著者
鈴木 晃志郎 于 燕楠
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.35, 2019 (Released:2019-03-30)

研究目的 本発表は,地理学が得意とする空間的可視化の手法を用いて,富山県内の心霊スポットの分布が現代と100年前とでどう異なるかを空間解析し,その違いをもたらす要因について考察することを目的とする.本発表はエミックに扱われがちな事象をエティックに捉える試みであり,民俗学を中心に行われてきた妖怪変化の分類学を志向するものでもなければ,超常現象そのものの有無を論ずるオカルティズム的な関心も有しない. 超常現象が何であるにせよ,それらが超常現象となり得るには,人目に触れ認知されなければならない.ゆえに超常現象は高度に文化的であり,その舞台として共有される心霊スポットは,組織化され商業化された一般的な娯楽からは逸脱した非日常体験を提供する「疎外された娯楽(Alienated leisure)」(McCannell 1976: 57)の1つとして社会の文化的機能のなかに組み込まれているとみなしうる.その機能に対して社会が与える価値づけや役割期待の反映として心霊スポットの布置を捉え,その時代変化を通じて霊的なものに対する社会の側の変容を観察することは,文化地理学的にも意義があると考えられる.研究方法・分析対象 2015年,桂書房から復刻された『越中怪談紀行』は,高岡新報社が1914(大正3)年に連載した「越中怪談」に,関係記事を加えたものである.県内の主要な怪談が新聞社によって連載記事として集められている上,復刻の際に桂書房の編集部によって当時の絵地図や旧版地形図を用いた位置情報の調査が加えられている.情報伝達手段の限られていた当時,恐らく最も網羅的な心霊スポットの情報源として,代表性があるものと判断した.この中から,位置情報の特定が困難なものを除いた49地点をジオリファレンスしてGISに取り込み,100年前グループとした.比較対象として,2018年12月にインターネット上で富山県の心霊スポットに関する記述を可能な限り収集し,個人的記述に過ぎないもの(社会で共有されているとは判断できないもの)を除いた57の心霊スポットを現代グループとした.次にGIS上でデュアル・カーネル密度推定(検索半径10km,出力セルサイズ300m)による解析を行い,二者の相対的な分布傾向の差異を可視化した.このほか,民俗学的な知見に基づきながら,それらの地点に出現する霊的事象(幽霊,妖怪など)をタイプ分けし,霊的事象と観察者の側とのコミュニケーションについても,相互作用の有無を分類した.結 果 心霊スポットの密度分布の差分を検討したところ,最も顕著な違いとして現れたのは,市街地からの心霊スポットの撤退であった.同様に,大正時代は多様であった霊的事象も,ほぼ幽霊(人間と同じ外形のもの)に画一化され,それら霊的事象との相互作用も減少していることが分かった.霊的なものの果たしていた機能が他に代替され,都市的生活の中から捨象されていった結果と考えられる.文 献:MacCannell, D. 1976. The Tourist: A new theory of the leisure class. New York: Schocken Books.
著者
佐藤 廉也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.159, 2019 (Released:2019-03-30)

報告者はかつて、2011年当時に全国で使用されていた高校地理A・B教科書(6社14冊)の中に見られる焼畑に関する全記述を拾い上げて整理検討した(佐藤 2016)。その結果、ほぼ全ての教科書の記述に誤りや偏見が見られることを指摘した。その後2016年には教科書改訂が行われたが、現在も多くの教科書では誤った記述内容はいっこうに改善されることなく、ほぼ踏襲されたままである。焼畑に対する誤解と偏見の歴史は古く、1950年代には既にH.C.Conklinの古典的な研究によって指摘されているが、とりわけ地球環境問題の文脈において焼畑が注目を浴びた1980年代以降、2010年代に至るまでの間に、焼畑の持続性に関する膨大な事例研究が蓄積されている。特に1990年代後半以降には、焼畑休閑期間と土壌養分や収量との関係に関する実証的な研究が複数現れており、その結果、焼畑が熱帯破壊の主因であるというかつて根拠のないまま流布していた主張はほぼ否定されるに至っている。要するに、研究の蓄積によって得られた知見と、教科書やメディアによって垂れ流され続ける誤った情報との間のギャップは埋まるどころかむしろ広がる一方なのが現状である。 メディアや教科書の焼畑記述に見られる誤りや偏見を大きく4つのパターンに分けると、(1)常畑耕地造成のための火入れ地拵えを焼畑と混同する誤り(2)焼畑を「原始的農耕」などと記述する偏見(3)熱帯林減少の主因が焼畑であるとする誤り(4)伝統的な焼畑は持続的だが、人口増加に伴って休閑期間が短縮され、結果として土地の不毛化を引き起こすという根拠のない「失楽園物語」、となる。(1)は最も低レベルの誤りであるが、種々のメディアではこの種の誤りが後を絶たない。(2)〜(4)が現在の高校教科書に見られる誤りである。(3)に関しては、熱帯林減少の主要因を地域別に検証したGeist et al. (2002)や、焼畑変容の要因を地域別に整理したVan Vliet et. al. (2012)ほかいくつかのレビュー論文が現れ、その結果、熱帯林減少は主として商品作物栽培を目的とした常畑農地の拡大や、道路建設と並行して進む木材伐採やパルプ材生産を目的とする植林地造成などによって進み、焼畑が熱帯林減少の要因となるケースは稀であることが明らかになっている。一方、(4)は最も根が深い誤りであると言え、地理学者の間ですら誤解が見られる。「人口増加→休閑の短縮化→土地の不毛化」という、未検証の仮説が前提となっているものであるが、2000年以降に発表されたいくつかの論文は、この前提とは逆に、休閑期間と焼畑収量の間にはほとんど相関が見られないという結果を示している(Mertz et al 2008)。 本発表では、上に述べた「誤記述のパターン」がなぜ間違いなのかを、先行研究を引きながら簡潔に説明するとともに、現行教科書の記述を具体的に挙げながら、それらの記述の何が問題なのかを詳細に検討し、誤りを正すにはどうすれば良いのかを検討する。なお、報告者は高校地理B教科書の採択率が最も高い教科書会社に、記述の誤りを指摘する質問状を送ったが、2ヶ月経った現在回答はない。報告当日までに何らかの回答があった場合にはその内容も紹介したい。
著者
池田 千恵子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.265, 2019 (Released:2019-03-30)

本研究では,京都市におけるゲストハウスなどの簡易宿所の急激な増加に伴う影響について,ツーリズムジェントリフィケーションの観点で検証を行う.ツーリズムジェントリフィケーションは,地域住民が利用していた日常的な店舗が減少する一方で,娯楽や観光に関わる施設や高級店が増加し,富裕層の来住が増えることにより賃料が上昇し,低所得者層の立ち退きを生じさせる現象である(Gotham 2005).簡易宿所が急増した背景や簡易宿所の増加が地域に及ぼした影響について示す. 京都市内の簡易宿所の数は,2011年の249軒から2018年9月末時点では2,711軒と7年間で約11倍(988.8%増)になった.東山区でもっとも簡易宿所が多い六原は91軒で,2018年9月30日時点において京都市内で一番簡易宿所が多い地区でもある.下京区で簡易宿所が一番多い菊浜は,2016年の14軒から2018年の47軒(図1)と1年10ヶ月で33軒増加した.南区では山王が44軒である. 簡易宿泊が増加している地区には特徴がある.一つめは,交通の利便性である.六原と菊浜は清水五条駅,山王は京都駅の南側と主要な駅に隣接している.二つめは,既存産業の衰退である.六原は京焼・清水焼などの窯業の衰退とともに人口流出や高齢化が進み,空き家が増加した.大正から昭和中期頃まで京都市内最大の娼妓がいた菊浜は,2010年に全ての貸座敷が廃業になった(井上 2014).三つめは地域の負のイメージによる.菊浜は性風俗などのイメージがあり(内貴ほか2015),山王は京都市内最大の在日朝鮮人が集住し,貧困化・不良住宅化が進んだ地域(山本 2012)が含まれている.このように,地域の負のイメージにより地価も低く,空き家などが活用されていなかった地域で,簡易宿所の開業が進行したと想定される.簡易宿所の急激な増加による不動産価格の高騰や住民の立ち退きなどについて報告を行う.
著者
貝沼 良風
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.288, 2019 (Released:2019-03-30)

<はじめに>本研究では,山形花笠まつりを事例に,近代以降に生まれた祭りの存立要因を,祭りの参加者のアイデンティティに着目して検討する.日本においては,近代以降,とりわけ高度経済成長期以降,地域活性化などのために新たに祭りが生み出されていった.そうした祭りの中には,地域を代表する祭りに成長したものもみられる.祭りの参加者に注目すると,このような新たな祭りでは地縁的共同体によらずに参加者を募ることが少なくなく,参加者はそれぞれのきっかけや理由によって祭りに参加している.既往の祭り研究においても,祭りの参加者に着目して検討したものは存在する.そこでは,参加者個人の意識に注目したものもあるが,参加者個人は所属する団体の構成者の一人として捉えられる傾向にある.しかし,現代の祭りの在り方を解明するためには,参加者を特定の所属団体の一人としてだけでなく,参加方法や役割を変えながらも祭りに参加し続ける主体として捉えて分析する必要があるだろう.<研究方法と研究対象の位置づけ>以上を踏まえ本研究では,山形花笠まつりを事例に,祭りの参加者の参加のきっかけや理由と,参加者が形成するアイデンティティを明らかにし,現代の祭りが存立する要因を考察した.分析に用いるデータは,運営組織である山形県花笠協議会と,祭りに踊り手として参加している46人への聞き取り調査から収集した.また,山形花笠まつりに関する書籍や,各団体の資料等も適宜使用した.山形花笠まつりは高度経済成長期に観光誘致のために生み出された,花笠踊りという踊りを中心市街地で踊るパレードが目玉の祭りである.当初は地縁団体やその地域で活動する企業を中心としてパレードが執り行われていた.近年では企業の参加が多い一方で,学校や病院による団体,祭りへの参加のために結成された自主的な団体の参加が増加している.そして花笠踊りは県内外の祭りやイベントで披露されるなど,山形花笠まつりは山形市や山形県といった地域を代表する祭りとなっている.<結果>山形花笠まつりの参加者は,所属組織の一員であることや,知人からの紹介,個人の交流や踊りへの関心といったものを参加のきっかけや祭りに参加し続ける理由としていた.また,子供の頃に踊りを覚えた,あるいは過去に祭りに参加した経験者が,ライフコースの変化に伴い他団体で祭りに参加するケースも目立った.調査対象者の語りからは,団体や祭り,踊り,地域に対するアイデンティティが形成されていることが明らかとなった.まず,多くの参加者が,祭りへの参加は団体のメンバーとの楽しみ,あるいは団体の一員の義務であると語っており,団体に対するアイデンティティを形成している様子が読み取れた.また,沿道の観客との一体感や,踊り・ダンスの経験について語る様子から,祭りや踊りに対するアイデンティティが形成されていることも読み取れた.さらに,参加者は,県外の知人との会話で山形花笠まつりが話題になることなどについて語っており,山形県に対するアイデンティティを形成していることもまた読み取れた.山形花笠まつりを地元の祭りと区別しながら,山形県民としては参加したいと語る様子からは,地元に対するものとともに,山形県に対するアイデンティティも形成されていることが読み取れた.他方で,継続的に参加する参加者は,一参加者という認識から団体のまとめ役や祭りの盛り上げ役という認識へと変化しており,こうした点から,それまで形成されていたアイデンティティが変質する様子が読み取れた.また,様々な団体から祭りに参加することにより,踊りや団体に対するものだけでなく,祭りや地域に対するものといった新たなアイデンティティが形成されていた.様々なアイデンティティは個別で成立しているわけではなく,複数のものが重なり合うものと捉えられる.<考察>山形花笠まつりへの参加を通し,参加者は複層的なアイデンティティをライフコースの変化に沿って形成していた.また,そのようなアイデンティティは,参加者が祭りに参加し続ける動機の一つとなっている.このことから参加者のアイデンティティと祭りへの参加との間には,決して一方向的ではなく,相互に影響しあう関係があると考えられる.参加者のアイデンティティに基づく行動には,団体の一員としての参加の継続や様々な団体への参加,新たな団体の結成などが挙げられる.このような行動によって祭りへの団体の参加が維持されていると考えられる.またそのような参加者の行動は団体を越えた祭りへの参加のネットワークを生みだしている.そのネットワークの中での新たな個人の参加や,経験者の継続した参加が,祭りの存立の要因の一つといえるだろう.そしてそのようなネットワークの軸となるのが,祭りへの参加の志向に繋がる参加者の複層的なアイデンティティであると考えられる.
著者
池口 明子 横山 貴史 橋爪 孝介
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.188, 2019 (Released:2019-03-30)

磯焼けへの対応には藻場造成と漁業のシフトがあり,漁家は後者を迫られることが多い.日本では各種補助金による漁場整備,資源増殖のほか,代替魚種の資源化,観光化など多岐にわたる事業が実施されている.気候変動への順応をテーマとするコモンズ論では共時的制度の記述から,通時的な制度変化の分析を重視するようになっている.分析概念として,漁業者の生態知を核とした生態-社会関係が用いられる点で,生態地理学と接合しうる.ガバナンス論はより広い政治的文脈や行政の再編に制度変化を位置付けることを可能にすると考える.本報告では,磯焼けによる資源の減少や魚種交替に対応した資源管理制度の変化をガバナンスの視点から明らかにし,地理学的課題を考察する.2017年7月,10月に長崎県小値賀町,2018年9月に北海道積丹町,寿都町において漁協・自治体水産課に聞き取り,および事業報告書等の資料収集をおこなった.また小値賀町では漁業者12名に漁法選択を中心に聞き取りをおこなった.2.磯焼けへの順応と漁村・漁場磯焼け,およびその認知の時期は地域によって異なる.積丹町では1930年頃,小値賀町では1990年頃に漁業者が認識している.したがって漁法選択や生業選択のあり方は,その時期の地域社会が置かれた状況に依存する.磯焼けで起こる資源変動も海域によって異なる.積丹町ではウニとコンブは共同漁業権漁場の水揚げの主力である.磯根資源の減少に対し,資源増殖のほか観光との結びつきを強めるなど多次元化が図られている.一方,温暖海域に位置する小値賀町では180種以上の魚種が利用されてきた.資源シフトとブランド化が磯焼けで減少した磯根資源に代わって漁家経営を支えている.3.漁法選択とガバナンスの変化:小値賀島の事例 小値賀島におけるアワビ資源管理は古くは1899年に記録があり,以来多くの取り組みがなされてきた.1966年のウェットスーツの導入で乱獲が危惧されるようになると,1976年に総量規制によるアワビの資源管理が開始された.しかし,1987年の台風被害からの復興資金として過剰な漁獲が起こった上,磯焼けで餌料不足,成熟不良となり資源減少が加速した(戸澤・渡邉2012).1996年には漁業集団・漁協・町役場・県水産センターからなる「小値賀町資源管理委員会」が発足した. アワビに代わって漁家経営を支えるようになった魚種がイサキである.1977年に夜間の疑似餌釣りが導入され,1999年にブランド化された.漁業者集団によって「アジロ」(縄張り)ルールが形成され,漁協-漁業者集団によって選別ルールが形成された.4.資源ネットワークと地域的条件 小値賀島では沖合のヒラマサ・ブリといった回遊魚が生計に重要な位置を占めるなど資源の選択肢が多い.漁協は市場との取引経験が長く,これらの資源ネットワークが柔軟性を支え,漁場と市場の学習を可能にしてきた.この背景として,共同出荷への切り替え,小値賀町の単独自治など,流通と行政の再編経験が考えられる.市場との関係を軸としたガバナンス形成は一方で,よりローカルなスケールの調整,すなわち村落組織を基盤とする紐帯や仲間関係を必要とし,新規参入という点で工夫が必要と考えられる.
著者
栗本 享宥 苅谷 愛彦 目代 邦康
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.69, 2019 (Released:2019-03-30)

はじめに 水沢上地すべり(以下ML:35.9363°N,137.0445°E)は岐阜県郡上市明宝に存在する大規模地すべり地である.MLは古文書に基づきAD1586天正地震で生じたとされてきた1,2).しかし先行研究では地質学的論拠が示されていない.筆者らは地質調査と地形判読を基礎として,MLの地形・地質的特徴と最新滑動年代を明らかにした.地域概要と研究方法 <地形>MLは飛騨高地南東部に位置し,周辺には標高2000 m以下の山岳が卓越する.木曽川水系吉田川とその支流がMLを貫く.<地質>ML一帯には烏帽子岳安山岩類が分布する.これはML西方の烏帽子岳から1 Maごろ噴出した安山岩と火山砕屑岩からなる2).同安山岩類は下部の凝灰角礫岩質の部分(以下Ep)と上部の安山岩溶岩(以下Ea)に分類される.他に貫入岩や,花崗岩,かんらん岩,美濃帯堆積岩類も分布する.MLの北に庄川断層帯三尾河断層(以下MF:B級左横ずれ)が走る.MFの最新イベントは840年前以降で,AD1586天正地震が対応する可能性が高い3).<方法>空中写真やDEM傾斜量図等を用いた地形判読と野外踏査を主な手法とした.踏査で採取した試料の14C年代測定も行った。MLの地形と地質 MLは3条の滑落崖と,複数の地すべり移動体に分類される.やや開析された滑落崖は円弧状を呈し,急崖をなす地点ではEaが露出する.地すべり移動体南部の平坦面についてはその分布標高からL~H面に分類できる.全移動体の体積は約2.2×107 ㎥である(侵食部分を含む).以下,各地点での地形・地質的特徴を述べる.<P1>不淘汰かつ無層理のEaの角礫からなる地すべり堆積物を,シルト~中粒砂の堰止湖沼堆積物が覆う.地すべり堆積物にはパッチワーク構造が観察できる.地すべり堆積物に含まれる材はcal AD1494~1601を示す.堰止湖沼堆積物層最下部の材はcal AD1552~1634である.<P2>P2周辺の吉田川の渓岸には割れ目に富むジグソーパズル状に破砕されたEaの岩盤や,シート状の粘土層や著しく座屈・褶曲したEp層がみられる.この堆積物の特徴は大規模崩壊堆積物にしばしば認められる特徴と類似・一致する.<P3>P3を代表とする地すべり移動体南部のL~H面上には,比高がまばらな長円形の小丘状地形や閉塞凹地が分布する.小丘状地形は破砕されたEa・Ep岩屑などで主に構成される。このような地形は、地すべりの移動方向に短軸をもつ4).小丘状地形の短軸方向と分布を集計し,各地形面の移動方向を検討した.地形面同士の関係(切る・切られる)も考慮した結果,過去3回の滑動が推測できた.<P4>P4付近では高さ約20 m,幅約50~100 mにわたり蛇紋岩化の著しいかんらん岩が分布する.かんらん岩は,およそ北―北北東方向に発達しているとみられる2).おわりに本研究は以下のようにまとめられる.①MLの各所に大規模地すべりと判断できる地形や地質的証拠がみられた.②P1ではcal AD1552~1634に地すべりによる堰き止め湖沼が生じた.③地すべり移動体上の微地形判読から,過去3回の滑動が推測された.④そのうち最新の滑動がcal AD1494~1601に発生したことは確実で,その誘因としてAD1586天正地震が挙げられる.⑤地すべりの誘因はML周辺の活断層による地震が,素因は蛇紋岩などの地質的な条件が考えられる参考文献 1)飯田(1987)『天正大地震誌』、井上・今村(1998)歴史地震,14,57-58. 2)河田・磯見・杉山(1988)「萩原地域の地質」.地調.3)杉山・粟田・佃(1991)地震,44,283-295. 4)木全・宮城(1985)地すべり,21(4),1-9.
著者
竹村 一男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.311, 2019 (Released:2019-03-30)

内村鑑三には、『地理学考』をはじめとする地理や自然(天然)環境に関する著述が多く,内村のキリスト教信仰,思想のバックボーンのおおくを地理思考がなしていると考えられる。その地理思考は,神の創造した宇宙万物の摂理探求が地理学の目的であり,宇宙万物は人間の教育という目的のために神が創造したものでもあるという,神学的,宗教的地理学によるものである。その内村地理学の特徴として,1.キリスト教的目的論を前提としている。2.アーノルド・ギュヨー(Arnord Guyot),カール・リッター(Carl Ritter)など宗教的思考をとる地理学者の影響が認められる。3.内村の地理書『地理学考(地人論)』はギュヨーの影響のもとに宗教的地理学の記述と独自の文化論を展開している。4.「内村の無教会」=「内村が帰する地理的宇宙」の構造が推定される。5.後年,内村の自然観が聖書的自然観寄りに大きく推移している。 年譜にそって内村の地理思考をみていく。札幌農学校入学(1877年)以前から内村には地理学への志があり,受洗以降,開拓使御用掛時の文書は自然を享受するクリスチャンの立場からの地理的記述が多い。アメリカ留学時代(1884~88年)には大学の所在地アマーストの近郊で多くの野外調査を重ねたことを記している。当時の日本では入手困難であったギュヨーやリッターの宗教的地理学の文献を熟読してその影響を受けるとともに,自らの宗教観との一致や信仰確認を行ったことも推測できる。特にギュヨー The earth and manによる「inorganic nature is made for organized nature, and the whole globe for man, as both are made for God, the origin and end of all things.」の記述は内村の宗教的地理学思考に大きな影響を与えたと思われる。また,この時期に内村の回心体験がなされたとされるが,報告者は内村の体験時の筆記メモとされる「I for Japan, Japan for the world, The Word for Christ, And All for God.」に,ギュヨーの記述との関係性を推定しており,リッター及び西欧の宗教的地理学に遡るものでもあると考える。この一文は内村生涯の指針とされ,後に内村は和文で「余は日本の為め 日本は世界の為め 世界は基督の為め 基督は神の為め也」と多くの色紙に残し,やがて内村の墓標となった。留学時に改めて自身の帰する日本に思い至った内村であるが,帰国後は不敬事件(1891年)などの不遇の時期を迎えることで,内村の日本観も揺らぐ。しかし,それらの経験は内村に,自らが帰すべきは現実的存在である日本国やアメリカ合衆国ではなく,これらを超越した「神の国」であり,「世界の市民,宇宙の人」であるべきことを示した。それが,「神の国」「帰すべき地理的宇宙」から「無教会」へと展開する。 1895年に『地理学考』を刊行する。同書は内村の生涯の愛読書となった『The earth and man』の影響が大きいが,その文明論を発展させた,独自の宗教的地理書といえる。「両文明は太平洋中に於て相会し,二者の配合に因りて胚胎せし新文明は我より出て再び東西両洋に普からんとす」と,日本に東西文明の仲介者,新文明の発信者という使命と希望を与えている。なお,両書には環境決定論に傾いた記述や,特に『The earth and man』には人種差別的な記述も観られる。後年(~1930年)は聖書解釈による,神の創造物中における人間の優位性など,自然愛好家としての内村に好感を示す読者を失望させる記述も観られるが,これは内村の地理学が宗教的地理学である以上,免れえない帰結といえるかもしれない。生涯を通じて内村の思想のバックボーンには地理思考があったといえる。
著者
山本 晴彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.160, 2019 (Released:2019-03-30)

1.近世における気象観測1874年にフランス人司祭のクロード・シャルル・ダレが記した『Histoire de L'Eglise de Coree』の序論を翻訳した『朝鮮事情(朝鮮教会史序論)』には「Climat」(気候)に関する記述が見られる。「(前略)北緯35度以北では、宣教師たちは温度が零下15℃以下に下がることを経験しなかった。しかし、北緯37度30分あるいは北緯38度以北ではしばしば零下25℃以下に下るのを経験した。(後略)」と記されおり、温度計を用いた簡易な気温観測が宣教師により行われていたことがわかる。ロシア公使シー・ウエーバーは、1887年4月から京城(ソウル)で毎日9時、15時、21時の気温、雨量、積雪、風向、風力、雷電、霧、雹、露等の観測を行っていた。さらに1889年4月からは晴雨計を用いて気圧の観測も開始しており、本格的な気象観測であったことがわかる。この3年半の観測記録はサンクトペテルブルクにあるロシア中央気象台の台長であったウイルドが発刊した気象年報にも掲載されている。海関では、朝鮮政府に雇われたドイツ人外交官メレンドルフが、ヨーロッパ人を中心に職員を雇用し、仁川では1883年6月、元山では同年10月、釜山でも同年11月に海関を開設して気象観測を実施している。また、日本領事館(釜山、仁川、元山、鎮南浦、平壌)においても気象観測が行われ、1881年からの漢城(京城、現在のソウル)の気象観測記録「朝鮮国漢城日本公使館気候経験録」については、大阪大学名誉教授の小林茂氏が紹介している。なお、朝鮮王朝の時代に実施された「測雨器」による雨量観測については省略する。2.臨時観測所の創設と朝鮮統監府観測所・韓国政府への移管日露戦争における軍事ならびに航路保護の目的で、1904年3月に勅令第60号を発令して臨時気象観測所(第一~第五、技手15人)を開設し、中央気象台に臨時観測課を設けて和田雄治技師が課長に就き、朝鮮での臨時観測所の開設業務を任せられた。和田は朝鮮に派遣され、位置の選定、庁舎の借入等の検討に当たり、自ら初代所長に就任した。第三臨時観測所の仁川は、事務開始が1904年4月6日で、日本居留地第四十一号 民家を借入使用し、用地買収計画を待たずに気象観測が開始している。仁川の第三臨時観測所は翌年1月1日、鷹烽峴山頂に新庁舎が完成し、移転している。1907年4月には『朝鮮統監府観測所官制』により文部省の中央気象台(臨時観測課)の所管から朝鮮統監府に移管され、仁川の第三臨時観測所を朝鮮統監府観測所に改称し、釜山、木浦、龍巌浦、元山、城津の臨時観測所を支所とする本所・5支所の体制へと改編された。しかし、翌1908年3月には『朝鮮統監府観測所官制』が廃止され、4月より韓国政府が勅令第十八号『観測所官制』を発令し、農商工部告示第六号により観測所及同附属測候所の位置・名称を定めた。これにより、韓国政府は1907年に開設した農商工部所管の京城・平壌・大邱の測候観測所、そして朝鮮統監府観測所の本所・支所を韓国政府に移管させ、仁川の観測所を本所とし、釜山・元山・京城・平壌・大邱・木浦・城津・龍巌浦の8か所の測候所を管轄する体制が韓国政府により構築された。だが、実質的には中央気象台から派遣された和田所長以下の技手によって気象業務が実施されていた。3.朝鮮総督府観測所の創設2年後の1910年8月には韓国併合に関する条約(日韓併合条約)により韓国が日本に併合される。9月には勅令第三百六十号『朝鮮総督府通信官署官制』が発布され、観測所は通信局所管となり、再び中央気象台の気象観測ネットワークに組み込まれ、外地(台湾・朝鮮・満洲・関東州・樺太)での気象業務が展開していくこととなる。
著者
束田 大樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.318, 2019 (Released:2019-03-30)

1.研究の背景と目的 1993年に制度が開始された「道の駅」は、当時の建設省によって103カ所の施設が登録されてから、毎年増え続け、その数は2019年1月現在、1145カ所にものぼる。高速道路のSAやPAと同じく、一般道路にも休憩施設を整備することを目的としたため、制度開始当初は道路休憩施設という意味合いが強かった。しかし近年、道の駅は、農産物直売による農業振興、観光拠点としての地域振興、更には地域福祉、交通結節点、防災等の役割も担うようになってきており、地域の核となる施設に変化している。 道の駅は原則、地方自治体やそれに代わり得る公的な団体が設置し、管理・運営は地方自治体、または自治体からの業務委託や指定管理により、第三セクターや地域の民間事業者等が行う。そのため、道の駅は地方自治体それぞれの、道路休憩施設や地域振興に対する考え方や財政事情、土地の特徴がよく表れる施設である。 この研究では、自治体が道の駅を設置した背景と目的、設置をした際の国や県の関与、現在の運営状況を明らかにし、立地による違いを分析することを目的とする。2.対象地域と調査方法 対象地域は、群馬県内の道の駅を設置しているすべての自治体と全32か所の道の駅とする。県北部や西部は山間地域が多くを占め、南部や東部には関東平野が広がるため、山間部と平野部の道の駅を比較するのに適当な地域であると判断したからである。 調査方法は、対象地域内各自治体の担当部署への聞き取りを行い、得られた情報をもとに、各自治体にとっての道の駅位置付けを分析する。そして、対象地域を、過疎地域、特定農山村地域、それ以外の地域(主に平野部)に分け、地域ごとに立地する道の駅の特徴を比較する。3.研究結果 調査結果の中で特に注目されるのは、整備手法、設置の際の補助金、条例の3点である。 道の駅の整備方法は、道路管理者と自治体で整備する「一体型」と、自治体で全て整備を行う「単独型」に分けられる。全国的には「一体型」の方が多いが、群馬県は、「一体型」は32か所中4か所しかなく12.5%と極めて低い。 補助金は、一番多かったのが、農林水産省の農業振興に関する補助金であった。道路休憩施設ではあるが、国土交通省の社会資本整備等の補助金は農林水産省の約半数にとどまった。 条例は、自治体が道の駅を設置する際に制定した条例の「設置の目的」に関する条文に注目すると、農業振興や地域振興が多く、道路休憩を目的として明記している自治体は少なかった。 群馬県の道の駅は「単独型」が多く、自治体が独自で設置しているため、道路休憩よりも地域振興や農業振興を重点化する傾向になると考えられる。地域ごとに比較すると、過疎地域、特定農山村地域の道の駅は、農林水産省から受けた補助金が多く、設置目的も地域振興や農業振興が多い。逆にそれ以外の地域では、国土交通省から受けた補助金が多く、設置目的も道路休憩の意味合いが強い。地域の状況によって自治体が道の駅に求めるものが異なるのである。
著者
藤村 健一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.146, 2019 (Released:2019-03-30)

百舌鳥・古市古墳群は大阪府堺市・藤井寺市・羽曳野市に位置する。2017年、これに含まれる45件49基の古墳が文化審議会によって世界文化遺産の推薦候補に選ばれた。早ければ2019年にも正式に登録される可能性がある。 推薦候補に選ばれた古墳には、仁徳、履中、反正、応神、仲哀、允恭の各天皇陵古墳が含まれる。このうち、堺市の仁徳天皇陵古墳は国内最大、羽曳野市の応神天皇陵古墳は国内2番目の規模の古墳である。天皇陵は皇室祭祀の場所であり、現在でも宮内庁が管理している。 発表者は2016年、京都の拝観寺院(観光寺院)の意味や性格について報告した。これらの寺院に対しては、主に宗教空間、観光施設、文化財(文化遺産)という3種類の意味が付与されている。これらは互いに異なる立場から意味づけられており、対立する可能性をはらむ。1980年代の古都税紛争は、このことが一因であったと考えられる。 天皇陵古墳に対しても、様々な立場から異なる意味づけがなされ、そのことが摩擦を生んでいる。本研究では百舌鳥・古市古墳群の天皇陵古墳を事例として、そこに付与された様々な意味を整理・分析するとともに、意味づけを行っている人々についても調査し、摩擦の要因を解明する。 百舌鳥・古市古墳群の天皇陵古墳に付与された意味は、①聖域、②文化財、③観光地・観光資源、④世界文化遺産の4つに集約できる。①の見方をとるのは主に宮内庁と皇室、神道界の人々や、皇室崇敬者・皇陵巡拝者である。②の見方をとるのは、主に古墳を研究する歴史(考古)学者である。③は地元の経済界や観光業者・観光客を中心とした見方である。④は、主に世界遺産登録運動の推進役である地元自治体や文化庁の見方である。 ①~④の意味には重複する部分もあるが、これらは一致しておらず齟齬もある。とりわけ、①の見方をとる立場と②の見方をとる立場の間では対立が顕著である。天皇陵古墳を②とみなす歴史学者は、宮内庁を批判してきた。 ①の立場をとるのは宮内庁・皇室関係者だけでない。神道界や皇室崇敬者、皇陵巡拝者には、天皇や皇室に対する尊崇の念をもって天皇陵を聖域視する人々が少なくない。 こうした人々の中には、天皇陵古墳をもっぱら文化財とみなす歴史学界や、世界遺産登録を推進する行政、観光資源としての利用を図る業者を非難する人もいる。ただし、現代の皇陵巡拝者は必ずしも皇室崇敬者に限らない。彼らは「陵印」収集など多様な動機をもって巡拝している。
著者
山田 耕生 藤井 大介
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.305, 2019 (Released:2019-03-30)

1.研究の背景と目的 現在、イタリアでは集落内に点在する空き家等を宿泊施設に活用し、ホテルの客室に改修し、集落全体をホテルに見立てた、アルベルゴ・ディフーゾ(Albergo Diffuso、以下ADと表記)が大きな注目を集めている。ADは直訳すると「分散型ホテル」の意味で、現在のAD協会会長ジャンカルロ・ダッラーラ氏が1980年代に提唱した概念である。 イタリアでは日本と同様に少子高齢化が進んでおり、地方の小都市、集落では人口減少や地域経済の衰退が問題となっている。そんな中で、集落内の空き家、空き部屋を宿泊施設として活用し、地域を運営するADは地域活性化に向けた打開策として期待されている。 本研究では、2018年9月にイタリア国内9地域において実施した現地調査をもとに、ADの施設と経営、宿泊者の動向や特徴を明らかにする。さらにその結果を踏まえて、日本における空き家、古民家の宿泊施設への活用の今後の方向性を考察する。2.アルベルゴ・ディフーゾの現状(1)アルベルゴ・ディフーゾの条件 AD協会では加入の条件として「ADが統一組織にマネジメントされていること」「一定以上の水準のホテルサービスが提供されていること」「ADの各建物が適度に離れていること」「ホテルまたは地域内にて飲食、生活サービスが提供されていること」「地域コミュニティに開かれ、宿泊客と融合できること」などが挙げられている。(2)アルベルゴ・ディフーゾの分布 2018年4月時点、AD協会に登録されているADは102地域である。2011年に35地域、2015年に86地域であったことから、毎年10地域のペースで増加している。 ADはイタリア北西部のヴァッレ・ダオスタ州を除くイタリア全州に分布しており、なかでも中部のトスカーナ州、ウンブリア州、マルケ州、ラツィオ州に全体の約1/3のADが分布している。(3)アルベルゴ・ディフーゾ経営の特徴 ADの立地は丘や山麓に位置する町や村、山間部の街道沿いなどに位置するケースが多い。主要都市(空港)からのアクセスは車で1~2時間がほとんどである。 ADの施設については、宿泊室はキッチン付きのアパートメントタイプと、ベッドルームにトイレ、シャワー室がついたB&Bタイプの両タイプが混在している。 ADの経営は家族経営がほとんどである。建築家や飲食店経営などの個人事業主がホテルのオーナーになっている。 宿泊客の傾向をみると、おおむね4月~9月がシーズンで、特に7月、8月はヨーロッパ各地でバカンス期になることから、稼働率が高い状態である。しかし、11月~3月までは宿泊客数がピーク時の1、2割程度に落ち込む。3.まとめ~日本の空き家、古民家の宿泊施設への活用に向けて~ イタリアのADは空き家の再生という観点で、歴史的文化財をしっかり改修した分散型ホテルは観光として有効である。日本で展開するためには宿泊施設してしっかりと費用をかける必要がある。またイタリアの場合はADが機能分散型になっていないケースが多いが、日本では地域をコーディネートする組織(協議会、DMO、DMC)を作りながらADを運営すれば、街づくりと観光を作り出し、大きく発展する可能性がある。
著者
小嶋 和
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.122, 2019 (Released:2019-03-30)

火山と人間の共生という観点から、継続的な噴火が見られる桜島の人々の営みを明らかにすることは、火山との共生の在り方の1つの例を示すこととなる。本論では桜島の土地利用変化から、火山活動が地域社会にどれほどの影響を与えどのような変化をもたらしたのか、自然と社会条件の両側面から考察する。さらに、地域社会の変化とともに桜島の火山活動が人々に与える影響がどのように変化したのかに注目し、火山との共生の在り方について考察を行った。桜島は、北岳と南岳からなる複合火山である。1946年に溶岩を流出した昭和火口は2006年から活動を再開した。現在は南岳か昭和火口から噴火が継続している。北岳の北~西部山麓には主に火山麓扇状地の地形が見られ、南岳の北東~南部には古期南岳噴出物と新期南岳噴出物とが複雑に入り組みながら分布する(小林ほか2013)。山麓には火山を囲むように17の集落が存在し、北西部が旧桜島町、南東部が旧東桜島村である。両地域ともに農業や漁業が中心産業だが、近年観光業にも注力している。噴火回数と降灰量の変化(鹿児島地方気象台による)は以下の通りである。①1955~1971年:南岳の活動が開始した。②1972~2001年:南岳の活動が活発化し、多量の降灰が問題となった。③2002~2007年:南岳の活動が停滞した。④2008~2017年:昭和火口からの噴火が始まり、ふたたび多量の降灰をもたらした。土地利用の変化(3時期のGISによる分析)は、旧桜島町域においては、火山麓扇状地全体に露地の果樹園や畑が広がっていた。しかし、1975年から1995年にかけて、標高150m以上の上場地帯を中心として耕作放棄地が増加した。また、降灰営農対策事業の後押しにより、施設園芸も増加した。1995年から2015年にかけては、耕作放棄地や施設園芸がやや減少し、北西部に露地の畑が増加している。旧東桜島村域においては、多くが溶岩台地であり、耕地として利用できる地域が限られているが、標高の高いところには同様に耕作放棄地が見られた。社会の変化(統計資料・文献・聞き取りによる)は、旧桜島町域においては、1970年代初頭までは農業従業者が多かった。しかし、1970~1975年にかけて、専業農家が著しく減少し、全年代で農業従事者が減少した。専業農家の減少とともに、町内の公共土木事業を担う建設業や、島外の会社や商店で働く人が増加した。以上より、旧桜島町域と旧東桜島村域は、行政区域上の違いだけではなく地形地質が異なっており、それが土地利用や産業、人口の違いを生んでいる。また、旧桜島町域における年代による土地利用変化の要因は、①1970年~1990年代後半:南岳活動活発化以降、急速に耕地や収穫量が減少し、耕作放棄地と施設園芸の面積が急増した(石村1981・1985)ことから、火山活動が土地利用変化の大きな要因だったと考えられる。②1990年代後半以降:火山活動と関係なく耕地面積が変化していることから、火山活動は土地利用変化の大きな要因ではなく、1970年代以降若年層を中心に離農が進んだことによる農家の高齢化の進行や後継ぎ不足などの影響が強い。また、施設園芸の普及により降灰被害が抑制できるようになった。最後に、旧桜島町域における土地利用の地域差の要因は、標高と降灰堆積量が大きな要因であると思われる。高齢で人手が少ない農家を中心に、上場地帯から漸次放棄されていくが、特に北部は温州みかんの育成園が多かったことや、火口に比較的近く降灰堆積量が多かったために農作物への被害が大きく、耕作放棄が進んだと考えられる。桜島では現在農業は主たる産業ではなくなり、かつて生活に大きな影響を与えた降灰被害以上に、島内の雇用の少なさ、フェリーによる移動などが生活の支障となっており、全国的に見られる農村と同様の課題を抱えていると言っていい。近年は、NPO法人やUターン者を中心として桜島全体を観光資源として活用しようという動きがある。新たな火山との共生の形が桜島で生まれつつある。
著者
川又 基人 菅沼 悠介 土井 浩一郎 澤柿 教伸
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.186, 2019 (Released:2019-03-30)

近年では, 航空レーザー測量を基にした高解像度の数値標高モデル(Digital Elevation Model: DEM)により微地形の特徴の抽出が容易になり,これまで以上に詳細な地形判読が可能となってきた。しかし,南極などの人為的アクセスが極めて厳しい地域では, 日本国内で用いられているような航空レーザー測量は難しく,衛星データによって得られるDEMは解像度約30−10 m程度のものである。このようなDEMは数kmスケールの地形は判読可能だが,それよりも小ス ケールの判読は難しい。 そこで本研究では,微細な氷河地形の判読を目的に,SfM 多視点ステレオ写真測量(SfM/MVS)技術を南極地域観測隊によって撮影された空中写真に適用することで,高解像度のDEM およびオルソ画像を作成した。 SfM/MVS処理の結果,1.4 m メッシュの DEM と地上画素寸法 70 cm のオルソ画像 の作成に成功した。新たに作成したDEMは,国土地理院作成の既存DEMで確認された急傾斜地点でのデータの抜けなども確認されず,詳細な起伏が表現されている。新たに作成したDEMの精度に関して,現地でのGNSS測量結果4点との較差(平均平方二乗誤差)を調べた結果,高さ方向に2.77 mとなった。しかし,今回作成したDEMの端では海水面に±10 m 程度の誤差が確認された。これは SfM/MVSに特徴的なドーム状の歪みに起因するものと考えられる。 今後は海岸線での高さの整合性の取り方といった絶対精度向上のための工夫する必要があるものの,今回作成したDEMは既存のDEM からは判読できなかった解像度 (数 10 m スケール)の氷河地形を読み取ることができ,地形判読や地形解析をはじめ,極域における地形発達史に関する教育・アウトリーチ面でも有効に活用できるだろう。
著者
有江 賢志朗 奈良間 千之 福井 幸太郎 飯田 肇
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.124, 2019 (Released:2019-03-30)

はじめに 現在の飛騨山脈の気候環境では,降雪量が融解量を上回ることができない.そのため,飛騨山脈における氷河と多年性雪渓の分布は,吹きだまりやなだれの地形効果がある場所に限定される.樋口(1968)は,多年性雪渓の地形効果による涵養様式を雪渓の分布高度で分類しており,稜線からの標高差と分布高度が小さい雪渓を「吹きだまり型」,稜線からの標高差と分布高度が大きい雪渓を「なだれ型」,稜線からの標高差が小さく,分布高度が大きい雪渓を「混合型」とした.本稿では,「吹きだまり型」を「吹きだまり涵養型」,「なだれ型」と「混合型」を「なだれ涵養型」と呼ぶ. 質量収支の一般的な測定方法は,氷河や雪渓上に雪尺を打ち込み,1年後の雪面の高度変化を測る雪尺法が用いられる.しかしながら,日本の山岳地域は,膨大な涵養量と消耗量のため,雪尺が倒れてしまい実測できない.そこで,日本の多年性雪渓の質量収支観測では三角測量やトラバース測量がおこなわれている.観測実績のある雪渓は三角測量やトラバース測量の実測が可能な「吹きだまり涵養型」の小規模な多年性雪渓に限定されており,氷河を含む「なだれ涵養型」の多年性雪渓の質量収支は明らかでない. 本研究では,セスナ空撮とSfMソフトを使用し,2015~2018年の飛騨山脈北部の氷河と多年性雪渓の質量収支を算出し,「吹きだまり涵養型」と「なだれ涵養型」の違いを考察した.さらに,氷河の可能性が高い唐松沢雪渓において氷厚と流速を測定し,唐松沢雪渓の氷河の可能性について検討した.研究手法ⅰ)なだれ涵養型の氷河と雪渓の質量収支 飛騨山脈北部の立山連峰の「御前沢氷河」,「内蔵助氷河」,「三ノ窓氷河」,「小窓氷河」,「はまぐり雪雪渓」,「剱沢雪渓」,後立山連峰の「白馬大雪渓」,「カクネ里氷河」の8つの氷河と雪渓において,2015~2018年の春と秋に小型セスナ機からデジタルカメラで空撮を実施した.空撮画像と2次元の形状から3次元形状を作成するSfMソフトを用いて,多時期の高分解能の数値表層モデル(DSM)を作成した.これらDSMの比較から「なだれ涵養型」の氷河と雪渓の高度変化を算出した.ⅱ)唐松沢雪渓の氷厚と流動 後立山連峰の唐松岳の北東斜面に位置する「なだれ涵養型」の唐松沢雪渓において,2018年9月に,中心周波数100MHzの地中レーダー(GPR;GSSI社製)を使用し,雪渓の縦断方向に2列と横断方向に6列の側線で測定を実施した.縦断方向と横断方向で反射波のクロスチェックをおこない正確な氷厚を求めた.GPRの解析結果をもとに氷厚の大きい上流部において,アイスドリルを用いて,長さ4.5mのステークを5地点に設置し,GEM-1(測位衛星技術社製)で9月末と10月末でGNSS測量を実施し,2時期のステークの位置情報の差から流動量を求めた.9月末に水平に打ち込んだステークは,再測時の10月末でも水平を保っていたことから,積雪のグライドやクリープは,流動に関与していない.結果 ⅰ)8つの氷河と雪渓の質量収支は,2015/2016年に全域が消耗域となり,2016/2017年に全域が涵養域となり,2017/2018年にパッチ状に涵養域と消耗域が点在する結果であった.2015~2018年の融雪末期の中で最も氷河と雪渓の規模が小さくなったのは,小雪年の2016年である.2016~2018年までの高度変化で,「吹きだまり涵養型」の雪渓と「なだれ涵養型」を比較したところ,「なだれ涵養型」のほうが大きく涵養していた.ⅱ)唐松沢雪渓では,GPRの結果から最深部で30mほどの長さ1㎞ある氷体を確認した.流動観測では,ステークは1ヶ月間で斜面方向に20cmほど動いており,得られた氷厚と流速は氷河の流動則とほぼ一致した.
著者
遠藤 伸彦 松本 淳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.65, 2019 (Released:2019-03-30)

日本・ベトナム・フランス・米国水文気象当局の図書室ならびにフランス国立図書館に所蔵されている旧フランス領インドシナ(以下,旧仏印)の気象に関連する出版物に基づき,植民地時代の旧仏印の気象観測の歴史をとりまとめた.旧仏印気象局が設立される以前はフランス海軍の軍医が気象観測を行っていた.旧仏印気象局が設立された後は,気象観測網が年々拡充されたが,その業務は旧仏印総督府の政策によって強く規制されていた.収集した出版物の画像集は,旧仏印の歴史的気象データの復元に役立てることができる.
著者
関村 オリエ
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.271, 2019 (Released:2019-03-30)

近代核家族の概念に下支えされてきた性別役割分業が終焉を迎えつつある中で、都市郊外空間の地域社会は新たな変容を続けている。それは、働き盛りの父親たちによる地域への参加である。もっぱら生産領域において賃金労働に勤しんできた男性たちによる再生産領域での動向は、どのような展開を見せているのであろうか。本研究の目的は、子どもを育てる父親たちに着目することで、子育てを足掛かりとした彼らの地域参加やそこでの実践を明らかにしようとするものである。本研究では、インタビュー調査により収集した語りなどを中心とした質的データを使用した。調査対象地域は、京阪神大都市圏において大規模な郊外住宅地域が広がる大阪府豊中市であり、対象者は子どもを育てる30代~50代の父親たちである。彼らは、会社員や自営業者として現役で働きながら、地元のサークル活動や任意団体、PTAなどに参加し、さまざまな地域の活動に従事する人々である。インタビュー調査では、世帯構成、生活実態、地域・家庭との関わり方などを把握するための質問票を用いて、対面式で尋ねた。本研究で焦点を当てた父親たちは、任意団体や自治会、そして子どものPTA活動への参与、これらを通じた地元住民や地域の人々との交流により、都市郊外空間の地域社会における新たな関係の構築を試みていた。彼らは、自らの子どもたちが学び、生活を送る場である地域をより良くしたいという強い動機から、地域活動への参加を果たし、精力的に活動を行っていた。教育や環境などに取り組む彼らの事例は、男性たちが、職場を軸とした生産労働に従事する行為主体のみならず、地域を中心とした生活者としての行為主体でもあるという新たな側面を伺わせるものであった。ただし、生活の基盤となる家庭内における家事やケア労働については、分担をめぐって限定的であり、その参与に必ずしも積極的ではない人も存在した。本研究では、男性たちの地域参加やその実践・認識が、実は生産領域に由来するものであることが見えてきた。