著者
高桑 いづみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.166, pp.131-152, 2011-03-31

紀州徳川家伝来楽器の内,国立歴史民俗博物館が所蔵する龍笛・能管あわせて27点について,熟覧及びX線透過撮影を通して調査を行った。その結果,高精度の電子顕微鏡によって従来「平樺巻」とされてきた青柳(H‒46‒39)が,樺ではなく籐ないしカラムシのような蔓を巻いていたことが判明し,仏像の姿に成形した錘を頭部に挿入した龍笛があることが判明するなど,従来の調査では得られない成果が多々あった。一方,付属文書と笛本体が一致しない例もあり,笛が入れ替わった虞れも考えられる。たとえば能管の賀松(H‒46‒53)は,付属品や頭部の頭金の文様から,『銘管録』に載る「古郷ノ錦」ではないかと推測される。いつの時期か不明だが,コレクションの実態が混乱したようである。時期は不明だが,紀州徳川家のコレクションは少しづつ散逸してきた。その事実と照らし合わせながら,今後さらなる調査が必要になるであろう。
著者
長谷川 成一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.64, pp.237-255, 1995-11-30

本稿では,近世十三湊に関して,いずれも今後の研究を進める上で基礎となる,次の3点にわたる課題を掲げ,それらについて解明する作業を実施した。第1は,十三湊は近世に果たして「とさ」呼ばれていたのか,あるいは「じゅうさん」と呼ばれていたのか,すなわち訓読みなのか音読みなのかについて,従来の通説と各史料を再検討した。その結果「十三」は中世以来の「とさ」の呼称が本来なのであって,近世に入って次第に音読みのそれと併用されるようになった。江戸幕府から命じられた享和3年(1803)「陸奥国津軽郡村仮名附帳」の作成に際して,弘前藩が音読みを採用したことから,音読み「じゅうさん」が十三の地名呼称として定着した。そこには近世国家における漢字文化の普及によって漢字表示地名が呼称地名を変改してゆく姿が看取され,十三も例外ではなかった。第2は,十三津波伝承について,藩政時代には前代歴譜などに掲載された「興国元年の海嘯」伝承と津軽一統志等に見える白髭水伝承とは別個のものであった。しかし,近代にはいって両者の伝承が広く知られるようになったことから,次第に同じものとみなされるようになり,その結果1940年代には現在における「興国元年の海嘯」=白髭水,いわゆる十三津波伝承が形成されるようになった。第3は,近年注目を集めている「慶安元年極月 奥州十三之図」(函館市立図書館蔵)の年代について考証した。はぼ同様の時期と手法で描かれたであろうと推定される鰺ヶ沢・深浦の湊絵図(同館蔵)との比較考証の結果,天和3年(1683)以前の絵図であることは間違いなく,さらに慶安元年の年記を正確なものであると立証はできなかったが,17世紀前半の十三・鰺ヶ沢・深浦の各湊を描写したものと見て支障はないのではないか,という結論を得た。以上の3つの主題はいずれも相互に密接な関連をもつものとはいえないが,今後の近世十三湊の研究に際して決して見落としてはならない基本的な問題であろう。また中世十三湊を記す中世史料が決定的に不足している現況からすれば,十三湊に関する近世の史料類や絵図,伝承の再吟味は中世十三湊の解明に手掛かりを与えることが可能なのでないかと考えるのである。
著者
松田 睦彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.11-24, 2015-12-25

小稿は人の日常的な地域移動とその生活文化への影響を扱うことが困難な民俗学の現状をふまえ,その原因を学史のなかに探り,検討することによって,今後,人の移動を民俗学の研究の俎上に載せるための足掛かりを模索することを目的とする。1930年代に柳田国男によって体系化が図られた民俗学は,農政学的な課題を継承したものであった。柳田の農業政策の重要な課題の一つは中農の養成である。しかし,中農を増やすためには余剰となる農村労働力の再配置が必要となる。そこで重要となったのが「労力配賦の問題」である。これは農村の余剰労働力の適正な配置をめざすものであり,柳田の農業政策の主要課題に位置づけられる。こうした「労力配賦の問題」は,人の移動のもたらす農村生活への影響についての考察という形に変化しながら,民俗学へと吸収される。柳田は社会変動の要因として人の移動を位置づけ,生活変化の様相を明らかにしようとしたのである。しかし,柳田の没後,1970年代から1980年代にかけて,柳田の民俗学は批判の対象となる。その過程で人の移動は「非常民」「非農民」の問題へと縮小される。一方で,伝承母体としての一定の地域の存在を前提とする個別分析法の隆盛により,人の移動は民俗学の視野の外へと追いやられることになった。人の日常的な移動を見ることが困難な民俗学の現況はここに由来する。今後,民俗学が人びとの地域移動が日常化した現代社会とより正面から向きあうためには,こうした学史的経緯を再確認し,人びとが移動するという事象そのものを視野の内に取り戻す必要がある。Regular population movements between regions and their impacts on lifestyle and culture are difficult topics for today's folklorists to address. In order to identify the causes of such difficulties, this paper examines the history of folklore studies. The end goal of this examination is to find clues as to how future folklore studies can address the issue.The folklore studies systematized by Kunio Yanagita in the 1930s were derived from agro-politics. One of the major agro-political issues he was interested in was the development of medium-scale farmers. In order to increase their number, rural surplus labor needed to be reallocated. What was important there was the issue of labor allocation to make full use of rural surplus labor. This was a main focus of Yanagita in his research on agricultural policies. It was later absorbed by folklore studies while being transformed into the issue of impacts of population movements on rural life. Yanagita regarded population movements as a factor of social changes and examined the phenomenon to reveal changes in lifestyle.His folklore studies, however, were criticized after his death, in the 1970s and 1980s, during which the issue of population movements was trivialized to the issues of "non-folks" and "non-farmers." The rise of a separate analysis method based on the assumption that there were communities that served as bases for transmitting tradition also marginalized the issue of population movements from folklore studies. This is why regular population movements are difficult topics for today's folklorists to deal with.Now that we are living in a society where inter-regional population movements have become very common, it is essential for folklorists to recognize the above-mentioned historical context of folklore studies and incorporate the perspective of population movements into their studies.

3 0 0 0 OA 渡嶋再考

著者
小口 雅史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.84, pp.5-37, 2000-03-31

斉明紀に見える「渡嶋」が具体的にどの地域を指すのかという問題の解明は、日本古代国家における一大転機であった大化改新後の初期律令国家の形成過程や、当時の国際関係を考える上できわめて重要な問題であって、早く江戸時代から学者の注目を集めてきた。古くは津軽の北は北海道であるという単純な理解から、渡嶋=北海道説が流布していたが、その後、津田左右吉等によって『日本書紀』のいわゆる「比羅夫北征記事」の厳密な読解が試みられるようになり、史料の解釈から渡嶋を本州北部の内におさめる見解が有力となっていき、戦後の通説的位置を永く占めてきた。しかし近年の北海道考古学の急速な進展にともなって本州と北海道との間の豊かな交流が明らかになるにつれて、比羅夫は当然北海道へ渡ったであろうという共通認識が形成され、津軽の北は当然北海道であるという渡嶋=北海道説が復活し、現在ではこれが通説となったと言ってよい。しかし中世以前における「津軽」は、現在の津軽地方の南部のみを指す語であり、半島海岸部はむしろ道南地域と密接な関わりを持つ世界であった。またそうした津軽海峡を挟む世界は、道央部あるいは道東・道北部とはやはり違った世界である。こうしたことを考えるとき、津軽の北に位置するという渡嶋はこの海峡を挟む世界に相当するのではないかと思われる。そのさらに北には「粛慎」の世界が存在したのであるが、それこそ道央部や道東・道北部といった、本州側からはよりいっそう未知の世界であったのではないか。「粛慎」の風俗習慣などについての多様な史料の在り方は、「粛慎」自体のもつ複合的な民族要素によっているものと思われる。この津軽海峡を挟む世界は、一〇世紀頃にいったん消滅し、それが渡嶋という用語の消滅の背景となるが、まもなく復活し、中世においては、津軽海峡を「内海」とする、海峡の南北一体の世界がまた形成されていったと考えられる。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.55-66, 2015-12-25

1970年代から80年代にかけて盛んに論じられた都市民俗学はどのように形成され,どういった可能性と限界とを持っていたのだろうか。本稿はそうした問題について,都市民俗学の模索段階,形成期について検討し,その様相について論述を試みる。さらに都市民俗学を表面的には標榜しなくても,都市をとらえた民俗研究を検討し,その可能性を指摘する。ここでは特に世間話や個人に関する着目が重要であったことを確認する。全体として,都市民俗学は現代社会や民俗変化を対象化するムラを超える民俗学へと民俗研究が発展的に解体する過程と位置づけることができ,そこでの問いや模索された対象や概念化の取り組みは,現代における民俗的諸事象との対峙を志向する研究へと分節化されたということができるのである。
著者
岸本 直文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.369-403, 2014-02

1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。今日の課題は,倭国の主導勢力となる弥生後期のヤマト国の実態,倭国乱を経てヤマト国が倭国の盟主となる理由の解明にある。一方で,弥生後期の畿内における鉄器の寡少さと大型墳墓の未発達から,倭王権は畿内ヤマト国の延長にはなく,東部瀬戸内勢力により樹立されたとの見方もあり,倭国の形成主体に関する見解の隔たりが大きい。こうした弥生時代から古墳時代への転換についても,¹⁴C年代データは新たな枠組みを提示しつつある。箸墓古墳が3世紀中頃であることは¹⁴C年代により追認されるが,それ以前の庄内式の年代が2世紀にさかのぼることが重要である。これにより,纒向遺跡の形成は倭国形成以前にさかのぼり,ヤマト国の自律的な本拠建設とみなしうる。本稿では,上記のように古墳時代を定義するとともに,そこに至る弥生時代後期のヤマト国の形成過程,纒向遺跡の新たな理解,楯築墓と纒向石塚古墳の比較を含む前方後円墳の成立問題など,新たな年代観をもとづき,現時点における倭国成立に至る一定の見取り図を描く。The development of the study on sankakubuchi shinjukyo (triangular-rimmed mirrors decorated with gods and animals) in the 1990s dated the Hashihaka burial mound to around the middle of the third century. This research results revealed a direct connection between the Wa State described in Gishiwajinden (Account of the Wa in History of the Wei Dynasty written by Chinese) and the Wa Sovereignty and enabled to understand them as consecutive development. This is because it can be considered that the proliferation of keyhole-shaped burial mounds and gamontai shinjukyo (mirrors with an image band decorated with gods and animals) throughout the area around the Seto Inland Sea, which can be regarded as the movements of the Wa State described in Gishiwajinden, started when Himiko was queen of the Wa State in the first half of the third century. Therefore, the establishment of the Wa Sovereignty with several coexisting Wa kings can be dated to the beginning of the third century. This starting point of the Wa State, which exceeded the regional boundaries of the Yayoi period, marked a turning point of the age. Defined as "the period of nation building in Wa," the Kofun period can include the first half of the third century as its early stage.Remaining challenges are to get a clear picture of the Yamato State in the Late Yayoi period, as a leading force in the Wa State, and understand why the Yamato State became the leader of the Wa State after the domestic warfare. On the other hand, since there were exceedingly few iron implements and large-scale burial mounds, some researchers consider that the Wa Sovereignty did not follow as an extension of the Yamato State in the Kinai region but was established by an emerging force in the eastern Setouchi region. There are significant differences of opinion on who established the Wa State.With regard to the shift from the Yayoi period to the Kofun period, the carbon-14 dating method is suggesting a new framework. The method can reconfirm the date of the Hashihaka burial mound as around the middle of the third century. More importantly, the Shonai pottery is dated earlier to the second century. This means that the formation of the Makimuku site is also dated earlier to before the birth of the Wa State. Therefore, the site can be regarded as the independent establishment of the base of the Yamato State.Defining the Kofun period as described above, the present article is aimed at giving the latest picture of how the Wa State was established, based on the new view of dating. To this end, the article covers the establishment process of the Yamato State from the Late Yayoi period to the Kofun period and new perspectives on the Makimuku site, as well as examines the development of keyhole-shaped burial mounds including a comparison between the Tatetsuki mound tomb and Makimuku Ishizuka burial mound.
著者
大藤 修
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.173-223, 2008-03-31

本稿は、秋田藩佐竹家子女の近世前半期における誕生・成育・成人儀礼と名前について検討し、併せて徳川将軍家との比較を試みるもので、次の二点を課題とする。第一は、幕藩制のシステムに組み込まれ、国家公権を将軍から委任されて領域の統治に当たる「公儀」の家として位置づけられた近世大名家の男子は、どのような通過儀礼を経て社会化され政治的存在となったか、そこにどのような特徴が見出せるか、この点を嫡子=嗣子と庶子の別を踏まえ、名前の問題と関連づけて考察すること。その際、徳川将軍家男子の儀礼・名前と比較検討する。第二は、女子の人生儀礼と名前についても検討し、男子のそれとの比較を通じて近世のジェンダー性に迫ること。従来、人生儀礼を構成する諸儀礼が個別に分析されてきたが、本稿では一連のものとして系統的に分析して、個々の儀礼の位置づけ、相互連関と意味を考察し、併せて名前も検討することによって、次の点を明らかにした。①幕藩制国家の「公儀」の家として国家公権を担う将軍家と大名家の男子の成育・成人儀礼は、政治的な日程から執行時期が決められるケースがあったが、女子にはそうした事例はみられないこと。②男子の「成人」は、政治的・社会的な成人範疇と肉体的な成人範疇に分化し、とりわけ嫡子は政治的・社会的な「成人」化が急がれたものの、肉体的にも精神的にも大人になってから江戸藩邸において「奥」から「表」へと生活空間を移し、そのうえで初入部していたこと。幼少の藩主も同様であったこと。これは君主の身体性と関わる。③女子の成人儀礼は身体的儀礼のみで、改名儀礼や政治的な儀礼はしていないこと。④男子の名前は帰属する家・一族のメンバー・シップや系譜関係、ライフサイクルと家・社会・国家における位置づけ=身分を表示しているのに対し、女子の名前にはそうした機能はないこと。
著者
新井 勝紘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.126, pp.67-85, 2006-01-31

日本における軍事郵便制度の確立は、一八九四年の日清戦争時に出された勅令がはじまりで、前史としては、一八七四年に太政官布告の「飛信逓送規則」がある。非常時の特別郵便の必要性は早くから認識されていた。日清戦争時だけでも内地と戦地とを合せて一二三九万通余りの量になり、日露戦争時には四億六千万通近い数になっている。戦争の規模も動員数も日清戦争とは大きな隔たりがあるが、その取扱い件数は桁違いで、軍事郵便規則や軍事郵便取扱規程が定められ、我国の軍事郵便制度は日露戦争を契機として整ったといえる。その後増補改正をしつつ、アジア太平洋戦争へとつながり、一九四六年まで続く。このように軍事郵便史を紐解くと、日本の近代史に刻印されている戦争の姿がみえてくる。それは当然ながら、国民意識にも強い影響を与えている。二一世紀に入り、日露戦争一〇〇年、戦後六〇年という節目の年を迎えているが、日本近現代史研究のなかでも、改めてさまざまな視点による戦争研究が活発になり、とりわけ戦争参加が最初で最後の外国体験となった兵士の立場に注目し、かれらの戦争体験を改めて分析対象に据えてみようと多くの取り組みがなされている。個人のプライベイトな手紙である軍事郵便研究もその流れのひとつといえよう。ではいったい、軍事郵便研究の足跡はどのようになっているのだろうか。すでに複数の成果があるが、まだ数が少ない。軍事郵便そのものの発掘と公開が遅れており、筐底に埋もれたまま放置されている。戦争体験者も高齢化し、間もなく直接の聞き取りも困難になる。この現実の上にたって改めて軍事郵便に注目してみると、制度史、郵便そのものの内容分析と比較検討、兵士の戦争体験の中身、銃後の人々の意識、その往復過程での相乗作用、野戦郵便局と検閲の変遷と実態、先行研究の文献確認と課題などが山のように見えてきたが、まず本稿は基礎的研究から着手し、今後の私の研究の端緒としたい。
著者
永島 朋子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.218, pp.183-204, 2019-12-27

本稿は、延喜太政官式123考定条に規定されている挿頭花(かざし)を素材に、平安貴族社会の可視的表象の一端について考察した。挿頭花には造花を装飾する場合と生花を装飾する場合とがある。『延喜式』では一例のみ挿頭花についての記載が見える。それが延喜太政官式123考定条である。延喜太政官式123考定条は、八月十一日に太政官職員の長上官の考文を太政官曹司庁で大臣に口頭報告する儀式である。しかしながら、延喜太政官式123考定条は、挿頭花が穏座三献の場で装飾されることを定めているのみで、実態については記していない。そこで、定考の挿頭花装飾の具体的な様相を解明するため、『政事要略』巻二十二所引西宮記本文に着目し、検討を加えた。その結果、定考での挿頭花には大臣は白菊、納言は黄菊、参議は竜胆、弁以下少納言には時の花(=生花)の挿頭花が装飾されていること、その装飾の場面は太政官曹司庁で行われる饗宴のうち穏座三献であること、穏座三献で用いられている挿頭花は雅楽寮が奏楽を行う間、挿頭花装飾者よりも下位の者が手に取り、装飾者の冠に挿すこと、それがひと続きの作法であったことなどの特徴を抽出した。その上で、定考で用いられる挿頭花の区分は太政官政務処理上の権限の違いを可視化していることなどを指摘した。そして、『政事要略』所引西宮記本文が『西宮記』を著した源高明が大納言として習得した村上天皇の天徳・応和年間(九五七~九六三)までの様相を伝えていることから、この段階までには挿頭花装飾の序列と装飾者の固定化が生じていることを確認した。定考は、天皇の出御が見られないとはいえ、天皇の官制大権に関わる儀式でもある。その穏座三献で挿頭花を用いる制度的な根拠となったのが、延喜太政官式123考定条であることなどを述べた。
著者
松田 睦彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.183, pp.187-207, 2014-03-31

小稿は山から石を切り出す採石業に従事する石屋が祀る山の神について,その祭祀の実態を明らかにすることを目的とする。しかし,この目的を達するためには,生業と信仰の関係に注目した研究を取り巻く3 つの問題点を克服しなければならない。すなわち,取りあげられる生業が限定的であること,祭祀の形態についての報告が多くその実態が明らかでないこと,そして,特定の職と職能神との固定的な関係性を前提としていることである。小稿では,この3 つの問題点をふまえたうえで,瀬戸内海地域で活動してきた石屋の山の神祭祀を具体的に検討した。その結果,祭神については特定の神仏と結びつかない例のほか,大山祇神社の大山祇命や石鎚山の石鎚大神といった近隣の社寺の祭神などを祀ることが明らかとなった。また,祭日については正月・5 月・9 月の7 日または9 日という例が多いが,これは近畿から中国,四国に広がる7 日または9 日を山の神の祭日とする考え方と,九州地方を中心に広がる正月・5 月・9月を山の神の祭りを行なう日とする考え方が融合したものである可能性を指摘した。さらに,祭場については山中の特定の場所に簡易に祀るものから神社として祀るものまで多様であり,祈願内容については不慮の事故の防止や良質の石材の産出などが挙げられた。ただ,こうした祭祀の様相は,祭祀の実態を示すものではない。そこで,山の神祭りを行なってきた当事者の語りに注目し,それを同じく石屋の祀る神であるフイゴ神の祭祀についての語りと比較した。すると,これまで石屋の祭祀の中心をなすと考えられてきた山の神に対する信仰が,必ずしも熱心だとは言い難いものであることが明らかになった。こうした結論は,3 つの問題点の3 番目に挙げた特定の職と職能神との固定的な関係を前提とした研究のはらむ危険性を示すものでもある。
著者
倉石 忠彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.237-262, 2003-03-31

道祖神は境界の神であるとする認識は広い。しかし、そのような視点のみによって、民間伝承として全国に伝承されている道祖神の、多様な習俗のあり方が十分に説明されたわけではない。特に都市における道祖神信仰はほとんど視野に入っていなかった。しかし、文献上にみられるのは都市の道祖神信仰である。中世以前は京の都を中心とするが、近世城下町においても盛んに道祖神の祭りが行われている。十九世紀初頭の民間伝承を記録した『諸国風俗問状答』にみられる秋田・長岡の道祖神祭りには、城下町の空間と階層に基づく道祖神祭りのあり方が明確に見られる。これは信州松本あるいは松代においても同様であり、道祖神の信仰が人々の生活と密着していたということができる。そこにみられるのは必ずしも境を閉じて外来のものを遮り止める機能だけではない。境を開く機能を持ち、家の繁栄と生活の安泰を祈る対象でもあった。このような機能を持つようになったのは、境界神が男女双体の神と認識されるようになった結果である。記紀神話においては必ずしも性的な認識がなく、単神として記録されている境界神に性的要素が付加されることにより、境界において閉じる機能を発揮するのではなく、開く機能を発揮する神と考えられるようになった。これはまた佐倍乃加美と呼ばれていた神に、「道祖」の文字が当てられ、さらに「道祖神」と表記され、これがドウソジンと音読みされる契機になった。そのことによって、境界性に制約されることなく、様々な要素を付加されやすくなったということができるであろう。現在でも、都市においては道祖神信仰は再生産されている。
著者
遠部 慎 宮田 佳樹 小林 謙一 松崎 浩之 田嶋 正憲
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.137, pp.339-364, 2007-03-30

岡山県岡山市(旧灘崎町)に所在する彦崎貝塚は,縄文時代早期から晩期まで各時期にわたる遺物が出土している。特に遺跡の西側に位置する9トレンチ,東側に位置する14トレンチは調査当初から重層的に遺物が出土し,重要な地点として注目を集めていた。彦崎貝塚では土器に付着した炭化物が極めて少ないが,多量の炭化材が発掘調査で回収されていた。そこで,炭化材を中心とする年代測定を実施し,炭化材と各層の遺物との対応関係を検討した。層の堆積過程については概ね整合的な結果を得たが,大きく年代値がはずれた試料が存在した。それらについての詳細な分析を行い,基礎情報の整理を行った。特に,異常値を示した試料については,再測定や樹種などの同定を行った。結果,異常値を示した試料の多くは,サンプリング時に問題がある場合が多いことが明らかになった。特に水洗サンプルに顕著で,混入の主な原因物質は現代のものと,上層の両者が考えられる。また,混入した微細なサンプルについても,樹種同定の結果,選別が可能と考えられた。これらの検討の結果,明らかな混入サンプルは,追試実験と,考古学的層位などから,除くことが出来た。また,9トレンチと14トレンチと2つのトレンチでは堆積速度に極端な差が存在するものの,相対的な層の推移は概ね彦崎Z1式層→彦崎Z2式層→中期層→彦崎K2式層→晩期ハイガイ層となることがわかった。今後,本遺跡でみられたコンタミネーションの出現率などに留意しつつ,年代測定試料を選別していく必要がある。そういった意味で本遺跡の事例は,サンプリングを考えるうえでの重要なモデルケースとなろう。
著者
鈴木 正崇
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.247-269, 2012-03-30

長野県飯田市の遠山霜月祭を事例として、湯立神楽の意味と機能、変容と展開について考察を加え、コスモロジーの動態を明らかにした。湯立神楽は密教・陰陽道・修験道の影響を受けて、修験や巫覡を担い手として、神仏への祈願から死者供養、祖先祭祀を含む地元の祭と習合して定着する歴史的経緯を辿った。五大尊の修法には、湯釜を護摩壇に見立てたり、火と水を統御する禰宜が不動明王と一体になるなど、修験道儀礼や民間の禁忌意識の影響がある。また、大地や土を重視し竈に宿る土公神を祀り、「山」をコスモロジーの中核に据え、死霊供養を保持しつつ、「法」概念を読み替えるなど地域的特色がある。その特徴は、年中行事と通過儀礼と共に、個人の立願や共同体の危機に対応する臨時の危機儀礼を兼ねることである。中核には湯への信仰があり、神意の兆候を様々に読み取り、湯に託して生命力を更新し蘇りを願う。火を介して水をたぎらす湯立は、人間の自然への過剰な働きかけであり、世界に亀裂を入れて、人間と自然の狭間に生じる動態的な現象を読み解く儀礼で、湯の動き、湯の気配、湯の音や匂いに多様な意味を籠めて、独自の世界を幻視した。そこには「信頼」に満ちた人々と神霊と自然の微妙な均衡と動態があった。
著者
齋藤 努 坂本 稔 高塚 秀治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.177, pp.127-178, 2012-11-30

宮城県に在住する刀匠・九代法華三郎信房氏とご子息の栄喜氏のご協力により,代々継承している作刀技術のうち,「卸し鉄」「折り返し鍛錬」「焼き入れ」の3つについて,自然科学的な観点から調査を行い,下記の諸点が明らかになった。卸し鉄では,同じ炉を使い,ほとんど同じような動作をしているのに,軟鉄への浸炭と銑鉄からの脱炭という正反対の反応を起こすことができる。両者において,炉内ではまったく異なるメカニズムが働いていると推測される。すなわち,軟鉄の浸炭では,炉の上部で固体の鉄に炭素が吸収され,融点が下がって半溶融状態となり,炉底に垂れ落ちていく。炉底ではできるだけ風があたらないようにして,脱炭が起こらないようにする。一方,銑鉄の脱炭では,炉の上部で鉄が溶解して液体状態になり,炉底に少しずつ流れ落ちていく。炉底では羽口からの風があたるようにして,鉄中の炭素を燃焼させ,炭素濃度を下げる。折り返し鍛錬において,折り返し回数が増えるにつれて,炭素濃度の均一化されていく様子が観察された。参考文献などにある「折り返し鍛錬によって介在物が減少していく」という現象は確認されず,鍛接面に生じるものもスラグに由来するものも,折り返し回数が増えるほど小さくなり均一に分散されていくことがわかった。鍛造開始時の加熱温度については,仮着けでも泥沸かしでも,鉄の炭素濃度に応じて異なる傾向がみられた。また仮着けと泥沸かしの工程では,加熱温度,作業を行う温度,作業継続時間に相違がみられた。これはそれぞれの工程での目的と刀匠の意識が反映されているものと考えられた。焼き入れにおいて,沸と匂を作りわける場合の加熱温度の違いを実験的に確認できた。これは刀匠の感覚とも整合的であった。また焼刃土の下の鉄の温度の測定により,焼刃土が地部の徐冷に役立っていることが確認された。
著者
五十川 伸矢
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.1-79, 1992-12-25

鋳鉄鋳物は,こわれると地金として再利用されるため,資料数は少ないが,古代・中世の鍋釜について消費遺跡出土品・生産遺跡出土鋳型・社寺所蔵伝世品の資料を集成した。これらは,羽釜・鍋A・鍋B・鍋C・鍋I・鉄鉢などに大別でき,9世紀~16世紀の間の各器種の形態変化を検討した。また,古代には羽釜と鍋Iが存在し,中世を通じて羽釜・鍋A・鍋Cが生産・消費されたが,鍋Bは14世紀に出現し,次第に鍋の主体を占めるにいたるという,器種構成上の変化がある。また,地域によって異なった器種が用いられた。まず,畿内を中心とする地方では,羽釜・鍋A・鍋Bが併用されたが,その他の西日本の各地では,鍋A・鍋Bが主要な器種であった。一方,東日本では中世を通じて鍋Cが主要な煮沸形態であり,西日本では青銅で作る仏具も,ここでは鉄仏や鉄鉢のように鋳鉄で製作されることもあった。また,近畿地方の湯立て神事に使われた伝世品の湯釜を,装飾・形態・銘文などによって型式分類すると,河内・大和・山城などの各国の鋳造工人の製品として峻別できた。その流通圏は中世の後半では,一国単位程度の範囲である。こうした鋳鉄鋳物を生産したのは,中世には「鋳物師」と呼ばれる工人であった。鋳造遺跡の調査成果から,銅鉄兼業の生産形態をとるものが多かったことが想定できる。また,生産工房は,古代には製鉄工房に寄生する形態をとるが,中世には鋳物砂の産地周辺に立地する場合が多い。中世後半には都市の周縁に立地するものも現われた。生産に必要な固定資本の大きさから考えて,商業的遍歴はありえても,移動的操業は少なかったものと推定できる。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.141-193, 2002-03-29

本稿は,長野盆地における大河川の氾濫原・沖積扇状地と山麓丘陵部という対照的な二つの地域における災害と開発の歴史を類型化する試みを提示するとともに,開発勢力に注目して中世社会の災害と開発力の歴史的特質を検討しようとするものである。前者,大河川の氾濫地域では開発が後れ,ほとんど近世の新田開発によると考えられていた。しかし,近年の大規模開発による考古学調査と用水や地名を中心とした荘園遺構調査など総合的地域史研究によって,10・11世紀における古代の先行した開発が確認され,大河川の洪水災害のあとも,伊勢上分米を開発資本として投資・復興させつつ御厨に編成しようとする動きと,国衙と結んで公領として再組織する動向とが拮抗していたこと。その開発勢力として伊勢平氏の平正弘一門が大きな役割を果たしたことを指摘した。他方,山麓丘陵部から扇状地一帯に古代の鐘鋳川を利用した条里水田が先行していたが,9・10世紀における土砂災害で鐘鋳川が埋没を繰り返す中で,国衙による条里水田の維持・復興が困難になり,院政期には後庁の在庁官人を指揮しうる院権力と結ぶ開発勢力が鐘鋳川を復旧・延長し,周辺部の再開発地に松尾社領や八条院領を立荘していった。さらにその縁辺部の非条里水田地域では,鎌倉~室町期に御家人平姓和田氏や国人高梨氏が六ヶ郷用水という第二次的補足的用水体系を開削して新しい開発地域を拡大していく努力を繰り返した。この開発勢力として院の北面や女院侍として活躍する一方鎌倉御家人をも輩出した越後平氏諸流の存在を「京方御家人」という概念で把握すべきことを指摘した。地域の開発景観が時代の変遷と開発主体の相違にもとづいて複合構造をなしていたといえよう。
著者
阿南 透
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.223-252, 2018-02-28

本稿は,高度成長期における都市祭礼の変化を,地域社会との関係に注目しながら比較し,変化の特徴を明らかにするものである。具体的には,青森ねぶた祭(青森県青森市),野田七夕まつり(千葉県野田市),となみ夜高まつり(富山県砺波市)を例とする。青森ねぶた祭では,1960年代に地域ねぶたが減少するが,1970年代には公共団体や全国企業が加わって台数が増加し,観光化が進んだ。そして各地への遠征や文化財指定へとつながった。野田七夕まつりなどの都市部の七夕まつりは,1951〜1955年に各地の商店街に普及するが,1965〜1970年頃に中止が目立った。野田でも1972年にパレードを導入し,市民祭に近づけることで存続を図った。となみ夜高まつりなど富山県の「喧嘩祭」は,1960年頃に警察やPTAなどから批判されて中断し,60年代後半に復活した。このように,高度成長期前期には,どの祭礼にも衰退や中断,重要な変更がみられた。一方,後期には,祭礼が復興し発展したことが明らかになった。変化の要因として,前期の衰退には,経済効率第一の風潮のほか,新生活運動も関与していた可能性がある。後期の復興には,石油ショック以後の安定成長期の「文化の時代」に,祭礼が文化として扱われ,文化財指定を受ける「文化化」,祭礼が観光資源になる「観光化」,行政などが予算を立案し,業務として運営する「組織化」,さらに事故のない祭礼を目指す「健全化」などの特徴が見られる。
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.85-120, 2012-03-01

本稿では,弥生文化を,「灌漑式水田稲作を選択的な生業構造の中に位置づけて,生産基盤とする農耕社会の形成へと進み,それを維持するための弥生祭祀を行う文化」と定義し,どの地域のどの時期があてはまるのかという,弥生文化の輪郭について考えた。まず,灌漑式水田稲作を行い,環壕集落や方形周溝墓の存在から,弥生祭祀の存在を明確に認められる,宮崎~利根川までを橫の輪郭とした。次に各地で選択的な生業構造の中に位置づけた灌漑式水田稲作が始まり,古墳が成立するまでを縦の輪郭とした。その結果,前10 世紀後半以降の九州北部,前8 ~前6 世紀以降の九州北部を除く西日本,前3 世紀半ば以降の中部・南関東が先の定義にあてはまることがわかった。したがって弥生文化は,地域的にも時期的にもかなり限定されていることや,灌漑式水田稲作だけでは弥生文化と規定できないことは明らかである。古墳文化は,これまで弥生文化に後続すると考えられてきたが,今回の定義によって弥生文化から外れる北関東~東北中部や鹿児島でも,西日本とほぼ同じ時期に前方後円墳が造られることが知られているからである。したがって,利根川以西の地域には,生産力発展の延長線上に社会や祭祀が弥生化して,古墳が造られるという,これまでの理解があてはまるが,利根川から北の地域や鹿児島にはあてはまらない。古墳は,農耕社会化したのちに政治社会化した弥生文化の地域と,政治社会化しなかったが,網羅的な生業構造の中で,灌漑式水田稲作を行っていた地域において,ほぼ同時期に成立する。ここに古墳の成立を理解するためのヒントの1 つが隠されている。
著者
森栗 茂一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.277-304, 1993-03-25

従来,民俗学では,性の問題を取り扱うことは少なかった。また,男の視点からのみ,議論が展開することが多かった。ここでは,水俣病の発生の問題を,地域共同体の崩壊のなかでみようとし,とくに夜這いといわれる共同体的な性の交換制度の崩壊について,議論した。明治に入って,日本の近代化は,新興寡占地主を生み,土地の集中をもたらした。貨幣経済の浸透とともに,土地を持たない農民の間では,相互扶助関係は崩壊し,性の相互交換としての男と女の助け合い関係としての夜這いが衰退した。一方,工場を持たない天草などのより貧困な地域からは,女が売りに出され,近代都市の周辺に売春街が形成された。男の心は,新興地主も,伝統的な旧家も,そして工場労働者も,売春へと向かい,そこに放蕩を繰り返し,没落していった。それは,近代における人間の経済のエロチシズムであったのかもしれないが,その行き着く先は,水俣病という自己破滅であった。