著者
杉浦 祥 清水 明
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.70, no.5, pp.368-373, 2015-05-05 (Released:2019-08-21)

マクスウェルやボルツマンにより創始された統計力学は,ギブズにより「アンサンブル形式」の統計力学として完成し,物理学の礎の一つとなった.しかし,その基本原理については,未解明な部分も残され,教科書の記述も様々である.アンサンブル形式では,等重率の原理に基づき,「(統計)アンサンブル」と呼ばれる確率集団を導入する.そして磁化や相関関数といった力学のみで定義できる物理量(力学変数)の平衡値は,この確率集団での平均値(アンサンブル平均)として求めることができる.しかし,熱力学で登場する,温度やエントロピーといった量(純熱力学変数)は,力学変数として表すことができない.そこで,純熱力学変数は,von Neumannエントロピー(古典系の場合Shannon entropy)や分配関数から求める.しかし,統計力学の基本原理である等重率の原理の本質は,アンサンブル平均ではなく,「ほとんどのミクロ状態がマクロには同じだ」ということである.即ち,温度や体積といったパラメーターを指定した時にあり得るミクロ状態の個数は組み合わせ論的に増大し,すぐに天文学的な数になる.このミクロ状態達のうち,圧倒的多数が平衡状態とみなせる状態であり,マクロ物理量を測った時に同じ測定値を返す.それとは異なる測定値を取るような非平衡状態はずっと少ない.その結果,平衡状態も非平衡状態もひっくるめたアンサンブルを作ってアンサンブル平均を求めれば,その値はほぼ100%を占める平衡状態での値になる.この「典型性」こそが,等重率の本質なのである.それならば,天文学的な数のミクロ状態についてアンサンブル平均を計算する必要は必ずしもない.我々は最近,マクロな量子系における典型性に着目し,熱力学的平衡状態を代表する,熱的な量子純粋状態(Thermal Pure Quantum state,略してTPQ state)をたった一つ用意するだけで統計力学の全ての結果が得られることを示した.つまり,磁化や相関関数といった力学変数がTPQ stateの期待値により計算されるだけでなく,熱力学関数のような純熱力学変数すらも適切なTPQ stateの規格化定数から得られる.TPQ stateは,アンサンブルの持つエネルギーの確率分布と非常に近いエネルギー分布を持つ量子純粋状態の中から,一つをランダムに選び出した状態であり,物理量のゆらぎまでも再現する状態となっている.アンサンブル形式では,熱ゆらぎの効果はアンサンブルを導入した結果生じる古典混合によって取り込まれると見なすことができた.しかし,TPQ stateを用いた定式化では,量子純粋状態の内部に量子エンタングルメントを作ることで,熱ゆらぎも量子ゆらぎの一部として取り込んでいる.その結果,たった一つのTPQ stateが統計力学で興味ある全ての物理量を正確に与えるのである.たった一つの量子純粋状態で熱力学的平衡状態が記述できるという事実は,理論的な興味のみならず,応用上もメリットをもたらしている.その例として,本記事では代表的なフラストレーション系である,カゴメ格子系上のハイゼンベルグ模型の数値計算結果を示す.
著者
向山 信治
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.67, no.2, pp.85-95, 2012-02-05 (Released:2019-10-19)
参考文献数
19

銀河や銀河団などの宇宙の豊かな構造は,微小な原始揺らぎを種としてできたと考えられている.そのため,初期宇宙の量子揺らぎの生成メカニズムは,宇宙論において最も重要な研究対象の一つとなっている.特に,宇宙揺らぎの非ガウス性は,近い将来観測される可能性があり,様々な研究が最近急速に進んでいる.本稿では,インフレーション起源の量子揺らぎを記述する有効理論と,それを用いて相関関数を評価する方法を中心として,初期宇宙における揺らぎの非ガウス性を解説する.
著者
田崎 晴明
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.63, no.10, pp.797-804, 2008-10-05 (Released:2017-08-04)
参考文献数
17

マクロな系の平衡状態に関する普遍的な体系である熱力学と統計力学を非平衡定常系にまで拡張するという(まったく未解決の)課題について,問題意識と現状を解説する.特に,過剰熱の概念,「ゆらぎの定理」,確率分布の表現,そして,拡張クラウジウス関係式といった,非平衡定常系の物理学の鍵になりうる結果について,基本的なアイディアと意義を述べる.この解説では,非平衡物理の「業界用語」を持ちださず,古典力学と平衡統計力学の初歩的な知識だけを使って,ミクロな時間反転対称性がいかにマクロな非平衡物理と関わりうるかを描き出したい.
著者
柴田 利明
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.67, no.11, pp.738-745, 2012-11-05 (Released:2019-10-18)
参考文献数
52
被引用文献数
1

陽子のスピン1/2が,陽子を構成するクォークやグルーオンからどのようにつくられているか,は「陽子のスピンの問題」と呼ばれていて今日の物理学の基本的な問題の1つである.1980年代のEMC実験によって,陽子のスピン1/2に対するクォーク・スピンの寄与がたいへん小さい,ということが発見されたのが発端である.その後,世界の様々な粒子加速器を用いて荷電レプトン-核子偏極深非弾性散乱と偏極陽子-陽子衝突型実験によって研究が行われてきた.その結果,陽子スピンに対するクォーク・スピンの寄与は約1/3であることが明らかになった.陽子スピンに対するグルーオン・スピンの寄与の測定も行われており,理論研究も進展している.現在の研究がどこまで進んでいるかを解説する.
著者
古城 徹
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.74-82, 2022-02-05 (Released:2022-02-05)
参考文献数
56

「強い力」の基礎理論である量子色力学(QCD)は,カラー電荷を持つ素粒子,クォークとグルーオンの動力学である.クォークとグルーオンは,カラー電荷を中性にする組み合わせでハドロン(複合粒子)に閉じ込められる(カラーの閉じ込め).低エネルギーではカラー中性のハドロンが有効自由度であるが,高温・高密度ではカラー自由度が顕在化する.高温ではハドロンのガスからクォーク・グルーオン・プラズマへの相転移が起こる.この相転移は,重イオン衝突による加熱圧縮実験と格子QCDに基づく第一原理計算やモデル解析により詳細に研究されている.一方,低温で原子核を圧縮すると,まず多数のハドロンからなるハドロン物質,次いでクォーク物質になると考えられているが,その多体問題の記述は確立されていない.実験として,重イオン衝突による圧縮が考えられるが,高エネルギー実験では低温が実現せず,低エネルギー実験では高密度に達しない.ところが宇宙に目を転ずれば,中性子星という超高密度天体が存在する.中性子星は高密度におけるQCD物性を観測できる天然の実験室系である.たくさんの中性子星を観測していくと,それらが一つの質量・半径関係式を構成する.これは中性子星内部の状態方程式と一対一対応なので,原理的には観測から高密度QCDの状態方程式を直接決めることができる.これまで質量と半径の同時観測は難しい問題だったが,ここ十年程度でその状況も変わりつつある.特に2倍の太陽質量を持つ重い中性子星の発見,中性子星合体現象の観測,といった歴史的発見があった.前者は,高密度物質が過去に考えられていたよりもずっと硬い――そうでなければ自己重力で潰れてブラックホールになる――ことを示唆する.後者は,重力波,電磁波,ニュートリノによる複数の観測量から天体現象を多角的に解析するマルチメッセンジャー天文学の幕を開き,今後計画されている観測により飛躍的な進展が予想される.以上の観測の進展と,理論計算が有効な領域の情報とを組み合わせることで,QCD物性に対する理解もまた深化する.低密度の原子核物理を考慮に入れたうえで高密度領域を考えたとき,2倍の太陽質量を持つ中性子星の中心部では,その密度が核子が重なり合うほどに大きいことが示唆される.ここではクォークに基づく記述が必要であろう.しかしこのクォーク物質は非常に硬いという点で,以前に用いられていた記述の範疇に収まらない.特に今までよく用いられてきた,ハドロン物質とクォーク物質を1次相転移によって隔てる記述は,1次相転移による物質の軟化が柔らかいクォーク物質を導く,という点でやや具合が悪い.ここにハドロン物質,クォーク物質とは何か,という基本的な問いに立ち返る必要が出てくる.この文脈で,「クォーク・ハドロン連続性」や「quarkyonic相」といった,ハドロン物質とクォーク物質を相転移なく連続的につなげる新しい型の記述が現象論に活用されつつあり,一定の成功を収めている.より詳細な検証は,物質科学としてのQCDにとって基礎的課題であり,また今後の中性子星の観測を予言・解釈する際に重要となる.
著者
北沢 正清 野中 俊宏 江角 晋一
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.76, no.8, pp.507-516, 2021-08-05 (Released:2021-08-05)
参考文献数
52

現在,およそ1015 g /cm3という超高密度で実現するとされる相転移の実験的探索が世界各地の実験施設で行われているのをご存じだろうか.この相転移とは,強い相互作用の基礎理論である量子色力学(QCD)が低温かつ超高密度の物質中で引き起こす一次相転移と,その一次相転移線の端点であるQCD臨界点のことである.1015 g /cm3という密度は,原子核の飽和密度ρ0≃2.5×1014 g /cm3を大きく上回り,現在の宇宙における最高密度状態の中性子星中心部に匹敵する.この相転移を,加速した重い原子核を衝突させる実験である高エネルギー重イオン衝突によって地上で実現し,その性質を調べるための実験が進められているのである.高エネルギー重イオン衝突実験では,原子核の圧縮によって衝突時に高温高密度の物質が作られるが,衝突エネルギーを変化させることによって生成物質の温度と密度を変化させることができるという特徴がある.この性質を使い,生成物質の温度・密度依存性を調べる一連の実験をビームエネルギー走査とよび,現在世界各地の加速器でこのような実験が進行している.特に米国の加速器RHICでは幅広いエネルギー領域を調べる実験プログラムRHIC-BESが進行中であり,ドイツGSIのHADES実験などでも低エネルギー領域が調べられている.さらに,GSIのFAIRやロシアJINRのNICAなどの次世代実験施設の建設も進む.これら一連の実験が目指す最重要課題が,ビームエネルギー走査による高密度領域の相構造探索である.これら一連の研究の中でも近年特に精力的に調べられてきたのが,非ガウスゆらぎを使ったQCD臨界点の実験的探索である.ゆらぎはキュムラントとよばれる量で特徴づけられるが,QCD臨界点でゆらぎが発散するのに伴い,QCD臨界点周辺では各次数のキュムラントに特徴的な発散や符号変化などの異常が現れることが理論的に指摘されている.一方,重イオン衝突実験では,衝突事象毎解析とよばれる手法で保存電荷数などの観測量のゆらぎが測定でき,109をも凌ぐ膨大な衝突事象の解析によって現在最高で6次までキュムラントが解析されている.こうして得られた最新の実験結果では,4次キュムラントの衝突エネルギー依存性に非単調な振る舞いが現れており,QCD臨界点の兆候が見えたのではないかと注目されている.水の液気相転移の臨界点から15桁隔てた密度に存在する臨界点の発見に至れば極めて興味深く重大な発見である.現状では実験データの誤差が大きく,また理論的検討も未成熟であるためQCD臨界点の存在同定にはさらなる検討が必要だが,現在RHICではRHIC-BESの第二期実験が進行中であり,この実験が間もなく提供する高統計データによって,近い将来この議論に決着がつくことが期待されている.
著者
中村 卓史
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.103-110, 2015-02-05 (Released:2019-08-21)

中性子星が発見された歴史的経過からはじまり,最近,質量が太陽質量の約2倍の中性子星の発見が核密度を超える高密度の状態方程式に及ぼした影響と今後の研究の方向を議論する.次に,歴史的なブラックホール候補の発見からはじめて現在の様々なブラックホール候補の質量の決定方法,質量分布や赤方偏移分布にも触れる.最後にブラックホール候補がブラックホールと確実に言えるには重力波の観測が重要であることを示す.その結果,アインシュタイン理論が強い重力場でも成り立っているかどうかが近い将来に判明するであろう.
著者
岡 真
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.75, no.10, pp.608-609, 2020-10-05 (Released:2020-12-10)
参考文献数
4

現代物理のキーワードスキルミオン――60年の進展
著者
小谷野 由紀 北畑 裕之 Alexander S. Mikhailov
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.74, no.9, pp.627-632, 2019-09-05 (Released:2020-03-10)
参考文献数
14

生体内には様々な機能を担うタンパク質が多数存在する.それらタンパク質はアデノシン三リン酸などの化学エネルギーを消費して活性化し,その形状を変化させることで機能を発現する.近年,タンパク質の活性化によって生体内の拡散が促進されることを示唆する実験結果が報告された.生体内に限らず,人工のマイクロ流路内での酵素・基質反応系においても拡散の促進を示唆する実験結果が得られた.そのため,ミクロな素子の形状変化が,直接的に拡散の促進を引き起こしている可能性が高いことがわかってきた.タンパク質の活性による拡散促進現象を説明するため,タンパク質のような形状が変化する素子と拡散現象を結びつける数理的な枠組みが,MikhailovとKapralによって提案された.彼らは,生体膜や細胞質をそれぞれ2次元・3次元ストークス流体,活性タンパク質の形状変化を流れを引き起こす力の双極子とみなし,流れに乗って動くトレーサー粒子の拡散挙動を記述する数理モデルを構築した.この数理的な枠組みにおいては,活性タンパク質の形状変化に対応する力の双極子の大きさや配向方向を確率的に与えているため,生じる流体場も確率的であり,さらに流体場に従って動くトレーサー粒子の時間発展も確率的である.トレーサー粒子の統計的な振る舞いを調べるために,トレーサー粒子の位置の時間発展についてフォッカー・プランク方程式,すなわち,トレーサー粒子の確率分布の時間発展方程式が導出された.フォッカー・プランク方程式にはトレーサー粒子の拡散挙動を表す項(拡散項)が含まれているため,拡散項の係数(拡散係数)を調べることにより,拡散の促進が起きうるのか議論することが可能となる.実際に,活性タンパク質が一様に分布している場合について拡散係数を調べると,通常の熱拡散に加え,活性タンパク質による実効的な拡散の促進が起きることが確認できた.フォッカー・プランク方程式には拡散項の他に,トレーサー粒子の一方向的な移動を表す移流項が含まれる.この移流項は,活性タンパク質の分布が一様でないときに現れる.生体内には細胞膜上の脂質ラフトといった,タンパク質が空間的に局在する構造の存在が知られている.そのようなタンパク質の局在構造によって引き起こされる移流について,提案されている数理モデルを用いて考察すると,トレーサー粒子はタンパク質の局在した領域に集まりやすい,という非自明な傾向があることもわかってきた.活性タンパク質の形状変化に対応する力の双極子の大きさや配向方向は,長時間平均がゼロ,かつ,時間的な相関を持たないよう確率的に与えているため,一見,流体中の流れに従って動くトレーサー粒子は方向性のある移動をし得ないように思える.今回のモデルで移流現象が見られる理由は,多数の活性タンパク質の協同現象を考えているためである.最後に,今回紹介したモデルは,拡散の促進現象を表すことができるという点で実験と整合が取れている.しかし,移流によってトレーサー粒子が活性タンパク質の局在した領域に集まる現象は実験的に未確認であり,今後の実験結果が期待される.
著者
高橋 龍一
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.71, no.9, pp.598-606, 2016-09-05 (Released:2017-01-09)
参考文献数
40
被引用文献数
1

宇宙には星や惑星,銀河や銀河団といった多種多様な構造が存在している.これらの構造はいつどのように形成されたのだろう? 宇宙では遠くを見ることにより,過去を知ることができる.そのため,望遠鏡を使い宇宙の構造がどのように進化してきたか,時代をさかのぼって調べることができる.近年の観測技術の向上により,宇宙の太古の時代(ビッグバンから約40万年後)から現在(ビッグバンから約138億年後)まで,進化の歴史を詳細に知ることができるようになってきた.それに伴い構造形成にひとつの問題が浮かび上がってきた.太古から現在まで,構造形成が(理論的に予想されるより)あまり進んでいないように見えるのである.宇宙は138億年前のビッグバンにより始まり,現在も膨張を続けていることが観測から確認されている.現代宇宙論は一般相対性理論を用いて,宇宙の膨張史や構造形成史を調べる.一般相対論が宇宙のサイズ(≈1027 cm)でも成り立っていると仮定するため,宇宙論は大スケールでの物理法則をチェックする舞台にもなっている.様々な観測から宇宙の成分の約7割が暗黒エネルギー,約3割が物質(暗黒物質と元素)から成ることが示唆されている.暗黒エネルギーにより現在の宇宙膨張が促進されていると考えられている.暗黒物質は光と相互作用しない未知の物質で,構造形成は暗黒物質の重力が主に働いて進むと考えられている.このように一般相対論に基づいて,暗黒エネルギーと暗黒物質を主成分とする宇宙モデルは,現代宇宙論の“標準モデル”と呼ばれている.初期宇宙の物質分布は完全に一様ではなく,非常に小さな密度揺らぎがあったことが宇宙背景輻射の観測から示唆されている.そのため周囲に比べ密度の高い領域は,重力も強いため物質が集まりやすく,その場所で構造が形成されたと考えられている.暗黒物質が重力で集まって暗黒ハローと呼ばれる自己重力構造物を作り,その重力場内で元素(水素,ヘリウムなど)が収縮して,星や銀河を形成したと考えられている.宇宙の密度揺らぎは,太古の時代は宇宙背景輻射の観測から,また現在付近は大規模銀河サーベイから非常に詳細に測られている.近年の観測技術の向上や理論模型の高精度化により,密度揺らぎの振幅は数パーセント以下の精度で決定されている.観測誤差が小さくなってきたことにより,太古と現在の揺らぎの振幅に系統的なずれがあることが知られるようになってきた.理論的な“標準モデル”の予言に比べ,太古から現在まで密度揺らぎがあまり成長していないように見える.宇宙背景輻射により測られた太古の密度揺らぎの振幅が相対的に高く,銀河サーベイ等で観測された現在の振幅が相対的に低い値を示している.また現在の揺らぎの振幅が低いために,銀河団もあまりできていない.この問題は,観測的な系統誤差の可能性も残っているが,“標準モデル”の枠組みで多少モデルを変更しただけでは解決できそうに見えない.本記事ではこの問題の現状を紹介し,解決するために提案されているいくつかのアイデアを紹介する.この密度揺らぎの振幅の不一致問題は,暗黒物質による構造形成モデルの修正や,新しい物理法則の発見に繋がるテーマかも知れない.
著者
羽田野 直道
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.72, no.6, pp.408-414, 2017-06-05 (Released:2018-06-05)
参考文献数
32

我々は日々「時の流れ」の中で生きています.命あるものもいつかは死に,形あるものもいつかは壊れます.日々の生活の中でこれは当然のことですが,物理学にとっては古くからの大問題であり,「時間の矢」と呼ばれています.厳密に言うと時間の矢とは,時間が正の向きに進むに従って,ある特定の現象(例えば物が壊れること)の方が,その時間反転の現象(物が形作られること)よりも頻繁に起こることを指します.ビデオを見て,それが順回しか,それとも逆回しかがわかる場合,そのビデオに映っている状況には時間の矢が存在しています.なぜこれが物理学にとって大問題であるかというと,「弱い相互作用」を除く3つの相互作用が時間反転対称性を持っているからです.微視的なレベルで運動を記述する方程式のほとんどは,ニュートンの運動方程式,マクスウェル方程式,シュレーディンガー方程式を含めて時間反転対称な微分方程式です.したがって,それら微分方程式の解も時間反転対称であるのが当然のように思われます.実際に,理想的な調和振動子のビデオ映像は順回しか,それとも逆回しかを答えられないでしょう.しかし現実には時間反転対称性を破る現象があふれています.それを物理学はどのように説明すればよいのでしょうか.本稿では特に微視的な量子力学に話を絞って,時間の矢が現れる仕組みを明らかにします.例えば輻射場中の二準位原子を考えましょう.励起状態にある二準位原子は光子を放出して次第に基底状態へ崩壊すると考えるのが自然ですし,それが実験でも観測されるところです.理論的には通常は「アインシュタイン係数」を使って議論されますが,そこでも基底状態への崩壊が結論されます.しかし,この現象は明らかに時間の矢を持っています.もとの量子電磁力学(QED)は時間反転対称な学問体系なのに,なぜこういうことが起こるのでしょうか.我々はこの問題を2段階に分けて解き明かします.まず第1段階で,無限体積中のシュレーディンガー方程式には,時間反転対称性を破る解が存在することを示します.元の方程式の時間反転対称性を反映して,そのような解は必ず互いに時間反転対称な,「崩壊状態」と「成長状態」のペアで現れます.(歴史的には,これらは「共鳴状態」・「反共鳴状態」と呼ばれてきました.)実は,ここまではこれまでにも多くの議論があります.しかし時間の矢が現れることを説明するためには,なぜ崩壊状態が卓越して選ばれるのかまで示す必要があります.これが,これまでの議論で欠けていた点でした.それに対して我々は,数学的に厳密な議論を経て以下のことを示しました.初期条件問題,つまり「ある状態が初期条件として与えられたときに,その後,何が起こるかを問う問題」の場合には自動的に崩壊状態が選択され,逆に終末条件問題,つまり「ある状態が終末条件として与えられたときに,その前に,何が起こったかを問う問題」の場合には自動的に成長する解が選択されるのです.(これは,遅延グリーン関数と先進グリーン関数を定義するときに付与する微少量の符号を論理的に説明したことになっています.)輻射場中の二準位原子の問題は初期条件問題なので,崩壊状態が卓越して選択されます.ただし,通常の二準位原子の議論では全時刻で純粋な指数関数的減衰しか得られません.それに対して我々の議論では短時間領域で指数関数的減衰ではなく,徐々に成長状態から崩壊状態に切り替わる様子も確認できました.
著者
岩下 拓哉 江上 毅
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.73, no.12, pp.832-841, 2018-12-05 (Released:2019-06-24)
参考文献数
25
被引用文献数
1

液体やガラスは,我々の生活にとって必要不可欠なものであるが,実はその正体は未だに謎に包まれている.ガラスは液体を急冷することで作成することができるが,その過程で粘度のような流動特性が15桁以上もの急激な増加を示し,この現象はガラス転移と呼ばれる物性物理学の未解決問題として知られている.どのように液体内部で原子・分子が運動しているのか? 液体の運動論構築もまた,統計物理学の重要な課題である.しかしながら,液体の構造とダイナミクスの関係性は未だに謎に包まれたままである.事実,単純な液体の流動特性を予測する統計力学的処方箋さえ発見されていない.このように,液体やガラスの物理は未解明な部分が多く残されており,理論的および実験的研究が精力的になされている.液体やガラスに共通する基本的な特徴のひとつは,結晶のように原子・分子が規則正しく配列している周期構造ではなく,原子配列が長距離秩序のない乱れた構造状態にあるということである.しかも,液体は気体と違って凝固体であり原子の運動や構造は強い相互関係をもっている.液体やガラスの構造はまったく無秩序ではないわけである.さて,我々はどれほど乱れた構造状態についての理解があるのだろうか? X線や中性子散乱などで得られる構造関数を思い浮かべる読者も多いかもしれない.または,丸い球が乱雑に詰め込まれた状態を想像するかもしれない.驚くべきことに,乱れた無秩序な構造がもつ基本的性質を統一するような深い議論はあまりなされていない.無秩序な構造状態がどのような経路を経て異なる構造状態へ遷移するのか? その遷移過程の素過程の基本的性質について,最近の我々の研究成果に基づいて解説する.取り扱うのは,冷却過程のガラス転移現象と高温液体の2つの問題であり,それぞれ異なるアプローチにより無秩序な状態間遷移の素過程を明らかにした.無秩序な構造の素励起に関する新しい物理を構築することは,液体やガラス,およびガラス転移現象の解明に直結すると期待している.近年,計算機能力の向上により,無秩序な構造状態の素励起に関する計算データを大量に取得できるようになっている.液体やガラスの複雑な状態を記述するために高次元のポテンシャルエネルギーランドスケープ描像という概念が提案されているが,我々は計算機を用いてその概念と状態間遷移の素過程との関連性を明らかにした.第一の問題では,分子動力学シミュレーションにより作成されたガラス構造に対してその活性化状態を探索・サンプリングする計算手法を適用し,ポテンシャルエネルギーランドスケープ上の状態間遷移の素過程の性質を網羅的に調べた.そのデータに基づいて構築した現象論モデルが,液体からガラス化の冷却過程を定量的に記述できることを示した.第二の問題では,高温液体の運動に潜む素過程を明らかにするために,隣接原子の数である配位数に着目した.液体の運動を配位数空間上での不連続な状態遷移の集合とみなし,局所構造変化と状態間遷移の関係性を明らかにした.さらに,我々の提案する液体運動の素過程が,液体の物性である粘度と密接に関連づいている明確な証拠を見出した.
著者
須山 輝明 田中 貴浩 横山 修一郎
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.72, no.10, pp.723-727, 2017-10-05 (Released:2018-08-06)
参考文献数
24
被引用文献数
1

2015年9月14日,アメリカのレーザー干渉計重力波天文台(LIGO)の2台の検出器によって人類初の重力波の直接検出がなされた.これはニュースでも大々的に報道されたので,多くの読者がご存じだろう.重力波の直接検出自体大ニュースだが,研究者をさらに驚かせたのは,その重力波の源が,およそ30倍の太陽質量を持つ2つのブラックホール(以降BHと省略)合体によるものだということである.恒星質量域のBHの存在自体は,これまでにも間接的には知られていた.コンパクト天体とそこにガスを供給する星からなる連星系(X線連星と呼ばれる)からの電磁波信号を説明するためには,そのコンパクト天体がBHであることが最も自然だったのである.しかしながら,20例ほどあるX線連星で見つかっていたBHの推定質量はどれも数倍~15倍太陽質量程度に収まっており,30倍太陽質量ほどもある重いBHが見つかったのは,驚きであった.しかも,そのような重いBH同士が連星という形で宇宙にたくさん存在し,それらが合体することが明らかになったことも大きな発見であった.つまり,宇宙には想像以上にBHが溢れていることが分かったのである.新しい観測の窓が開くと必ず(良い意味で)予想を裏切る発見があるというのが天文学の歴史であるが,重力波も例に漏れずそうだったわけである.このLIGOの発表以降,見つかった連星BHの起源解明が宇宙物理学の重要なテーマとして躍り出てきた.この記事では,「LIGOで見つかった重力波は,原始ブラックホール連星の合体から生じた」可能性を指摘した著者達の最近の研究を紹介する.原始ブラックホール(英語名はPrimordial Black Holeであり,以後PBHと書くことにする)は,ビッグバン宇宙誕生直後にできたBHのことであり,存在可能性の理論予言は60年代にまで遡る.電磁波を用いた探索ではこれまでPBHの存在の証拠は見つかっていなかったが,今回の重力波検出によって初めてPBHが見つかったかもしれないのだ.PBHシナリオでは,ビッグバン後6万年未満のまだ熱い放射優勢の時代に,PBH間の強い重力によって連星が自然に作られる.一旦形成した連星BHは,公転運動によって重力波を放射し,長い時間をかけて徐々にその軌道半径を縮めていき,宇宙年齢の時間スケールで合体をする.その合体に伴って強烈に放射された重力波をLIGOはとらえたというのが,PBHシナリオでのLIGOの観測結果の説明である.PBHが形成時には宇宙空間にランダムに分布していたという仮定の下で,PBH合体頻度を理論的に評価したところ,PBHが暗黒物質の約0.1%に相当する量であれば,予測合体頻度がLIGOの結果と一致することを明らかにした.これは天の川銀河内に約3,000万個のPBHがあることに相当する.これは莫大な数のPBHに思えるが,BHは光を出さないので,既存のPBH存在量に対する制限とは矛盾しない.PBHはインフレーション理論と密接な関係性があり,PBHシナリオが確定すると,未だ大きな不確定要素があるインフレーション模型を,宇宙マイクロ波背景放射等の従来の制限とは全く別の切り口から制限することになり,初期宇宙に対する我々の理解が大幅に進展する.現段階では,PBHシナリオは一つの可能性に過ぎないが,今後多数のBH連星合体イベントが見つかり,データが蓄積されてくると,PBHシナリオの検証が可能になってくる.
著者
加藤 正昭
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.119-126, 1985-02-05 (Released:2008-04-14)
参考文献数
19
被引用文献数
1

強い相互作用から重力までのすべての相互作用を統一する理論をつくることは, 素粒子論の夢である. この夢の実現を目指す有力な指導原理がカルツァ・クライン理論である. この理論では, 時空は4より大きな次元をもつという一見現実ばなれした仮定をおき, 素粒子の内部対称性を, 拡張された時空の幾何学的な対称性に帰着させる. この理論の基本的な考え方と, 現在ぶつかっているいくつかの問題点を紹介する.