著者
丸山 久美子
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第16巻, no.第2号, pp.189-218, 2004-03
著者
渡邉 正人
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第18巻, no.第3号, pp.187-196, 2006-03

In current Japanese culture, the rise of one particular subculture has been especially conspicuous in recent years. The “hobby-world” (called otaku in Japanese) has been a powerful social force which has transformed Akihabara, the electronics discount district fo Tokyo. It has been the birth of a new community: “community through hobby/interest.” The influence of this subculture is reflected in the novels of Haruki Murakami.
著者
竹井 潔
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第32巻, no.第1号, pp.41-56, 2019-10-25

ネット依存はスマートフォンによるオンラインゲームやSNSにより,中高生を中心に増加している。またゲームのやりすぎによる様々な日常生活への支障をきたしたゲーム依存症はWHOにより疾患として認定された。ネット依存は若い層を中心に急増してきており,ネット依存を情報倫理の重要な課題として取り上げたい。AI社会になってAIへの依存が高くなってくると,ネット依存はさらに深刻になってくるであろう。AIの時代に入り,ネットの利便性だけではなく,ネット依存,さらにAI依存の倫理的側面を考慮していく必要がある。 本稿では,情報倫理の視点から,ネット社会の進展とネット依存について概観し,AI社会に向けてのネット依存における情報倫理の課題を検討することを試みる。
著者
黒﨑 佐仁子
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第34巻, no.第2号, pp.69-83, 2022-03-15

本稿は「な(さ)過ぎ」を含む複合語の使用実態調査を目的とする。過剰を表す「過ぎ」は,様々な品詞と接合する。助動詞「ない」と接合すると,「な過ぎ」や「なさ過ぎ」となり,「さ」の挿入が起こり得る。本研究では,以下の問いを課題とする。(1)「な過ぎ」と「なさ過ぎ」の出現割合は変化しているのか。(2)どのような動詞が「な過ぎ」または「なさ過ぎ」と接合するのか。(3)「な過ぎ」と「なさ過ぎ」の出現割合は,話者の出身地と関係があるのか。 国会会議録を資料として調査を行い,「さ」の有無は,年代によって割合は変化していないこと,動詞の活用型や話者の出身地が関係していることが明らかになった。
著者
酒井 俊行
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 = The journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.11-25, 2019

真逆に位置する2つのタイプの表現者平手友梨奈と川上奈々美を分析することによって,"黒い羊"問題を議論してみた。この二人の表現者は立ち位置は真逆であるが,実はその差は紙一重と思われる。にもかかわらず,一方が白で一方が黒。実際に社会で生起する"黒い羊"問題においても,白でも黒でもほとんどはっきりした差異は見られない。寸毫の差が白黒の分かれ目となってしまう。これが"黒い羊"問題の本質であり,それ故にここに独特の複雑性が醸し出される。
著者
丸山 久美子
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
no.6, pp.141-162, 1994-01

20世紀末今日、地球規模での社会的病理現象が多発し、「病める青年」が増加していると言われる。特に、日本における現代青年は戦後以来、平和のうちに物質的豊かさを満喫し、安眠を貪り、いつのまにか「飽食の時代」の社会的落とし子となり、彼らの背中に世界が抱える大きな重荷が負わされるまでになった。世界の歴史を繙くとき、文明の成熟は、常にこのような「飽食の時代」を招来し、滅び行くという運命的経過を辿っている。漫然とした危機意識や社会不安の潜在的感情が日本の青年のうちにどのような形で形成され、日常生活の中に浸透しているのであろうか。現代の若者を代表すると思われる20才未満の男女大学生の様々な現代の世相を反映する多くの社会病理現象に関する態度や意見を調査し、彼らの危機意識を分析した。その結果、彼らは様々な社会現象にたいして、「自然環境破壊現象(地球の温暖化、オゾン層の破壊、森林伐採における生態系の破壊、複合汚染の拡大など)」、「人的環境汚染(麻薬公害、核施設の故障による放射能漏れ、エイズの蔓延、ホームレス人口の増加など)」、「時代的流行現象(性別越境社会、男女両性具有時代の到来、アルコール中毒患者の広域化(女性、若年)、新興宗教の氾濫、不法就労外国人の増加など)」の3側面からなる危機意識を持ち、男女差が大きいということが理解された。
著者
寺﨑 恵子
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第29巻, no.第1号, pp.1-16, 2016-10

青年期の特徴を表す用語として,「第二の誕生」がある。この語は,ジャン=ジャック・ルソーが『エミール または教育について』(1762 年)の第4 篇で用いた。第二の誕生は,ライフサイクルにおける,子どもから大人への変成という節目における移行の状況を説明する用語であり,また,人間発達における危機的で根元的な転換点を説明する用語である。ルソーは,こうした第二の誕生という閾の過渡的な状況において「わたしたちの教育」が必要であることを説いた。彼の言う「教育」は,学校教育を意味していない。むしろ,それは消極的教育,つまり,生態的で発生的な自然を地とする意味をもっている。彼は,教育の原義を示し,青年期における第二の発展状況を,言葉の起源である情念のありように把握して明らかにした。本稿は,第二の誕生と教育の連関について,ルソーの言説の内実を明らかにするものである。
著者
井上 兼生
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 = The journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.33, no.1, pp.123-137, 2021

2020 年初めからのCOVID-19 の感染急拡大によって全国の学校が臨時休校を余儀なくされた際,オンライン授業への備えがないなど日本の学校教育におけるデジタル化の遅れが露呈した。大学では4 月からオンライン授業の緊急導入が進み,6 月には97%に達した。 本稿では,新学習指導要領が掲げる「主体的・対話的で深い学び」をオンライン授業で実践する場合の課題等について,筆者のオンライン授業実践体験を踏まえて考察する。特に,教科横断的な授業の核となる「総合的な学習の時間」のオンライン授業について検討する。授業における身体的コミュニケーションの重要性という視点から,オンラインと対面のハイブリッド授業の必要性を論じ,今後の展望を探る。
著者
氏家 理恵
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.11, no.4, pp.225-238, 2000-02

Tom Griffin's two-act play The Boys Next Door portrays the lives of four mentally handicapped men involved in a program to introduce them into the mainstream of everyday life. They live in a group home sharing an apartment complex under supervision of their counselor. Offering a glimpse into their minds and lives, this play shows prejudice and discrimination against the handicapped. This study analyzes the representation of the handicapped and examines the problems of welfare for the handicapped which were represented in this play. This paper also deals with the problems of the dramatic presentation of comedy.
著者
標 宮子
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第21巻, no.第2号, pp.275-296, 2009-03

In this paper, in order to confirm the relationship between the ego and the other, I checked the words of self-expression, “Ware”( I ) and “Ware-nagara” (even I), featured in Diary Literature which is autobiographical. In the four diary works of the Heian Epoch there aren’t many examples of “Ware”, the word indicating oneself, and there are no examples of “Ware-nagara”, the word meaning the spirit of self-reflection. Moreover, uses of the word “Ware” in works of the Heian Epoch differ remarkably. On the other hand, in medieval epochs, self-consciousness arose and uses of “Ware” and “Warenagara” increased. This means that, in the diary works of the medieval epoch, each author emphasized the unique character of his or her life. The authors reject the other but, in writing diary literature, they reconsider their lives and seek sympathy by narrating their lives to others.
著者
山田 ひとみ
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第25巻, no.第2号, pp.145-160, 2013-03

GHQ/SCAPにおいて財閥解体を担当した部局ESSが,占領期早々に日本の制限会社に対し財務諸表作成に関する多数の「指示書」を交付したことはよく知られている。しかし,これら「指示書」に先立って,形式および内容が大きく異なる『1946年英文フォーム』の交付が現存資料で確認できた。「日本固有の発展を十分に踏まえたもの」とされてきた「指示書」と分類できるものではなく,「指示文書」という新たな枠組みで資料的整理を行った。このことによって,共通の理解を目指して財務諸表作成が行われてきたESSと制限会社,および日本側会計学者との協議の意味がより明確に資料的に位置付けられた。
著者
松本 祐子
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第32巻, no.第2号, pp.33-46, 2020-03-15

絵本作家・島田ゆかの「バムとケロ」シリーズには,一つの家に暮らす白犬バムとかえるのケロのほのぼのとした日常が描かれている。バムとケロには性別や年齢が付与されていないが,いたずらっ子のケロの世話を焼く有能なホームメイカー・バムの姿は子育てに従事する母親に似ている。母親的役割を担っていても母親ではないバムとケロの関係は実に曖昧で,時によって,友達にもきょうだいにも親子にも見える。家族のごっこ遊びをしているふたりの子どもと捉えることもできる。このシリーズは,絵本ならではの特性を生かし,家庭生活を描きながら,親子関係を描かないという特異な設定を成立させた。時に息苦しさを生み出す要因にもなる義務や責任とは無縁ののどかな家庭生活の風景は,読者にある種の解放感と安らぎを与える。大人でもあり子どもでもあり,男でも女でもあるバムは,読み手に応じた顔を見せ,遊び心に満ちたこの鮮やかな魔法空間に読み手たちを招くのである。
著者
大橋 良枝
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 = The journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.31, no.2, pp.1-17, 2019

知的障害特別支援学校に指導の難しい児童生徒が急増し,教師の指導上の混乱や精神健康上の問題が顕著となったのを受け,大橋(2017)は知的障害特別支援学校教師と,投影性同一化力動を頻用するため指導が困難である児童生徒との間に起きる問題力動を説明するモデル(EMADIS)を示した。しかし,このモデルは児童生徒の要因を中心に描いたものであり,また,教師の「頼らない/頼れない」文化からすると運用しにくい側面があった。そこで本研究では事例資料のKJ法による分析を通して,このような児童生徒との間で発達促進的な関係を持てるようになるための教師側の要因を抽出し,モデルを修正することを目的として検討が進められた。その結果,モデルに対応する【病理的対象関係の反復】【発達促進的関係】とその間をつなぐ【展開位相】のユニットが得られ,それらは考察から,コア概念「主体性の回復プロセス」と対応して【主体性の喪失】【主体性の回復】および【展開位相】とユニット名の修正がなされた。これはうつなどに陥り精神健康上の問題を来した状態から,指導の難しい児童生徒への教育において効力感を感じる状態までを一連のプロセスとして描いており,教師のメンタルヘルス問題への一助となる結果となった。
著者
永井 理恵子
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第20巻, no.第2号, pp.207-227, 2008-03

There are so many different types of characters with such varying designs in Japan today. Most of these characters are taken from animals but are often inspired by human beings and plants. More than that, there are even imaginary characters. Not only do we see them around children as toys but also as decoration in homes. Why are these characters so attractive to people? Characters allow people to have hopes and dreams for their lives, emotional balance, and a deep feeling of happiness. In this paper, the writer specifically picked the stuffed bear to analyze why it (a little bear) is so loved by people. At the same time, the writer looks at fairy tales and picture books in which bears are often present. The writer also studies what those fairy tale writers think of bears and why they write about them.
著者
清澤 達夫
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第16巻, no.第2号, pp.179-188, 2004-03

This case is written as a college student’s teaching materials about the business management of Mary’s Chocolate Company. Mary’s Chocolate recognizes an information technology early, though it is a medium enterprise. Product planning is connected for this information technology the selling plan from the first. That brought about management innovation and has produced the high profit of 10% of ordinary profits. This unique point of this company is in the management, which composes and verifies the hypothesis from data. That is all employees give the significance.
著者
David Burger
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第29巻, no.第1号, pp.71-87, 2016-10

近代言語学はノーム・チョムスキーの唯心論や合理主義という哲学的伝統に沿った言語理論の強い影響を受けている。つまり,言語は生物的資質であり,普遍文法の産物で心の所有物として本質的には思考のためのものである。一方,唯物論や経験主義見解では言語は社会現象で主にコミュニケーションのためのものである。近年は言語機能の進化という問題が多くの注目を集めてきた。チョムスキーの見解では,言語機能は最近の進化的発生で,小さな突然変異の結果として出現したと言われている。唯物論や経験主義見解では,言語機能は文化の産物として,またコミュニケーションをより効果的にするために自然淘汰によって徐々に進化してきた。
著者
木村 裕二
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 = The journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.83-100, 2017

貸金業者による保証を付した銀行カードローンの貸付けのあり方が問題とされ,銀行業界は自主規制に乗り出した。単に過剰な広告がなされていることが問題なのではない。与信残高の急激な伸長の内部には,実体的な消費需要を伴わない「返済のための借入れ」が多数含まれている。すなわち返済能力を超える過剰な貸付が,多重債務問題を再燃させかねない状況をもたらしている。早急な対応が必要である。
著者
木村 裕二
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 = The journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.105-122, 2016

法務省は,2015 年3 月31 日,民法の改正案を国会へ提出した。その中に,次の2 つの規定が含まれている。(1)金銭の授受がなされる前は,借主は諾成的消費貸借契約を解除することできるが,貸主は損害賠償を請求できる。(2)借主は期限前に弁済することができるが,貸主は損害賠償を請求できる。これらの規定は「元本を期限まで利用する債務」「元本返済により失われた将来利息を補償する義務」を借主に負わせるものではないことを,論証する。また,元本返済により失われた将来利息を補償する義務を定めた当事者間の合意の効力を,利息制限法がどのように制限するかを検討する。 The Ministry of Justice submitted a bill to revise the Civil Code to the Diet on March 31, 2015. Two articles are included in this bill: (1) In a consensual contract for a consumption loan, the borrower may cancel the contract before any giving and receiving of money, provided that the lender may claim compensation for damages. (2) In a consumption loan, the borrower may return money prior to expiration of a term, provided the lender may claim compensation for damages. This paper aims to prove that the above-mentioned articles don't provide for either the borrower being able to take advantage of "the debt to use capital until a time limit" or claiming "the duty to compensate for future interest lost by capital return". In addition, this paper examines how the Interest Rate Restriction Act limit affects the agreement between parties which provide for the duty to compensate for future interest lost by capital return.
著者
原 一子
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第18巻, no.第3号, pp.95-104, 2006-03

Since Ruth Benedict in her magnum opus, The Chrysanthemum and the Sword, characterized Japanese culture and European culture as a shame culture and a sin culture, respectively, a plethora of scholars have questioned whether or not she was correct in depicting sin as being strictly internal and shame as being external in nature. I classify shame as manifesting itself in three hierarchical dimensions: the physical, social, and existential. Social shame was analyzed in a previous article, as were Kierkegaard, Sartre, and Jaspers in reference to existential shame in another, and I herein continue my analysis of existential shame with reference to Nietzsche’s work on the subject. In particular, this article focuses on how Nietzsche expressed shame in Also Sprach Zarathustra (Thus Spoke Zarathustra). Actually, it is quite difficult at first to make order of the many fragmental references to shame in Zarathustra, so I have classified the “shame” expressions according to six themes: human essence, love of one’s neighbor, the death of God, virtue, transcendence and the Fall, and beyond good and evil. According to Nietzsche, man is shameful, and the history of man is shame. He severely criticizes the love of one’s neighbor, as sympathy fails to take into account man’s inherent shame. Furthermore, Nietzsche asserts that God was killed because He sympathized with man without being conscious of shame. Thus, man must alone break the chains of shame and transcend toward becoming the Superman, with the goal of finally entering the uncharted territory of “no shame,” as a newly born child. Shame is a psychological phenomenon, which is inherently problematic to explain, and it is to be considered as one of the functions of self-preservation from Others or the watchful eyes of Others. This essay demonstrates that shame underlies the basic thought of Nietzsche and serves as the impetus for his criticism of Christian morals such as the love of one’s neighbor, as well as his concept of the Superman.