著者
安藤 幸一 Koichi ANDO
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.21-31, 2010-03-31

FD (Faculty Development)とは、19世紀初頭の、ハーバード大学における有給長期研究休暇 (サバティカルリーブ)にその起源を求めることができると言われている。これは、大学教員の資質を担保するための研究活動支援と言い換えることもできるだろう。しかし、アメリカでは、第二次大戦後、大学の数が急増し学生が多様化することによって、また、不況により学生数の減少が顕著になると、教員は研究活動にとどまらず、広く教育活動、ことに授業におけるプロフェッショナルとしての資質を問われることになる。アメリカにおいては、各職業専門分野の資質は、プロフェッショナル・ディベロップメント (PD)という、極めて自主・自律的な活動によって保証されてきたが、大学におけるFDも、研究活動支援の枠を超え、このPDの一環としてその重要性が認識され、教育のプロフェッショナルとしての資質向上をめざす集団的自己教育活動としての道を歩むことになる。しかし、90年代以降、こうした異なった社会的・教育的環境の中で発達したFDが、日本においては政府主導で「輸入」され、2007年にはついに義務化されることになった。本来、極めて自主的な自己教育活動であったFDが「義務化」されることは、それ自体大きな矛盾である。あえて、これを「日本型FD」とよぶならば、私たちは、この事態にどのように対処したらよいのか、あるいは、むしろ大学改革の好機として積極的に捉えることも可能なのではないか、という思いをこめて記したものが、この研究ノートである。
著者
大島 浩英 Hirohide OSHIMA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-16, 2018-07-31

1494年にアルザスの人文主義者・詩人のゼバスティアン・ブラントによって風刺詩集 Das Narrenschiff(『阿呆船』)がバーゼルで発行された。ドイツ語の時代区分では1350年〜1650年頃の初期新高(地)ドイツ語に分類される言語で書かれた韻文の詩(クニッテル詩句)である。言語的にはまだ不統一な言語状況の中で書かれ、ブラントによってある程度は標準化されたこの詩集のうち、前回の考察に続いて「傲慢」を扱った詩[92]„Vberhebung der hochfart" の39〜80行目(全124行)までを取り上げ、語学的な分析を行った。キリスト教(カトリック)的倫理観に基づいた風刺詩集のため、道徳的罪への戒めが基本的テーマとなっている。今回の考察でも中世高地ドイツ語から新高ドイツ語へ向かう途中の中間段階の状況が音韻、語彙、統語の側面でそれぞれ確認できたが、今回読んだ詩行では、不安定ながらも副文内で定動詞の後置が行われ、それによって枠構造が形成されている例が比較的多く認められた。韻律が優先される韻文詩ではあるが、韻律の条件を整えつつも文法規範をある程度意識しようとする傾向が見られる。
著者
張 起權 Kigwon CHANG
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.55-70, 2012-03-31

朝鮮王朝後期の朝鮮半島では、増大していく社会的混乱の中で、封建社会の基盤を成していた厳格な身分制度にも次第に変化が生じる。文化・芸術的な分野においても実学思想の動きがあらわれるが、特に文学においては、既存の理想主義的な風流文学の流れに反し、実生活を表現し、また批判する風刺文学が出現する。当代の風刺文学の中でも、仮面劇「タルチュム」にみられる風刺は最も痛烈で、批判精神に満ち溢れている。タルチュムは民衆によって生まれた芸術であり、その中には当時の民衆の主な関心事がそのまま描かれている。とりわけ階層間の対立問題と藤構造が浮き彫りにされ、支配層への批判がタルチュムという喜劇を通して表出されている。タルチュムの中には、「狂言」の太郎冠者のような、喜劇中の下男像の典型である「マルトゥギ」が登場する。お調子者で反骨的なマルトゥギによって、主である「両班(ヤンバン)」は弱点を突かれては嘲弄され、風刺の槍玉にあげられる。諧謔に富んだ風刺により、両班の掲げる地位や学識、道徳の矛盾に対して疑問を投げかけ、愉快な笑いを飛ばす。朝鮮王朝の厳格な封建社会において、社会風刺に富んでいるタルチュムの内容は、抑圧されていた庶民の鬱憤を発散し民衆意識を高揚させることに、非常に重要な役割を果たしていたのである。
著者
盛田 帝子 Teiko MORITA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.61-117, 2018-07-31

本稿は「光格天皇主催御会和歌年表―天明期編」(『大手前大学論集』第17号)の続編として、寛政期に光格天皇が主催した内裏の御会および光格天皇の詠草を年表形式で提示したものである。底本には、光格天皇歌壇の一員、もしくはその周辺人物でなくては知りえない情報が注記されている国立国会図書館所蔵『内裏和歌御会』(請求記号:124-202)を用いた。寛政期は、光格天皇の歌人としての面に光をあてれば、後桜町院上皇から御所伝受を相伝され、歌道宗匠として門人への添削を開始、門人に御所伝受の相伝を始めた時期であり、天明の大火のため仮御所としていた聖護院宮から新造御所への遷幸、幕府との関係では父の閑院宮典仁親王に太上天皇号をおくろうとした尊号一件、父典仁親王の薨去、後桃園天皇の第一皇女で唯一の御子であった欣子内親王との婚儀、儲君となった皇子温仁親王の誕生と薨去など様々な出来事が目まぐるしく起こった時期でもある。『光格天皇実録』(ゆまに書房、2006年)等から出典を示して事項を引用し、それらの事柄と御会の運営状況との関係性、寛政期の光格天皇の動向を立体的に提示することを試みた。
著者
丹羽 博之 Hiroyuki NIWA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.17, pp.1-10, 2016

鳥居枕作詞・瀧廉太郎作曲の「箱根八里」は、明治三十四(一九〇一) 年三月刊の『中学唱歌』に於いて発表された。一箱根の山は天下の険 谷関も物ならず万丈の山千初の谷 前に聾え後に支う雲は山を廻り 霧は谷を閉ざす昼猶暗き杉の並木 羊腸の小径は苔滑らか一夫関に当るや 万夫も開くなし天下に旅する剛毅の武士大刀腰に足駄がけ 八里の岩根踏み鳴らす斯くこそありしか 往時の武士二箱根の山は天下の阻 蜀の桟道数ならず万丈の山千初の谷 前に聾え後に支う雲は山を廻り 霧は谷を閉ざす昼猶暗き杉の並木 羊腸の小径は苔滑らか一夫関に当るや 万夫も開くなし山野に狩りする 剛毅の壮士猟銃肩に草鮭がけ 八里の岩根踏み破る斯くこそありけれ 近時の壮士「箱根八里」の歌詞は、「函谷関も物ならず」「万丈の山」「千初の谷」= 夫関に当るや万夫も開くなし」「蜀の桟道数ならず」等、いかにも明治うまれらしく漢詩漢文の影響を受けている。ふとしたことから、『新修漢文新制版巻二』(昭和十二年七月印刷昭和十六年八月修正印刷)を読んでいると、草場侃川(一七八八〜一八六七) の「山行示同志」詩に目が留まった。以下にその詩を挙げる。路入羊腸滑石苔 路羊腸に入りて 石苔滑らかに風従鮭底掃雲廻 風鮭底に従ひ 雲を掃ひて廻る登山恰似書生業 山に登るは 恰かも書生の業に似たり一歩歩高光景開 一歩歩高くして 光景開く一読、起句は「箱根入里」とそっくりである。これは偶然の一致とは考えにくい。鳥居枕が箱根の険を表現するときに、草場の詩を利用したことはあきらかであろう。承句の「掃雲廻」「鮭底」は「箱根八里」の「雲は山を廻り」「猟銃肩に草鮭がけ」に似通う。当時は先行作品を上手に利用するのが常套手段。寧ろ、いかに先行作品を利用するかが作者の腕の見せ所であった。また、「箱根入里」の出だしの「箱根の山は天下の険」は白楽天の「夜入崔唐峡」の冒頭「嬰唐天下険」を参考にしたものと考えられる。嬰唐峡の上流には、蜀の桟道がある。草場の詩は、山行に託して、学問は上達するに従い物の見方が広くなることを同志に説いたものであり、教訓的・勧学の詩であり、旧制中学生が学ぶにはまことにふさわしい教材と言えよう。「箱根八里」も『中学唱歌』に発表されたということは、旧制中学の唱歌の時間に歌われていたのであろう。明治期の極めて優秀な旧制中学生は、この唱歌を歌いながら草場の詩を想起していたであろう。唱歌を歌いながら、草場の詩を頭に思い描き、学問の深さに憧れ、上級の学校に進み学問の奥深さを早く体験したいと思っていたのではないか。
著者
石毛 弓 Yumi ISHIGE
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.16, pp.1-14, 2015

さまざまな哲学者たちが人格の同一性に関する論を展開しているが、なかでもデレク・パーフィットは彼独特の一種ラディカルな見解を示している。それを端的に示せば、「人格の同一性は、私たちの生存にとってもっとも重要なものではない」になるだろう。この見解は彼自身が認めている通り、一般的な経験からすると受け入れることが難しいものである。本論は彼がこの見解に至った過程を考察するとともに、その妥当性を功利主義の観点から検討する。まずパーフィットにおける人格の同一性の概念を、彼の論に沿って「非還元主義」と「還元主義」に分けて解説する。非還元主義とは、人格はなにかによって説明され得るものではなく、それそのものとしか表しようがないとする考えを指す。他方、還元主義では、人格の同一性はなんらかの経験的なものによって説明され得るとみなされ、彼自身の考えは大きくくくればこちらに与する。人格の概念に対してパーフィット流の還元主義を選択した場合とそうでない場合では、私たちの思考や態度は変化するだろう。後半ではこの変化をとくに功利主義の観点から追い、人格に対する彼の主張を検証する。
著者
山口 正晃 Masateru YAMAGUCHI
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.17, pp.11-45, 2016

三国魏において制度化された都督制は、若干の変化を見せながらも、次の西晋王朝まで大枠としては変更なく受け継がれた。その制度上の特徴について明らかにすることが、本稿の主題である。具体的には、(1)魏晋期都督制の制度内容について最もまとまった記述のある『晋書』職官志の分析、(2)都督制に付随する「節」という権力標識から見た都督制の成立経緯、(3)都督制の実際の運用状況、(4)軍隊組織における都督の位置づけという四つの視点から、検討を加える。その結果、都督制が将軍の地位下落を契機として出現した制度でありながら、実際にはその制度上の基盤は却って将軍に存すること、すなわち都督とは独立した官職ではなく、将軍が持つ「肩書き」であることが判明した。この結論は、二つの点において先行研究に対する独自の意義を有する。一つは、漢末三国に将軍号が虚号化して軍事長官の座から転落したという従来の理解に釘を刺し、西晋期まで「一軍」の長官としての地位はなお保っていたことを指摘した点。いま一つは、一部の研究者に見られる都督の主体を刺史・太守と見なす誤解を正し、現実に刺史・太守が都督を兼任する場合はあるものの、それは将軍号を持つ刺史・太守であって、制度的に都督が付与されるのはあくまでも将軍に対してであることを論証した点、である。
著者
松原 秀江 Hidee MATSUBARA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.17, pp.65-92, 2016

数え年十歳で、近世の名家・葛野流大鼓師の娘だった母・すゞを失った鏡花にとって、すゞの長兄・孫惣の未亡人・ちよとその娘たち、特にすゞ同様江戸生まれのふみが、代々伝えて今はない鼓の精として、紅葉を師と仰ぐ鏡花の作家としての成長に深くかかわることを、清次とすゞの出会いのきっかけも含め、能とのかかわりの中で述べた。
著者
丹羽 博之 Hiroyuki NIWA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 = Otemae journal of humanities (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.15-29, 2004

第一章では、乃木希典「金州城下作」と唐代の李華の「弔古戦場」の用語・表現の類似を指摘し、乃木は『古文真宝集』などに収められている名文を参考にして作詩したことを考察。第二章では、武島羽衣作詞「花」の二番の歌詞は『源氏物語』「源重之集」の和歌を利用したものであることを指摘。また、「見ずや〜」の表現は漢詩の楽府体の詩に多く見られる表現を応用したことを指摘。第三章では、「仰げば尊し」の歌詞も『孝経』や『論語』の文章を下敷きにしていることを指摘。
著者
溝口 正
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学社会文化学部論集 (ISSN:13462113)
巻号頁・発行日
no.6, pp.147-166, 2005

大手前大学ならびに大手前短期大学の講義において、毎回暫定的な試験を実施してきたが、その際、朝食にご飯食またはパン食を摂取しましたか、とのアンケートもおこなった。毎週得られた評点と朝食摂取の結果を刻銘に学籍簿に記入して保存してきた。それは1999年から2005年の7年間(但し、平成16年度はマークシート自動採点様式のため残念ながら欠落)に亘って301週、27教科の集計である。対象学生数は24,928名に達した。朝食摂取の状況を要約すると、大手前大学ならびに大手前短期大学の男女学生は主としてご飯食、パン食を摂取し、その他を含めると凡そ90%が何らかの形で朝食を摂取している。パンを食べた学生とご飯を食べた学生を抽出してその割合を求めてみると前者は35%から39%であり、一方、後者は22%から28%であった。パンを食べた学生数はご飯を食べた学生数より1.6倍ほど多い。暫定的な試験の評点を集計し、今回はセメスター内の総回数12回、全てに出席した者および2日まで欠席した者を対象学生として選び、パンを食べた学生とご飯を食べた学生に分けてその評点を比較した。その数は27教科、301週において総数1,385名であった。言い換えれば熱心に受講した学生の集計である。残りの学生総数、23,543名は、出席日数8-10回の者、5日-7日の者、4日以下の者のいずれかに全て分別されるが、どの学生も暫定的な試験を受験し同時に朝食摂取のアンケートに回答しているのでそれらの調査・集計も可能である。朝食としてご飯を食べた学生の平均評点がパンを食べた学生の平均評点より高レベルであった教科は総数27教科の内16科目だった。教科7科目では双方とも同じレベルであった。低レベルであった教科は4であった。以上のことから講義を熱心に聴講し試験に良好な成績を収めるためには平素ご飯を食べる方がパンを食べる方より望ましいと考えられる。
著者
田中 キャサリン Kathryn TANAKA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.89-124, 2016-03-31

幸田露伴『對髑髏』(1890年)は、ドイツ語や英語でも翻訳出版されているにもかかわらず、欧米でも日本でも露伴の他の作品に比べると研究はわずかである。まず、本作は、単純なプロットでありながら、古語による文体が用いられ、古典作品からの引用も多く、仏教思想や中国哲学の参照を要請する緻密な言語で構成されている。本作は浪漫主義・神秘主義の作品として分析されてきたが、作中のハンセン病(癩病)描写は、現代社会の寓意として理解することができる。その他の作品においても、文学作品でのハンセン病描写は、病気や帝国主義における不安と解釈することでより広範な意味を持つ言説と見なすことができる。続いて、ロッド・エドモンドの画期的な研究は、ハンセン病と帝国主義の関係を論じ、1890年代~1930年頃のイギリス文学におけるハンセン病表象には、植民地が帝国にもたらす脅威への不安が反映されることがあると実証してきた。エドモンドの研究をふまえ、本論は西洋と日本における幽霊譚を描く怪奇小説を比較し、それらの共通点および相違点、そしてその寓意に注目し、作品におけるハンセン病患者表象の重要性を論じる。西洋の作品としてコナン・ドイルやキップリングらの作品分析を行い、それらと『對髑髏』の比較を通じ、本論は露伴の『對髑髏』が現代の怪奇小説の原型であると捉え、露伴の革新性の考察を通じて、文学作品における病の役割や帝国観の一端を明らかにする。
著者
大高 順雄 Yorio OTAKA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.207-237, 2014

15世に成立したフランス語の物語『パリとヴィエンヌ』は広く流布され、ヨーロッパの主要諸言語に翻訳され、16世紀にアラゴン語の写本を翻字したアルハミーヤ文が成立した。これはフランス語の原文の半分にも満たず、作者は不明である。ここではそのアルハミーヤ文の言語的特徴を明らかにする。
著者
田中 キャサリン Kathryn TANAKA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.119-147, 2014

本論文では、1909年に設立された香川県高松市のハンセン病療養所、大島療養所(現大島青松園)におけるロイス・ジョンソン・エリクソン夫人の翻訳作品を検討する。エリクソン夫人は1905年、アメリカ南部の長老派教会所属の宣教師として来日し、36年間、夫のスワン・マグナス・エリクソンとともに布教活動に従事した。エリクソン夫人はこの布教活動に、大島療養所で生まれた「霊交会」というキリスト教団体の会員の作品を英語に翻訳し、活用した。しかし、エリクソン夫人は、この「翻訳」を単にtranslationとは呼ばず、interpretationと述べている。この語の意味は、「翻訳」というよりもむしろ「解釈」や「意訳」に近い。そのようなエリクソン夫人の翻訳のあり方の特徴に着目して、本論文では、「霊交会」における文学の実態とエリクソン夫人による「意訳」との関係性について論じる。また、エリクソン夫人の翻訳が、療養所の患者の一人、長田穂波の文学を世に知らしめるきっかけとなったことも併せて明らかにしたい。This article examines the activities of Lois Johnson Erickson at a Hansen's Disease hospital, Oshima Hospital (today Oshima Seisho-en) in Takamatsu, Kagawa Prefecture. She and her husband, Reverend Swann Magnus Erickson, a Southern Presbyterian minister, came to Japan as missionaries in 1905 and served there for 36 years. Erickson used literature in her missionary work, and as part of this she translated the writings of a Christian group in Oshima, Reiko-kai, and used them to publicize missionary activities and the Christian faith. As she herself states, rather than translations, her writings are interpretations of the original Japanese. This article examines Erickson's process of translation and argues that Erickson's translations were of use to the missionary community for fundraising and to demonstrate the success of the mission in Japan was precisely because they made the dense original more accessible to readers. Not only did Erickson's translations domesticate Honami's psalmic style, but the fact of her English translations served to garner Honami more recognition within Japan as well.
著者
OZAKI Koji
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.061-088, 2017-03-31

This paper investigates Sensai Nagayo’s ideas on hygiene through xamining his 1877 treatise Eisei Iken (An opinion on public health). Nagayo was a Japanese physician and bureaucrat who served for 18 years (1875-1892) as the director of the Central Sanitary Bureau of the Home Department. Scholars have long referred to his ideas and activities in the context of the establishment of the public health system in nineteenth-century Japan, yet they seem to have failed to correctly understand the characteristics of his achievements. Specifically, due to an emphasis on ‘hygienic modernity’ among scholars like Ruth Rogaski, they often discuss this aspect of westernisation alone in Nagayo’s ideas. This paper takes a different approach and demonstrates that Nagayo worked on improving pharmaceutical affairs in the early days of his directorship, mainly by relying on traditional wholesale pharmacists or through the traditional distribution system of medical chemicals, in particular wholesalers in Osaka Doshô-machi. These conclusions elucidate that the Japanese medical or hygienic system was not only an echo of those of European countries but also included traditions derived from the Japanese premodern medical system.
著者
堀川 諭 Satoru Horikawa
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学社会文化学部論集 = Otemae journal of socio-cultural studies (ISSN:13462113)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.21-33, 2000-03-25

日々報道される少年事件の背景はさまざまであり、一様に論ずることができないことはいうまでもない。また、少年法の規制の中でわれわれの知りうる情報はきわめて限られたものであるから、個々の事件をあれこれ論ずることには慎議でなければならない。しかし、こうした少年事件にしばしば衝動的で短絡的なクレッチマーのいう「短絡反応」(short circuit reaction) ともいえる心珊機制がみられることも事実である。そこで、この小文では、少年による短絡反応の事例と考えられるニつの有名な事件、一つは、事件後三百数十年もの問語り継がれてきた「八百燦お七」の物語、いま一つは、昨今の短絡的な少年事件の現代的嚆矢ともいえる高島忠夫氏氏長男の「道夫ちゃん事件」を取り上げ、それに若干の精神病理学的な検討を加えた。いみじくも両者はともに17 歳の少年による犯行であり、前者はわが国を代表する古典作品として怯承され、後者は報道規制の緩やかであった時代の、それゆえ比較的詳細に事件の本質に迫ることのできる事件として興味深いものがある。
著者
長谷川 和子
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学社会文化学部論集 (ISSN:13462113)
巻号頁・発行日
no.2, pp.97-105, 2001

チョーサー作『カンターベリー物語』中のバースの奥方による前口上に現れる彼女の人間像は,中世文学に描かれた女性の中で最も生き生きとして,肉体的にも精神的にも強く逞しい女性に見える。彼女は腕に業を持って経済的に自立しており,フェミニズムの先駆者のようでもあり,イヴに代表される男を堕落させる悪い女のようにも描かれ,その言動の過激さ,下品さ,身勝手さ,元気さ,大胆さ,陽気さが目に付く。本稿では次の事を明らかにする。チョーサーは彼女の語りの中に明らかな逆転の図式を幾つも積み上げる。例えば彼女が語りを始める前に「わたしが勝手気侭にしゃべっても,みんな冗認でいうのですから気を悪くしないで聞いて下さい」と話の信憑性を自らあやふやにしている。そして話が実際に始まると「みなさん,これから正真正銘,本当のことを話しましょう」と話の信憑性を主張する。そして五人の夫を,「この五人の夫は,それぞれ身分が違っていましたが,みな立派な男でした」と紹介するが,個々の人物の説明になると,はっきりと三人中二人は「悪いやつでした」と評価が逆転する。残りの三人の「立派さ」も,逆転的「立派さ」であることは,「おいぼれさん,この老いぼれ野郎め,おまえのような悪党,この悪党め」と彼女が夫を軽蔑的に呼ぶ事に明らかである。彼女の話の数々に逆転が用意されている。そして最後の逆転だけを表現せず聴衆の類推の中で,逆転を完成させる。そうする事によって,奥方の表面上の陽気さや強がりの下に隠れた彼女の悲しみを描いた。その悲しみとは,夫から妻として"尊敬されて"愛されないというものである。中世の女性は公然と尊敬に基づいた愛など夫に要求できなかった。チョーサーはこの口に出せない妻の主張を言葉で表現せずに類推を誘導する形で表現した。
著者
張 起權
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.185-201, 2013

カーニバルの世界では、豊作や多産を祈願する象徴的な手法として、葛藤や争いが盛り込まれ、日常の秩序が転倒されるような芝居がみられる。まさにミハイル・パフチンの説く「君臨と退出の逆転構造」であるが、このような逆転や転倒は韓国の伝統喜劇「タルチュム」の中にも随所に盛り込まれており、全体の筋立ての中で非常に重要な役割を果たしている。また、夏と冬、生と死のような対立構造が譜誰的に描かれ、その象徴的な戦いが繰り広げられている。パフチンの説くカーニバル的世界の特徴を踏まえつつ、タルチュムの中に盛り込まれている「日常の秩序に対する転倒」や「新旧交代」の様相、またそのような逆転構造を際立たせている、譜誰的な「グロテスク・リアリズム」の世界に誘う。
著者
前川 和子 Kazuko MAEKAWA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.165-181, 2014

日本図書館学校(Japan Library School以下、JLS)は、日本で初めての大学学部レベルの図書館学教育が行われた。R. ギトラー(Robert Laurence Gitler, 1909-2004)が主任となり、アメリカから4人の教師と1人のライブラリアンが招聘され教育にあたった。そのレファレンスの科目では、担当者F. チェニー(Frances Neel Cheney, 1906-1996)によってMudge, Wyer, Bishopの各々のレファレンスの定義が紹介された。またこの科目では、日本の文献として渋谷国忠(1906-1969)の「参考事務要論」、今沢慈海(1882-1968)などが資料として使われている。これら日本の論文の何が評価されて、資料として使われることになったのか。本稿では、3人のレファレンス権威者とどのように繋がるのかを探り、渋谷の論文を評価したい。
著者
木下 りか Rika KISHITA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.125-136, 2008-03-31

ダロウは真偽不定の事態についての判断を表すことができる(例:明日は晴れるだろう)。本稿はダロウの表す判断における推論過程の特徴について考察することを目的とする。推論には、結果からその原因を導く「原因推論」と、原因からその結果を推論する「結果推論」とがある。「原因」と「結果」を、南(1974、1993)の文の階層構造におけるB類のカラで示される事態レベルの関係(「広義因果関係」)におけるものと定義すると、ダロウは「結果推論」には馴染むが、「原因推論」には抵抗を示すことがわかる。ダロウが「原因推論」を表せるのは一定の要件を満たす場合である。「広義因果関係」の逆が成立する場合もこれに相当する。すなわち、「ある結果があればこのような原因があると判断できる」という関係性が知識として定着している、あるいはその関係がカラ節によって強制的に表示される場合である。また、疑問の答として、あるいは提題の助詞ハとともに用いられてもよい。これらは、推論された結果が何かの原因だということではなく、何らかの根拠から帰結が得られたことにのみ焦点を当てる文脈である。以上の事実は、ダロウが、何らかの根拠から帰結が導かれたことのみを表示し、導かれた帰結が、何かの「原因」や「結果」であることを積極的に示すわけではない、と考えることによって説明可能である。ダロウのこの特徴は、「原因推論」を明示するヨウダ・ラシイとは異なる。