著者
渡辺 貴裕
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.15-26, 2015 (Released:2017-07-19)
参考文献数
11
被引用文献数
1

「専門家のマント」とは,専門家の役になった学習者が架空の依頼を受け,その課題に取り組む活動を通してさまざまな内容の学習を行うという手法である。この手法は,日本では,授業において用いることができる一つの技法という認識が一般的であった。しかし,この手法を発展させたドロシー・ヘスカットにとって,これは,カリキュラムの再構成をも伴う,より大きな可能性をもったものであった。ヘスカットが考える「専門家のマント」は,まず,単発ではなく複数回の授業を必要とするもので,また,常に教科横断的な学習を想定するものである。ヘスカットは,専門家の役になる際の間接性を重視する。また,架空の設定には「事業」「依頼人」「問題」という要素が必要であり,「事業」の確立が保障されなければならないとする。 ヘスカットが考えていたこうした「専門家のマント」の可能性は,2000年代に入ってからの,学校全体の規模でのこの手法への取り組みの出現により,実現した。ビーリングス小学校やウッドロー小学校はその一例である。これらの学校では,「専門家のマント」を通した教科横断的な学習が,カリキュラムの主要部分として組み込まれている。こうした新たな展開を支えたのが,ルーク・アボットと,彼が中心となって設立したMoE ドットコムというネットワーク組織である。アボットおよびこの組織はウェブサイトの運営や研修機会の提供を通して,この新展開に貢献している。
著者
竹川 慎哉
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.13-24, 2004-03-31 (Released:2017-04-22)

本研究の目的は,リテラシー形成理論と実践構想の比較検討をとおして,リテラシー形成における「批判」の意味を考察することにある。ここでは,アメリカにおいて,相互に議論を交わしている批判的思考論文化的リテラシー論そして批判的リテラシー論をとりあげる。リテラシー形成理論において,「批判」という言葉は多義的である。批判的思考論において,批判的であるということは,客観的・論理的・政治的に中立的になっていくことを意味し,それを支えるスキルの獲得が何より重視される。文化的リテラシー論は,アメリカ国民として政治的・文化的に生活するために必要な選ばれた知識の獲得が,批判的な思考を可能にすると強調する。しかし,前者において,スキルの強調は,学ぶ内容の無視へとつながり,学問の境界や支配的文化に無批判になってしまっている。そして,後者においては,ナショナル・アイデンティティとしての共通知識の強調が支配的文化への同化を促すものになっている。それらと対照的に,批判的リテラシー論によれば,「批判」とは,個人の私的な問題とされるものを社会構造の公的な問題として位置づける意識を持ち,その関係を問い直すこととして理解されている。さらにそれは,文化の差異性やこれまで排除されてきた他者のF声」に対する応答も含むものである。このような政治的かつ倫理的な意味において,「批判」がリテラシー形成に組み込まれることが求められている。
著者
渡部 竜也
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.85-96, 2004-03-31 (Released:2017-04-22)

本研究の目的は,社会問題学習には,科学主義社会科の延長上に位置付く実在型社会問題学習と,科学主義社会科とは別の観点から生み出された唯名型社会問題学習の二つが存在することを踏まえつつ,なぜ,合衆国の社会科教育において,今日後者が注目されるのか,その原理的説明を試みることである。この目的を達成するために,(1)科学主義社会科に向けられた批判にはどのようなものがあり,(2)唯名型(ここでは特にハーバード社会科に注目する)はその問題点をどのように克服しているのか,を明らかにする。本研究で導き出された科学主義社会科の問題点4つのうち主なものと,それに対する唯名型社会問題学習の克服手法を示すと,以下のようになる。1)科学主義社会科の問題の第一は,多様にある学説の中からどれを教えればよいのか,内容編成の基準を明確に示せない点にある。唯名型社会問題学習は,多種多様な見解を持つ人間の論争に注目するので,対立する学説・見解を,時間の許す限り全て授業に持ち込むことができ,この問題を克服できる。2)問題の第二は,この社会科が事実上ある研究者の見解の教え込みをする学習になっている点にある。唯名型社会問題学習は,論争を通して多種多様な見解を比較するために,それらの見解同士を対象化して見ることができるので,これを克服できる。
著者
進藤 聡彦
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.95-105, 2003

社会科の歴史領域は暗記科目などと言われることがある。このことから,多くの学習者は機械的な暗記による学習方略を採用していると考えられる。そして,そのような学習方略の採用は,学習項目間の繋がりを欠き,有意味性を感じにくくさせるために,学習者にとっておもしろい学習とはなりにくいと予想される。そこで,調査Iでは歴史学習の好悪と学習方略の関連が調べられた。その結果,歴史の学習が好きだったとする者は嫌いだったとする者に比べて,メタ認知的な学習方略を採用していることが明らかになった。このことは,機械的な暗記による学習方略が歴史の学習を嫌いなものにすることを示唆する。学習者に歴史学習をおもしろいものとして捉えさせるための方法として,知識の構造化による有意味化が有効だと考えられる。そして,構造化のための前提として疑問が生成されることが必要だと推定される。すなわち,断片化された知識の関連についての不十分な知識は,疑問という形で意識される必要があるからである。こうした観点から,調査IIでは疑問の生成を保証するのは理解のモニターや既有知識との関連をつけようとするようなメタ認知に関わる学習方略の採用だとする仮定の下に,疑問の生成能力とメタ認知能力の間の関連が探られた。その結果,疑問の生成能力とメタ認知能力の間に相関関係が確認され,メタ認知的な方略の育成が構造化された知識の前提になり,そのことが知識の構造化による歴史学習の有意味化につながると考察された。
著者
石井 英真
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.47-58, 2003

本稿は「改訂版タキソノミー」(以下「改訂版」と略す)に関する論稿である。「改訂版」は,かつてブルーム(B. S. Bloom)らによって開発された「教育目標の分類学」(以下ブルーム・タキソノミーないしは初版)の認知領域を改訂したものである。本稿では,初版との比較を通して「改訂版」の意義を探った。まず,本改訂における変更点について考察した。そして,特に注目すべき構造上の変化として,知識と認知過程の二次元構成を取り上げ,その中身について論じた。次に,初版の意義と限界を明らかにするために,初版における目標構造化の論理(タキソノミーの構造に内在している授業改善の方向性)を抽出し,その背後にある学習観についても検討した。最後に,「改訂版」の学習観と目標構造化の論理について分析を加えた。以上より,次のようなことが明らかになった。初版と「改訂版」との間には,学習観における重大な差違があり,「改訂版」の学習観(構成主義,領域固有性)は,初版の学習観を転換させるものである。そして,この学習観の転換がカテゴリー構成のレベルで具体化された結果,「改訂版」は初版にはない二つの視点(知識習得の質を問い直す回路,高次の認知目標を支える知識を問う回路)を生み出している。こうして,初版から「改訂版」への改訂は,目標構造化の論理を再構築する過程として捉えることができるのである。
著者
進藤 聡彦
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.57-64, 1993-03-31 (Released:2017-04-22)

On evaluating teaching-learning processes, it is effective that learners' recognition and teaching materials are able to be expressed one-dimensionally by using the ruleg system. Especially ru, a constituent of the ruleg system, is a key concept in considering the reformation of erroneous criteria. Ru is a learner's judgement criterion and it is erroneous and autogenetic in its characteristic. In the first section, the characteristics of various kinds of ru's are explained with some concrete examples. In the second section, the instructional strategies of reforming ru's are discussed from a point of view of the presentation sequences of focus instances. Two different presentation sequences are taken up. One is what shift from focus instances learners misjudge as exceptions to these they can recognize as correct instances. Another is what is in the reverse order. The effectiveness of the instructional strategy, which take the grounds of learners' ru's into consideration, are also discussed in this section. In the third section, it is described that learners are not aware of the attributes in themselves or the value of attributes which they use as foundation of their judgements on ru's. This thing occasionally causes learners the formation of a kind of ru's, which they apply the correct rule only to a limited extent. The instructional strategy, which makeslearners form the instances they misjudged as the exceptions for themselves and verify them, brings effects on reforming this sort of ru's.
著者
楠見 友輔
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.49-59, 2018

<p>本稿では,社会文化的アプローチの視点から学習者の主体性に基づく教授と授業のあり方についての議論を行った。社会文化的アプローチにおける学習者の「媒介された主体性」という概念は,個人の有能さではなく,文脈や環境に埋め込まれた主体の意思や行為する力を示すものである。このような観点からは学習者を同質的な主体性を有する集団と捉えたり,教師の教授と学習者の学習を対立的に捉えたりする見方は否定され,授業が教師と個々の学習者の主体性による複雑な相互活動の過程とみなされる。学習者と教師の主体性の関係の二者択一を解消するために重要となるのが教師の教授におけるコンティンジェンシーである。コンティンジェンシーへの注目は学習者の主体性を教師の教授の起点とし,学習者の主体性の発現を促し,授業に学習者の生活世界の文脈を導入することを可能にすることが示された。個々の学習者と教師が授業において主体として相互活動を行うためには授業を対話的構造に転換することが必要であると言われている。筆者は主体性に基づく教授と授業を行うためには,授業の具体的文脈における学習者の主体性に基づき,個々の学習者の主体性が実現されるような多様な教授や授業の方法や形式について議論することが必要であることを指摘した。</p>
著者
柴本 枝美
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.121-132, 2006-03-31 (Released:2017-04-22)

日本において性教育に関する議論がなされるようになったのは,明治末期のことである。以降,公娼制度や性病蔓延の問題など性に関する問題が社会問題として顕在化するに従って,性教育の必要性が論じられるようになった。本稿で検討する山本宣治(1889-1929)は,同志社大学予科において,「人生生物学」と名づけた性教育を実践していた人物である。本稿では,当講義で与えられていた評価課題を検討し,受講生が作成したレポートを分析することを通じて,実践としての「人生生物学」講義の意義と限界を明らかにする。山本が講義の目的としたのは,学生が自らの人生に対する理解を深めるための科学的な知識を提供することであり,人生に関係の深い分野の知識を選択し,排列して講義を進めていた。講義において山本は,レポートと筆記試験で評価を行っている。レポートでは,学生が文献に示されている理論を読み込むことで,まずは科学的な知識を習得することが期待されていた。実際に学生が書いたレポートの大半は,遺伝学や進化論,科学概論の文献を要約あるいは一部抜粋したものであり,山本がめざしていた「推理思索法」が必ずしも実現されていたとはいえない。しかし,文献を読み科学に対峙している点では,山本が「人生生物学」講義でめざした性教育における第一段階の目的,つまり性に関する科学的な知識を与えることは実現されていたと評価することができる。
著者
村瀬 公胤
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.29-37, 2000-03-31 (Released:2017-04-22)

Referring to findings of sociology of science, R. Driver and her colleagues identified both a community of science learners and a community of scientists with a scientific community, which constructs scientific knowledge. From this perspective they defined learning science as a process of "enculturation" using scientific knowledge as "cultural tools". But their concept of "enculturation" has difficulty in analyzing the reciprocal process of constructing scientific recognition at classroom. To overcome that difficulty, this paper aims to reconceptualize "cultural tools" and to understand the reciprocal process in the classroom referring to the J. V. Wertsch's analysis of science classroom. In Wertsch's analysis, one student appropriated her peers' utterances to make her own utterance and other students also did same. These sequential appropriation is essential to make meaning. Thus "cultural tools" are also to be appropriated sequentially because the scientific community evolves scientific knowledge day by day. The process of constructing scientific recognition should be regarded as a sequential and reciprocal process.
著者
石井 恭子
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.35-45, 2012

本研究は,日本の理科教育における「探究の過程」の導入とその問題点を明らかにするためにアメリカの改革プログラムが日本に導入された経緯を当時の文献を基に検討したものである。2008年の答申では,知識・技能の育成と考える力の育成が対立的にとらえられてきたが,これらを相互に関連させながら伸ばすことが重要とされ,特に理科教育においては,系統学習と探究(問題解決)学習の対立が常に論じられながら今日に至っている。これは,教育の現代化と呼ばれた1960年代,「探究」や「科学の方法」ということばを表面的に受容したことに原因があると言われている。そこで本研究では,主として1960〜70年代の「探究の過程」受容の経緯と問題点を,アメリカの科学教育改革の導入,特に「現代化」という視点から検討する。研究の方法としては,当時の日本の理科教育雑誌等における言説分析による。特に学習指導要領の執筆に関わった人物の言説に注目する。その結果,以下の三点が明らかになった。第一に,現代化の導入に際して,知識偏重教育の否定と子どもの自発性を強調するあまり,教師が教え込まずに子どもが理解することをめざすという趣旨が,教師は教えなくてよいという論調に変化したことである。第二に,紹介から導入までの時間が短く,十分な検討ができなかった点である。第三に,実践研究の知見がカリキュラム編成に生かされなかった点であり,教育課程編成のあり方の課題でもある。
著者
狩野 浩二
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.11-21, 2003-03-31 (Released:2017-04-22)

斎藤喜博(1911-1981)は,1952(昭和27)年から11年間にわたって,群馬県佐波郡島村立島小学校(後,境町と合併)の校長を務めた。その間に,斎藤はいきいきと勉強する児童をつくりだしている。島小の児童が自分の心をひらいて,いきいきと勉強した背景には,何があったのか。本論文では,子どもが地域の中でどのように活動していたのかということに光を当てる。島小学校の教師たちは学校での授業実践と同様に子どもの自主性を尊重した教育実践を地域で展開した。島小の教育実践の特徴は,子どもや教師,地域の人々を抑圧から解放し,のびのびと生活するようにしていった点である。教師たちは,儀礼的なものを排除し,児童の学力を保障する実質的なもの(授業)を大事にしていった。島小の児童は,学校での生活と同様に,地域の生活の中に課題を発見し,その課題を解決するために集団を作り,いきいきとした勉強を展開した。
著者
森 玲奈
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.49-58, 2014-03-31 (Released:2017-07-19)
参考文献数
28

本稿では,日本におけるワークショップの展開とその特質に関し,ワークショップ実践史を整理する。その上で,これまでワークショップ実践史の源流にあるとされてきたデューイの教育思想を手がかりとし,実践者育成のための方法を検討することを目的とする。本研究では,以下の作業を通じ,日本のワークショップの系譜とその背景にある思想を明らかにする。第一に,アメリカを中心とした海外のワークショップ実践の背景を整理し,その背景にあった社会状況を明らかにする。第二に,日本におけるワークショップ実践史を,海外から方法の移入した状況や契機,実践者同士の交流と相互作用に着眼し記述,整理する。第三に,海外におけるワークショップの系譜と,日本におけるワークショップの系譜との差異について確認し,日本におけるワークショップの系譜が独自の展開を遂げてきたことを示す。これらを通じ,(1)海外では各領域における問題解決のための「新しい方法」としてワークショップが生み出されており,その時期は領域によって差があること,(2)日本では,1970~80年代にその契機があり,個々の領域において領域に特化された手法として別個に導入されたため,実践者育成が領域の中の細分化された集団で行われることが多かったこと,(3)ワークショップをプラグマティズムという思想潮流の中で捉えることにより実践者の育成に貢献できること,を論じる。
著者
山根 万里佳
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.49-59, 2019-03-31 (Released:2020-04-01)
参考文献数
20

本研究では,「場所に根ざした教育(place-based education)」の構想する学校カリキュラムの検討を通して,その理論と実践の教育方法学的意義と課題を明らかにすることを目的とする。グローバル化の進行のなかで生じている経済的荒廃や文化的同質化,コミュニティーの生態学的破壊にたいして,「場所に根ざした教育」は,人間と周囲の環境との相互依存の関係が学ばれる必要性を論じている。その実践として,バーンハートの提唱する「場所の教育学」のもと構想された,アラスカの学校教育改革の事例に焦点をあてる。ここで問われたのは,学校教育において周縁化されてきたネイティブの知識体系と,西洋由来の知識体系との接続可能性と相互補完性を示すことであった。そこで,二つの知識体系を統合した文化的応答性のあるカリキュラムが構想され,教師用ハンドブックやレッスンプランを通じた教師教育へと展開する。ここでは,ネイティブの知識体系を有する年長者と学校教育とがいかに共同して経験的で探究的な学びを行うのか,その教育方法も含めた構想がみられる。「場所」を視点とすることで,今日における地域と学校教育とのあり方を展望することに示唆が得られる。
著者
中村 麻由子
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.13-23, 2012-03-31 (Released:2017-04-22)
被引用文献数
1

本稿は,教師のまなざしを科学主義・技術主義に対抗する人間的・芸術的・倫理的な力量として捉えることを中心とした従来の理論枠組みを越えて,それがもつ文化的・政治的実践の媒介としての意味を捉え直す理論枠組みを提起している。そのために,まなざしの媒介作用,権力作用,脱構築という三つの基本概念を提出する。人間は,周囲から向けられたまなざしを内面化し,それを媒介にして状況や他者や自己自身を見つめ直す側面をもつ。こうした媒介作用に着目するとき,「正常-異常」とか「有能-無能」に関する「基準」の内面化による権力作用や,個別局所的な場におけるまなざしの問い直しや編み直しという脱構築の意味が重要なものとして浮かび上がってくる。新自由主義的な制度と言説が広がり,「欠損言説」と「個体能力観」が教育行政やメディアはもとより保護者や子どもにまで浸透してゆく現在,教師のまなざしはどのような文化的・政治的実践の媒介としての意味をもちうるのか。ここでは,教師のまなざしに関する従来のアプローチの意義と限界を指摘した後,「欠損言説」と向かい合うナラティヴ・セラピーの理論と「個体能力観」と向かい合うクリティカル・ペダゴジーの理論の検討を踏まえた上で,個体還元的,尺度準拠的,欠陥検出的,技術主義的なまなざしが浸透する状況のただなかで,教師のまなざしが果たしている文化的・政治的実践の媒介としての意味を明らかにしている。
著者
長谷川 栄
出版者
東京教育大学教育方法談話会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:02889854)
巻号頁・発行日
no.5, pp.144-166, 1979-03-31
著者
村瀬 公胤 岸本 琴恵
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.97-107, 2019-03-31 (Released:2020-04-01)
参考文献数
23

本研究の目的は,教育実践における二つの道徳的価値「規則の尊重」と「相互理解,寛容」の相克について,ケアの倫理を導入することによってこれを乗り越える方途を探ることである。そのために,中学校の事例に基づいて問題の構制を分析するとともに,佐伯(2017)の「二人称的かかわり」および「三人称的かかわり」を参照しながら「規則の尊重」と「相互理解,寛容」の概念の再定義を試みた。事例を通して明らかになったのは,まず,「三人称的かかわり」が「規則の尊重」と「相互理解,寛容」の相克をもたらしており,「二人称的かかわり」がそれを乗り越える契機となり得ることである。次に,「二人称的かかわり」の中で,生徒が主体的な規則の担い手として育つ過程が示された。「規則の尊重」とは,私があなたとどのような関係でありたいかという,二人称的な自律性の発露として捉えることができる。 他方,「相互理解,寛容」としてのケアとは,一方的な保護で現状を無条件に肯定し放置する甘やかしとは異なり,成長の文脈において現状を受けとめることであった。多様な個によって担われる規範と,多様な個が成長するためのケアは,学校が道徳的空間であるための必要な要素である。この理解に基づいて,日々の生徒指導や学校経営が進められる可能性が示唆された。
著者
八田 幸恵
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.37-48, 2019-03-31 (Released:2020-04-01)
参考文献数
40

1974年の,OECD-CERI「カリキュラム開発」プロジェクトの東京セミナー第2分科会では, 「工学的接近」と「羅生門的接近」というカリキュラム開発の2つの立場が析出された。日本の教育方法学において「羅生門的接近」は常識化し,共通教育目標・内容の設定を否定する論陣の論拠のひとつとなった。しかし,第2分科会主要参加者の1960~1970年代における所論と「羅生門的接近」との関係を読み解くことで,次のことが明らかになった。第一に,成立時の「羅生門的接近」には複数の立場が含まれており,ひとつの立場とみなせるようなものではなかった。第二に,「羅生門的接近」の主要な部分は,OECD-CERI 発信のものでもアトキンの論でもなく,その成立には日本側メンバーの多大な貢献があった。第三に,「目標にとらわれない評価」が認識の相対性を強調する評価の立場であるとみなされるようになったことで,「羅生門的接近」は次第に授業の見え方の交流と同義となった。第四に,そのことによって日本の教育方法学は,共通教育目標・内容を開発チームで共有化することを可能にする,新しい教育評価のあり方というアトキンの問題意識を,十分に引き受けることができなかった。このアトキンの問題意識は,現代において非常に大きな意味を持つ。この現代的課題に取り組むために,今後の教育評価研究は,「羅生門的接近」における対比①③の背後にある問題意識と,対比②の背後にある問題意識を別物として引き受けていく必要がある。