著者
川口 高風
出版者
愛知学院大学
雑誌
愛知学院大学教養部紀要 (ISSN:09162631)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.3-59, 1998-07-25
著者
伊藤 君男 岡本 真一郎
出版者
愛知学院大学
雑誌
愛知学院大学論叢. 心身科学部紀要 (ISSN:18805655)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.29-32, 2007-03-10

悪徳商法における強制的な説得・承諾のプロセスを,より詳細に検討するために,本研究では,被害者に対するインタビュー調査をおこなった.そして,説得の開始から承諾にいたるプロセスを,TEMを用いることで,詳細に記述・分析を行った.調査対象者は20代女性3名であり,彼女らはエステ・補正下着の強制的な勧誘を受けていた.TEMの分析によって,エステ・補正下着の勧誘のプロセスは,「来店」「勧誘」という必須通過点(OPP)を経て,「契約する」という等至点(EFP)に至ることが示された.そこでは,「友人の勧め」「無料体験」「脅し・強い勧誘」などの圧力が働いていることも示された.
著者
伊豆原 英子
出版者
愛知学院大学
雑誌
愛知学院大学教養部紀要 (ISSN:09162631)
巻号頁・発行日
vol.51, no.2, pp.1-15, 2003

終助詞「よ」「よね」「ね」のこれまでの研究は、三者を統一的に見たものは少なく、二者間の差異、または意味・機能を同じくする他の領域の語群との差異を明らかにするものが多かった。本稿は、終助詞「よ」「よね」「ね」三者の機能を統一的にとらえようとした点が従来の研究と異なる。本研究で明らかになったことは次の点である。「よ」「よね」「ね」はともに、話し手の認識の受け入れを聞き手に求める話し手の発話態度を表すものであるが、違いはその手続きにある。つまり、・「よ」は聞き手の認識に働きかけて何らかの変化を促したり、そのことによって何らかの行動を促そうとするものである。・「よね」は話し手の認識が聞き手の認識でもあるかを聞き手に確認するという過程をとることで、話し手の認識領域に聞き手を引き入れようとするものである。・「ね」は話し手の認識を聞き手が受け入れることを当然とみなし、聞き手の同意を求めるという過程をとることで、話し手の認識領域に聞き手を引き入れようとするものである。
著者
熊田 一雄
出版者
愛知学院大学
雑誌
愛知学院大学文学部紀要 (ISSN:02858940)
巻号頁・発行日
no.31, pp.1-9, 2001

現在,オウム事件や異常な少年犯罪の続発などのために,宗教教育をめぐる議論が活発である。しかし,現行の宗教教育は若い世代に対して実効性をあげているのだろうか?この疑問に答えるためにも,愛知学院大学の学生を対象として簡単な質的アンケートを行った。同大学は曹洞宗の宗門大学であり,調査対象となった学生達は,宗教学科の3・4年生であり,1・2年次に宗教学の講義を必修科目として受講している。アンケートの設問は,「なぜ人を殺してはいけないのか? 場合によっては殺してもよいと思う人は,その条件を述べよj というもので,プライバシー厳守を約束した記名式アンケートであった。アンケート結果は,以下の通り七ある。仏教の殺生戒を用いて回答した学生はごく少数である。日本人なりの超越的なものの感じ方は,「人間は自分一人の力で生きているのではなぐ,生かされて生きている」というものであるが,この「生かされている感覚」を用いて回答したサンプルは多数あった。しかし,それに匹敵する程に多かった回答は,「自分が殺されるのは嫌だから」というものである。「自分がされて嫌なことは人にしてはならない,だから人を殺してはいけない」という訳である。しかしこの回答には,「自分が死にたくなったら(殺されたくなったら)」どうするのかという不安定さが感じられる。ごく少数ながら,二ヒリズムに近い回答もあった。「自分が殺されるのは嫌だから」という回答には,宗教道徳意識の「セラピー化」の傾向が見られる。このアンケート結果から,現行の宗教教育はかなり形骸化しているのではないか,という疑問が生じる。家族以外の持続的共同体を大幅に失った現在の学生の宗教道徳意識が「セラピー化」していくのは時代の必然であり,そうした若者達に「生かされている」感覚を叩き込むような宗教教育こそ今こそ求められているものではないか。現在の日本では,学校教育ではなく一部のサブカルチャーがそうした役目を果たしているのではないか。
著者
酒井 亮爾
出版者
愛知学院大学
雑誌
愛知学院大学論叢. 心身科学部紀要 (ISSN:18805655)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.41-49, 2006-03-10

日本では,学校におけるいじめは1980年代に校内暴力とともに増加してきた.1994年には中学生(大河内君)が級友によるいじめを苦にして自殺している.そのようないじめを防止するために教師や父母,地域社会によって多くの対処行動がなされてきた.しかし,2002年でもいじめの事例が22,207件も報告されている.最近のいじめの特徴は陰湿であり,残酷であり,執拗である.家族の成員が少なくなり,きょうだいの数も昔よりは少なくなっているために,家族成員の間にもストレスが多い.そのために,多くの子どもたちは家族内でトラブルにあったとき,ストレス状況や困難に対処する仕方を学習することができてこなかったのである.そのような家庭の教育力の低下は,学校におけるいじめをなくすことができない理由のひとつであろう.さらに多くの子どもたちは小学校で仲間集団と遊ぶ機会をもっていないのである.放課後も多くの子どもたちは音楽やスポーツの訓練を受けたり,学習塾へ通っている.だから,放課後に級友と遊ぶ時間が余りないのである.多くのいじめは中学生の頃に発生する.彼らは心身ともに急速に発達していく.しかしながら,この時期の心と身体の発達はアンバランスである.とくに第二次性徴によって,彼らは不安定な状態であり,学校では多くのストレスを経験することになる.一般的に中学生の頃は自己のアイデンティティを追及し内省的となる.たとえいじめられたとしても,彼らはそのことを親や先生には話したりしないのである.幼児期の家庭はもっとも重要な教育の場であり,両親は子どもを注意深く見ていなくてはいけない.そうすれば,親は子どものちょっとした変化にも気づくことができる.子どもを見守っていくことによって,親は子どもたちがつらい目にあっているときに示すサインを見つけ出すことができるであろう.いじめられている場合,その子はいじめている子と対決する必要がある.基本的には誰もが強い自我を発達させていく必要があるのであり,もしも不快な行為をされたり,嫌なことを言われたなら,「そういうことは嫌だ」と言うことが必要であろう.誰もが強い自我とアイデンティティを形成することができたならば,結局,いじめはなくなっていくであろう.
著者
津田 秀和
出版者
愛知学院大学
雑誌
経営管理研究所紀要 (ISSN:13413821)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.59-78, 2008-12-25

本稿はインターネットというパーソナルメディアを通じた市民および企業関係者の企業倫理感覚の構築過程を分析するための手法の検討と事例への適用を目的とする。メディア効果理論や間メディア性に関する研究を整理し,東芝クレーマ一事件への適用を試みる。東芝クレーマ一事件では,議題設定機能仮説などの新しい効果理論と呼称される分析モデルが適しているとともに,インターネットメディアと既存のマスメディアの相互参照関係を視野におさめる間メディア性の研究が不可欠である。この指摘は他の同様の事件の解釈と共通の部分が多いが,この事件では,インターネットからマスメディアへの影響が大きく,争点の再構成もマスメディアにおいて行われている点で特徴的である。また,インターネットを通じて争点を構成し,それを実際の企業告発につなげるという点では初期の事例であることから,この事件以降の展開とは異なる特徴を持つ。
著者
大野 栄人
出版者
愛知学院大学
雑誌
禅研究所紀要 (ISSN:02859068)
巻号頁・発行日
no.26, pp.103-134, 1997
著者
熊田 一雄
出版者
愛知学院大学
雑誌
愛知学院大学文学部紀要 (ISSN:02858940)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.1-10, 1999

現代日本においては,宗教と心理療法の相互乗り入れが進展している。例えば,アルコホリクス・アノニマスや断酒会や12ステップを用いる各種の自助グループなどである。その際に医療化の行き過ぎや専門家の優越の弊害が指摘されることがある。精神医学の専門家が患者や信者に過剰な権力を行使する危険性がある,という指摘である。 1970年代以降に教勢を拡大した白光真宏会は,ポジティヴ・シンキングを重視する新宗教である。白光真宏会の教祖はかつて生長の家の講師であったが,生長の家の教義を部分的に批判して分派を創設した。その際,生長の家の教義の中の「心の法則論」を徹底的に批判した。白光真宏会の教祖による「心の法則論」批判には,現代宗教における医療化や「専門家の優越」批判の先駆けとしての側面があり,そういった意味では,参加者に対する拘束のゆるやかさとも相まって,白光真宏会には現代日本のセルフヘルプ運動の先駆形としての側面がある。

2 0 0 0 OA 禅と戒律

著者
平川 彰
出版者
愛知学院大学
雑誌
禅研究所紀要 (ISSN:02859068)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.363-378, 1976-12-28