれる地方官司における国司庁宣や大府宣,官司以外の家組織ともいうべき機関における院宣・令旨・教旨・長者宣などであり,9・10世紀を守備範囲とする『宣旨試論』にこれらを欠く非を咎めだてをすることはできない。強いて早川の宣旨体系論の綻びの糸を探し出そうとするならば,唯一天皇の勅宣を職事が奉じて書く口宣と呼ばれる宣旨について論及していない点である。それほどに,早川の宣旨論は完璧に近い。つぎに早川は,宣旨とその施行文書との関係を論じ,奈良時代に遡って宣旨を受けて奉宣・承宣する施行文書に奉書・御教書の機能を発見する。そのうえで,従来の古文書学が,宣旨や奉書・御教書を公家様文書として平安時代に誕生したと説く点を厳しく批判する。早川が説くように宣旨の起源も,奉書・御教書の機能をもつ文書の起源も,8世紀に遡るという指摘は傾聴に値する。しかし,宣旨を施行する公式様文書が全て奉書・御教書の機能をもつという点には疑問がある。上宣を受けて出される官宣旨は奉書としての機能をもつとしても,上宣を受けて出される官符は差出所である太政官に上卿自身が含まれているわけであるから,奉書的な機能はないというべきである。また,従来の古文書学で奉書・御教書が平安時代に多く用いられる意義を強調するのは,奉書的機能に関わって論じられているのではなく,奉書・御教書が書札様文書・私文書であることに意義を見出して論じられているのである。したがって,早川の批判にも拘わらず,従来の古文書学における公家様文書という分類はなお有効性をもっている。もちろん,これによっても,早川の宣旨論は,古代古文書学におけてその重要性がいささかも色褪せるものではない。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.245-275, 2015-03

本稿では,百済三書に関係した研究史整理と基礎的考察をおこなった。論点は多岐に渉るが,当該史料が有した古い要素と新しい要素の併存については,『日本書紀』編纂史料として8世紀初頭段階に「百済本位の書き方」をした原史料を用いて,「日本に対する迎合的態度」により編纂した百済系氏族の立場とのせめぎ合いとして解釈した。『日本書紀』編者は「百済記」を用いて,干支年代の移動による改変をおこない起源伝承を構想したが,「貴国」(百済記)・「(大)倭」(百済新撰)・「日本」(百済本記)という国号表記の不統一に典型的であらわれているように,基本的に分注として引用された原文への潤色は少なかったと考えられる。その性格は,三書ともに基本的に王代と干支が記載された特殊史で,断絶した王系ごとに百済遺民の出自や奉仕の根源を語るもので,「百済記」は,「百済本記」が描く6世紀の聖明王代の理想を,過去の肖古王代に投影し,「北敵」たる高句麗を意識しつつ,日本に対して百済が主張する歴史的根拠を意識して撰述されたものであった。亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」がまず成立し,百済と倭国の通交および,「任那」支配の歴史的正統性を描く目的から「百済記」が,さらに「百済新撰」は,系譜的に問題のあった⑦毗有王~⑪武寧王の時代を語ることにより,傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめたものと位置付けられる。三書は順次編纂されたが,共通の目的により組織的に編纂されたのであり,表記上の相違も『日本書紀』との対応関係に立って,記載年代の外交関係を意識した用語により記載された。とりわけ「貴国」は,冊封関係でも,まったく対等な関係でもない「第三の傾斜的関係」として百済と倭国の関係を位置づける用語として用いられている。なお前稿では,「任那日本府」について,反百済的活動をしていた諸集団を一括した呼称であることを指摘し,『日本書紀』編者の意識とは異なる百済系史料の自己主張が含まれていることを論じたが,おそらく「百済本位の書き方」をした「百済本記」の原史料に由来する主張が「日本府」の認識に反映したものと考えられる。This article reviews and briefly examines the history of research on the three books of Baekje: Kudara Honki (Original Records of Baekje) , Kudara Ki (Records of Baekje) , and Kudara Shinsen (the New Selection of Baekje) . Taking various arguments into consideration, this article indicates that the three books consisted of old and new elements because they were born out of a dilemma; they were based on the original books written from the self-centered viewpoint of Baekje but edited by Baekje exiles as historical materials for the compilation of Nihon Shoki ( the Chronicles of Japan) in a favorable manner for Japan in the beginning of the eighth century. The editors of Nihon Shoki altered the times of events by modifying the Chinese zodiac calendar when using Kudara Ki to write a legend of the origin of Japan; however, as typically represented by inconsistency of the name of Japan, such as called "Kikoku" in Kudara Ki, " (Oh-) yamato" in Kudara Shinsen, and "Nihon" in Kudara Honki, it is considered that in principle, the quotations in the notes of Nihon Shoki from the three books were hardly embellished. All of the three books were history books dated with imperial era names and the Chinese zodiac calendar system and were aimed to delineate the background of the family and profession of each Baekje clan surviving after the fall of their dynasty. In Kudara Ki, the ideal of King Song Myong period, in the sixth century, described by Kudara Honki was mirrored in the King Chogo period, and historical legitimacy was explained to Japan from the viewpoint of Baekje with an eye on its northern enemy, Goguryeo. At first, Kudara Honki was written to describe the history of the dynastic ancestors of the Kudara-no-Konikishi clan exiled from Baekje. Then, Kudara Ki was created for the purpose of providing historical legitimacy to the domination of Mimana, as well as depicting exchanges between Baekje and Wakoku (Japan) . Last, Kudara Shinsen was compiled to summarize the common perspective of numerous Baekje clans who claimed the collateral descent of the Baekje Dynasty by detailing the eras from ⑦ King Biyu to ⑪ King Muryeong, whose lineage had not been clear. Though the three books were edited one by one, they were systematically compiled for the same purpose. Inconsistencies in expression among the three books were corrected from the viewpoint of compatibility with Nihon Shoki by using terms to describe the diplomatic relationships at the times of events more clearly. In particular, the word "Kikoku" was used to describe the relationship between Baekje and Wakoku not as a tributary or completely equal relationship but as the "third slantedrelationship."Our former article indicated that a variety of groups fighting against Baekje were collectively called as the "Japanese Mimana Government" and argued that Nihon Shoki had incorporated the perspective of Baekje that was inconsistent with that of the editors of the chronicle. This is considered because the perspective regarding the Japanese Mimana Government was affected by the insistence derived from the original materials of Kudara Honki, which was compiled from the self-centered viewpoint of Baekje.
著者
真野 純子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.161, pp.89-150, 2011-03-15

滋賀県野洲市三上のずいき祭りは宮座として知られるが、本稿では、公文と座を訴訟文書や伝承記録などから検証するとともに、現在の芝原式の儀礼のなかに何がこめられているのかをあきらかにした。ずいき祭りでは、長之家・東・西の三組から頭人が上座・下座の二人ずつでて(一九五一年からは長之家は一人)、ずいき神輿・花びら餅の神饌を準備し、東と西の頭人は芝原式での相撲役を身内からだして奉仕する。それら頭人を選出するのは、各組に一人ずついる公文の役目である。公文は家筋で固定し、各組(座)でおこなう頭渡しだけでなく、芝原式にたちあい、実質上、それらを差配している。芝原式の儀礼には、公文から総公文への頭人差定状の提出、花びら籠(犂耕での牛の口輪)という直截な勧農姿勢、猿田彦をとおして授けられる神の息吹といった中世の世界観がこめられていたことがわかった。また、公文・政所という用語の使われ方が時代とともに変化していくことを指摘したうえで、中近世移行期での公文・政所を特定した。彼らが訴訟や年貢の収納事務にたずさわり、文書を保管する職務についていたこと、在地の地主層で下人を抱える殿衆であったことなどをあきらかにした。長之家は庁屋を、東と西は神前の芝原に座る方角をさしているものの、公文の考察から、相撲神事の編成が荘園の収納機構と深くかかわっており、長之家は御上神社社領、東は三上庄、西は三上庄内の散所を原点に出発していると考えられる。神事再興の一五六一年(永禄四)以来、頭人には下人、入りびとをも含むため、開放的な宮座として知られるが、それは屋敷を基準に頭人を選定していく公事のやり方であり、神事には相当な負担が強いられた。三上庄の実質的管理責任者である公文が頭人を差定して、その頭人に神饌やら相撲奉仕の役をあてがい、神饌を地主神に供えることで在所の豊饒と安泰を願うという祭りであったことを実証した。
著者
谷川 章雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.325-351, 2011-11-30

江戸の墓誌は、一七世紀代の火葬墓である在銘蔵骨器を中心にした様相から、遅くとも一八世紀前葉以降の土葬墓にともなう墓誌を主体とする様相に変化した。これは、一七世紀後葉と一八世紀前葉という江戸の墓制の変遷上の画期と対応していた。こうした墓誌の変遷には、仏教から儒教へという宗教的、思想的な背景の変化を見ることができる。将軍墓の墓誌は、少なくとも延宝八年(一六八〇)に没した四代家綱に遡る可能性がある。将軍家墓所では、将軍、正室と一部の男子の墓誌が発掘されており、基本的には石室の蓋石に墓誌銘を刻んだものが用いられていた。将軍家墓誌は、一八世紀前葉から中葉にかけて定式化したと考えられる。大名家の墓誌は、長岡藩主牧野家墓所では一八世紀中葉に出現し、その他の事例も一八世紀前葉以降のようである。石室蓋石の墓誌の変遷は、一八世紀後葉になると細長くなる可能性があり、一九世紀に入ると、墓誌銘の内容が詳しいものが増加する。林氏墓地などの儒者の墓誌は詳細なものが多く、誌石の上に蓋石を被せた形態のものが多く用いられていた。林氏墓地では、墓誌の形態、銘文の内容や表現は一八世紀後葉に定式化し、一九世紀に入る頃に変化するようであった。林氏墓地の墓誌は、享保一七年(一七三二)没の林宗家三世鳳岡(信篤)のものが最も古いが、儒者の墓誌はさらに遡ると思われる。旗本などの幕臣や藩士などの土葬墓にともなう墓誌は、一八世紀後葉以降一九世紀に入ると増加するが、これは墓誌が身分・階層間を下降して普及していったことを示すと考えられる。一方、幕臣や藩士などの墓にある没年月日と姓名などを記した簡素な墓誌は、被葬者個人に関わる「人格」を示すものとして受容されたものであろう。このような江戸の墓誌の普及の背景には、個人意識の高まりがあったように思われる。ただし、江戸の墓誌に表徴された個人意識は、武家や儒者など身分・階層を限定して共有されるものであった。
著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.121, pp.45-104, 2005-03-25

近世博多の祭礼祇園山笠を例に、祭礼費用の増加過程と、その結果として生じた祭礼費用徴収法の変更および祭礼費用負担者層の拡大の諸相について明らかにした。分析対象は行町と片土居町という二つの町である。祇園山笠には二つの当番、山笠当番と能当番があった。本稿ではおもに、より重要でより多額の費用を要する山笠当番について論じた。この当番は数年に一度または十数年に一度だけ各町に巡って来たので、各町はこの間に多額の当番費用を準備することができた。そのためこの祭礼は徐々に豪華になっていった。しかし江戸後期になると当番費用が高騰し、豊かでない町では当番費用の徴収法に工夫を凝らすことになった。分析した二町の例から、当番費用負担者層と当番運営者層が町内の表店に居住する全世帯に拡大していく過程が観察された。とりわけ幕末の片土居町ではこの拡大が極限にまで達していた。つまりこの町では居付地主・地借・店借の別なく町内の表店全世帯に同額の当番費用が割り振られており、当番運営においても原則的には表店の全世帯主が平等に参加していたようである。また、その内容は異なるものの、両町とも町中抱の家屋敷を利用することで当番費用の一部を捻出していた。特異な祭礼運営仕法によって祭礼費用が高くなりすぎた結果、祭礼費用にかんして徴収法の変更と負担者層の拡大がなされ、それに伴い祭礼運営者層も拡大した、という一例を示した。
著者
鈴木 卓治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.206, pp.39-59, 2017-03-31

国立歴史民俗博物館が開催する企画展示「万年筆の生活誌―筆記の近代―」(2016年3月8日(火)~5月8日(日))のために,館蔵資料43点を含む58点の蒔絵万年筆資料のマルチアングル画像を撮影し,展開図を作成した。本稿では,資料への負荷を抑えつつ図録掲載等の要求に耐える品質を有する展開図画像を得るための,万年筆資料のマルチアングル画像撮影ならびに展開図作成の技術開発について述べる。スリットカメラの原理に基づき,万年筆を一定角度で回転してマルチアングル画像を撮影するための専用の治具を制作した。マルチアングル画像からの展開図画像の作成について,万年筆の回転角と得られる展開図画像の誤差との関係について検討し,5度刻みのマルチアングル画像から,μm単位の誤差の展開図画像を作成できることを示した。展開図画像の作成にあたって,万年筆の太さは均一でないので画像の幅が必ずしも回転角に比例せず,単純に一定の幅で切り出した画像を合成したのでは重複や欠損を生じる。そこで簡単な画像処理によって万年筆の太さを求め,幅が回転角に一致する補正画像を生成したところ,重複や欠損のない画像を得ることができた。また,クリップのようにまわりから著しく飛び出している部分があると,画像から正確に半径を求められない部位が生じ画像が乱れる問題について,クリップの位置をマスク画像で与えることによって解決を図った。本稿で述べる展開図作成の技術は,類似の資料のデジタル化の促進に寄与することができよう。
著者
鈴木 信
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.401-440, 2009-03-31

続縄文文化の遺構・遺物には,「変異性が強く・現地性が弱く・転移は容易・伝達する際に欠落しにくい」という表出的属性,「変異性が弱く・現地性が強く・転移は容易でなく・伝達する際に欠落しやすい」という内在的属性,それらの中間的属性が備わる。また,属性における不変性・現地性の強弱は「遺構の内在的属性≧遺物の内在的属性>遺構の表出的属性>遺物の表出的属性」である。そして,内在的属性の転移は親密な接触によって伝わり,表出的属性の転移は疎遠な接触においても成立する。そのため,内在的属性の転移は型式変化の「大変」といえ,表出的属性の転移は型式変化の「小変」といえる。遺構・遺物の型式変化とは時空系における属性転移であり,空間分布の差異として第一~五の類型で現れる。そして,属性はコト・モノ・ヒトの授受に付帯して転移し,転移先において文化同化・文化異化・文化交代を起こす。物質交換は文化接触の一種であり,異質接触(渡海交易)においては「もの」を動かすために「かかわり」があり,社会的関係を緊密にすることで物理的距離を克服する(「ソト」関係の「ウチ」化)。同質接触(域内交易)においては「かかわり」の結果として「もの」が動き,基底には社会的距離が恒常的に縮んだ関係(「ウチ」の関係)において行われた。渡海交易と域内交易と生業の関係は弥生後期に東北地方に起こった利器の鉄器化が誘因となり,その後,鉄器の流通量が増加することで,域内交易は交換財の調節機能の強化が求められ,生業は交易原資のための毛皮猟とそれを支える生業の二重構造を生み出す。渡海交易Ⅱa段階に渡海交易・域内交易・生業が直結して文化異化がおこる。渡海交易Ⅱb~Ⅳ段階には鉄器・鋼の需要が恒常的となり文化異化が継続する。Ⅳ段階には文化異化が収束し,交易仲介の役割を失った東北在住の北海道系続縄文人が故地に帰ることで新たに東北地方から北海道への属性転移が生じる(擦文文化の成立)。
著者
小林 謙一 坂本 稔
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.196, pp.23-52, 2015-12-25

本稿は,縄紋後期の生業活動において,海洋資源がどの程度利用されていたのかを見積るため,炭素の安定同位体比(δ¹³C値)と炭素14年代をもとに,時期別・地域別の検討をおこなったものである。旧稿[小林2014]において,陸稲や水田稲作が出現する弥生移行期である縄紋晩期~弥生前期の土器付着物を検討した方法を継承して分析した。そのことによって,旧稿での縄紋晩期と弥生前期との違いの比較検討という目的にも資することができると考える。土器内面の焦げや外面の吹きこぼれなど,煮炊きに用いられた痕跡と考えられる土器付着物については,δ¹³C値が-24‰より大きなものに炭素14年代が古くなる試料が多く,海洋リザーバー効果の影響とみなされてきた。一方,-20‰より大きな土器付着物については,雑穀類を含むC₄植物の煮炊きの可能性が指摘されてきた。しかし,これらの結果について,考古学的な評価が十分になされてきたとはいえない。国立歴史民俗博物館年代研究グループが集成した,AMSによる縄紋時代後期(一部に中期末葉を含む)の炭素14年代の測定値を得ている256試料(汚染試料及び型式に問題ある試料を除く)を検討した。その結果,土器付着物のδ¹³C値が-24~-20‰の試料には炭素14年代で100 ¹⁴C yr以上古い試料が多く見られることが確認され,海産物に由来する焦げである可能性が,旧稿での縄紋晩期~弥生前期の土器付着物の場合と同様に指摘できた。北海道の縄紋時代後期には海産物に由来する土器付着物が多く,その調理が多く行われていた可能性が高いことがわかった。東日本では縄紋時代後期には一定の割合で海産物の影響が認められるが,西日本では近畿・中四国地方の一部の遺跡を除いてほとんど認められない。これらは川を遡上するサケ・マスの調理の結果である可能性がある。また,C₄植物の痕跡は各地域を通じて認められなかった。以上の分析の成果として,土器付着物のδ¹³C値は,縄紋時代後期の生業形態の一端を明らかにし得る指標となることが確認できた。
著者
古川 元也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.180, pp.129-140, 2014-02

室町時代後期の都市京都を考える際に、社会的組織として重要な構成要素となるのは洛中日蓮教団(宗祖日蓮を師と仰ぐ信仰集団)である。洛中の日蓮教団は鎌倉時代後期から南北朝期に日蓮門下六老祖の一人である日朗が京都への布教を開始し、その後大覚妙実、日像の布教によって教線を拡大し、後醍醐天皇による四海唱導布教の綸旨を得てからは、四条門流を中心に諸派の離合集散を繰り返しながらも宗勢を増してゆくのである。日蓮教団は天文五年に宗門にとっての一大法難ともいうべき天文法華の乱(天文法難)に遭ったとされ、最終的には帰洛を勅許されるも一時的には洛中より追放されていた。その後も教団内部における門流の対立や和合、織田信長による天正七年の安土宗論敗北など教団内の運営は安定性を欠き、通説的理解では十六世紀後半の教団の恢復は十分にはなされなかったとされている。ところで、天文法華の乱を前後して制作されている洛中洛外図の諸本には日蓮教団系寺院が描きこまれている。従来の洛中洛外図研究ではこれら寺院の存在が景観年代の確定に寄与したこともあったが、洛中洛外図の諸本が制作依頼者の意図に基づく理想的景観を盛りこんだ工房作であることを考えれば、個別の景観年代追求はさほど意味のあることでもない。また、これら日蓮教団寺院は諸本によって差異があり、描写も一様ではない。むしろ考究すべきは、洛中より追放処分を受けた教団が描き続けられなければならない理由はどのようなものなのかであり、洛中諸本山のうちの描写される本山とそれ以外の本山に差異はあるのか、そのことはどのような社会的背景を持つのかを確定する必要があろう。本稿では、成立年代とその制作背景が確定されつつある洛中洛外図の研究成果を援用しつつ、描かれた日蓮教団諸本山が意味する点について論及したい。Considering the city of Kyoto in the late Muromachi Period, the Nichiren Sect of Buddhism (a religious group looking up to Nichiren as their mentor) in the city is an important element as a social organization. The Nichiren Sect in Kyoto started with the missionary work of Nichiro, one of Roku Roso (the Six Senior Disciples of Nichiren) , in the city from the late Kamakura Period to the Nanboku-cho Period. Then the missionary work of Daikaku Myojitsu and Nichizo extended the influence of the religion. After granted an order of Shikai Shodo (missionary to the whole world) by the Emperor Go-Daigo, the sect steadily gained religious influence while constantly changing its alignment centered on the Shijo Monryu lineage. Reportedly, the Tembun Hokke Rebellion, also known as the Tembun Religious Persecution, broke out against the Nichiren Sect in 1536 (Tembun 5) . This greatest persecution of the sect caused to temporarily expel its members from Kyoto though they were allowed by the Emperor to come back in the end. The management of the religious group continued to lack stability due to such factors as conflicts and realignments of divisions within the group and its defeat in the Azuchi religious dispute caused by Oda Nobunaga in 1579 (Tensho 7) . According to the commonly accepted theory, the sect did not fully revive in the late 16th century.Multiple paintings of Rakuchu-Rakugai-Zu (Scenes In and Around Kyoto) created around the Tembun Hokke Rebellion depict temples of the Nichiren Sect. In conventional studies of Rakuchu-Rakugai-Zu, the existence of these temples has contributed to dating the scenes. Considering that Rakuchu-Rakugai-Zu paintings are artworks depicting ideal scenes based on the aim of the sponsors, however, it is not very important to date an individual scene. Moreover, these Nichiren temples in the paintings vary from each other, and there are also differences in depiction. Therefore, the more important things to study are why the sect exiled from Kyoto was continually portrayed, whether there are any differences between head temples portrayed in the paintings and other head temples, and, if any, what social background the difference has. Quoting research results of the Rakuchu-Rakugai- Zu paintings that are being dated and whose purposes to be created are being confirmed, the present article is aimed at defining the meaning of the head temples of the Nichiren Sect depicted in the paintings.
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.155-182, 2014-02

弥生文化は,鉄器が水田稲作の開始と同時に現れ,しかも青銅器に先んじて使われる世界で唯一の先史文化と考えられてきた。しかし弥生長期編年のもとでの鉄器は,水田稲作の開始から約600年遅れて現れ,青銅器とほぼ同時に使われるようになったと考えられる。本稿では,このような鉄の動向が弥生文化像に与える影響,すなわち鉄からみた弥生文化像=鉄史観の変化ついて考察した。従来,前期の鉄器は,木製容器の細部加工などの用途に限って使われていたために,弥生社会に本質的な影響を及ぼす存在とは考えられていなかったので,弥生文化当初の600年間,鉄器がなかったとはいっても実質的な違いはない。むしろ大きな影響が出るのは,鉄器の材料となる鉄素材の故地問題と,弥生人の鉄器製作に関してである。これまで弥生文化の鉄器は,水田稲作の開始と同時に燕系の鋳造鉄器(可鍛鋳鉄)と楚系の鍛造鉄器(錬鉄)という2系統の鉄器が併存していたと考えられ,かつ弥生人は前期後半から鋳鉄の脱炭処理や鍛鉄の鍛冶加工など,高度な技術を駆使して鉄器を作ったと考えてきた。しかし弥生長期編年のもとでは,まず前4世紀前葉に燕系の鋳造鉄器が出現し,前3世紀になって朝鮮半島系の鍛造鉄器が登場して両者は併存,さらに前漢の成立前には早くも中国東北系の鋳鉄脱炭鋼が出現するものの,次第に朝鮮半島系の錬鉄が主流になっていくことになる。また弥生人の鉄器製作は,可鍛鋳鉄を石器製作の要領で研いだり擦ったりして刃を着けた小鉄器を作ることから始まる。鍛鉄の鍛冶加工は前3世紀以降にようやく朝鮮半島系錬鉄を素材に始まり,鋳鉄の脱炭処理が始まるのは弥生後期以降となる。したがって鋳鉄・鍛鉄という2系統の鉄を対象に高度な技術を駆使して,早くから弥生独自の鉄器を作っていたというイメージから,鋳鉄の破片を対象に火を使わない石器製作技術を駆使した在来の技術で小鉄器を作り,やがて鍛鉄を対象に鍛冶を行うという弥生像への転換が必要であろう。Starting to use iron implements at the same time as the initiation of the wet rice cultivation, the Yayoi culture has been considered as the only prehistoric culture in the World that started using iron implements before bronze implements. According to the long chronology of the Yayoi culture, however, iron implements are considered to have appeared 600 years after the initiation of the wet rice cultivation, at the almost same time as the appearance of bronze implements. This article examines changes in the iron historical view of the Yayoi culture (the historical view of the iron culture) to reveal how the development of iron as assumed above affects the perspective of the Yayoi culture.Previous studies did not consider that iron implements in the early Yayoi had any substantial influences on the Yayoi society because of their limited use such as for delicate work on wood containers. Therefore, there are no significant differences when assuming that the first 600 years of the Yayoi period did not have iron implements.The new historical view, however, makes profound differences in the place of origin of iron materials and in the iron manufacturing techniques of Yayoi people. With regard to iron implements in the Yayoi culture, the conventional view suggested that there were two types of iron appearing at the same time as the initiation of rice cultivation: cast iron (malleable cast iron) originated from the Yan State and tempered iron (wrought iron) originated from the Chu State. Previously, Yayoi people were considered to have had advanced techniques to make iron implements, such as decarbonizing cast iron and forging tempered iron, in the latter half of the Early Yayoi period.According to the long chronology of the Yayoi culture, however, cast iron originated from the Yan State first appeared in the early forth century B.C., and then tempered iron originated from the Korean Peninsula followed in the third century B.C., resulting in the coexistence of both types of iron. Moreover, decarbonized-cast-iron steel originated from the Chinese northeast region appeared before the birth of the Former Han Dynasty. In the end, the wrought iron from the Korean Peninsula gradually went mainstream.In addition, the iron manufacturing technology of Yayoi people started with edging small iron implements by sharpening and grinding malleable cast iron in the same way as making stone tools. The forging of tempered iron started with Korean-origin wrought iron after the third century B.C., and the decarbonizing of cast iron commenced after the Late Yayoi period.In summary, it is necessary to change the perspective of the Yayoi iron culture. Yayoi people did not make their own iron implements from two types of iron, cast and tempered iron, by using their advanced technology at an early stage. Instead, they started with making small implements of cast iron pieces by using conventional fireless techniques to produce stone tools at first and then developed their techniques to forge tempered iron.
著者
義江 明子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.35-65, 1992-03-31 (Released:2016-03-26)

日本の伝統的「家」は、一筋の継承ラインにそう永続性を第一義とし、血縁のつながりを必ずしも重視しない。また、非血縁の従属者も「家の子」として包摂される。こうした「家」の非血縁原理は、古代の氏、及び氏形成の基盤となった共同体の構成原理にまでその淵源をたどることができる。古代には「祖の子」(OyanoKo)という非血縁の「オヤ―コ」(Oya-Ko)観念が広く存在し、血縁の親子関係はそれと区別して敢えて「生の子」(UminoKo)といわれた。七世紀末までは、両者はそれぞれ異なる類型の系譜に表されている。氏は、本来、「祖の子」の観念を骨格とする非出自集団である。「祖の子」の「祖」(Oya)は集団の統合の象徴である英雄的首長(始祖)、「子」(Ko)は成員(氏人)を意味し、代々の首長(氏上)は血縁関係と関わりなく前首長の「子」とみなされ、儀礼を通じて霊力(集団を統合する力)を始祖と一体化した前首長から更新=継承した。一方の「生の子」は、親子関係の連鎖による双方的親族関係を表すだけで、集団の構成原理とはなっていない。八~九世紀以降、氏の出自集団化に伴って、二つの類型の系譜は次第に一つに重ね合わされ父系の出自系譜が成立していく。しかし、集団の構成員全体が統率者(Oya)のもとに「子」(Ko)として包摂されるというあり方は、氏の中から形成された「家」の構成原理の中にも受け継がれていった。「家の御先祖様」は、生物的血縁関係ではなく家筋観念にそって、「家」を起こした初代のみ、あるいは代々の当主夫妻が集合的に祀られ、田の神=山の神とも融合する。その底流には、出自原理以前の、地域(共同体)に根ざした融合的祖霊観が一貫して生き続けていたのである。現在、家筋観念の急速な消滅によって、旧来の祖先祭祀は大きく揺らぎはじめている。基層に存在した血縁観念の希薄さにもう一度目を据え、血縁を超える共同性として再生することによって、「家」の枠組みにとらわれない新たな祖先祭祀のあり方もみえてくるのではないだろうか。 The first axiom of the traditional Japanese “Ie” (family) is the continuity of a successive line, and blood relationship is not necessarily regarded as important. A subordinate not related by blood is included in the family as “Ie-no-Ko” (child in family). The origin of the principle of non-blood relationship in the “Ie” traces back to the ancient Uji (Clan) and structural principles of the community on which was based the formation of the Uji. In ancient times, there extensively existed the concept of Oya-noko (child in lineage) in a non-blood parent-child relationship. A child related by blood was distinguished from the above, and was called “Umi-no-Ko” (child of birth). Before the end of the 7th century, each was described in different types of genealogy. Uji was originally a non-descent group, based on the concept of “Oya-no-Ko”. The “Oya” of the “Oya-no-Ko” indicated the heroic chief (ancestor), who was the symbol of the unification of the group; the “Ko” indicated a member of the group (Ujibito). Successive chiefs (Uji-no-kami) were considered as “Ko” of the previous chief, regardless of their blood relationship. Through a ceremony they renewed, that is, succeeded to, their spiritual power (the power to unify the group) from the previous chief, who was incorporated into the ancestors. “Umi-no-Ko”, on the other hand, only indicated a bilateral kinrelationship in the chain of parent-child relationships, and wat the not structural principle of the group.After the 8th or 9th century, the two types of genealogies gradually overlapped to establish a paternal genealogy, along with the transition of the “Uji” into a descent group. However, the inclusion of all group members as “Ko” under the control of the leader (Oya) was continued to the structural principle of the “Ie”, which was derived from the “Uji”. The “family ancestors”, meaning either only the first generation who established the “Ie”, or successive chiefs and their wives, are worshiped in line with the concept of the family line, not the biological blood relationship, and they are fused with Ta-no-Kami (God of the rice fields) = Yame-no-Kami (God of the mountains). Underlying this is a consistent view of the inpersonalized ancestors rooted in unity in the region (community), which existed before the appearance of the principle of kin. These days, due to the rapid disappearance of the concept of family lineage, the foundation of conventional ancestral worship are being rocked. By reviewing the underlying concept of the weakness of the blood relationship, and by regenerating it as a sense of community over and above the blood relationship, there may be found a new way of ancestral worship free from the framework of the “Ie”.