著者
南浦 涼介 石井 英真 三代 純平 中川 祐治
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.85-95, 2021-03-31 (Released:2022-04-01)
参考文献数
16

これまで多くの場合,評価という形で捉えられてきたものは,それが評定目的であっても,改善目的であっても,基本的には「個人」を対象にし,その能力の判定や形成を如何に目的に合う形でおこなうかという点では,発想は共通していた。しかし,近年のオルタナティブアセスメントの議論を見れば,評価は決して「個」を単位に「数値化・指標化」していくだけではなく,「共同体」を単位に「物語化」していく観点も見ることができる。 本稿では,こうした流れをうけて,評価という営みに教育としてどのような可能性があるのかを論じ,評価概念の再検討を試みる。そして評価について,1)実践共同体の関係性の構築を単位とすることができる点,2)事例をめぐる当事者間の対話による間主観性を生み出す物語の構築が重要である点,3)「評価する」という行為とそれをなす場の存在自体が,新しい学びやつながりを生み出す創発性を有する点,を論じていく。 また,具体的事例として学びの対象者が「外国人」であることから,個人の学習や発達の保障と個人をめぐる社会関係の構築や共同体への参加が不可分な関係にある日本語教育を事例とする。その事例から,上述の「共同体の実践の物語化」がいかにして評価の側面を生み出し,またそこにいかなる価値が見いだされるのかを具体的に見ていきたい。
著者
齋藤 孝
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.71-79, 1995-03-31 (Released:2017-04-22)

The purpose of this paper is to elaborate the concept of "style" as the pedagogical term through a case study of an American female teacher's radical teaching at the elementary school. The teacher's name is Jane Eliot, and the documentary film's title of this practice is "A Class Divided". To teach the racial problem she divided her class by the color of the children, and discriminated against their color. This experiment had an extraordinary effect on reducing their racial prejudice. At first, her skills are detailed and their pedagogical meanings are clarified. This description makes it clear that the effect of this experiment is based on her detail skills which are usually overlooked. Secondaly, her lived body's imporant role in her practice is described. This description is based on Melreau-Ponty's phenomenological study of our lived body. Lastly, her teaching style is interpreted. The concept of style means the coherent deformation of the standard mode in several demensions from one's principle or identity to the concrete teaching skills. In conclusion, the meanings of an excellent teaching method can be learned by the description and interpretation of the teacher's detail skills, lived body, and style.
著者
石井 英真
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.47-58, 2003-03-31 (Released:2017-04-22)
被引用文献数
1

本稿は「改訂版タキソノミー」(以下「改訂版」と略す)に関する論稿である。「改訂版」は,かつてブルーム(B. S. Bloom)らによって開発された「教育目標の分類学」(以下ブルーム・タキソノミーないしは初版)の認知領域を改訂したものである。本稿では,初版との比較を通して「改訂版」の意義を探った。まず,本改訂における変更点について考察した。そして,特に注目すべき構造上の変化として,知識と認知過程の二次元構成を取り上げ,その中身について論じた。次に,初版の意義と限界を明らかにするために,初版における目標構造化の論理(タキソノミーの構造に内在している授業改善の方向性)を抽出し,その背後にある学習観についても検討した。最後に,「改訂版」の学習観と目標構造化の論理について分析を加えた。以上より,次のようなことが明らかになった。初版と「改訂版」との間には,学習観における重大な差違があり,「改訂版」の学習観(構成主義,領域固有性)は,初版の学習観を転換させるものである。そして,この学習観の転換がカテゴリー構成のレベルで具体化された結果,「改訂版」は初版にはない二つの視点(知識習得の質を問い直す回路,高次の認知目標を支える知識を問う回路)を生み出している。こうして,初版から「改訂版」への改訂は,目標構造化の論理を再構築する過程として捉えることができるのである。
著者
進藤 聡彦
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.95-105, 2003-03-31 (Released:2017-04-22)

社会科の歴史領域は暗記科目などと言われることがある。このことから,多くの学習者は機械的な暗記による学習方略を採用していると考えられる。そして,そのような学習方略の採用は,学習項目間の繋がりを欠き,有意味性を感じにくくさせるために,学習者にとっておもしろい学習とはなりにくいと予想される。そこで,調査Iでは歴史学習の好悪と学習方略の関連が調べられた。その結果,歴史の学習が好きだったとする者は嫌いだったとする者に比べて,メタ認知的な学習方略を採用していることが明らかになった。このことは,機械的な暗記による学習方略が歴史の学習を嫌いなものにすることを示唆する。学習者に歴史学習をおもしろいものとして捉えさせるための方法として,知識の構造化による有意味化が有効だと考えられる。そして,構造化のための前提として疑問が生成されることが必要だと推定される。すなわち,断片化された知識の関連についての不十分な知識は,疑問という形で意識される必要があるからである。こうした観点から,調査IIでは疑問の生成を保証するのは理解のモニターや既有知識との関連をつけようとするようなメタ認知に関わる学習方略の採用だとする仮定の下に,疑問の生成能力とメタ認知能力の間の関連が探られた。その結果,疑問の生成能力とメタ認知能力の間に相関関係が確認され,メタ認知的な方略の育成が構造化された知識の前提になり,そのことが知識の構造化による歴史学習の有意味化につながると考察された。
著者
楠見 友輔
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.25-36, 2021-03-31 (Released:2022-04-01)
参考文献数
50

本稿では,ニュー・マテリアリズムの理論を教育研究に取り入れる意義について論じた。社会科学や人文学では,旧来,主体性は意思のある人間の性質とされ,物は因果的な性質を持つとして人間からは区別されてきた。近年の社会科学において注目されている社会構築主義においては,人間と物の多様で複雑な関係が考慮され,子どもの学習のミクロな過程が明らかにされてきた。しかし,物は人間にとっての道具に置き換えられることによって人間との関係を有すると考えられ,子どもの学習は言説的相互行為を分析することを通してのみ明らかにされてきた。ポスト構築主義に立つニュー・マテリアリズムでは,上記のような物と人間の二元論の克服が目指される。ニュー・マテリアリズムでは物の主体性と人間の主体性を対称的に捉え,コミュニケーションへの参加者が非人間にまで拡大される。物と人間はアッサンブラージュとして内的-作用をしていると捉えられ,特定の発達の筋道を辿らない生成変化が注目される。研究者は,回折的方法論によって実践から切り離されたデータと縺れ合うことで新しい知識を生産する。このようなフラットな教育理論を採用することは,これまで否定的な評価を受けてきた子どもの学習の肯定的側面を捉えることや,これまで見過ごされてきた知識の生産を促し,規範的な教育論から逃れた教育実践と研究の新しい方向性を見出す可能性を有している。
著者
金馬 国晴
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.73-84, 2004-03-31 (Released:2017-04-22)

カリキュラムに生活経験,または生活活動を導入する試みは,それだけで批判されるべきものなのか。本稿では,戦後初期のコア・カリキュラムにおける,生活活動と各教科の知識・技能の関係を明らかにする。この作業を通じて,「はいまわらない」経験主義について明らかにする。当時,コアとは社会科を,とくに<生活活動>を意味した。だが,それはコア・カリキュラムの狭義にすぎず,広義には,再構成されたカリキュラム全体を指した。再構成は,教科ごとに分断された教科課程などへの批判を意図して行われ,代わって<単元>というものが導入された。戦後初期,この<単元>に各教科の知識・技能を関連づけるにあたっては,二つの類型があった。一つは「単元内連続」といえる関係である。その代表は,有名な桜田小学校の樋口澄雄による「郵便ごっこ」であった。ここでは,知識・技能は活動を通じて「連続的」に学ぼれるものと見なされた。対して,業平小学校の吉野正男による「ゆうびん」には,「単元外接合」というべき関係が見られ,注目に値する。活動において必要となったときに知識・技能が「とり立て」て教授されたのである。両者を比較した場合,後者の「単元外接合」のように,各教科の知識・技能を教えるべき機会で教えるカリキュラムが重要な意味をもつ。コア・カリキュラムにはこうした類型も含まれていたのである。
著者
川地 亜弥子
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.1-12, 2005-03-31 (Released:2017-04-22)

本稿では,1930年代の生活綴方の教育評価論について,形成過程を明らかにすると同時に,作品批評の実際として集団的合評作業に注目し,その構造を明らかにする。綴方教師は子どもの生活把握を契機として,学校における既存の価値基準を問い直した。その上で,作品批評に関する議論において,子どもの認識と表現のリアリズムとともに,全人的な評価の重要性が自覚された。同時に,子どもの内面に手をのばし,子どもたちが文化を生み出すための技術として,基礎的な表現技術の獲得が目指された。このような作品批評の規準の転換が行われる中で,教科の体系からではなく,民衆の生活と子どもの発達要求からの綴方指導の体系の構築,すなわち「生活学」とそれに基づく「教育学」の構築が目指された。また,その体系は教師の「教養」によって鍛え直されるべきとされた。集団的合評作業の分析からは,以下のことが明らかになった。綴方教師たちは,子どもたちの自由な表現を大切にし,教師も協働者として位置づけた。また,集団的合評作業を通じて生活の改善と文化の創造が目指された。その中で,直接的に生活に役立つ行動のみでなく,悩みや問題を共有し,相手の立場で考える過程も「協働」と捉えるような,新たな作品批評規準が誕生していた。生活綴方における教育評価論は,子どもたちの議論を通じて文化を生み出させていく作品批評の中で構築されたのである。
著者
広石 英記
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.1-11, 2006-03-31 (Released:2017-04-22)
被引用文献数
3

従来の学校教育の底流にある客観主義的知識観は,実在的真理(普遍的正答)を措定してその個人的獲得を学習と見立てていたといえよう。これに対して社会構成主義は「知識は人々の社会的な関係性の中で構成される」と考える。この考え方に立つと,学習とは知識を受動的に記憶する個人の内的プロセスではなく,学習者が他者との相互作用を通じて知識を構成していく社会的行為ということになる。社会構成主義の知識観を学校教育の文脈に翻訳すれば,教育内容の意味は,所与の知識として教科書の中や教師の頭の中に存在するものではなく,教師と子ども,あるいは子どもどうしのコミュニケーションによって生成されるものであり,相互主体的な実践があって初めて構成されることになる。このような社会構成主義の持つ知識観を理解することによって,われわれは,ワークショップという学びのスタイル(参加型学習)の持つ,豊かな教育的意義を理論的に検証できる地平に立つことができる。その意味で,本論文は,これまで両者の関係が意識されずに,それぞれが独自な展開を見せてきた二つの出自が異なる生産的思考(社会構成主義)と生産的手法(ワークショップ)のより豊かな結びつきを育み,新しい学びの世界を開いていくための最初の試みである。
著者
桑原 昭徳
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.151-158, 1993-03-31 (Released:2017-04-22)

In 1912 (45th year of Meiji), Sozo Kurahashi wrote a literary work "MORINO-YOUCHIEN (Grove Kindergarten)" which he started his pedagogical study with, and practically made his debut in the world of kindergarten pedagogy as well as in the practical world of early childhood education. In this work which he drew up figuers of idealistic kindergarten, he proposed his "indirect education" as the method of early childhood education. The "indirect education" in "Grove Kindergarten" has schematically a structure of "educator-material-child" relation ("educator-thing-child" relation in generalized terms) which can be categolized as the first pattern of his "indirect education". In other articles, he proposed the second and the third patterns of relationship which were respectively "educator-child-child" ("educator-man-child"), and "educator-play-child" relation ("educator-phenomenon-child" relation in generalized terms). Like this, Kurahashi's "indirect education" has triple meanings.[table]Recently the method of "education through environment" has been recognized to be important in early childhood education. "Education through environment" that is "education through things, men and phenomena" mediate between educator's intention and child. In this sense, "education through environment" can be said to be the same as "indirect education" that was proposed by Kurahashi. The term of "indirect education" which explain the structure of "education through environment" will become a key-word in the methdology of early childhood education.
著者
徳岡 慶一
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.67-75, 1996-03-31 (Released:2017-04-22)
被引用文献数
1

The author examines the features of pedagogical content knowledge (pck) and its implications. Pck was first contrived by L. S. Shulman. He was indicated pck as very important knowledge among teacher knowledge base. Pck is combined knowledge, including knowledge of content, pedagogy and knowledge of the learner's conceptions and preconceptions, including misconceptions. And pck is invented by teacher who will teach some topics. Pck is producted through the process of pedagogical reasoning (pr). Shulman especially emphasized transformation in that process. Transformation is constituted by four process, preparation, representation, selection and adaptation & tailoring to student characteristics. The features of pck is as follows. (1) pck is amalgam of some knowledge (2) pck is producted through pr which is the problem-solved process (3) pck is special forms of teacher knowledge which indicates the features of professional aspects of teaching The implication of pck from point of teacher education, is the next two points. (1) pck points out the importance of the courses of content and method (2) pck indicates the needs of means for 'apprenticeship of observation' formed before entering the teacher education program The contents are as follows. 1. Introduction 2 . Shulman's pck and its formation process 3. The evolution of the study of pck 4. The features of pck 5. Conclusion
著者
田渕 久美子
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.1-11, 2019-03-31 (Released:2020-04-01)
参考文献数
21

本研究の目的は,学校におけるいじめのような人間関係の問題について,対立の解決過程から学び,市民社会の形成者としての子どもを育てる学校コミュニティと指導のあり方を考えることである。修復的正義の理論と実践は,共同体主義に基礎づけられている。また修復的正義の求めるコミュニティのあり方は,市民社会の維持に向けられたものである。身近な人権侵害や問題行動の予防と解決は,コミュニティのあり方と関連するため,学校においても,学校や学級が対話によって包摂的修復的であることが求められる。 ここで参照したい修復的正義の理論と実践において重要な方法原理は,対話と,対話による物語論的な他者理解,および再統合的恥づけ理論(ブレイスウェイト)である。アーメッドは,再統合的恥づけ理論をもとに,いじめに関する研究において,コミュニティとの関係で「恥のマネジメント」という概念を提示している。指導が烙印づけにならず,恥づけになり再統合がなされることが重要である。そのようにして問題行動の抑止,および問題が起こった後の人間関係の修復やコミュニティへの再統合は,包摂的修復的なコミュニティにおいて,よりよく行われる。もし,日本の学校がパターナリズムによらず,子どもの問題解決過程への主体的な参加を促すことができれば,子どもたちは市民社会を形成し維持する者として育つことができるのではないだろうか。
著者
生越 達
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.1-9, 2000-03-31 (Released:2017-04-22)

Children have come to withdraw softly by degrees into themselves from the society. It seems to us that they are hoping to have to do with others but that they are afraid of being involved in others from the bottom of their heart. These soft withdrawals are caused by avoidance of others and as a resutl of that, shallow selves. In this thesis, two episodes are picked up: a 14 years' boy who killed young children bizarrely in Kobe and high school girls who look themselves in the looking glass elaborately in the train. In the first place, I interpret the crime statement of a 14 years old murderer. He describes himeself as the transparent being. It means his ego who lives in a different world from others and cannot communicate with others. In the second place, I explicate high school girls and show that they are seeking for others' sight but that they will not pay no attention to others' feeling. These episodes show commonly that some children demand and refuse others at the same time. Behind such their contradictory attitudes, weak or shallow selves of children are hidden. Children produce a variety of communication styles adaptative to their way of being. Many children go along easily with others' principles. They represent these accomodations as dependence and tuning. Or they refuse or neglect others. The result is that such attitudes are not the essence of the problems but only symptoms and that we have to pay attention to the anxiety of being themselves. Therefore it is important for us to accept their being.
著者
足立 淳
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.105-115, 2010-03-31 (Released:2017-04-22)

本研究は,成城小学校における教育方法改革の史的再検討の一環として,同校におけるドルトン・プラン受容をめぐる対立の構造を明らかにすることを目的とする。これまで一般的に,成城小においてドルトン・プランは,同校でそれまで独自に実践されていた自学法と高い親和性をもつ教育法として受容されたと理解されてきた。しかしながら,近年,新たな知見が提出されており,成城小の自学とドルトン・プランとが,同校の人びとが理解したように必ずしも一致するものではなかったことが示唆されている。このことを念頭において成城小におけるドルトン・プラン受容に貢献した主要な人物たちの言説を検討してゆくと,実際には,彼らのなかにドルトン・プランに対する異なる見解が存在したことに気づく。そこで本研究は,まず,沢柳政太郎の自学論の内実を検討し,成城小における自学の背景についてみた。次に,奥野庄太郎と赤井米吉の言説を対比的に分析することで,彼らのドルトン・プランに対する見解が異なるものであったことを論じた。そして,両者の見解の相違が,単なるドルトン・プランの解釈上の違いにとどまるものではなく,教育の目的観の対立構造に根ざすものであったことを明らかにした。
著者
水野 正朗
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.1-12, 2009-03-31 (Released:2017-04-22)

本論文では,文学テクストを教材とした国語の授業において,児童生徒から提出される多様な解釈をどのように扱うべきかという問題を,現代文学理論や記号論を手がかりに理論的に検討した。その結果,イーザーの読書行為論から,文学テクストは多様な解釈への潜在的な可能性を持つが,その可能性の幅はテクストに内在する戦略によって一定の幅に制限されていること,エーコの記号論から,文学テクストは文化的・社会的共同体における間主観的な合意の原理によって意味が規定されること,フィッシュの「解釈共同体」の理論から,解釈間の相互規定関係が重要であることが示唆された。さらに,スコールズの文学教育理論から,広義の「読み」のプロセスの中に「読むこと」「解釈」「批評」という3層が含まれ,それらが相互にかかわり合いながら,読みを動的に発展させていくことが示された。学級という学習共同体のなかで営まれる読みにおける個人思考と集団思考の関係は,必要となる読みの課題の特性によって動的に変化しつつ発展する。児童生徒と教師が,多様な解釈の可能性を前提にして討論することで,個々の認識を包含しつつ高いレベルで調和した読みが社会的に構成される。そして,その共同体内で開示され共有されたテクストの経験が,学習者の経験の蓄積に組み込まれることで,学習者それぞれの自己発見や自己変容を誘い,一人ひとりの主体的な読みを開くのである。
著者
住野 好久
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.57-66, 1994-03-31 (Released:2017-04-22)
被引用文献数
1

"The educative Instruction", presented by J. F. Herbart in 19th century, has been pursued als what instruction is till these days, though it was misinterpreted by Herbartians. But today, some problems concerning the educational praxis in schools undermines the existential basis of the school as the educational institution, and requests the reexamination of modern educative instruction theory. So, in this paper, the educative instruction, which has been examined only from instructional and educative viewpoint, is added to the investigation from the viewpoint of the school and institutional theory. For this purpose, at first, I investigate the theory of Herbart who developed the study of the educative instruction from the viewpoint of the school and institutional theory in the turningpoint from the feudal society to civil society in 19th century, and through critical succeeding his modern educative instruction theory, determine the practical problem of the educative instruction in these days. Today, I'm sure, it is possible to realize the educative instruction, only when we take up the paradigm of the integration of instructional, educative and institutional theory.