著者
長谷川 奨悟
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100064, 2016 (Released:2016-11-09)

近世における「名所図会」資料や地誌は、多くの大学附属図書館をはじめ、国立国会図書館や国立公文書館、各都道府県や市町村立図書館や資料館において、その地域の風土性や、場所や風景の過去の姿を知ることができる郷土資料として収集・公開が進められてきた。しかし、管見の限りでは、これらの資料の編纂動向とその特徴をめぐる議論は、三都のほか、奈良や伊勢など多くの地理的メディアが編纂された地域では検討がなされてきたものの、近世日本というスケールでの考察は、ほとんど試みられることはなかったと思われる。強いてあげるとすれば、戦前期の高木(1927、1930)の仕事に注目できるが、これは高木家の家蔵資料について、その書肆情報を旧国単位で編年したものであり、ここにとりあげられていない資料も多く認められるなど、これをもって近世名所地誌本の全体像をとらえることはできない。本発表では、蝦夷と琉球も含めた近世全体の編纂・刊行動向の全体像について考察することを目的としたい。〈BR〉2 考察方法 上記の問題に取り組むにあたって、以下のような手順で考察をおこなう。まず、現在最も体系化されていると判断できる高木(1927、1930)の成果を基盤としつつ、各機関の郷土資料目録を用いて地域の編纂動向の全体像をとらえる。そして、所蔵資料や公開されたデジタルデータを確認し、その書誌情報や、取りあげられる内容を検討し、旧国域を単位とする近世名所地誌本のデータベースの作成を進めた。ここでは、高木の地誌目録にみえる「紀行文」や「歌集」などは対象から外した。また、四国巡礼や西国巡礼、秋里籬島選『東海道名所図会』(1797年刊)のような国単位を超える広域な地域で編纂されたものは、今回のデータベースには反映させていない。このように進めていくと、近世日本において編纂された地誌や名所案内記(名所図会)は、現在把握できているだけでも計678点ほどになる。次いで、これらを(1)17世紀末まで、(2)18世紀前半、(3)18世紀後半、(4)19世紀初めから幕末まで、(5)編纂時期不明という5つの時期に区分した考察をおこなうことで、それぞれの地域における大まかな編纂動向を把握できるものと考える。〈BR〉3 考察 上記のように近世日本における「名所図会」資料や、地誌の編纂・刊行動向を旧国単位で整理すると、武蔵国(江戸)の計89点、山城国(京)の計50点、摂津国(大坂)の計49点と上位は三都が占める。次いで、陸奧国(仙台・松島)の計40点、大和国(奈良)の計29点、尾張国(名古屋)の計29点と続く。例えば、厳島のある安芸国では計17点となる。これらについて、編纂時期不明をのぞく4つの時期ごとに分析すると、19世紀には、これまで編纂が無かった安房国で計2点、讃岐国で計7点など、新たに計6ヶ国において確認できるようになり、この時点で大隅国を除く全国において、少なくとも1点以上の新規編纂を確認できるようになる。 ただし、大隅国内の場合、鹿児島藩領について編纂するもののなかに立項・叙述を確認できる。これが編纂される場所は、藩政の中心地である鹿児島であるため、大隅に関する記事も旧国単位でみれば、薩摩国において編纂されたものに含まれる。このような、領国支配の中心と周辺部、ないし支藩領域との関係性は、周防国と長門国などにおいてみられ、大藩の城下町における近世地誌編纂の実践をめぐる特徴的な傾向の一つといえる。 全国的な編纂の実践の拡大をめぐる社会的背景には、(1)三都周辺で始まった地理的メディア編纂の実践が、地方都市へと伝播していった結果、これらの編纂を試みる知識人層の裾が広がったこと。(2)幕藩領主や地方書肆の意向など、編纂の実践ができる態勢に向かっていたこと。(3)その実践をめぐる社会的な需要が拡大していたことなどが考えられる。「名所図会」や地誌を編纂する際に設定される領域性や、叙述の場所性めぐる問題は、編纂者側の編纂思考や依頼者の意図が反映される。そこで、版元の特定や編纂者に対する考察を進めることが今後の課題となろう。〈BR〉なお、本発表内容は、平成25~28年度科学研究費助金・基盤研究(A)課題番号25244041 研究代表者:平井松午(徳島大学)「GISを用いた近世城下絵図の解析と時空間データベースの構築」の研究成果の一部である。
著者
平井 松午 鳴海 邦匡 藤田 裕嗣 礒永 和貴 渡邊 秀一 田中 耕市 出田 和久 山村 亜希 小田 匡保 土平 博 天野 太郎 上杉 和央 南出 眞助 川口 洋 堀 健彦 小野寺 淳 塚本 章宏 渡辺 理絵 阿部 俊夫 角屋 由美子 永井 博 渡部 浩二 野積 正吉 額田 雅裕 宮崎 良美 来見田 博基 大矢 幸雄 根津 寿夫 平井 義人 岡村 一幸 富田 紘次 安里 進 崎原 恭子 長谷川 奨悟
出版者
徳島大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2013-10-21

本研究では、城下町絵図や居住者である侍・町人の歴史資料をもとに、近世城下町のGIS図を作成し、城下町の土地利用や居住者の変化を分析した。研究対象としたのは米沢、水戸、新発田、徳島、松江、佐賀など日本の約10ヵ所の城下町である。その結果、侍屋敷や町屋地区の居住者を個別に確定し地図化することで、居住者の異動や土地利用の変化を把握することが可能となった。その点で、GISを用いた本研究は城下町研究に新たな研究手法を提示することができた。
著者
長谷川 奨悟
出版者
佛教大学宗教文化ミュージアム
雑誌
佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 (ISSN:13498444)
巻号頁・発行日
no.15, pp.65-82, 2019

本稿では、現在の三木市(三木市民)にとって顕彰すべき「過去の物語」とみなされている義民伝承について、現在の「義民祭」を通じた顕彰行為の実践に対する様子を報告した。そして、地域誌としての義民伝承の歴史的経過への考察をおこない、現在のように語られるようになった地域的背景について明らかにした。そのうえで、三木の義民伝承がになってきた役割について検討している。三木市義民伝承過去の物語義民祭義民碑
著者
長谷川 奨悟
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.はじめに〈BR〉本研究は,近世・近代の京都および,近世の大坂において,「名所」とされた場所や景物をめぐる「場所認識」(「名所観」)や,名所案内記の編者(多くの場合は知識人層)によって創られた「場所イメージ」の生産(再生産)をめぐる諸様相について,人文地理学的視点から検証を進めるものであり,本報告は,これを進めていくにあたって,必要な問題設定を行なうための手がかりとなる概念的整理を旨とするものである。2.知識人層の場所認識〈BR〉日本の近世から近代のある時期までは,例えば学者や俳諧師などといった知識人層が,その場所で語られる由緒や伝説といった「過去の事象」,あるいは,現在の繁華な様相に基づいて,注目すべき場所や景物を「名所」として見出していく。彼らは,名所地誌本の編纂(著述)を通じて,「名所」という場所イメージの生産(もしくは再生産)の実践をおこなっていたとみなすことができる。このことから,名所をめぐる問題に取り組むにあたり,(1)「名所」とは,経験や知識の集積によって構築された価値観に基づいた何かしらの場所認識や,まなざしによって見いだされ,知識人たちによって生産(あるいは,再生産)された差異の表象であり,場所イメージの1つであること。(2)それらは,旅や読書という行為を通じて一般大衆に受け入れられた文化的事象であると報告者は捉えてみたい。3.メディアとしての名所地誌本・名所絵〈BR〉スクリーチ(1997)は,「名所図会」は旅をしない人々に需要があったのであり,場所をめぐる口桶的な伝統に入った裂け目が名所図会を生んだのだと説く。さらに, (1)無知な人がある場所のことを一応すぐわかることができること。(2)他の人間との関わりなしでも物知りになれること。という2つの機能があったと指摘する。佐藤(2012)は,名所絵(泥絵/浮世絵)とは,景観の見方の規範を生産する文化装置であったことを説き,それぞれの絵画の差異にはその規範の対象なる読者(様々に規定された「共同体」)の「トポフィリア(場所愛)」が結びついた重層的な場所イメージの違いが想定されていた可能性を見いだした。さらに,名所地誌本(の挿絵)や,江戸泥絵などについて,トポグラフィ-場所を描く視覚的表象-としてとらえ,視覚文化の枠組みから捉え直す必要性を述べる。4.文化的構築物としての名所 〈BR〉名所とは,和歌に詠まれる「歌枕」がその原意であり,古代における名所とは,和歌において重要な役割を担うものであり,知識としての場所認識であったといえる。鶴見(1940)によれば,中世には名所や風景をめぐる場所認識は,中国の山水思想などの影響を受けたという。近世には名所地誌本の刊行や庶民文化の発達によって,名所とされる場所は多様化し,近代初頭には,西洋風の近代建築が名所として認識されるなど,時代的・文化的変遷によって,名所とされる場所や景物,さらにその価値付けが変化する流動的な側面を持つと指摘できる。これについて,場所をめぐる概念について整理した,大城(1994)の成果を援用すれば,名所と見なされる場所もまた文化的構築物の一形態であるとみなすことができよう。〈BR〉また,秋里籬島が,『都名所図会』において「京らしさ」や「上方文化」の表象を試み,『江戸名所図会』の編者である斉藤月琴は,江戸の優位性や江戸の特異性を,名所図会というメディアを通じて世間に知らしめることを試みている。つまり,自身が住まう都市に対する都市や,場所への誇り,あるいは,都市や場所をめぐる特定のとらえ方が,自身の作品である名所地誌本に反映されているという見方ができるであろう。5.おわりにかえて〈BR〉名所をめぐる問題には,地理学において議論されてきた「場所」の地域性や差異,つまり,名所とされる場所や景物には,その地域で生成されてきた風土や文化といった諸コンテクストが大きく関与しているという視点に立っての検証が必要となろう。そして,土居(2003)が指摘する「トポグラフィティ」や,トゥアンの「トポフィリア」をめぐる概念が有効な手がかりの1つとなろう。
著者
長谷川 奨悟
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理
巻号頁・発行日
vol.64, no.1, pp.19-40, 2012
被引用文献数
1

<p>This research examined two works compiled by Akizato Ritō (alt. Akisato Ritō), <i>Miyako meisho-zue</i> (An Illustrated Guide to Noted Places in the Capital) and <i>Settsu meisho-zue</i> (An Illustrated Guide to Noted Places in Settsu Province). The former was a guide to sites of interest primarily in Kyoto while the latter described sites of interest in Settsu Province and Osaka.</p><p>This research had two aims. The first was to clarify how Akizato Ritō perceived the places that he selected and symbolized as 'noted places.' The second was to clarify how Akizato viewed cities and how Kyoto and Osaka were represented in guides to sites in those cities.</p><p>Akizato perceived places and symbolized those places while keeping in mind the goal of depicting places and scenes in illustrations. Although he selected traditional, long-celebrated sites of interest, he also selected places and scenery of interest from a positivist perspective based on firsthand observations.</p><p>Akizato's view of cities was based on an identity and perspective as a Kyoto resident that developed at the end of the 18<sup>th</sup>century. Kyoto's image as the 'Emperor's Capital' was emphasized and the city was presented as a hallmark of tradition and sightseeing by illustrations depicting sites such as temples and shrines and manufacturing unique to Kyoto. Osaka's port and canals were often depicted in illustrations, and the city's image as Japan's first commercial city was emphasized. Osaka was presented as a city for popular entertainment in forms such as kabuki.</p>