著者
高柳 友彦
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.505-525, 2012

産業化の進展に伴う鉱物資源開発によって,地域社会における資源利用がどのような影響を受けたのか。本稿では,温泉地でかつ産炭地であった常磐湯本温泉を事例に,資源利用の主体間の契約や行政機構による調停のあり様を通して,近代日本における資源利用の特質とその限界について明らかにした。石炭資源開発の進展によって引き起こされた温泉と石炭資源との相克問題では,当初,県知事が被害を受けた住民側と企業側との交渉を斡旋し,企業側の見舞金という恩恵的な賠償慣行が行われた。第一次大戦以降,鉱害の激化によって,行政機構の関与のあり方が変容した。県行政が積極的に両者の交渉に介入するとともに,鉱山監督局や行政裁判所などの行政機構が,鉱区拡大など地域住民との対立を惹起する鉱山開発を事前に規制することで,住民との対立や紛争を回避した。ただ,鉱害賠償制度の成立や政策変化に伴って,開発への事前の規制は,事後の金銭賠償などに転換した。鉱害問題の事前の対応が事実上行われなくなった我が国では,鉱害問題を事後的に処理,補償することで地域住民の資源利用は大きな犠牲を強いられた。
著者
山口 明日香
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.73, no.5, pp.485-508, 2008-01-25 (Released:2017-06-09)

近代日本の産業化の過程において,エネルギーあるいは資材としての木材は,需要の変化や供給不足が顕著になるにつれて産業の制約条件となり,各産業にとって木材の安定的確保は重要な課題となった。本稿の目的は,主要産炭地であった九州地域に焦点をあて,炭鉱業における坑木の調達及び利用方法について検討し,産業化の一側面を明らかにすることにある。九州の諸炭鉱では,1890年代以降の筑豊炭田の開発を契機として坑木の入手競争が激化し,さらに第一次大戦期にいっそう拡大した坑木需要に対応するため,炭鉱各社は資材調達の集中化を図り,炭鉱会社間で資材問題の討議機関を組織した。1920年代以降,炭鉱各社において合理化が推進されるようになると,安価な小径木や鉄製支柱の利用などにより坑木の節約が図られた。しかし,1933年以降,出炭量が急増すると,新坑開発や乱掘の進行,鉄鋼材の不足,他産業との木材入手競争の激化などにより坑木難は深刻化した。国内の木材市場が逼迫する状況下で,新たな対応策が模索されるようになったが,坑木難は解消されず,坑木の確保は依然として炭鉱業の重要な制約条件であった。
著者
鳥羽 正雄
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.3, no.9, pp.1201-1213, 1934-01-15 (Released:2017-09-25)
著者
高橋 秀直
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.27-45, 2009

本稿の目的は,ポンド直物・先物相場が急落した1931年7月から9月にかけての「ポンド危機」に,ロンドン先物為替市場が与えた影響を再検討することであり,そのために「ポンド危機」以前のロンドン外国為替市場における相場の水準とビット・アスクスプレッドの動きを検討する。1920年代のロンドン外国為替市場において,先物為替取引が台頭し,テレフォンマーケット化に伴い価格形成上ビット・アスクレート情報がより一層重要になっていたことを踏まえ,新たに『フィナンシャル・タイムズ』紙の日次データを利用することにより,1931年7月のポンド相場の急落を再確認し,さらに同年1月に直物・一ヵ月物先物ポンドには変化はないが二ヵ月物・三ヵ月物先物ポンドが急落していたことを明らかにする。このことは,「ポンド危機」開始以前から国際的金利裁定に組み込まれていたことによってロンドンに既に十分に定着・機能していた先物市場の存在は,ひとたび金本位制維持可能性に関わる何らかのきっかけがあれば,相場急落というシグナルを送ることでイギリスに金本位制離脱を促す可能性を内包していたことを意味する。
著者
小島 庸平
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.77, no.3, pp.315-338, 2011-11-25 (Released:2017-05-19)

本稿は,長野県下伊那郡座光寺村で農村負債整理組合法に基づいて実施された無尽講整理事業の実施過程を分析することを課題とする。座光寺村では,1920年代の養蚕ブームを背景に,インフォーマルな金融組織である無尽講が「濫設」されていたが,大恐慌期にはその多くが行き詰まり,村内における階層間対立を激化させる一因となっていた。だが,戦間期の無尽講は,部落や行政村の範囲を超えた多様な共同性の中で組織されており,債権債務関係と保証被保証関係が複雑に折り重なっていたため,その整理は極めて困難なものであった。無尽講をターゲットとした同村の負債整理事業は,進捗自体は極めて遅々としていたものの,地縁的な関係を超えて集団的に取り結ばれた無尽講の貸借関係を,同一部落内における個人間での「区人貸」に再編し,その結果,30年代後半の経済好転に伴う余剰資金の預金先は,産業組合に代表される制度的な金融機関へとシフトしていった。無尽講の整理を1つの目的とした農村負債整理事業の歴史的意義は,「講」型組織の「村」型組織化(を通じた解体)にあったと言うことができる。
著者
永島 福太郎
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.8, no.9, pp.1018-1048, 1938-12-15 (Released:2017-12-28)
著者
高槻 泰郎
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.325-344, 2008-11-25 (Released:2017-07-22)
被引用文献数
1

我が国において,いつ,いかにして市場経済は勃興し,興隆したのか。この日本経済史上,極めて重要な課題に対して,本稿は,大坂の堂島米会所を対象として米価形成の効率性を検証することにより,一次的な接近を試みるものである。近世期における市場経済の展開を,領主米市場の分析を通じて明らかにしたのが宮本又郎である。宮本による研究は,領主米市場において価格機構が存在していたことを数量的に明らかにしたという点で,研究史上の画期をなすものであったが,価格機構の核心たる,価格形成の効率性に関して検証を加えたものではなかった。そこで本稿では,堂島米会所を対象として,情報をどれだけ適確に反映して価格形成が行われていたかを表す,情報効率性という尺度を用いて効率性を評価した。分析に際しては,一次史料から新たに復元された日次の米価系列を用いた。その結果,堂島米会所においては,18世紀末から幕末にかけて,情報を適確に反映していたという意味で,効率的な価格形成が行われていたことが明らかとなった。
著者
和田 光弘
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.56, no.5, pp.648-662,728, 1991-02-25 (Released:2017-09-28)

In the 17th and 18th centuries, among the thirteen colonies of Britith America, the southern colonies especially played an important role in the old colonial system. They were producing staples such as tobacco, rice , etc., utilizing white indentured servants first, then black slaves. Slaves however time after time tried to escape from the yoke of the plantation system, and this paper deals with them or runaway slaves. For examining them as a whole, runaway slave advertisements in newspapers are the most suitable materials in existence. We take a quantitative method to analyze a lot of advertisements collected from colonial newspapers in Maryland and Georgia(Annapolis Maryland Gazette and Savannah Georgia Gazette) from the 1740s through the 1760s. They give us precious information on several aspects of runaways. Based on the information, we can tell the typical, average character of runaway slaves and their flights as follows. They were male and country-born blacks, mulattoes(in Maryland) or foreign-born blacks(in Georgia). Their average age was 26/27. In the busy farming season of spring, summer or fall, they tried to escape alone or in small groups. Some of them were able to speak English, able to cope with skilled works, but some were not. For the capture of these runaways, in about a month after their flights, planters advertised in a newspaper with the statement of reward that is, to some degree, fixed from custom, but also varied in accordance with the time after the flights and the attributes of runaways. Their number however kept growing during the period. One of the most interesting facts found in this analysis is that the character of runaway slaves in Maryland and Georgia was quite similar except thir racial composition. This fact tells us the general robustness of the slave-worked plantation system.
著者
竹内 祐介
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.74, no.5, pp.447-467, 2009

日本・朝鮮・満洲間の穀物需給をめぐる帝国内分業は,戦間期を通じて大きく再編成された。産米増殖計画による米生産および対日輸出の増加は米の生産地である朝鮮南部に代替食糧としての満洲粟需要を創出し,日本・朝鮮・満洲間に米の対日輸出を軸とした「米と粟の帝国内分業」を成立させた。しかし1927〜28年にかけて,米価低落による粟価の相対的上昇に伴い,粟の輸入量は大きく減少し,以後その傾向が続いていった。但し,その需要変化の様相は地域によって異なっていた。まず北部では咸鏡線の拡張と,同沿線が工業化されるに従って粟の新規市場として登場し需要が維持された。他方朝鮮南部では(1)都市部では工業化による生活水準の上昇によって米需要が高まることによって,(2)農村部では産米増殖計画による灌漑施設の整備と肥料使用の増加が麦類の増産をも促進させる条件となったことで,麦類の自給的消費を可能にし,粟需要を減少させた。すなわち,産米増殖計画に加えて工業化という新たな軸が登場することにより,米の対日輸出を軸とした穀物間の帝国内分業は,穀物需要の地域差を生み出す形で再編成されたのである。
著者
杉浦 勢之
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.52, no.4, pp.514-542,604-60, 1986
被引用文献数
1

The scheme of the postal savings was established in 1875 after the model of the Post Office Savings in Great Britain. This scheme was from the very beginning expected to target such low-income class as workers and peasants rather than ordinary depositors with a proper level of income whom banking institutions usually deemed as their clients. Nevertheless, such socio-economic factors as prematurity of money economy and concentration of modern banking in cities spurred the development of this scheme centering on rather well-to-do olocal landlords. A change in the nature of the postal savings apparent in those initial years surfaced in the mid-1890s. In this period of the so-called Japanese Industrial Revolution after the Sino-Japanese War, modern banking rapidly expanded into the rural areas. Because of this modern banking's advancement, the postal savings experienced an alarming level of decrease in the amount of saving having lost long-standing depositors, wealthy farmers in particular, to modern banking institutions. What must be noted here is that this decrease led to an increase in relative share of low-income depositors in the total composition of the postal savings clients. At the end of the 19th Century, on the other hand, there emerged a need in the Administrative concerns to increase the savings ratio in the low-income class and then lure their petty savings to the postal savings scheme. While, after the Sino-Japanese War, the Administration expanded the fiscal expenditure year after year, a boom in enterprises occured at the same time which led to a spiral growth of the capital outlay on the top of expansion of personal consumption, altogether resulting in a rapid development of demestic demand. All these factors caused a steep rise in prices and a marked decrease in the specie reserve affected by an adverse balance of trade with a consequence of a crisis of the gold standard which had just been effected in 1897. The Government deemed the growing consumption an unproductive one and was determined to adopt a savings promotion policy with an aim of restriction on consumption. As the boom in enterprises negated a possibility for raising government bonds which should have been used for raising of funds to be earmarked for fiscal projects centering on military and infrastructure as well as national economic management in the post-war era of the Sino-Japanese War, the Government had no other choice to subscribe to the bonds by using the postal savings as the fiscal resource. The saving promotion policy at first did not work so effectively as expected. But when the political relation of Japan and Imperial Russia became aggravated and the war broke out, the Government organized a nationalistic savings promotion campaign and created a network of the thrift and saving association nationwide for rather forced saving among the populace. Thus the Government succeeded in reorganizing the postal savings scheme as a national savings institution concentrating on the low-income class during the Russo-Japanese War. The postal savings began to be recongnized as an effective instrument of maintaining the demand control policy necessary to achieve a rapid economic growth under the low "ceiling" of Japan's international payments capacity.
著者
井奥 成彦 鎮目 雅人
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.80, no.3, pp.291-296, 2014-11-25 (Released:2017-06-03)

近代日本の金融史研究は,日本銀行,都市銀行,地方銀行については相当量の研究の蓄積があるが,庶民金融についての研究は乏しい。典型的な庶民金融である質屋についてのこれまでの研究は,主として地方や東京の下町の質屋を対象として行われ,質屋は庶民が生活に窮して資金を調達するところであり,庶民から利子を収奪する高利貸であるといったイメージで語られがちであった。本研究では,統計類により東京の質屋全体の動向を俯瞰するとともに,従来研究の乏しかった東京都心の質屋である芝区のT質店にスポットを当て,1915年,25年,35年の質物台帳や顧客名簿といった基本帳簿類の分析を丹念に行った。その結果,質物にその時代の顧客の生活様式とその変化のようす(例えば生活の洋風化や余暇の拡大など)が如実に表れていること,顧客から見た質屋の基本的な役割は,庶民が日常生活を営むために必要な手元流動性を提供する小口,短期,動産担保の消費者金融機関であったことが確認された。