著者
于 亜
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.20, pp.1-17, 2021-03-31

中国東北地方の黒龍江省の大部分は、山東省、河北省、河南省などの華北農村からの移住者によって清代以降に開拓された。本研究では、主に1950~60年代における黒龍江省に移住した山東移住者の食文化についてその継承と変容に注目したい。中華人民共和国建国後、黒龍江省の本格的な開拓から70年が経過し、世代交代が進む中、出身県や母村への帰属意識は希薄になってきている。食文化からみると、母村の食習慣が維持されながらも、移住地の食習慣を取り入れていることがうかがえる。加えて、改革開放の1980年代以降の社会変動は、中国のそれまでの伝統的な食文化に大きな影響を与えた。現在、移住者世代および彼らの子孫の食生活にどのような変化がみられるのか、また彼らにとって伝統食はどのような存在であるのか、その地域に表出している食文化の要素を観察しながら、餃子を事例として、文化地理学的視点から黒龍江省に移住した山東移住者および彼らの子孫の食文化の継承と変容を明らかにすることが本稿の目的である。
著者
塩田 昌弘 Masahiro SHIOTA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.13, pp.101-125, 2013-03-31

明治・大正・昭和を通して、実業界で活躍し、阪急電鉄、阪急百貨店、東宝映画、宝塚歌劇、阪急ブレーブス、コマ・スタジアム、逸翁美術館、マグノリアホール、池田文庫、小林一三記念館等の創設の基礎にその才能・才覚を発揮した不世出の実業家・小林一三(1873〜1957)について紹介する。 特にこの小論では、小林一三の成した事業のうち、文化・美術方向を中心に逸翁美術館に焦点をあて論考しようと思う。本来、事業はそれを成した人の人格の反映と考えられる。後年、今大閤と言われた小林一三であるが、幼年期は、愛情の薄い家庭に育った。だが、その小林一三がどの様にして、その才能を開花させていったのか。小林一三の志とは何か、逸翁美術館成立の礎となったコレクションを貫流する美とはどの様なものか、これらについて考察する。
著者
加藤 恵梨
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.109-125, 2019-08-31

接続詞「ついては」とその丁寧形である「つきましては」は、ビジネス文書や手紙で多用される。その場合、それらはどのような機能と意味を有するのであろうか。本稿では、市販のビジネス文書文例集および『現代日本語書き言葉均衡コーパス』を用い、提示されているビジネス文書や手紙等を分析することにより、それらの機能と意味について分析した。分析の結果、次の三点が明らかになった。一つ目は、「ついては」および「つきましては」の機能についてである。それらが用いられるのは、文章中で主張したい点が二つある場合であり、より主張したい一点目を述べた後、一点目に付随して生じるお願いごと等(二点目)を切りだす際に用いられる。二つ目は、「ついては」および「つきましては」が表す意味についてである。それらは、「そういう理由で」と「そのことに関して」という二つの意味を有する。三つ目は、「ついては」が小説における会話文で使われる場合の機能や意味も、ビジネス文書などで使われる場合と同じであるということである。
著者
伊藤 博 Hiroshi ITO
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.17-32, 2012-03-31

明治維新前後において、福沢諭吉ら洋学者達が近代科学を子どもにまで広めようとした。なかでも江戸末期の1868年(明治元年)に福沢諭吉が発行した『訓蒙窮理圖解 初編 上(中・下)』(上巻は表裏表紙含め全52葉)は、すべての漢字にルビを付し、所々にその頁の内容に沿った図などを挿入するなどはじめて子どもを対象とした科学読み物であったと考えられる。その後、この書物に触発されて明治五年から明治七年にかけて「窮理熱」と呼ばれる科学読み物がさかんに出版されるようになり、科学入門書の一大ブームが起きた。これは科学入門書が一般庶民の読み物として広がりつつあった事を裏付けるものである。こういった科学書が一般庶民の読み物として成立するためには、読者層において高いレベルの識字率が必要とされるのが前提である。さらに、各種の研究から明治維新前後の一般庶民の識字率は相当に高かったことが知られている。そこで本稿では、一般庶民にまで教育が施されるのはいつのことからであり、その教授法はどのようなものであったのかについて明治維新前後の当時の資料をもとにして考察していきたい。
著者
古田 榮作 Eisaku FURUTA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.33-50, 2008-03-31

五十余人の善知識を訪問し、信仰を深めた善財童子は、愈々彌勒菩薩の所にやってくる。善財は彌勒に「どのように菩薩は菩薩行を学び菩薩道を修められるのでしょうか。お教えください」と懇願すると、彌勒は大樓観にいた大衆の前で「この童子は、不退轉の心で厭きることなく勝れた法を習得しようとして、善知識を求め。親近し供養し法を聞き受持しようとしてきた。この童子は、かって頻陀伽羅城で文殊師利の教えを受けて、善知識を求め、多数の善知識に菩薩行を問い、心に疲倦無く、とうとう私のところにやってきた。この童子のように大乗を学ぶものは甚だ稀有である。」と善財を讃えた上で、「このように学ぶ者は、則ち能く菩薩所行を究寛する。大願を成満し、佛菩提に近づき、一切刹を浄め、衆生を教化し、深く法界に入り、一切の諸波羅蜜を具足し、菩薩行を広め、一切の諸善知識に値遇し、生涯に能く普賢菩薩諸行を具えるであろう。……」と善財の成道の近いことを宣言し、文殊師利に諸の法門と、智慧の境界と、普賢の所行を問うよう勧めるが、善財の更なる菩薩の行を学び、菩薩の道を修する方法の問いにあなたは文殊師利をはじめとする善知識に遇うこともでき、それなりの器の持主でもある。善知識の教える所は諸佛を護念することである。悟りを求める気持である、菩提心は諸佛の種子であり、良田であり、大地であり、浮水であり、……と諭し、善財の成道への大願が不退転のものであるとして、大樓観の中に導き入れられる。樓観の中で自分自身の姿を見るとともに佛の描かれた世界が現出していた。その中で深い三昧に耽っていると彌勒は指を弾き、善財を三昧から覚醒させてお主は菩薩の神力をすべて目の当たりにしたと告げられ、彌勒の示した法門は「入三世智正念思惟荘嚴藏法門」であると示され、菩薩の十種の生庭を示され、その上あなたが先ほど目にしたすばらしい光景は文殊師利の威神力によるものであるとも告げられ、普門城に詣でると文殊師利は手を差し伸べて「でかしたぞ善財、若し信心の根を離れれば憂悔に埋没してしまうであろうし、功徳が具わらねば精勤しようとする心も失せてしまうであろうし、多少の功徳に満足しようものならそれで進歩は止まってしまったであろうに……」と善財の精進を讃え、更にすべての法門、大智光明、菩薩陀羅尼、無量三昧、無量智慧をお主は成就してので、普賢の所行の道場へ入らせるようにした。普賢菩薩は、一つ一つの毛孔より光を放ち、世界を照らし、衆生の苦患を除滅して菩薩の善根を出し、……とさながら盧舎那如来の光の世界を現ぜられる光景に接した。この光景を目の当たりにして善財は不可壊智慧法門をわがものにした。普賢菩薩は、「私は測り知れないほどの長期間に亘って菩薩の道を修め、菩提を求め続けてきた。その功徳で不壊の清浮なる色身を得たので、私の名を聞き、私の姿を見たものは必ず清潭の世界に往き、清浮なる身になるであろう」と諭し、普賢の現じた光の世界に觸れた善財の成道も実現したのである。「譬如工幻師能現種種事佛爲化衆生示現種種身」とされるのであり、「聞此法歓喜信心無疑者達成無上道與諸如来等」と結語する。善財の求道は師・善友(善知識)をを訪ねて教えを請い、その教えを通じて信を深めていくものであったが、ゴータマ・ブッダの場合は、修行法・瞑想法を学ぶための師は求めたが、師と仰ぐ師は見当たらない。瞑想し、思惟することを通じて人生の悩みの解決をはかり、苦行による悟りから離れ、悟りへの障りとなる欲望、嫌悪、飢渇、妄執、ものうさ・睡眠、恐怖、疑惑、みせかけ・強情・名声と他人の蔑視という悪魔を斥けてきたのである。善財の修行の姿には慨怠も見られず、苦悩も見当たらない。経典の中で理想化された修行者の姿と生身の人物?との差異が表れているように思われる。佛教では勤習・数習・薫習という語を重要視する。それは「諸悪莫作諸善奉行自淨其意是諸佛教」を求める。なにげない行動の中に自ら善に趣き悪を避ける、身に染み付いた智慧の習得を求めているものであろう。
著者
吉田 暁史 Satoshi YOSHIDA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 = Otemae journal of humanities (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.A113-A134, 2006-03-31

ネットワーク環境における主題検索研究に関しては、あまり顕著な進展はない。その中で、FASTという主題検索システムが登場した。LC件名標目表の豊富な語彙をほぼそのまま借用し、統語論的結合については簡略化したシステムである。LC件名標目表は、意味論的側面、統語論的側面の両方で、大きな問題を抱えている。本論ではLC件名標目表において、名辞の形、意味論的関係性、統語論的結号の各側面について検討する。次にFASTがどのような目的で、どのような経緯で出現したかを論じる。さらに上記それぞれの側面で、LC件名標目表をどのように継承し、LC件名標目表とどのように異なるかを調べる。最後にネットワーク情報資源の検索にとってあるべき姿を論じる。結論としては、(1)もはや事前結合索引にこだわるべきではなく、事後結合索引の方向に向かうべきである、(2)件名典拠ファイルは、語彙管理の部分と統語論的結合部分とに分離し、FASTはそのうちの語彙管理部分をLC件名標目表と共有すべきである、と指摘する。
著者
丹羽 博之 Hiroyuki NIWA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 = Otemae journal of humanities (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
no.6, pp.17-24, 2005

大和田建樹(たけき)作詞の明治唱歌「旅泊」は、海辺での仮泊の旅愁を歌った名品であるが、曲自体はイギリスの曲と言われている。更にその歌詞は、唐の詩人張継の七言絶句「楓橋夜泊」をそっくり利用している。曲は西洋、歌詞は漢詩の利用、歌うのは日本人。両者の比較を通して当時の東洋と西洋との文化の融合を考察する。
著者
丹羽 博之 Hiroyuki NIWA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.1-24, 2013-03-31

以前に「大和田建樹作詞「旅泊」と唐張継「楓橋夜泊」-明治唱歌による和洋中文化の融合-」(大手前大学人文科学部論集 第六号 二〇〇六年三月)、「大和田建樹作詞「旅泊」と唐張継「楓橋夜泊」と「灯台守」と英国賛美歌」(第十回東アジア比較文化国際会議(二〇〇八年一〇月 大韓民国 高麗大学)の論において、大和田建樹は唱歌「旅泊」において、「楓橋夜泊」詩を巧みに利用して、明治唱歌として、初めての芸術的な唱歌を作詞したことを述べた。 また、この曲は櫻井雅人氏によって、亜米利加のスクールソング"The Golden Rule"の利用が証明された。その後、「旅泊」の曲は、昭和二十二年文部省の音楽の教科書に「灯台守」として載り、更に同じ題で、韓国に伝わり、日本では殆ど歌われなくなった「灯台守」が今も韓国では歌い継がれていることを述べた。今回の発表では、(1)「旅泊」の題は『唐詩選国字解』の当該詩の解説の冒頭「旅泊ノコトナレバ」を参照して、大和田建樹は「旅泊」の題名を思いついたのではないかと推察した。(2)「楓橋夜泊」詩の日本での受容の例を探し、絶海中津(一三三六〜一四〇五)の詩を初め、五山文学のころから受容されたらしい。その他、日本国使と称して朝鮮半島に渡った玄蘇が一五八〇年に、慶州の奉徳寺の鐘をみて「楓橋夜泊愁眠客」の詩句を詠じた例がある。(3)韓国においては、高麗末の詩人李穡(一三二八〜一三九六)の詩集「牧隠詩藁」(巻十一)の「秋日。奉懐懶残子。因述所懐。吟成 五首(其一) 奉呈籌室」詩に、 「回首天台欲断腸、石橋人影掛夕陽、如今却似寒山寺、半夜鐘声到病牀」とあるのが、現在残る最古の例。(4)「月落烏啼」の名句は已に中唐劉禹錫の「踏歌詞四首(其三)」に、「新詞宛転遞相伝、振袖傾鬟風露前、月落烏啼雲雨散、遊童陌上拾花鈿」の例が見られ、韓国の漢詩に二十例見られる。等の事を指摘した。
著者
太田 素子
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.31-40, 2013

パーティをキーワードにして、ヴァージニア・ウルフ(Virginia Wbolf)の作品を読み解こうと試みる。パーティはウルフの作品に於いて重要な役割を果たしていながら、これまで、必ずしも正当に評価されてきたとは言えない。しかし、例えばパーティの催される1日を描く『ダロウェイ夫人』(Mrs.Dalloway)では、「瞬間」("themoment")を捉える特有の儀式として、パーティが効果的に用いられている。そこでは、もろさと表裏をなしながら至福の「瞬間」が鮮やかに定着されている。ウルフが、個我や自我に収敏したいわば閉塞的な世界を描いた作家と思われている一面で、常に社会との関係を意識し続けていたことを再考するひとつの試みでもある。パーティ空間を媒介にして、人は社会と幸福に関係を保とうとするが、そうはできない時代や個人の意識のため、様々なアンビヴァレントな意識を感じていると言える。パーティの準備に始まりパーティのクライマックスで終わる『ダロウェイ夫人』をとりあげて、G.ジンメル(Georg Simmel)や山崎正和の「社交論」、C.エイムズ(Christopher Ames)のパーティ論を踏まえつつ、ヨーロッパ近代の社交とウルフのパーティ空間について考える。
著者
川本 皓嗣 Koji KAWAMOTO
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.11, pp.1-26, 2011-03-31

いわゆる漢文、あるいはその日本における具体的な存在様式である漢文訓読は、考えれば考えるほどふしぎなものである。その曖昧さ、正体のつかみ難さという点と、それとは裏腹の存在の重さ、巨大さ、根深さという点で、それはまさに日本文化の特性を典型的に表わしているようだ。この重要な現象が、かなり最近まで十分な注意を惹くことがなかったのは、たとえば和歌や俳句などの特異な詩の形式と同様、それが日本人にはあまりにもなじみ深い、ごく「当たり前」の制度ないし決まりだったからだろう。とはいえ、ほぼ今世紀に入った頃から、訓読をめぐる議論がようやく活発になりつつある。これは大いに歓迎すべきことだが、ただ、訓読という現象に正面から理論的な考察を加えたものは、まだそれほど多くない(もっとも、俳句であれ連句であれ、掛詞であれ切れ字であれ、あえて理論的・原理的、比較論的な穿鑿の対象にしないことこそ、日本文化の特質なのかもしれない)。そこであらためて、あえてごく初歩的・常識的な要素をも考慮に入れながら、翻訳論と比較文化論の両面から、漢文訓読という異言語読解のシステムを問い直してみたい。
著者
田中 紀子 Noriko TANAKA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.9, pp.187-202, 2009-03-31

John Steinbeck の小説Of Mice and Men は、1930年代のカリフォルニアの農場を渡り歩く労働者二人の友情を中核とし、彼らの夢とその崩壊を描いた作品である。最初の映画化は1939年に行われ、それ自体の評価は良かったが、原作との違いには喜ばしくない点も見受けられる。それ以後1992年にはGary Sinise 監督・主演で新たに制作された映画は、概ね原作に忠実だと認められてはいるが、それでもいくつかの変更箇所が目につく。本稿では、小説のテーマである孤独、それを表わす人物であるCandy とCrooks とCurley の妻、さらにオープニングとエンディングの描き方についてこの1992年版の映画と比較し、原作者の意図と照らし合わせながら検討する。
著者
石毛 弓 Yumi ISHIGE
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-14, 2016-03-31

さまざまな哲学者たちが人格の同一性に関する論を展開しているが、なかでもデレク・パーフィットは彼独特の一種ラディカルな見解を示している。それを端的に示せば、「人格の同一性は、私たちの生存にとってもっとも重要なものではない」になるだろう。この見解は彼自身が認めている通り、一般的な経験からすると受け入れることが難しいものである。本論は彼がこの見解に至った過程を考察するとともに、その妥当性を功利主義の観点から検討する。まずパーフィットにおける人格の同一性の概念を、彼の論に沿って「非還元主義」と「還元主義」に分けて解説する。非還元主義とは、人格はなにかによって説明され得るものではなく、それそのものとしか表しようがないとする考えを指す。他方、還元主義では、人格の同一性はなんらかの経験的なものによって説明され得るとみなされ、彼自身の考えは大きくくくればこちらに与する。人格の概念に対してパーフィット流の還元主義を選択した場合とそうでない場合では、私たちの思考や態度は変化するだろう。後半ではこの変化をとくに功利主義の観点から追い、人格に対する彼の主張を検証する。
著者
松井 博司
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.13, pp.127-134, 2012

大学に初めてスイーツ学専攻が開設された意義は何かを問う。スイーツの定義から始まり、大学教育としてスイーツ学を学ぶ根拠を明確にする必要がある。さらに、スイーツ学の学術体系を構築すべき内容について論じる。
著者
孫 容成
出版者
大手前大学
巻号頁・発行日
2013-03-19

2012年度
著者
柏木 隆雄 Takao KASHIWAGI
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.43-65, 2014

昭和初期から30年代後半にいたるまで、抒情詩人として活躍した三好達治の詩業は多くの詩集に窺われるが、詩作の根底に彼が学んだフランス語詩の影響がある。人口に膾炙する彼の『測量船』中、取り分けて有名な「雪」と「甃のうへ」の両詩について分析を試み、「甃のうへ」については、フランス詩とのかかわりで新たな視点を得ようとする。またジュール・ルナールやフランシス・ジャムの詩の読書体験から、三好の詩作に与えた影響を探る。さらにその詩的生涯において特記すべき、福井県三国町での戦中・戦後の生活についても考察を加える。