著者
柄木田 康之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.86-101, 1997-06-30

あらゆる文化・伝統は多文化的状況下の虚構であるのに, 人類学は操作的に構成された現実を他者のカテゴリーに押し込めてきてしまってきた。このような主張は, 近年多くの支持者を集めている。ところがこのような本質主義批判が, また調査地側からの激しい批判を招き, 他者表象をめぐる植民地主義が再生産される, というジレンマが存在する。ミクロネシア連邦ヤップ州オレアイ環礁では1986年, 1993年にWoleai Conferenceとして環礁全体の伝統文化を確認する会議を開催している。二つの会議は, いずれも, 伝統を議題とし, 伝統文化を再確認し実践することで, 近年の社会変化にともなう混乱に対抗しようとする試みであった。しかし二つの会議のトーンには大きな違いがあった。93年会議では再確認された規則の侵犯に対する貨幣による罰金が制度化され, また環礁を構成する島間の海面権に関する不一致・対立が噴出した。この結果, 会議を主導した町にすむオレアイ出身のエリートが会議を高く評価するのに対し, オレアイ居住者は概して批判的である。オレアイにおける伝統文化の再生産は一枚板では捉えられない。「表象する権利は誰にあるのか」という問題は, 研究者と調査地の間だけではなく, 調査地において競われる問題でもある。
著者
重信 幸彦
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.344-361, 2001-03-31
被引用文献数
1

本稿は,昭和初期に主に印刷メディア上で「愛国美談」として喧伝された,日露戦争時の出来事をめぐって語られた「久松五勇士」の成立と展開を検討し、「沖縄」という場所が近代「日本」のどのような視線により語られ意味づけられたか,その政治的布置を歴史的に考察するものである。それは,近代「日本」を覆う印刷メディア群のなかを,一つの「話」が様々に文脈化されて流通するさまを通して民俗話を構成する試みでもある。まず,「美談」の素材となった歴史的逸話が,本土から赴任した国語教師に再発見され,それが中等学校用「国語読本」の教科書に教材として掲載されて全国的に流布した「美談」化の過程から,そこに,「沖縄」を覆う近代「日本」の「国語」という制度が介在していることを指摘した。さらに,この「美談」の素材なった逸話を再発見した国語教師は,「沖縄の土俗」にも興味を示し,それを積極的に喧伝していた。「沖縄」に注がれた,「美談」を発見する視線と「土俗」を対象化する視線は,ここでは極めて近い位置にあった。また,こうして「日本」という文脈をあたえられた「五勇士」は,「沖縄」生まれの研究者たちにより、昭和初期の「郷土沖縄]を語る場に取り込まれ、「沖縄」の自画像を描く要素の一つとして位置づけられる。そこには近代「日本」のナショナリズムと,「沖縄」で描き出される自画像の共犯関係を見出すことができる。そして,昭和初期に「日本」のなかの「沖縄」の「美談」として喧伝された「久松五勇士」は, 1980年代に,宮古島の久松が与那覇湾の淡水湖化計画に対する反対運動を組織していくなかで,今度は久松の「海」と「漁師の魂」を象徴するものとして再解釈されることになる。そこに,地域の結集のために既成の「美談」を脱文脈化し再利用していく,したたかな戦術を見出すことができるのである。
著者
小田 亮
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.184-204, 1997-09-30

本論文は, 文化相対主義を「理論」としてではなく状況や発話の位置に左右される「戦略」として再構築することを目的とする。自文化中心主義に反対する真の文化相対主義は, 浜本満(1996)が明らかにしているように, 自文化中心主義的な文化相対主義および自文化中心主義的普遍主義と対立するものであり, むしろ真の普遍主義に類似している。理論として再構築された文化相対主義は, 自文化と異文化双方の否定を介して第三の共通の基盤を開く弁証法的運動として捉えられよう。しかし, 普遍主義と共有する, そのような弁証法的運動は, 西欧近代に特有のものであり, 西欧のヘゲモニーの下では, 西欧近代だけがその第三の地平を専有する西洋中心主義に陥る。戦略としての文化相対主義は, 第三の地平を普遍的な真理としたり, 自文化や他文化より一般的な概念枠組としたりする普遍主義や理論としての文化相対主義とは異なる。さらに, それは, グローバル化による異種混淆性の賛美や, 文化の構築における操作性や主体性を評価する議論に共通する「記憶の抹消」にも反対する。戦略としての文化相対主義は, 文化の違いを一般性に規定された特殊性としてではなく, 文化の純粋性に先行する雑種性による文化的差異を単独性として語るものでなくてはならない。その一つのモデルは, 「戦略的本質主義」であるが, 戦略と結び付いた発話の位置が, 近代の知と支配のシステムが依拠する「種的同一性」によって規定されるものと捉えるならば, それは植民地主義/帝国主義の言説と変わらなくなってしまう。種的同一性には捉えきれない普通のひとびとの実践と, 雑種性や文化的差異を排除せず記憶が生きている「生活の場」における文化の真正性に留意することこそが, 近代の知と支配の体系への無意識でしたたかな抵抗を可能にし, 「相対主義のニヒリズム」やグローバル化による異種混淆性の無批判な賛美に陥らないことを可能にするのである。
著者
山口 彌一郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.8, no.3, pp.365-391, 1943-01-25
著者
外川 昌彦
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.57, no.2, pp.174-196, 1992-09-30

本稿は, ベンガル・ヒンドゥの最大の年中行事であるドゥルガ・プジャの祭祀組織の分析を行っている。今日のドゥルガ・プジャの拡大は, 祭主と崇拝者とが一元化したコミュニティ・プジャの確立によって, もたらされたと考えられる。そのことは, イギリス植民地統治の前後にわたる, ヒンドゥ王権の祭祀, 英領期の富裕層の祭祀, 独立運動下の民衆の祭祀組織を通して検討され, 祭主と崇拝者の差異化とその一元化という祭祀構造の変化が指摘される。更に今日のコミュニティ・プジャにおける, 人々の主体的な参加と自立的な祭祀組織の形成を, カルカッタ市街地の調査事例を踏まえて検証する。歴史的事例と調査事例とは対照され, そこに階層化と平等化の構造的ベクトルが作用していることが指摘される。王権の解体と人々の自立的な祭祀の解釈が, この祭祀組織の構造変化をもたらし, 今日のドゥルガ・プジャの拡大を可能にしたことが示されるであろう。
著者
江上 波夫
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.13, no.3, pp.278-284, 1949

Many prehistoric forts (the so-called gorodishches) have been found in Russia, particularly in the Volga-Kama area and in Western Siberia, which some date as far back as 800 B. C., most are from the turn of the Christian era, that is, Bronze and Iron Age. They are believed to have been built by ancient Finno-Ugric peoples. These forts resemble the Aino chash or chashkot very closely, both in ground plan and construction of the forts, and in the abundant bone implements which they contain. The author is therefore inclined to conclude that ancient Finno-Ugric culture elements may have been transmitted to the Aino, or conserved by them with other Continental culture elements from the West.
著者
浜口 尚
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.51, no.3, pp.289-295, 1986-12-30
著者
高宮 広土
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.283-301, 1998-12-30

日本列島における稲作に関するテーマのなかで, 最も関心を持たれているテーマのひとつは「水稲稲作のルート」であろう。今日, 日本列島への水稲稲作のルートとして, 大別して, 北方説, 江南説, および南方説の三仮説が提唱されている。現時点において, 江南説が最有力視されているが, 他の二仮説も100%否定はされていない。本論では, そのうち, 「海上の道」説としても知られている南方説の検証を試みる。柳田国男による「海上の道」説提唱以後, この説は多くの研究者を惹きつけてきた。その大きな要因は, おそらく柳田国男という民俗学者が提唱したことおよびこの説が研究者に大きなロマンを抱かせるからであろう。本論では, まず, 柳田説を含む南方説の可能性を考古学的および民族・民俗学的・植物学的資料等をもとに概観した。その結果, 考古学的資料からは「海上の道」説を強く支持するという資料は得られなかったが, ここ十数年ほどで蓄積した他の分野による資料は南方からイネが本土へ導入された可能性を示唆するものであった。次に, 沖縄先史時代における植物遺体分析をもとに柳田の「海上の道」説を検討した。弥生∿平安並行期前半の遺跡である高知口原貝塚(弥生期)および同期後半の遺跡である那崎原遺跡(8∿10世紀)においてフローテーションを実施し, 回収された炭化植物遺体の同定を試みた。結果は, 考古学的資料と同様に「海上の道」説を否定するものであった。
著者
三瀬 利之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.474-491, 2000-03-30

19世紀西欧の物質文化の大きな変化, それは膨大な数の統計表が作成され, 「印刷された数字の氾濫」が起きたことであった。様々な領域で革命的波紋をもたらすことになるこの変化は, 「国家の構成要素を数量的に把握することが合理的統治の基礎」とする新たな国家統治の思想と技術誕生の産物でもあった。これまでの人類学史では19世紀の一大事件であったこの統計の熱狂的な作成と人類学の積極的な関係が議論されることはなかった。しかし植民地期インドでは, 例えば, 人類学者として名をなしていた人物の多くがインド帝国センサスの長官職の経験がある行政官であるなど, 両者の間に緊密な関係があった時期があった。本稿では, その陰の立て役者ともいうべき一人の行政官ハーバート・リズレイ(1851-1911)に注目し, なかでも彼の「ベンガル民族誌調査」(1885-7)を, センサスという<統治技術>から<人類学>への重要な結節点にあるものとして詳細に検討する。本稿は, そこでのリズレイの活動およびその後の彼の軌跡を紹介することを通じて, 19世紀の一大事件「印刷された数字の氾濫」がインド亜大陸の人類学に何をもたらしたのかを明らかにする。具体的には, 「ベンガル民族誌調査」の開始と帝国センサスの関係, パリ人類学会の「身体測定技法」のインド人類学における導入過程, 人口センサスと植民地人類学の調査システムの共有といった事例が扱われる。
著者
棚瀬 慈郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.159-180, 1991-09-30

本論はインドのヒマーチャル・ブラデッシュ州,ラホール地方のチベット社会における家(キュム)と家族(ジンマ)の問題をとりあつかったものである。キュムは日本のイエに似て,現実の家屋を意味するものと同時にその永続性が前提された一種の法人的な存在であり,社会関係の結節点として固有の文化的価値を有する。一方ジンマは,一つのキュムに所属する,親族関係によって結ばれた人々を指す。キュムとジンマを巡る諸観念や慣習法の中には二つの潜在的に対立的な傾向,すなわちキュムを分割することなく維持しようとする傾向と,ジンマを構成する男性メンバーにキュムの範囲を逸脱した活動を許容する傾向が存在する。この潜在的対立関係は,典型的にはキュムの分裂といったディレンマ状況をもたらすこともあるが,同時にラホール社会の持つ適応性にもつながている。
著者
服部 四郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.5, no.2, pp.133-141, 1939-03-30